3-2-5 ストレイ・シープ / 牧羊犬 その4



 薄れゆく幻覚の中、目を伏せていた標的ターゲット――須藤文香すどう ふみかは、強く噛み締めていた口元を僅かに緩めた。

 さあ、実物を前に何を言う? 込み上げるものもあるだろう。俺はそれに期待したが、彼女のそれが声になる直前、彼女の父親の須藤健作けんさくが俺の方を振り返り、深くお辞儀した。


「ありがとうございます! 本当に、なんと申し上げれば良いか……!」

「……構いませんよ。離れ離れとなった父娘の再開を手助けするぐらい」

「おお……感謝の念に堪えません。MCG機関はなんて素晴らしい機関だ! 変異者ジェネレイターの保護だけでなく、アフターフォローまで欠かさないとは!」


 唐突なお礼を大音声で述べた後、すぐに持ち上がった彼の顔には、これ以上の至福はないという陶然とうぜんの相がありありと浮かべられていた。そして、きびきびと前へ向き直る。出鼻を挫かれ、まごつく実の娘の方へ。


「こんな素晴らしい所に勧誘されているというのに、全くお前というやつは……昔っから頑固なのだから。聞くところによると、今は仕事もしていないそうじゃないか! 愛知県庁も辞めたんだって?」


 須藤史香は、もにょもにょと決まり悪そうにしながらも反論の声を漏らす。


「……だって、信用できないし……集団に属するのも面倒だし……ッちゃってるし……だから少しでも情報を得ようと……それに、投資してるから……昔、興味本位で買った仮想通貨もめちゃくちゃ上がってたし……もう、働かなくても……」

「言い訳は結構! MCGが私とお前が同じ屋根の下で暮らせるように取り計らってくれたから。さあ、行こう!」


 父親の足が一歩踏み出されると同時、須藤史香は勢いよく後退ると共に顔をバッと振り上げて俺を憤怒の形相で睨みつけた。「余計なことを」とでも聞こえてきそうだ。

 思わず、俺は笑ってしまった。


「ふふふふ……彼は、突然家を出ていった君のことを、随分と探していたようでね……まあ、金に困っていたから、その捜索は全くと言って良いほど捗ってはいなかったようだけれども」


 話しながら、俺は速やかに立ちあがって前の父親に追いつき、その肩に両手を添えた。

 銃は……変わらず最初の位置、中間点にある。が、それがまことかどうかは……。特筆すべき事として、これまで父親は一切そちらへ目を向けていない。娘に意識が行っているのは当然として、あの銃が目に付かないものだろうか。ということは、やはり幻覚……ふっ、まあ、この際どっちでもいいさ。


「さぁて、逃げるなよ? 正義の非凡人ヒーロー。悪の親玉がここに居るんだぜ」

「え……っと、四藏さん? 説得は私に任せて貰える筈では……というか、正義? 親玉? 何を言って――!」


 俺は父親の右足首を掴んで破壊し、両の膝裏をけたぐり、跪かせる。悲鳴を無視し、左足首も掴んだ。父親の背中に隠れての事だ。須藤史香の驚いた顔を見る分には、たぶん何をやったか分かっていないだろう。しかし、仮にこれで能力を知られたとしても問題は全くない。

 手についた血を今日の為に新調してきたであろう新品の背広で拭いつつ話す。


「君はたぶん、情報部に所属する事になるだろうから、別に犯罪歴や思想でどうこうという事はないよ。安心してMCGに来るといい。――けどね」


 痛みに呻き、前に折れてゆく父親の頭髪を引っ掴んで、グイッと引き上げる。彼女によく見えるように。


「このままだとこの父親と同じ屋根の下で暮らしてもらう事にはなるかな」


 須藤史香は驚愕に固まっていた顔を、別の感情によって歪めた。

 俺の言葉は大嘘である。情報部に所属するかどうかも未定であるし、同じ屋根の下で云々も父親の願望に合わせて適当に言っているだけだ。情報部であろうとなかろうと、REDは隔離される運命にある。

 ともかく、これで動機は十分だろう。何を戸惑っている? やれ。やるんだ。


「『レイプは魂の殺人だ。なればこそ、その命を持って償いとする』……君がそう言ったんだ。是非とも見せてくれ。身内だからって贔屓するなよ。こいつはお前の母親を死に追い込んだばかりか、お前の心身をも穢した。――そうだろう? 君の女性主義オリジナルに則らなくとも、然るべき法の裁きを受けなくてはならないカス。だが、死に値するかどうかは……」


 分からない。恐らく、誰にも分からない。

 誰もが納得するなんて存在し得ない。

 現在、こと日本国に於いては『レイプ』という罪に対して『死刑』は適当でないという判断だ。法とは、先人たちが秩序を追求し続けた結実と換言して良い。それがそのような結論を出しているのだから、ある程度は信を置ける。だが、けして完璧ではない。その証拠に、世界各国で大小の差異を有する上に、常に改正され続けている。それは、これからも変わらないだろう。

 完璧な人間が存在しないように、完璧な法もまた存在しない。不完全な人間の創作物は、一見して何処までも完璧に近く見えても不完全なのだ。

 しかし、君はその答えを持っている。そう言ったな。

 ならば、俺に見せてくれ。それが如何にイビツだろうと、如何に穴だらけだろうと、如何に脆かろうと、如何に醜かろうと、その瞬間に――、


「――君という存在は完成する」


 俺は地面に転がっている銃を掴んだ。いつものように、冷たく硬質な感触が手中に収まる。これが幻覚でないという確証はない。しかし、問題もない。俺が銃を撃つか、撃つ真似をした時。それが作戦開始の合図の一つであるからだ。

 俺は左手で父親の頭髪を引っ掴んだまま、その場で呆然と立つ須藤史香の胸元に銃口を向け、躊躇せず引き金を引いた。篭もったような発砲音が響く。

 命中した……ように見える。だが、それは俺の思い込みでしかないのかもしれない。だから、続けて周囲へ向けて無差別にバラ撒いてみた。すると、景色の中に溶け込んでいた、何か薄い膜のようなものが崩れてゆく。

 やはり……幻覚だったか。

 膜の向こう側から現れたのは、へ銃口を向ける標的の姿だった。俺の手元に収まっている筈の銃口を――。


「ありがとう……ずっと、殺したかったのよ。でも、その勇気がなかった……」


 乾いた発砲音がけたたましく連続して鳴り響くと、たちまち俺の前額部を強烈な衝撃が走り抜けた。

 やったな! そしてやりやがったな! 恩を仇で返したな! ハッハハハハ!

 湧き上がる歓喜と爽やかな達成感が混ざり合って頻りに渦巻く中、想定していた以上の衝撃が俺の身体をのけぞらせる。意識もぶっ飛びそうだ。

 だが――俺は死んでない。手元の彼は、だいぶとうが立っている所為か被弾の衝撃で気絶したようだが。

 当然のように浮かんでくる笑みをそのままに強引に意識と身体を前へ引き戻し、ヘッドセットの電源を入れる。私用は済んだ、後は仕事をするだけだ。


「望月さん!」


 俺が叫ぶと、標的は驚きの声を上げた。


「なっ――!」


 その驚きには、二つの意味が込められていた。一つは何故か生存し、ぐったりとした父親を抱え、前に押し出すように駆け出した俺に対して、もう一つは……周囲に設置しておいたホースから雨のように降り注ぐゲル状の液体に対してだ。望月さんは、突発的な合図をしっかりと受け取っていてくれたらしい。

 標的は、俺とゲル状の液体とで逡巡した後、俺へ向けて残弾を発砲した。

 人間、ナイフでも銃でも、ひとたび持つと何故だかそればかり使ってしまうものだ。憚りながら、これは猿から進化する過程で会得した本能なのかもしれない。取り得る道は、他にも星の数ほど無数にあるというのに、自分で可能性を狭めてしまう……。


「まだ気づかないのか!? それに装填されているのが『ペイント弾』であるという事にッ!」


 俺は、父親の身体を地面に置き、その上に俺も搭乗した。そして、走ってきた勢いをそのままに、俺たちは地面に広がるゲル状の液体の上を滑り出した。人間スケートボードだ! ははは!

 このゲル状の液体は、大量の水に少量のアニオン界面活性剤とポリアクリルアミドを混ぜ合わせた『機動阻止システム(MOBILITY DENIAL SYSTEM)』と呼ばれる非致死性兵器である。常温常圧下で安定し、毒性も薄いこの液体は、地面に散布するとその摩擦係数をなんと0.01以下にし、氷(0.05)よりも遥かに低く抑える事が出来るのだ。この摩擦の極めて希薄な世界では、移動どころか直立すらままならず、ありとあらゆる物体がまるで空転するタイヤの様に手からすり抜けてゆく――そう、今の標的のように。

 これが、資材管理部から持ち出せそうな物の中で、最も平和的かつ効果的な兵器だった。他の化学兵器は管理が厳重で、資材管理部の連中に鼻薬を嗅がせても持ち出せそうになかった。真っ当に申請しても審査には時間が掛かる上、どうせ許可など出ない。

 逃げようと踏み出した足を思い切り滑らせた標的は、強かに顔面を打ち付けたばかりか、その衝撃で銃を手放してしまった。あれは遠すぎて回収できないな。そもそも、取り返そうとも考えていないが。初めから、取られることを前提にペイント弾しか持ってきていない。

 標的に視線を戻す。狙うは足だ。

 俺を真似て、何かを蹴ったりして勢いを付けて移動されては困る。その万が一を潰す為には、何よりもまず四肢を取らなければならない! 俺は、標的の右足が射程距離内に入り込むと同時に、勢いよく右手を握り込んだ。


「ぐあっ!」

「ははっ、右足首! 貰ったぁ!」


 そして、滑る勢いのまま肉薄した標的に足を絡ませ、その背後を取り、下手に力を込めれば折れてしまいそうな細首をガッチリと両手でロックした。

 標的を巻き込んだ俺と父親は程なく駐車場を滑り終え、アパートの壁面に激突する。標的も激しく抵抗するものの、その両手には既にゲル状の液体がまとわり付いており、俺の手を振り解くには至らない。そもそも俺と標的は男と女、基礎筋力にも差がある。たまらず、標的は音を上げた。


「ぐっ……! わ、分かった。お前に、第三次元宇宙機関とやらに付いてゆく! 煮るなり焼くなり……だから、命、だけは……!」

「何を言うか、音を上げたら許してもらえるとでも? この俺に銃を向けておいて――! なんてね、別に殺す気はないよ。しかし、それは置いておくとしても、今の君が幻覚でない保証が何処にあると言うんだ」


 細首になおも力を込めながら、俺は続ける。


「派手に転倒した時、藻掻いた時、そして今。何処かで俺に幻覚をかけてやろうとは試みなかった? ふふふ、何が幻覚で、何が現実か、全てが曖昧なこの勝負を有終の美で飾るにはどうすればいいんだろう。俺はずっとそれだけを考えていたよ。……で、昨日やっと思いついたんだ」


 その時、突如として、俺たちの頭上が翳った。俺に取っては待ち望んでいたものだが、彼女に取ってはどうだろう、喜んではいないだろう事だけは確かだ。


「『発想のスケール』で君を――君の《幻覚》を上回ればいいんだ、ってね!」


 幻覚といえども、所詮は使い手の想像力次第である。ならば、それを越える圧倒的現実を突きつけてやればいい。誤魔化しようのない、目を背けてもどうしようもなく視界に入り込んでくる極大の現実を。

 俺も空を見上げてみるが、そこには何もない。これは俺が幻覚の支配下にある傍証と取っていいだろう。しかし、アパートの周囲をすっぽり覆い尽くしてしまう程の巨大な翳りである、俺がそれを用意した張本人である事を考慮せずとも、その大きさは容易に推し量ることができる。


「逃れようがない。なにせ、二十階建ての廃ビルだ。放置されていたものを勝手に持ってきた。許可なんて取ってないぜ。あ~ははっ、後始末どうしようなぁ! ぎゃはははは!」

「ひ、ひぃ……!」


 思わず漏れ出たという様な悲鳴は、やはり俺の手元からではなく、別の離れた場所から聞こえてきた。俺はまだ幻覚の支配下にあるか! そう自覚すると共に薄れ始めた幻覚の向こう側には、ゲル状の液体上を藻掻き進む標的の姿が見えた。ふと見ると、俺の右手には背広で拭った血が付着している。そして彼女の右足首もまたそうだ。どうやら、俺が右足首を取ったタイミングで幻覚がかけられていたらしい。


「須藤史香、そっちじゃなく俺の方へ来なよ。少し考えれば分かるだろう? 俺の居る所が即ち安全地帯である事ぐらいは」

「何を――迫っているのはビルのだぞ!? 窓なんぞ一つもない! ここら一帯が押し潰される!」


 彼女の言う通り、廃ビルは壁面を此方へ向けて落下している。その事は俺もよく知っているさ。そう支持したのは俺なのだから。

 隣のアパートの軒下に逃れても、アパートごと潰されるだろう。絶体絶命だね。


「だけど、アレを操縦しているのは俺の同僚だよ。というか、それ以外にないよね。みすみす巻き添えにして殺すと思う?」

「はぁ、はぁ……くっ……!」

「俺だって、君を殺したくはないさ。重大な損失だからね。でも、自分から助かろうとしない奴を、どうやって助ければ良い?」


 頭上の廃ビルはその巨大さ故に落下スピードが掴みづらいが、耳元から逐一入ってくる望月さんの苦しそうな報告によると、まだまだ余裕がありそうだ。で、あれば、ここは最後のひと押しでもするべきかな。そう思った俺は、父親と共にゆっくりと地面を掻き進みながら、血に濡れていない方の手――左手を彼女の方へ差し伸べた。


「心配しなくていいよ。実験体モルモットにされるとか、解剖されるとか、そういうのは無いよ。全くとは言えないけど。ははは。君の能力には使い道があるからね」


 すると、標的は形容し難い表情で振り向き、じっと俺を見た。人の真価は、死を目前にしてこそ現れるという。ならば、今のこれが、彼女のそれであろうか。


「でも……! 私、人を――」

「気にするなよ、それくらい!」


 本気でそう思っているからこそ、俺は彼女の言葉を遮ってまで全身全霊で彼女を肯定した。その思想、功罪、パーソナリティー……とにかく、全てを。……殺人がなんだ。それぐらいでガタガタ抜かすなよ。お前の正義はそれを肯定したんじゃないのか?


「なんなら俺も殺してる。それでも、国から金を貰って世のため人のために働く身分に変わりはないんだぜ。銃を抜いただけで罵倒を食らう日本の警官とは違う。撃ち放題だ。フェミニズム? 女性主義オリジナル? どんな思想でも主義でも、どんと来いだ」


 俺の言葉を脳内で噛み砕いているのか、呆気にとられた様な顔をして固まる彼女の方に壁を蹴って近づきつつ、左手をうんと伸ばす。


「というか――さっさと来いよ。来なきゃ死ぬぜ」

「――くっ、考える時間もない……わかったよ!」


 覚悟を決めたのか、彼女もまた俺の方に手を伸ばした。やがて、必死に伸ばされた互いの手と手は触れ合い、ガッチリと組み合った。ほっと、ひと息つく。が、まだ不完全、これで終わりではない。同じく安堵したような彼女の顔を見て、俺の口が独りでに動き出す。


「ごめん、須藤さん。俺、嘘ついた」

「えっ」

「ホントは助からないんだ。MCGは俺ごとやる気みたいでね。悪いね、道連れだ」


 左手から黒い【短剣】を幻出させ、互いの手を繋ぎ止める楔とする。そうとう痛いはずだが、えらく動揺した様子の彼女にとっては最早そんな事など気にもならないようだ。


「う、嘘……」

「だから、『嘘』だって」


 あの詐欺師よろしく作り笑いを浮かべてみると、彼女は俺の左手を振り解こうと激しく藻掻き始めた。が、そこは先程のまで深々と刺さっている【短剣】の出っ張りが邪魔をして、ゲル状の液体も関係なく動けない。

 その内に彼女も気付く、背後に迫り来る廃ビルとの距離感に。


「そ、そん……う、ぁ、うわあああああああああ!」


 影でしかなかったコンクリートの壁面が、凄まじい圧迫感を伴って俺たちの視界を専有した。



    *



「なんちゃって」


 予めMCGに許可を取っておいた『駐車場の1m上空の座標』を《掴んだ》俺は、埃っぽい廃ビルの中で誰にともなくボソリと呟いた。左手の先に繋がれている彼女は、あまりの恐怖からか、脚元の父親と同様に気絶してしまった様だから。

 やはり、彼女もΕエイフゥースの器ではなかったか。

 左手の【短剣】を己の内に戻す。

 とそこへ、ヘッドセットから吐息混じりの呆れ声が届いた。


「はぁ……はぁ……身柄の確保には成功しましたけど……最後のは必要だったんデスか?」

「どうかな……分からない。単なる茶目っ気と言えばそうだし、意味があると言えばある」


 俺は曖昧な言葉で煙に巻いた。全ては俺の『我儘エゴ』。それに尽きるのだから、態々言う必要性はないだろう。

 しかし、望月さんはまだ気になる様だった。


「えぇ……でも、なんか、せっかく乗り気になってたのに、乗り気じゃなくなってたみたいデスけど……」

「良いんだよ。最初から勧告に従うようでも、どうせこうしていたんだから。REDに分類されるような奴を信用できないし。身柄を引き渡しさえすれば情報部がなんとかしてくれるさ」

「えぇ……ヤバい過激なフェミニストの思想を持ったままなのも……?」

「それも良いさ」


 前者はともかく、後者は全く問題ない。


「何か勘違いしてるかもしれないから言っておくけど、俺がくっちゃべってたのは彼女を更正させようって訳じゃないよ。この人が過激なフェミニストのままでいても別に何も問題はない。なんなら、ミソジニストでも構わない。別にただす程の事でもない。他の『正義』を侵害しない限りはね……排除される事でもないよ」


 俺は、自分の身体に付着したゲル状の液体を落とし、廃ビルに用意してあった縄で彼女を縛り付けつつ、愛知支部を通して情報部に連絡を付けた後、ヘッドセットの向こうの望月さんに「取り敢えず、外で落ち合おう」と切り出した。この廃ビル落としで決着が付かなかった時の段取りは綿密に決めていたが、いざ付いた時の方は結構おざなりにしていた。それもこれも、三日の刻限が悪いのだ。天海が悪いのだ。

 作業にも一段落つき、ふぅと息を吐いて考える。

 さて……廃ビルの処理はどうしよう。

 一応、瓦礫が飛び散ったりもしないように、なおかつ、周囲の建築物には被害が出ない様な位置にテトリスよろしくピッタリ嵌るように落としてもらった。だから、処理は廃ビルだけで良い訳だが……正直に白状すると、ノープランだ。望月さんには「任せておけ!」と格好良く先輩風を吹かせて適当ぶっこいてしまったが、何かアテがあるわけでもない。


「う~ん……」


 今更になって頭を悩ませてみても、やはり上手い解決策など何も浮かばなかった。

 やばいなぁ、そろそろ人払いの効果も切れ始める頃だ。灰崎さんに相談しようか。それでも無理そうなら……う~ん、天海に丸投げでいいか。

 一周まわった「無策」の開き直りを片手に、ゲルに塗れているお陰で動かしやすい標的とその父親を引き摺り、俺は九十度傾いている廃ビルの窓から外へ出た。


「望月さん、こっちは廃ビルの窓から出た所なんだけど、いま何処にいる?」


 見渡してもどこにも姿が見えなかったから、そう尋ねた。しかし、待てども待てども一向に返事はやってこない。ハンズフリー通話だ。声を出すぐらいの余裕は常にある筈だが、耳を澄ませてみても息遣いや移動の音、環境音すら聞こえてこない。


「望月さん……?」


 そして、耳元のヘッドセットに手を当てて気付く。

 ――違う! 音信不通なのは望月さんじゃない! 俺の方だ! の電源が入っていない!


「これで……ようやっと二人きりになれたなぁ、にいちゃん」


 正面の角からソイツは登場した。俺はソイツを視認する前から、ソイツの正体を悟っていた。その幼気な声と関西弁特有のイントネーションには、酷く聞き覚えがあった。当時はさして気にも留めなかった出来事が、今になって薄ら寒い程に肥大化し、存在を主張してくる。


「てめぇ……あの時のクソガキか」


 須藤史香の母校、一宮市立T小学校の駐車場で絡んできた気味の悪いガキ。そいつが今、目の前に居た。


「クソガキとはひっどい言い草やなぁ。こう見えてもウチ、にいちゃんより遥かに年上なんやで? それに[やまなみ・treow]っちゅう格好エエ名前もある。幼少期の時点で魔力素マナを掌握し、肉體時間を緩めたさかい、こないなナリなだけで」


 エリートや! そう言って胸を張ってふんぞり返る、あの時と同じ制服を着たガキ。ただ、その髪と瞳は没個性的な黒ではなくなっている。まさか、染めてアイコンタクトをしている訳じゃあないだろう。

 しかし、[魔力素マナ]ね……双子曰く、[魔術]だけに留まらぬ万物の根源、前にバラ撒かれた紙にも似たような事が書いてあった筈。

 思うに、ガキは現代魔術聯盟の魔術師アーシプで、蕃神信仰の忌術師カッシャープではない。やり方が随分と違うし、そっちからの接触は既に別口で受けている。

 俺は、すぐさま背後に引き摺っていた二人から手を離した。戦闘の邪魔になる。流石に故意に盾にする訳にもいかない。すると、ガキは何も持っていない両手をヒラヒラと振りながら、「やれやれ」とでも言わんばかりに舐めた顔つきで言った。


「今日来たのは『勧誘』の為や。その為に邪魔な奴等にはちょいと眠ってもろた。せやけど、にいちゃん達みたいに強引じゃあ~あらへんよ? 自由意志に基づく決定を尊重する! せやから……そう、構えんでもええって!」

「信用できない」


 銃があれば即! 撃っている様な状況……だというのに、俺がいまいち攻め倦ねているのは、おまじないと称して触られた左手の違和感からだった。もしやと思い、試してみるが、やはり【短剣】が出ない。

 あの時……おまじないと称して左手に何か仕掛けを施されたのか。魔術……精神干渉か? ――まさか! このクソガキは、短剣の【ずい】までも知っているんじゃないだろうな!?


「いま、精神干渉の可能性を考えたん?」


 黙りこむ俺の様子をどう捉えたか、ガキは莞爾と笑った。試しに一歩踏み込んでみると、ガキも合わせて一歩引いた。チッ、射程距離外……。そっちも駄目かよ。


「図星! 読心じゃあらへん。ほんで精神干渉でもあらへん。出来るけどしてへん」

「……精神に干渉されたら俺は弱いよ。さっきの戦闘を見ていたなら、知ってるだろうが」

「むふふ、にいちゃんの言葉を借るならそれが誠意や!」


 似たような答えが返ってくるのを知りながらワザと明け透けに言ってみるも、やはり何も得られない。これじゃあ駄目だ、もっと、建設的な……。


「ほな! さっきのにいちゃんみたいに対話でもして親睦を深めよか! 友好的にな!」


 クソッ、このままだと掌の上だ。何か、何か……何かないのか……! 考えろ、頭を回せ、止めるな……!

 ――ヘッドセット、そうだ、ヘッドセットだ! 探知機レーダーも!


「……じゃあ、やまなみさん、幾つか質問しても? 望月さんとヘッドセット、探知機レーダーに就いて」

「ええで。要人かなめちゃんは、陣場、伊秩と一緒に向こうの民家でおねんね中や。殺してへんよ? 寝てるだけ。そのヘッドセットもウチの仕業や。MCGに盗み聞きされるとあれやし、こう……ちょちょいとな。探知機レーダーもそんな感じや」


 おねんね中……? 陣場くんと伊秩も……いや、それは今はどうでもいい事だ、意識から追い出せ。

 それよりも重要なのはヘッドセットと探知機レーダーの方。このヘッドセットはアメリカの肝煎り、米軍も使っているものだ。それがヤワな作りであるものか。当然、EMP対策も万全だ。

 更に探知機レーダーは、双子の協力を受けて魔力素マナをも探知できる様に改良が施されている。俺に支給されたものは、現在、望月さんに渡してあり、今作戦に於ける周辺警戒も彼女の役割だったのだが……まさか、単に気付かなかっただけとは思えない。近付いただけで音が出るように設定していた筈……そして、小学校の時も探知機レーダーに痕跡は残っていなかった筈である。という事は、彼等魔術師は[還元]と同じく魔術によって普段の魔力素マナも抑制できるのだろうか……?

 ……どっちだ、どっちの作用だ。

 普遍的な[現代魔術アドバンスド・ソーサリー]か、ガキ固有の[恩寵EST]か。

 もし、ヘッドセットと探知機レーダーに干渉したのが普遍的な現代魔術の作用であり、魔術師アーシプであれば誰もいとも簡単にMCGを出し抜けるのなら……俺は

 そうとまで思った俺の心中を知ってか知らずか、ガキは殊更に笑みを深めて言った。


「にひひ、探知機レーダーを誤魔化したんは[魔術]で、ヘッドセットはウチの[恩寵EST]やで。満足したか~?」


 ……参ったな、どこまで読んでいるんだ。このクソガキは。

 脅しやハッタリもあるだろうが、今のところ全然勝てそうにない。まず、[魔術]に対する知識が、双子の話と神辺さんの話から得た想像でしかないのが激烈にマズイ。全容が掴めていない現時点で、事を構えるのは得策ではないように思う。

 だが、そんな圧倒的優位にも関わらず、ガキは不意打ちせずに対話を試みている。そこが肝となるだろう……。

 俺は両手を上げた。文字通り、お手上げだった。


やまなみさん。俺からの質問はもう良いよ、さっさと本題に入ってくれ。『勧誘』なんだろう? 人払いが終わってしまう」

「おん、引き伸ばさんでええの?」

「興味がある。現代魔術聯盟の目的やら思想やらにな」


 嘘偽りのなく応答する。この際、言わされたとは思わない。意味不明な脅しじみた文言を大々的にバラ撒く様な奴等が、どのような目的を持って動いているのか? 何故、俺を勧誘しに来たのか? 正義どうこうを抜きにしても知的好奇心を擽られるじゃないか。

 ガキは満足気に大きく頷き、その小さな口を開いた。


「時間もあらへんし、手短にいこか。現代魔術聯盟の目的は二つ。一つは別地球αの中枢にまで入り込んどる忌術師カッシャープの殲滅。もう一つは――にいちゃんにも分かりやすく言うと、蕃神信仰の唱える『次元上昇アセンション』とほぼ同じ。せやけど、本質的には似て非なるものや。重大な思い違いをして、未だ手探り状態の蕃神信仰の奴等とはちごて、現代魔術聯盟は上位次元、上位者の役割というものをより正確に認識し、そこへ到達する確固たる道筋ばかりか、常に『次元上昇アセンション』のをすら見据えとる!」


 このガキ、絶妙に俺の心を惹くような言葉を使いやがる。やはり……。と、俺が思考を巡らせ始めたのに合わせて、ガキも話に一呼吸置いた。その気遣いか、何なのか分からない行為を、俺は非常に鬱陶しく思った。顎で雑に話の先を促す。


「……で、にいちゃんにはな、MCGの内情をコッソリ教えて貰いたいんや。分かりやすく言うと、スパイ、内偵っちゅう事やな」

「内偵、ねぇ……そんな事をさせようとするぐらいだから、まだあまり知らないのだろうけど、MCGには天海祈あまみ いのりっていう化物が居るんだ。世界で見れば格落ち感はあるがΕエイフゥースはもっと居る。そいつらにバレたら、俺は殺されるだけじゃあ済まない」

「そこは大丈夫や。ウチが安全を保証する。こっちもこっちで色々と偽装の手は考えてあるし、悪い話やないと思うで。待遇も良し!」

「ふーん……俺だったら、簡単に寝返るような奴を重用はしないけどねぇ……偽装については教えてくれるのかな?」

「時局を客観的に観察し、的確な判断が下せる人材……ちゅう見方もある。偽装については教えられんなぁ」


 ふん、物は言いようだな。それは単なる風見鶏とも言えるだろう。正しい、正しくないとはまた別だが。


「で、俺を選んだ理由は?」

「それは《異能》と出自や」

「出自?」


 引っ掛かった語句を復唱すると、ガキは確信に満ちた口調で応えた。


「蕃神信仰と、繋がりあるやろ?」

「……それを何処で?」


 最早、知っている事自体に対する驚きは少ない。が、これに関しては何処で知ったか、それが問題となってくる。蕃神信仰には随分と詳しいようだが、そちらから知ったならともかく、を見られていたとすれば……。

 それにしても、今の俺の言葉ははやった。これでは実質的に肯定しているようなものだ。


「そろそろ、本格的に時間が惜しい。続けるで」


 不味い……ガキは白を切るつもりだ。どうする、無理にでも聞き出すか? いや、この場で迫っても交渉の餌にされるのがオチか?

 俺は、答えを出せぬまま、黙ってガキの話に耳を傾けるほかなかった。


「そもそも、《異能》には次元を超越し得る可能性が秘められとる。[魔術]や【骸】とは決定的に趣を異にし、どっか根本的な部分でなんや。なんでかまでは知らんけどな」


 異能の特異性には聞き覚えがある。確か、ジェジレㇿも似たような事を語っていた筈だ。蕃神信仰と現代魔術聯盟……目的や、それを達する手段は同じ。だが、現代魔術聯盟は幾らかアプローチの仕方が穏便で、蕃神信仰より色々と知っているらしい。

 と、ここで時間切れ。遠くから、人が移動する気配がし始めたのと同時に、ガキはそそくさと身を引いた。


「返答はまた、使いの者にでも……ほななー」


 住宅街の中へフワリと消えてゆく背中を、俺は黙って見送った。ここで、追いかけて殺すには、俺はまだ何も知らな過ぎる。

 ああ~、くそっ! 今日は普段にもまして考える事が多い……。

 俺は、連絡していた回収班が来るまで、俄に降り出した雨に打たれるのも構わず、その場に直立したまま一歩も動けなかった。

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