2-2-B2 ホテルの部屋から その2



 T-1地区の中心地に存在するホテル群。その中でも一際豪華な高級ホテルの最上階、37階に用意されただだっ広いインペリアルスイートの一部屋に彼は居た。コーカソイド系の見た目。今朝からじっとPCに向き合って、キーボードを叩いている。

 ルードヴィッヒ・ゴラム――彼の記入した宿泊者名簿のName欄にはそうあるが、これは偽名である。何故ならば、彼、「ルードヴィッヒ・ゴラム」は、宮城支部のMCG職員が用意した《自立人形golem》であるからだ。

 違和感を軽減する軽い認識阻害が掛けられている為に、注意深く観察して漸く分かる機械的な動作で、自立人形golemが自身にプログラムされた動きを黙々とこなしてゆく。事情を知っている者ですら気を抜くと生身の人間と見紛うてしまうその様を、監視用モニター越しに見つめながら、香椎康かじ やすしがぼやく。


「もう十六時かぁ……おゆはんにはまだ早いけどお腹へったなぁ~……」


 それは、疲労と閑暇に倦ねた単なる愚痴でしかなかった。しかし、その言葉を切っ掛けにして、香椎の隣で『探知機レーダー』を監視していた岸刃蔵きし じんぞうのフラストレーションが噴出する。


「時間になったのなら、さっさと陰陽師とやらを叩き起こしてこい! 交代だッ!」

「……もう、化けの皮が剥がれてやんの……」

「無駄口を叩くな、ぶち殺すぞ! 俺は寝る!」

「はいはい」


 肩を怒らせつつソファに向かっていった背中に、どこか安心した様にも見える表情を向けて生返事をした香椎は、高い宿泊費に見合った高級ベッドで眠りこけている安倍浄浜あべ の きよはまのもとへと向かう。

 隣室で自立人形golemを監視し初めてから、かれこれ一日が経過しようとしていた。その間、満足に睡眠も取れず、缶詰状態で常に気を張り詰めていた彼等の疲労は色濃い。……ただ一人、浄浜を除いて。


「ふあ~、何じゃ、もう交代か」

「そそ。……で、悪いんだけど、また『探知機レーダー』の方を見ててくれない?」


探知機レーダー』――元は靈氣レーキの高まり(=纏骸者)を感知するだけであった別地球αの技術を、MCG機関が干渉力にも適用し、変異者ジェネレイターも発見できる様にした改良品である。以前のMCGに於いても、各所での干渉力検知は行われており「一次調査」に活用されていたが、技術、予算の面から大雑把なものでしかなかった。それが、別地球αの技術をそのまま導入する事で、精度を増し、小型化にも成功した。

 彼等三人は、監視カメラの映像を映し出している監視用モニターの他に、この『探知機レーダー』にも注意を払っているのだが(どちらかと言うとこちらが本命)、何分なにぶん、外見上の変化に乏しい為、香椎は人形の方を見たがった。

 完全に痺れを切らしている岸と違い、未だのほほんとした余裕すら漂う浄浜は、「よいぞ」と、大して悩むことなく二つ返事で快諾した。「ヤッターアリガトー」と、香椎は心にもない礼を吐きながら、モニターの前に戻った。


「あ、そうだ。やっぱ、おゆはん持ってきてもらお、空腹が限界だわ……」


 思い出したように、香椎がモニター横の内線電話を取って、フロントをコールする。このホテルにはMCGの息が掛かっている為、対応したのは西川という変異者ジェネレイターの副支配人だった。


「あ、西川さん? 悪いんだけど、おゆはん持ってきてくれないかな~。夕飯、そうそう。お腹すいちゃって」

やつがれも頼んで良いかの。軽いものを」

「あいあい。西川さん。後、浄浜きよはまくんの分も。何か『軽いもの』が欲しいんだってさ。で、ドリンクなんだけど――」


 続けて、香椎が自分のドリンクの注文をしようとした時、浄浜の纏う雰囲気が一変した。


なんじ、済まぬ。早々に前言を翻して悪いが夕餉ゆうげは後回しじゃ」


 注文を遮って放たれた言葉と前後して、ビープ音とバイブの振動音が響く。出処は知れていた。続け様に起こる異変の汎ゆる要素に、香椎ばかりかソファの岸までもが色めき立ち、浄浜の二の句へ耳をそばだてさせた。


「――何者かが隣室に侵入した」

「よ~し!」


 待ってましたとばかりに香椎が飛び出し、内線電話を放り出して机下に伸びる電線を掴む。これは予め隣室に張り巡らせておいた電線の先。反応を検知した瞬間に、ここから部屋中へ香椎の《電撃》を食らわせる事で、あわよくば手早い解決を狙おうという算段である。

 岸ほどに表には出さぬものの、焦れる心は香椎とて同じ。

 故に逸り、香椎は聞き逃す。

 浄浜が焦燥を込めて放ったを。


「待っ――!」


 探知機レーダーに表示されていた“UNKNOWN不明”反応は。一つは干渉力を表す橙字だが、もう一つは靈氣レーキを表す赤字であった。

 靈氣レーキや干渉力の波長には個人差があり、MCG保護下の変異者ジェネレイター、近衛旅団のものは既に登録済みである為、“UNKNOWN”とは詰まる所『保護対象』か『敵性勢力』を意味する。

 その対象がある事、予定にない纏骸者赤字が混じっている事、それ自体に大きな問題はない。それらの所在が共に隣室内に収まっている事は、探知機レーダーを監視する浄浜の知る所である。であれば、放っておいても電撃を食らうだけだ。香椎の電撃は非致死性である(無意識的にセーブしている為)、後遺症として痺れぐらいは残るかもしれないが、MCGの医療班ならそれも治療できる。これに関しても浄浜は知っている故に、制止の動機は其処にもない。


 では、どこに? それは――新たに探知機レーダーに表示された、説明を受けていないまだらの“混色反応”にあった。


 浄浜の危機感が瞬発するも空振り、間髪入れずに放たれた《電撃》が電線を駆ける。すぐさま、雷霆と紛う轟音が扉越しにも彼等の身を震わせた。恐らく、部屋中が閃光スパークに覆われたであろう事は想像に難くない、それほどの音だった。

 一瞬の閃光スパークが過ぎ去った粛々たる沈黙の中、かすかな声だけは捉えていた香椎が振り向くと、自ら設定した個性キャラクターも忘れた浄浜が怒鳴り声をあげた。


「『待て』と言っただろう! クソ、聞いてないぞっ!」

「え、なに焦ってんの? 大丈夫、当たったよ。音と感触から分かる。確かに予定より一人多かったみたいだけど問題なく無力化でき――」

「愚図がっ! すぐに再充電を始めろ!」


 慌ただしく懐から鉄扇と呪具を取り出し始めた浄浜に、香椎と岸が当惑の情を見せる。


「だから、どういう――っていうか、普通に喋れたん? 口調……」

「黙れ! “奴ら”が来るってんだ、ボクの勘がよォ! 反応は二! 斑模様の“混色”だ!」

「“奴ら”? “混色”?」


 ――頭上に備えろ! そう、浄浜が叫んだ瞬間、訛りのキツいフランス語が何処からか彼等の耳を叩いた。


 励起Invoquer


 それは――張り詰められていた糸。

 日々をえ湯の中に置き、地獄の如き炙背しゃはい暑熱順化しょねつじゅんかせし者は、安閑あんかんを知らずして求むる事なし。

 故に、残虐の狂気は、老若男女ろうにゃくなんにょを犯し、殺し、ぼてれんを捌きて濁水だくすいを産湯とし、交じる泥中でいちゅうにこそ輝きを見出みいだした。二尺六寸、椰子ヤシの繊維に織り成されし鞘、また、木製の柄、皿状の柄頭つかがしら、先端に向かうにつれて広がる幅広の輝きを。


參句サンノク - 脹雀ふくらすずめの/廓寥かくりょうたる/ - L'Ouvertureルーヴェルチュール


 その時、部屋内に居た彼等三人の目に映った現象を一言で表すならば、それは厳然たる〝爆発〟であった。突如として、彼等の頭上を優しく照らしていた飾電灯シャンデリアごと天井が弾けたのだ。

 飛び散る破片、降り注ぐ瓦礫。それ等から反射的に身を守りながら、浄浜はけして目を逸らしたりはしなかった。


「見えた――!」


 瓦礫の向こうに消えた香椎に代わり、砂埃に蠢くは二つの黒衣。

 やはり敵は『蕃神信仰ばんしんしんこう』か! ならば手加減の必要なし――浄浜は心を決めた。蕃神信仰を相手取る場合に限り、MCG職員は勧告なしに殺人まで許可されている。


「敵は二名! 蕃神信仰!」

「了解!」


 浄浜が叫ぶと、その後背こうはいから返事と共に《諸刃もろは》が飛び来る。

 岸の右手に収まるは捻られた薄いシーツの両端。彼は、この輪の中心を一部変換して千切り飛ばし、遠心力を利用する事で投擲したのだ。つまりは即席の投石器ならぬ投器である。爆発の瞬間、すぐに動き出して高級ベッドから剥ぎ取っておいたものだ。

 しかし、砂埃の中に飛び込んでいった諸刃はキーンという金属音を返す。防がれたにせよ、躱されたにせよ、おおよそ人体に命中した音ではない。岸は、すぐに目的を牽制へと切り替え、新たに一つ、二つと放った。

 併せて、攻撃態勢を整えていた浄浜も動き出す。右の鉄扇を握りしめ、左に握る複数枚の呪符を弾く。


たけ式神しきがみよ、来たれ!」


 差し迫った趣の呪文詠唱に呼応して、浄浜の前方に荒れ狂う風が巻き起こり、黒衣を覆う砂埃を吹き飛ばしてゆく。忽ちの内に、吹き抜けとなってしまった頭上に晴天が覗くと共に、猛き式神――霊的な白濁色の獅子ライオンが複数頭、呪符に刻まれし十六芒星の中心から滲み出した。

 ――噂通りの多国籍ぶりだな! 一瞬の内に四対の視線が交錯する。

 瓦礫の上に踏ん反り返る男女二人組は、それぞれ極端な黒肌と白肌を、黒衣の隙間から見え隠れさせていた。座り込む黒人の男は【Ilwoonイルウーン】を右手で瓦礫に突き立てるようにだらしなく持っているが、佇立する白人の女は無手。


「参ノ型!」


 浄浜の追加詠唱に従い、待機していた獅子ライオンたちが直線的な動きで二人組へと殺到する。加えて、先程まではメクラに放たれていた刃も、今度は正確な狙いで飛翔していた。

 どちらを取っても対手の生命を絶ち得る攻撃。これに、無手である白人の女が泰然と対応した。


 激發ジファ


 それは――圧搾あっさくされし知性の脱構築。

 牛頭馬頭ごずめずたなごころで舞い遊ぶ衆人環視しゅうじんかんしは、指使しし隷下れいかに甘んじながらも虎視眈々と人らざるを付け狙う。

 抑圧こそ反発の温床、撓み切った知性の復元力は、変成のいち软玉ネフライトの翼を得、跳躍す。れど、求めた自由は其処に無く、ただくうあるのみと知るや、役目を失いて翼は缺落けつらく、三尺一寸、軟刃なんじんと成れり。


參句サンノク - 江楓こうふう/漁火いさりび/對愁眠しゅうみんにたいす - 大玉戈】


 女の左白腕の先に集まった光がやいばを象り、程なくして穏やかなる輝きと共に【玉戈ぎょっか】顕在す。


你好ニーハオ你好啊ニーハオア! 我是ウォシーcitetㇱテット雲鷲ユンジウ!」


 そして、馴れ馴れしく挨拶を吐き飛ばしながら、前方から誰も立っていない左手側にかけての虚空を引き裂いた。

 瞬間、「爆!」――浄浜の更なる追加詠唱――それは文字通り式神を爆散させる命令であるが、四散しゆくエネルギーと、直進中に拾い上げて内部に抱え込んでいた殺意の瓦礫が黒衣を捉えることはなかった。浄浜の追加詠唱は直撃のタイミングを完璧に見計らったものだったが、爆発の寸前、まるで過程そのものが欠落したかの様に、式神と《諸刃》は黒衣の二人を通り越し、左手側後ろの壁へと突っ込んでいた。

 ㇱテットの靈驗れいげん――【短縮】。彼女は、前方から左手側の空間を短縮したのである。

 しかし、それを岸と浄浜の二人が悟る前に、もう一方の黒衣、鉤行こうぎょうのリ゚ーㇻーが仕込みを終えていた。

 音を立てて、床が激しく揺れ始める。かと思えば、瞬く間にリ゚ーㇻーの足元付近の亀裂から岸、浄浜らの方へと傾き、直立も難しい程の傾斜となった。


「――壁がっ!」


 岸が思わず放った叫びに、浄浜も振り向く。すると、其処に合った筈の調度品ちょうどひん類は、壁と共に消え失せており、代わりに地上の駐車場が見えた。見えてしまった。

 リ゚ーㇻーの靈驗れいげん――【膨張】。彼は、瓦礫に突き立てたIlwoonイルウーンの鋒を通して、ホテルの一部を膨張させ、破壊していたのだ。

 蕃神信仰の目的は変異者ジェネレイターの生け捕りじゃなかったのかよ! 死、死、死――脳裏に過る落下死の未来から必死に目を逸らしながら、浄浜が叫ぶ。


「岸刃蔵! 飛べ!」

「な、何ぃ!?」

「早くしろ!」

「くっ――!」


 一瞬、戸惑いを見せた岸だったが、浄浜が先に飛び降りたのと同時にキングサイズのベッドが此方に向かって滑り落ち始めたのを横目にして、浄浜の言葉に従わざるを得ない事を悟った。


「し、信じるぞ! うおおおおおお!」


 ヤケクソ気味に叫んだ岸は、直角に近くなりつつある傾斜を転がるように駆け下りる。そして、寄る瀬なき宙空へとその身を投げ出した。瞬間、37階分の高さが視界を占有し、恐怖で全身が総毛立つ。


たけ式神しきがみよ、来たれ!」


 恐れているのは浄浜も同様。故に、彼は地面を見ぬように背を向けながら呪文を詠唱した。呼応して、複数頭の式神どもが再び現れる。


「安倍浄浜! 岸刃蔵! 壱ノ型!」


 名を指定しての追加詠唱に従い、二手に別れた式神どもは瞬く間に空を駆けて両者の元へと到達する。「結!」――そして、更なる追加詠唱で大きな塊と化した。

 これは――クッションか! 浄浜がその塊を抱き寄せたのを見て、岸も役割を知り、シーツを投げ捨てて行動を模倣する。

 その期待通り、塊は地面に接触した瞬間に砕け、衝撃の大半を受け流してみせた。

 叩きつけられる様に地面を転がって残りの衝撃を処理しながら、二人は辺りを見渡す。ホテル最上階の崩壊に伴う混乱は、既に無辜の市民たちへも広く伝播しており、恐怖に駆られて距離を取ろうと逃げ惑う者と、安全圏からカメラ越しに好奇の目を覗かせる者との二つに別れていた。


「はぁ、はぁ……浄浜、香椎の奴はどうなった?」

「……知らぬ。降り注いだ瓦礫の奥に消え、視認もあたわぬ状況であった故。そもそも、式神の数も足らぬわ」


 当面の危地を脱し、余裕のできた浄浜は自ら定めた個性キャラクターを取り戻していた。


兎角とかく、即急にMCGへ連絡し、援軍をばねば――っ!」

「な、なんだ、アレは……!」


 しかし、その余裕も、ほんの一呼吸だけしか持たなかった。全身を弛緩させる間もなく、二人は緊張の中に再突入する。

 彼等の視線の先に現れたもの、それは《船》。大気に於ける無害通航権むがいつうこうけんを" "から租借そしゃくする事で宙を進む泡沫うたかたの小型船。有色透明のその上に、黒衣が二つ乗っていた。

 その、徐々に高度を下げつつ悠然と宙を漂う様を、地上から呆然と見つめていると、その端々に小さな黒点が幾つも現れた。それらは、すぐに「小さな」という言葉の範疇に収まり切らないほどの【膨張】をみせる。


「ちょっ、ヤバイって!」


 浄浜が飛び退くと、寸前まで立っていた地面アスファルトにゴツゴツとした《あらがね》が突き刺さった。そのサイズは生命を脅かすにたる巨大、隣に並ぶジープにも全く見劣りしていない。


「浄浜! このままだとジリ貧だ、制空権を喪失しているッ! オレに手立てはない!」

「……やつがれが引き摺り下ろす! 策は有る、成功するかは半々であるが……奴等の注意を引けい!」

「何っ!? ――あぁ、クソッ!」


 意識を上方へ向けていた岸が「策」とやらの詳細を尋ねる前に、浄浜は何処へと走り去っていった。こうなっては、残された彼に選択の余地はなく、言われた通りに注意を引くほかない。

 最悪、囮として残された可能性をも飲み込み、覚悟を決めた岸は、駐車場内のより広い平地を目指して走りつつ、上着を脱いで即席の投刃器とした。


「こっちだ、ボケ共ッ!」


 もはや投刃は慣れたもの。《船》の方から高度を下げている事もあって(これは投下するあらがねの精度を上げる為)、《諸刃もろは》は、かなりの至近距離を通り抜けてゆく。

 地上からでは、空の二人の詳しい表情などは窺い知れないが、それでも、僅かな船の操舵から分かる事がある。彼等は、間違いなく「浄浜を追おうとして、止めた」、つまり目論見通りに注意は引けた訳だが――。


「――長くは、持ちそうに、ないなっ!」


 降り注ぐあらがねの狙いは極めて狡猾であり、巧みに岸の退路を誘導し、隙あらば圧し潰さんとしてくる。そこに、四藏匡人と灰崎炎燿が話していた予想、「生け捕り」にしようという意思は全く見られない。それどころか、ものの数分で、駐車場だけでなく、ここら一帯を埋め尽くす勢いである。いくら経験豊富を自称する岸といえども、捉えられるのは時間の問題であった。


「ぐっ――!」


 左方向へ切り替えす時に残した右足があらがねの下敷きとなった。岸は、すぐさま足首を《諸刃》へと変換して千切る事で逃れる。だが、傷口は塞げるにしても、機動力の低下は避けられない。

 同時に、彼の頭上が陰った。


「き、浄浜ァ!」


 これまでに稼いだ時間は僅か一分にも満たない――それで充分であってくれ、と姿の見えない浄浜に向けて祈りながら、岸は必死にびっこを引いた。

 その時である。天運は、彼に味方した。

 小型船の前方に立っていたㇱテットが音もなくグラリと揺らぎ、同乗者であるリ゚ーㇻーが反射的に伸ばした黒い手をすり抜け、左舷さげんにもたれ掛かるように転落した。ヒュッ――と、風切り、次いで頭蓋骨の砕ける音と水っぽい衝突音が響く。ピクリとも動かぬまま、脳天から真っ逆さまであった。

 事はそれだけではない。更には、浄浜の言っていた「半々」の賭けも成就する。

 無害通航権むがいつうこうけんおよび操舵、船体の維持をつかさどっていた、存在のいしずえたる干渉力の源――ㇱテットを失い、泡沫の《船》が崩壊し始めたのだ。

 こうなると互いの立場は一転、窮地に立たされているのはリ゚ーㇻーの方である。ある程度は高度を下げていたとはいえ、船の現在地は未だ高所、足から着地し、その衝撃を全て上手く受け流したとしても両脚の損傷は避けられない高さに居るのだから。

 しかし、この危機的状況に於いて、リ゚ーㇻーの思考が素晴らしき瞬発力を見せた。元・少年兵として60年近く戦い続けてきた経験が物を言う。

 間髪入れず、リ゚ーㇻーはㇱテットへと伸ばした手を握りしめ、あらがねを新たに作り出すやIlwoonイルウーンでぶっ叩く。相前後して、足場である船が消えるが問題はない。すぐに、複数でなく一個のあらがねに集中させた【膨張】の霊験れいげんが功を奏す。

 大きな地鳴り現象を伴って着弾したあらがねは、既に山奥の霊妙なる巨石を思わせるサイズにまで【膨張】しており、後に続くリ゚ーㇻーと地面との高低差を軽減した。

 五体満足であらがねに鎮座し、リ゚ーㇻーは笑んだ。生存の安堵による笑みではない。その様な惰弱な精神性では、絶えず銃弾の飛び交う戦場では生き残れなかった。ゆえ、あれは闘争を知り、闘争に親しむ笑みなのだ。計り知れない緊張の高まりが閾値に達した者にのみ生まれる戦闘狂ウォーモンガーだけの……。

 ――バチッ!

 しかし、彼が長年に渡り培って来たその戦闘感性が、これ以上披露される事はなかった。矛先を制御された《電流》が、あらがねの含有する不純物の抵抗を物ともせずに表面を走り、リ゚ーㇻーの足元を捉えたからだ。

 電撃を食らった彼の身体はカクンと崩れ、あらがねの上から滑り落ちてゆく。ほどなくして、先程のㇱテットの転落よりも嫌に生々しい粉砕音が響いた。


「香椎……康……」

「あり? 何かマズかった?」

「……いや……気が抜けただけだ」


 そう言って、岸は右足を引き摺りながら首の折れた二つの屍体に近づき、それぞれの喉を掻っ切った。


「何処に居たんだ? 浄浜は瓦礫の向こうに消えた、と言っていたが……」

「ああ! 偶然隙間にね。その後は普通にエレベーターで降りてきたよ。ちょうど最上階にきてたから、すぐ降りてこられた」


 その時、遠くから「オーイ」という声が二人の耳に飛び込んできた。振り向くと、浄浜が手を振りながら近づいてくるのが見えた。


「浄浜……」

「言ったであろう? 半々で引き摺り下ろせる、と。やつがれに感謝せいよ」

「では、やはりアレは……」

「当然! アレは暫しのタメを要するのでな。その時間が必要であった。外せば今度はやつがれが追われるであろう? ややもすれば逃走を許してしまう。半々とはそういう意味だ」


 浄浜が「大義、大義であった」と言いながら岸の肩を叩く。すると、その瞬間に、昨日今日とたまっていた疲れがどっと岸の頭に押し寄せてきた。重く、曇天の如く鈍り始めた頭を地面に放り投げ、岸は押し寄せる睡魔に逆らわず目をつむった。


「少しだけ、寝かせてあげようか」

「ふむ、そうだな。後の事は――」


 岸の疲労を慮って、香椎と浄浜は愛と気遣いをくれてやる。しかし、奇しくも、それは電話口から異常を察知した副支配人「西川」の手配によって踏み躙られた。


「此方、近衛旅団第二歩兵小隊!」

「同じく第三歩兵小隊! 救援に参りました!」


 ぞろぞろと、何らかの転移手段でやって来たであろう近衛旅団の連中が遅れ馳せに揃い踏みである。その大声が岸の鼓膜を激しく叩く。更に、間の悪い事は続くもので、晴天の空から雨粒が振り始めた。狐の嫁入り、天気雨。地面の岸が瞬く間に濡そぼつ。その口元に、噛み締めた白歯が覗き始めた。


「スゥ――」


 そして、遂に大きく息を吸い込んだのを見て、癇癪の予兆を察知した香椎は、一人だけこそっとその場から逃れた。


「――遅いわ! 大体、貴様らは普段から大して仕事もしない癖に! 肝心な時に――!」

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