不死までの回顧録

奄美ただみ

生活基盤の確立を目指す 編

一年目、初夏 転移と始まり

106-51 プロローグ


 一年目、夏、全ての始まり。


 それは、初夏のある日。

 実家で過ごした、最後の夜だった。



 遂に、遂に全ての準備が整った!

 苦節、五十年余り…… 長い、長い道のりだった。

 しかし、今日、儂は生まれ変わるのだ!

 比喩などではない。文字通り、生まれ変わるのだ。

 この忌々しい世界の、このままならぬ身体を捨て去り、儂は、新たなる世界で、安穏とした理想の人生を手に入れるのだ!



 草木も眠る丑三つ時。

 僅かな家財を全て押しやって、部屋いっぱいに描かれた魔法陣を、足を引きずりがちな老婆は改めて一望する。

 円と、直線と、曲線と、文字なのか記号なのかは読み取れない文様とが複雑に絡まりあった魔法陣には、十九の頂点があり、各頂点には、その老婆が何十年もの時間を費やし書き記した魔道書が配置されている。


 長かった、本当に、長かった。


 老婆の顔が歪む。

 もうずっと笑ってこなかった。笑い方なんて忘れてしまった。

 しかし、これからは違う。


 新しい世界への扉が、今に開かれるのだ!


 老婆は仕上げの手順に取り掛かる。

 まず、家の片隅に火を放つ。この世界を去った後、我が人生を費やして、ようやく組み上げたこの魔法を、どこの誰とも知らぬ輩に盗まれるのは癪だからだ。

 それから魔法陣の中に入り、這いずり回って、配置された十九本の蝋燭に火を灯していく。


 一本を灯し……次へ。

 更に一本を灯し……

 ……しかし、どうにも手が震えて手間取る。


 五十余年の悲願が果たされんとして、武者震いが止まらないようだ。……断じて歳のせいなどではない、断じて。

 しかし、そうはうそぶくものの、徐々に焦りが出てくる。

 部屋に放った火もだんだんと勢いを増して、室内に煙が充満してきた。

 ますます焦って、なかなかマッチの火が芯に移らない。お徳用の八百本入ったマッチ箱なので、さすがに無くなることはないはずだが、こんなことになるならチャッカマンでも買っておけばよかったと後悔する。

 いよいよ煙が回って息苦しくなってきた段になって、ようやくすべての蝋燭に火が灯った。


 さあ、最後の一手だ。

 これで、念願が叶う。


 老婆は魔法陣の中央にうずくまり、腰に結わえていたナイフを抜き出して、両手でしっかりと握った。

 刃先を自らの喉に向ける。


 己が生き血を魔法陣に吸わせることによって、この魔法は完成する。


「万物を従えし超常の神よ。我が標の求めし門を此処に開き給え……」


 煙に巻かれながらも、なんとかむせずに唱え切れた。最近はいかんせん舌が回らないものだから、四苦八苦して詠唱を最小限にまとめておいて良かった。

 そして、一息にナイフを喉へと突き立てる……!


「……………………」


 手が震えて、定まらない。

 これは歳のせいではない。

 これこそ武者震いだろう。恐怖があることも否定はしないが、血圧が上がって身体が言うことを聞かない。

 ままならない身体に苛立ちが募る。

 しかしこれが最後だ。正念場だ。

 煙に満ちた室内が、赤く明く照らされる。


 もう時間はない。

 老婆は自らの手でナイフを喉に突き立てることは諦めた。

 魔法陣の中央から少し下がって膝立ちになり、喉に刃先を向ける。

 このまま前に倒れ込めば、遂に。

 喜びと感動で、口角が歪んだ。


「いざ──!」



「おばあさん! 伏せてー!」



 倒れ始めた老婆の背中に、何者かが思い切りタックルを決めてきた。


 ぐべ、という声だか音だか分からないものが喉から漏れて、老婆は顔面から魔法陣に突っ込んだ。

 痛みに呻く老婆は、その声に聞き覚えがあった。

 変人と囁き、こちらを避けて関わろうとしない近隣の住民にあって、唯一老婆のことを気にかけてくれていた、お節介な近所の娘だ。

 実家の農家の仕事を手伝って、定期的に新鮮な野菜などをうちに届けてくれていた。この魔法を完成させるまでは、不摂生などで死ねなかったので、存外助かっていた。


 まさかその娘が飛び込んでくるとは想定外だった。

 深夜であり、誰もが避けるこの家なので、まさか誰かが駆け込んでくるとは思わず、玄関の鍵も開けっ放しだった。

 闖入者の登場に老婆は少し混乱したが、すぐに起き上がり、頭を振って為すべきことを考える。

 ここは、もう迷ってはいられない。

 外に連れ出される前に魔法を完成させねばならぬ、と老婆は思い切ってナイフを喉に突き刺そうとした。

 しかし、その手にナイフは握られていなかった。

 突き飛ばされた時に手放してしまったらしい。急がねば、話がこじれて五十余年の苦労が全て水泡に帰してしまう。

 そう思った時。


「ぅげっ…… げぽっ」


 コップの水を飲み損ねて、溺れかけた時のような声が、すぐそばから聞こえてきた。

 老婆が声のした方を見る。

 そこでは、娘が魔法陣の上に這いつくばって、小さくもがいていた。


 口から、黒く見える液体を溢れさせていた。

 娘の喉から、ナイフの柄だけが生えていた。

 血が、魔法陣に、広がっていた。


「あ、あ、あ、あんたああああああああああああああああああああ!?」


 魔法陣が、青白く光を放った!

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