床暖房とココアで人心地ついて、理楽はガラスのテーブルに頭を横たえた。両手を伸ばしてもちっとも端まで届かないのが面白くて、ワイパーのように腕でテーブルの上面を左右にこすって遊んでいる。

 子供じみた悪ふざけも、ソフィアの部屋でなら許されるように思えた。父親名義のマンションの最上階、二部屋分をぶち抜いた広いリビングは、ソフィアの余裕を象徴する城だった。壁一面を占めるホームシアターと二台のパソコン、オーディオ機器と本棚、そして熱帯魚の水槽を設置しても、なお有り余る広大な空間。


 部屋の主であるソフィアは、そんな広大なリビングの片隅、水槽の近くの壁に背中をもたせかけ、スマホでどこかに連絡を取っている。理楽の知っているソフィアはいつもそうだ。部屋の広さを持て余すみたいに、隅っこに居着きたがってるように見えた。


「人をやって、状況は確認しました」


 通話を終えて、ソフィアは理楽に振り返る。


「現場に残っていたのは被害者の男性のみ。加害者……乃木原のぎはら織子も関矢せきや真水も姿を消していたようです。警察でも、男性への傷害事件として捜査を進める見込みだとか」


 事件が起きて二時間も経っていないのに、もう警察が現場にいて、その情報が一介の未成年であるソフィアの元に流れている。こんな歪んだ状況もソフィアにとっては当たり前で、だから彼女と付き合うには、それに馴れる必要がある。

 だから詳しいことは無視して、理楽は端的に訊ねた。


「あーし、警察行かなきゃいけない?」


 ソフィアは首を横に振った。


「理楽さんは捕まりませんし、加害者も捕まらないでしょう。警察には」


 言葉に含みを感じて、理楽は眉をひそめる。公権力とは別の機関が、法ではない別の力を執行する用意がある、とでも言いたげだった。


 テーブルの上に置かれたままのココアのカップを、軽く指ではじいた。カップの取っ手を覗き穴のようにして、理楽はだだっ広い窓の向こうにまたたく地上の光に目をやる。

 駅から海岸に通じる旧道沿いの、一帯で最大の高層ビルの最上階だ。高架に灯るライトが、夜景を左右に区切っているのに手が届きそうだった。深夜から早朝にかけても貨物列車がしばしば行き来する線路には、夜なお命が宿っているように思える。オレンジ色の点滅が、心臓の鼓動に似ていた。

 四十メートルの高みから見る夜景には、理楽のよく知る汚穢の気配はない。


「自分で手を下したいですか?」


 理楽の沈黙を、ソフィアはそんな風に解釈したらしかった。もしもそのつもりなら、理楽はふたりにあの部屋でとどめを刺していただろう。しかし、こうして時間が経って、織子たちへの敵意が減じたというわけでもない。


「分かんない」

「……もっと、何か飲みます?」


 無言で首を横に振った。のどを通りそうにない。逆に、未だ咀嚼できずにいる硬いものが吐き出されてきそうだった。

 その代わりに、言葉を発する。


「取り返し、つかないよね」

「乃木原も関矢も、たぶん死んではいませんよ。気に病むことはありません」

「けど、あーし、殺す気だったんだ。その気持ちだけは」

「人を殺したいと思わずに生きられる人はいません。あらゆる事情を天秤に掛けて、それがいいと思えたら行動に移す。それだけでしょう」


 ソフィアの言葉は決して正しくはないが、すこぶる彼女らしい思想だ。それと同じ一線に立つことが、自分にとって良いことなのかどうか、今の理楽には判断がつかなかった。

 足下から、熱がゆるゆると理楽の太股を伝って全身によじ登ってくる。その優しさにとらわれて、理楽の頭は朦朧としていた。


「ただでさえ、”花”のせいで心が乱れているんです。あなたも、乃木原たちも。焦ればいっそう、精神のバランスを崩すばかりですよ」

「ソフィちゃんは乱れないねえ」


 かつん、と、ガラステーブルが音を立てる。ソフィアが、自分のぶんのコーヒーを入れているのだった。


「お休みになりたいのでしたら、ベッドを用意しますよ」


 焦げたようなコーヒーの匂いを漂わせて、ソフィアは理楽の顔をのぞき込んできた。キラキラネームとは裏腹に、彼女の顔立ちは純日本的な美少女のそれだ。きりりとした眉と切れ長の目が、周りを圧倒する意志の強さをかもし出している。

 間近に見つめると、理楽でさえつかのまうっとりさせられてしまう。


「ありがたいけど、眠れそうにない」


 静かな熱が、まだ背筋のあたりに残っている。目を閉じたら、織子と真水から受けた殺意の記憶が頭までせり上がってきそうで、不安でたまらなかった。


 ソフィアは「分かります」とうなずいて、そっとコーヒーカップを口に運んだ。理楽は頭を横たえたまま、彼女の桃色の唇を見上げる。ほっそりしたのどが脈打つ。


「ほんとうは、こんなことが起きないようにしたかったんでしょう?」


 吐息混じりに、ソフィアがつぶやく。


「うん。だから、ソフィちゃんも協力してくれたんだよね」


 理楽の声にも、悲しみがまといついた。”楽苑”は、”花宿り”の混乱や暴力衝動を閉じこめるための場所でもある。すくなくとも、理楽の最初の意図はそこにあったし、織子もその思いに協調してくれていると思いこんでいた。

 織子の行動は、理楽にとっては手ひどい裏切りだ。いまさら、何かに期待するつもりなんてないけれど、傷つけば血は流れる。痛みに麻痺していても、心身はむしばまれる。

 こつ、と人差し指でガラスの天板をつつきながら理楽は、


「あーしの見る目がなかったんかな。オリちゃんのこと、何にも分かんなかった」

「人なんて、簡単に転落しますよ。金、恋、恨み、欲望、中毒、どんな動機でも」


 不良品を捨てるみたいな冷淡さで、ソフィアは言った。理楽は、それでも割り切れなくて、


「でも、それにしたって、気づけたんじゃないかな」

「何が乃木原を狂わせたにせよ、壊れた破片が人を傷つけるなら、速やかに撤去し、周囲を清掃する。私はそうするだけです」

「……ソフィちゃんはいいよね。無駄がなくて」


 賛辞を口にしながら、理楽は半分まぶたを閉じていた。ほんとうにソフィアを相手にしているつもりなのか、自分でもよく分からない。


「勘違いも甚だしいです」


 くすっ、とソフィアが笑って、コーヒーカップを脇に置いた。その指で、そっと理楽の額をなでる。


「理楽さんへの愛情なんて無駄そのものですよ」

「それって、余り物でしょう?」


 ソフィアの肩越しに、部屋の天井が見える。新品のような白さを保つその天井には、脚立を使っても手が届かなさそうで、どうやって照明を取り替えるのかも想像がつかない。過剰な空間のもたらす安らぎは、理楽がいくら欲しても手に入れられないものだ。

 すこし寂しげな目をして、ソフィアは、理楽のこめかみ、頬骨、おとがいへと指でなぞっていく。あごの先に達した指が、一度折り返して、のどをそっと撫でる。手のひらが、頬全体を包み込む。ソフィアの右手には静かな体温が宿っていたけれど、理楽にはそのあたたかみが、どこか嘘のように感じられてならなかった。


「冷たいですよ、理楽さん」


 目を細めて、ソフィアがささやく。


「顔が、氷みたいです。芯からあったまらないと、風邪引いちゃいますよ。暖房、温度上げますか?」

「ううん……」


 目をそらして否定する理楽に、ソフィアが微笑みかけてくる。


「なら、お風呂をご一緒しません? どこかに、血がついているかもしれませんし、洗い流しませんと」

「あー……そうだね」


 理楽も、名案だと思った。服にも、肌にも、汚れが染みついている気がしていた。死んだ彼には申し訳ないけれど、ああいう一夜の宿でいくらユニットバスを借りても、どれだけちゃんと洗濯しても、満足できない。

 いたずらげに、ソフィアが理楽の頬にコーヒーカップを触れさせる。不意打ちの熱が理楽を刺激して、ようやく、彼女は顔を上げた。



 広すぎるバスルームは何度来ても落ち着かない。濃いベージュ色のタイルに囲まれた空間で、つかのま、ぽつねんと立ち尽くす。よるべない心地で、理楽は自分の痩せっぽちの体を意識する。

 身長こそ人並みなものの、腕や脚にはどうしても肉が付かず、あばら骨の浮き出た腰回りも小さい頃から変わらない。わき腹や背中に残る痣は、両親の暴力が彼女に刻んだ呪いに思えて、今でも直視できずにいる。


「髪から洗いましょう」


 ソフィアに声をかけられ、理楽はシャワーのそばのイスに腰を下ろす。銭湯のそれとはまるで違う、尻を吸い込むような座り心地がこそばゆい。

 鏡越しに、ソフィアの裸体を見る。きめ細かな肌は、理楽とは対照的に健やかに白い。背丈は不思議に理楽より低いが、ほっそりした肢体の芯に肉がしっかりついているのが、些細な仕草からでも分かる。骨ばった自分の肩を意識すると、理楽はまたすこしいたたまれなくなる。


 熱いシャワーが頭上から降ってきた。ひゃっ、と声を上げて身を縮める理楽に、ソフィアが微笑したのが気配で分かった。

 ミントの香りのするシャンプーで、髪を奥までごしごし洗われていると、自分の奥深い所に手をこじ入れられている気分になる。ソフィアの手つきのせいかもしれない。力強い指が、頭皮からうなじまで遍く侵略して、理楽を知り尽くそうとしているみたいだった。首筋をたどって胸元に垂れてくる泡の筋を、何気なく指ですくう。泡が指にからみつく。


「また染めに行かないと、地毛が出てきてますよ」

「ちょっとぞんざいなくらいが、いいんだよ」


 理楽のような女子を買う男にとって、きっちりしすぎた相手は近寄りがたいらしい。後ろめたさはあっても、罪悪感はないくらいがちょうどいいのだ。ソフィアはいくぶん不満げに、


「……私は、理楽さんには、きっちりしててもらいたいんです」


 ざっ、と頭を洗い流されて、場所を変わった。「自分で洗いますよ」とソフィアは言うが、「いいじゃんいいじゃん」と理楽はむりやり彼女の後ろに陣取る。毛の一本一本を物差しで測ったように、きっちりとしたソフィアの髪に、一瞬、見とれる。


「ユキちゃんはさあ」


 美容院から取り寄せているというお高そうなシャンプーを惜しげもなく使いながら、理楽はつぶやく。


「ああ見えて意外と、髪の手入れはいい加減なんだよね。長いから大変なのかな?」

「単に興味ないだけでしょう」


 ソフィアの髪を、理楽は丹念に洗う。大切な髪を傷つけてはいけない、とは思うものの、つい楽しくなって指先に力が入ってしまう。ちょっと乱暴な手つきも、ソフィアは不平も言わずに受け入れていた。

 髪を洗い流して、ふたりでバスタブにつかる。


「なんか、ごめんね」


 体をちゃんと洗っていないのが悪い気がして、理楽の口を謝罪が突いて出た。ソフィアはただ、無言で肩をすくめただけ。

 入浴剤の甘い香りが、理楽の気分をけだるく溶かしていく。骨まであったまって、体がすこし柔らかくなったような気がした。水没しそうなほどリラックスして、めいっぱい脚を伸ばすと、ようやく、向かい側にいるソフィアのつま先に指が届く。


「もう」


 ソフィアが軽く蹴り返してきて、ふたりで笑った。淡い色の水面に波が立ち、その下で、張りのあるソフィアの胸が魚の泳ぐように揺れるのがうっすら見えた。

 はふ、と、胸から変な息が押し出される。理楽は、お湯に唇がつかりそうなほどにうつむいて、


「……迷惑じゃなかった?」

「理楽さんの頼みなら、最優先で動きますよ」

「そういうんじゃなくて」


 何を自分が気に病んでいるのか、うまく言葉にできない。それでも、湯船の温度が頭をほぐしてくれて、理楽はすこしずつ、言葉をしぼりだしていく。


「今日のことは、あーしの不始末だけど、ソフィちゃんだけの手に負えることじゃなくて。お父さんだか、あの人……車で、送ってくれる……」

五十嵐いがらしですか」

「そう。その人とかに、後始末、頼んだんでしょ? そういうの……ソフィちゃんは、いやがる、って」


 理楽の問いかけに、珍しく、ソフィアは答えを遅らせた。


「……まあ、確かに、今はあまり貸しを作りたくはないです。ただでさえ、いろいろややこしくなってきていて」

「ややこしく、って?」

「ずっと上の話です。五十嵐よりもずっと上の方。もめていましてね」


 ソフィアはかるくうつむいて、水面に息を吹きかけるように、つぶやいた。


「その辺のもめ事が、下の方まで波及して、近頃騒ぎが多くなってる。”花宿り”がそこに巻き込まれている、という情報さえある」

「……」

「私は関わりたくなかったんです。でも、私の管理していたはずの”花宿り”が実害を引き起こしたとなると、そういう話にも巻き込まれかねない」


「……やっぱり、あーしが悪いよ。あーしがオリちゃんを」

「いいえ。いずれは起こるはずだったことです。理楽さんが責任を感じる必要はない」

「甘やかさないでよ、ソフィちゃん」


 理楽は膝を抱えた。バスタブに背中をつけて、お湯の中に沈み込みそうになりながら、理楽は唇をきつく噛んだ。自分の体が、出来るだけ小さくなるようにする。そのまま消えてなくなれればいい、と思う。


 もっとうまくやらなくちゃいけなかった。なのに、どうしても頭が悪くて、元気もなくて、人に任せきりにしてしまって。

 取り返しがつかなくなったら、理楽はみんなに、ソフィアに、雪衣に、何て詫びればいいのだろう。


 お湯が波打つ音がした。気配に顔を上げると、上気したソフィアの肌が間近に迫っていた。鎖骨から首へと続くなめらかな曲線が、呼吸のリズムで上下する。バスタブに両手を突っ張って、頭の陰を理楽の胸元に落として、理楽を閉じこめるようにしている彼女は、なるほど、彼女の”花”にそっくりに見えた。からみついて、縛って、守って、逃がさない。

 濡れた唇の上で、ソフィアの低く重たい声が、訥々と言葉を産み落とす。


「こんなことで、三人で作った”楽苑”は失われたりしない。私を信じてください」

「……」

「それに、これは私のためでもあるんです。”楽苑”で利益を生み出し、それを蕩尽する前に逃げ切る。誰にも私たちの人生を毀損させたりなんてしない」


 決然と、ソフィアの発した言葉は、理楽の自責を細やかに削いで、溶かしてくれる。泡立つ入浴剤みたいに、理楽の中の硬い部分が崩れていく。

 それでも言葉にできないものを抱え込んで、理楽はまだ、膝を抱え続ける。

 ソフィアはそんな、理楽の白い頭蓋に、そっと口づける。ふたりの髪のにおいがする。

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