1-4-8 『MUL.APIN』 その3



 艶島九蟠の部屋を後にした俺たちは、千覚原さんの先導で来た道を逆に歩き出した。マッピングによると、艶島の部屋は西端だったので向かっているのは東である。俺の銃は香椎さんがそのまま持っている。取り返そうと思えば、すぐにでも取り返せるのでそれは問題ではない。

 二、三人の感情の内、二人分は艶島と洗脳されたヤクザ共のものだった。従って、地下に残るは後一人という事になる。

 こっちでアレだけ騒いだというのに参戦して来ない所を見ると、戦闘に向く能力じゃないのか、或いはそもそも戦う気が無いのか……それだったら助かるのだけど、治療系だったら困るのだよなぁ。艶島を治されたら死にかねない。

 とにかく、千覚原さんは既にその居場所が分かっているらしい。見張りを頼んだ時のあの妙に確信を持った振る舞いはその為だった。

 階段までの道中は特に何も無く、俺たちはあっという間に東側に広がる薄闇へと突入した。

 明かりはあるが西側と違って疎らであり、安全上「十分」とは言えなかった。それでも、千覚原さんはズンズンと突き進んでゆく。俺と香椎さんはレディーファーストの精神でそれに続いた。

 そうして中程なかほどまで来ただろうか。暗闇の為に距離の感覚が曖昧だが、ふと、左右のコンクリート壁の“汚れ”がちらほらと眼に付いた。始め、俺は虫でも這っているのかと考えた。遠目に、ミミズの様な形をしていたからだ。しかし、コンクリート壁を這う虫やミミズなどいるだろうか。洞窟でもないのに、これほど大量に……。

 好奇に駆られた俺は、それらに顔を近づけてみて、その“汚れ”の正体が、狂気に満ちた「走り書き」の塊である事に気付いてしまった。




 宇宙を畏れよ


 推量おしはかること罷り成らぬ。

 宇宙とは無限にして有限、奥深く高尚でありながら卑近さえ満たす。卑小なる人の用意した観測機器など所詮は杓子定規に過ぎぬ。嘗て、天象の観測者は星辰の枢軸を求めて、𒀯𒀭𒁺𒁀𒎌mul-DINGIR.GUB.BA-meš𒀯𒀯mul-MULを見出し、又、もろもろの星宿が、司祭の肩なる鉤鈕かぎぼたんの如く、色燦爛いろさんらんたる宝玉をちりばめたる荘厳に似たるを知った。


 天に投影されし『大庇おおびさし』を仰ぎ見よ!


 満天の星空を覆い尽くす彼の蒼庇あおびさしこそ、偉大なる超越的包括宇宙の黙然として泰然たる万に勝る雄弁な意思表示。


 おかすな!

 おかすな!

 おかすな!


 世上の仮説何ものぞ、吾はただ窓に出でて、夜を開き、眼には、彼の一斉に列びたる数字となりて吾が必然の一という係数の後に幾多の零が続く如き無数無限の星影を映さむのみ。


 曠然こうぜんたる無の旨を実践躬行じっせんきゅうこうせよ。


 我々に残された「道」はそれだけだ!




 それらは、「勢いに乗せられて書きました」という如何にも乱暴な書きっぷりで、所々が続け字、崩し字の様になっている。

 啓蒙的な、余りに啓蒙的な。

 俺はすっかり圧倒されてしまい、意識が一瞬ばかし遠のいた。


「これ……薬物だ」


 俺につられ、壁の走り書きに触れた千覚原さんがそう呟いた。彼女は、前に「薬物中毒者の高揚は独特だ」と言っていた。いや、あれは買った時の高揚だったか? しかし、あれだけ街中を歩き回ったのだから、使用時の酩酊だか陶酔だかも当然知っているだろう。

 その後もプツプツと突発的に途切れては始まる走り書きを横目に先へ進むと、艶島の時とは違って、上下前後左右に開けた空間に出た。天井がドーム状に丸まったその空間の中心には、俺の二倍くらいはある大きな機械が、でんと聳え立っている。

 その機械から四方の薄闇に伸びるごちゃごちゃとした配線を、俺は何となく踏まずに跨いだ。


「何ですかね。今度は……」


 誰にともなくポツリと呟くと、香椎さんが機械をベタベタと触りながら答えた。


「うーん、プラネタリウムの投影機かな、これは……」


 プラネタリウムに行った事は無い為にピンとこないが、それが正解なのかもしれない。一体、何故この場にあるのか、という点に付いての答えにはなっていないが……。

 しかし、これ以上は考察の必要もないと結論づけた俺達は、香椎さんの「先を急ごう」という言葉に同意した。

 その時、不意に千覚原さんが小さく呟き、俺と香椎さんを制止した。


「居た……」


 言われてから、よく目を凝らさねば気付けなかったほど遠くの暗がりに、蹲る小柄な人影を発見した。あれが例の変異者ジェネレイターで間違いないだろう。

 すぐさま、艶島の部屋でこっそりと握り込んでおいた拳銃を構え、どうせ当たらぬであろう先制攻撃を威嚇も兼ねて放とうとした。


「ま、待って! その子は多分戦うとかじゃないと思う!」


 そんな俺の動きにいち早く勘付いた千覚原さんが、敵地だと言うのに大声で咎めてきた。しかし、おいそれと従う訳にはいかない。


「そうなんですか? でも、一応、撃っときましょう」


 俺に渡されたニューナンブM60とはまた違った軽い感触の引き金を絞った。

 すると、案の定、弾は全く見当違いの方角へ行ったらしく、人影に当たった気配もなく、コンクリートか何かに跳ね返った様な音が銃声の後に響いた。想定の範囲内である。


「手を上げて大人しくしろ! 従わなければ次は当てる!」


 ……多分、無理だろうけど、と心中で自嘲しながら降伏勧告をする。

 この時、俺は少しだけ理性的反応が返って来る事を、つまり、滞りの無い円満なる解決を期待したが、思い虚しく、現実に人影が発したのは言葉にならない叫びだった。


「うぅ、う、う……うぁぁぁぁぁ……ああう、ああ、あ……うぁぁぁぁぁ……」


 どうみても投降の意思はないだろう。

 俺は、じりじりと躙り寄りながら、牽制にもう一発ぶち込んでやろう、と意気込んだ。が、それは意気込みだけで終わってしまった。

 ――バチッ、という聞き覚えのある電撃音が背後から聞こえたかと思うと、俺の身体は大きくビクついて一切の操作が効かなくなった。受け身など夢のまた夢という風に無抵抗に崩れ落ちてゆく俺の身体を、後ろからスッと出てきた香椎さんの華奢な腕が受け止めた。


「出力の調整はできないけど、こうやって離れた所から使えば威力は調整できる。悪いけど、ちょっと寝ててよ」


 そうして、香椎さんは、地面に優しく寝かせた俺の手から銃を奪うと人影に歩み寄ってゆく。その後ろに、小難しい顔をした千覚原さんが続き、二人は俺の眼球が映し出せる範囲から消えた。


「大丈夫かい?」

「うぁぁぁぁぁぁ……全部……全部、うぅ……ぁぁう……私が悪いの……私の所為なの……!」


 配慮の声と要領を得ない啜り泣き。

 痺れの所為で瞬きも覚束ないが、それでもどうにか声の方へ眼を遣ると、そこには人影を抱きしめる香椎さんの姿があった。

 少し遅れて駆け寄った千覚原さんが人影の頭に触れる。


「尋常じゃない悲嘆と……後悔の念。これは多分『バッド・トリップ』って奴だと思う」

「なるほど、薬の所為か……」


 香椎さんの腕に収まる小柄な人影は、相変わらず「うあう、うゆう」と判然としないうわ言を繰り返しているが、人肌に触れている御蔭か少し落ち着いて来た様にも見える。


「不安を塗り潰そうと手近な薬を過剰摂取して逆に増幅させちゃったみたい。心中に渦巻く言葉は専門的なものばかりでよく分からないけど……彼女が自分の能力で作った……のかなぁ?」

「そうか……尤も、今のこの状態は銃声と怒声によって引き起こされたものだと思うけどね……」


 唐突な当て付けの視線が俺を貫く。

 それに対して何か言おうと口元を動かしてみて、未だ電撃を食らってからさほど経っていないが、末端に近い部分なら少しだけ動かせる事を発見した。香椎さんの言う「手加減」もあったのだろう。


「……し、心外ですね……」


 複数回ほど「あー、あー」とチューニングすると、息苦しさは感じるが普通に話せるまでに痺れが回復した。


「それより、能力で作ったって事は、彼女?が地下に居た最後の能力者ジェネレイターだった訳ですね。戦闘にならず、円満に解決して良かったです。では地上の六道さんを助けに行きましょうか」

「君ねぇ……!」


 俺としては単なる「今後の展望」の提案でしかなかった言葉のどれかが、香椎さんの気に障ったらしい。遠目にも分かるほどの怒気を纏った香椎さんは、抱きしめていた人影を千覚原さんに優しく引き渡すと、ツカツカと早足で俺の枕元に立った。


「何が『円満に解決』だよ……! 寧々ネネくんの制止を無視してぶっ放しておいて……! 殺したがりが……!」


 これ以上、大きな音で人影を刺激しない為にだろう、その語調は荒くとも声量は出ていなかった。


「さっきのヤクザみたいな奴等に発砲したのは理解できる……! 襲われたんだからな! だが――」

「誤解です」


 俺は、彼と同じくらいの声量で答えた。


「あれは俺なりに『正義』に付いて考えた結果の行動です。そりゃあ、俺だって誰も死なずに終わるのが理想ですよ。けれど、相手は麻薬カルテルの構成員で、今いるのは敵地のド真ん中。……とくれば、慎重にもなりますよ」


 香椎さんは黙って俺の言葉を聞いている。しかし、果たして理解を得られたかどうか……その仏頂面からは全く何も伺いしれない。だから、続ける。


「いま考えても、ベストな選択だったと思います。それが……妙に反感を買ってしまった様ですけれど、後学の為に何が気に入らなかったのか詳しく教えてもらえませんか? 今だって、口論なんかをする暇があったら、その彼女に手加減抜きの《電撃》でも見舞って、さっさと六道さんの元に急ぐのが合理的で無駄のない判断だと思います」


 これは嘘偽りのない純真な意見だ。

 仮に、彼女が全くの一般人だったとして、今更、一つ二つの命が無為に潰えたから何だと言うのか。香椎さんにも、その程度の覚悟は出来ているものと思っていた。麻薬カルテルが街へ齎している驚異、被害を考えれば、副次的被害コラテラル・ダメージの範疇に収まる、とも思っていた。


「あのね……」


 しかし、香椎さんは、「怒り」というより「呆れ」の混じる複雑な顔で言った。


「『合理的』だの、『無駄のない』だの、君は勘違いしているよ」

「勘違い?」

「そうじゃない……そうじゃないのさ。私と、多分寧々ネネくんが抱いている反感はそうじゃない」

「どういう、意味ですかね……」


 痺れの薄まって来た身体を起こしながら聞くと、香椎さんは「良いかい?」と親が子を諭すような口調で上から続けた。


「人間が真に合理的な行動を取り続けるなんて不可能だ。人間は、そういう風には出来ていないんだよ。極めて非合理にこそ生きる“獣”なんだ。……でも、それでも、君が合理を追求すると言うのなら、君は『合理』じゃなく『非合理』を理解し、向き合わなきゃいけないよ。それが、人の実現できる『真の合理』に繋がるんだ」


 その説教は俺にしてみれば「難解」の一言に尽きた。神辺さんの言葉に似ていて、ただの開き直りの様にも聞こえたし、愚にも付かぬと切り捨てられない出来ない理がある様にも思えた。

 この時、俺はすっかり動けるようになっていたが、あまり活発に動き回る気分にはならず、冷たいコンクリートの上にじっと胡座をかいた。


「よく、わかりません」

「理解を求めて言った訳じゃないさ。気狂い相手にね……」


 非合理的な吐露を終えて、香椎さんは肩を落として踵を返し、千覚原さんと人影が待つ方を向いた。その背を、俺はじっと見詰める。


「ああそうだ、四藏くん」


 足を踏み出す前に、香椎さんは首だけを梟の様にぐるっと回して、俺を振り返った。


「彼女に私の《電撃》を食らわせるアイディアは盲点だったよ。ここで更に追い討ちを掛ける様な発想なんて……ね、流石だよ。彼女を悪夢から解放する為にも、今はそれが一番良い。そうしたら、六道くんの元に急ごう」


 嫌味を残して、今度こそスタスタと遠ざかってゆく背を、俺は黙って見送った。

 難しいな。難解すぎる。晦渋だ。

 若輩ながら、薄っぺらい人生経験を総動員して「正しく」あろうと努力したのだ。六道さんの果断さも参考にした。が、香椎さんの口振りによると、少し「違う」らしい……。

 しかし、言うに事欠いて「気狂い」とは……甚だ遺憾だ。俺だけはマトモなつもりでいたのだけれど。


「……今、考える事でもない……か」


 俺は、まだ顔も見ていない「彼女」で合っているらしい人影を見に行こうと、思い腰を持ち上げた。

 と、その時、変事が起こった。

 小柄な人影を抱いていた千覚原さんが、首をいきなり振り上げた。直後、人影が形にならぬ声で発狂し、その喧騒の上を千覚原さんの叫びが通る。


「上に――!」



 光が差した。



 得体のしれぬ光芒が地下の暗がりを引き裂いて降ってくる。破砕された天井のコンクリートと、ぐったりとした六道さんを引き連れて、音も無く着地する。


「椛! 助けに来たよ!」


 なんて、眩しい――だが、それにより、今まで曖昧だった狂った人影の容姿が俺にも見えてくる。吹けば倒れそうなほど小柄で、光芒と同じ制服を身に纏う彼女は、猿叫を繰り返しながら千覚原さんの腕から逃れようと藻掻いていた。

 その様を見付けた光芒は、口角を三日月の如く吊り上げ、雄大な御御足おみあしを踏み出した。


「――香椎さん!」

「敵!」


 声を掛けながら、予め拾って来ていたもう一つの銃を取り出した俺は、香椎さんの応答を受けて躊躇なく引き金を絞った。けたたましい銃声が連なってあちこちに反響するが、その中にコンクリートに跳弾した様な音は混じっていない。

 命中したか? と、銃口を視界からチョイとずらしてその先に目を凝らす。

 だが、生憎と標的は健在で、防御の為か握り拳を此方に向かって突き出していた。その変わらぬ笑みに銃撃が失敗に終わった事を悟る。

 再び引き金を絞るが、返って来たのは「カチッ」という音のみ。既に残弾は無くなっていた。遠慮なく舌打ちした俺は仕方なく接近戦に切り替えた。

 その間に香椎さんが電線を投擲するのが見えた。どちらかと言えばこっちが本命である。絶縁破壊を引き起こす程の電撃は初見だと予測不可だ。これを食らって、多少の痺れぐらいは残ってくれと願ったが、相手も素直に食らってやるつもりはないらしい。

 電撃の有効範囲にまで電線が到達するかしないかという所で、突き出されていた握り拳が親指でコイントスをする時の様な形に変化した。

 その時、もっとも後方に居た俺は偶然に見ていた。


 夜空に輝く一等星の瞳が愉しげに揺らぐ、その瞬間を。


 ヒュン――という鋭利な風切りの音が走る。それにより電撃は不発に終わった。軽くピンと弾かれた親指は、撃鉄ハンマーであり、撃針ファイアリング・ピンあり、雷管デトネイターであり、装薬ガンパウダーだったのだ。

 カクンと香椎さんの身体が崩れ落ちると、その銃口は俺へと向けられた。避けなければと考える間もなく、俺の太腿と腹部が飛来物に貫かれた。


「ぐっ……!」


 被弾の衝撃は、伊秩半七に撃たれた時とは比べ物にならず、下半身を全て持っていかれたのではないかと錯覚するほどだった。

 堪らず、膝をつく。

 幸運にも大きな血管は損傷していないらしいと出血具合を見て思う。這いずりながら香椎さんの方を見やると、俺と同様に死にかけだが息はある様に見える。急所を外した? 果たして、故意だろうか……。

 暫く、戦闘の継続を試みたが、艶島との戦闘で負った出血も響き、俺の意識は徐々に暗闇へと落ちていった。



    *



「あ……っあぁ……」


 情事の際に漏れる喘ぎにも似た声が、断続的に響く。その主は、尋常ならざる井手下椛いでした もみじではなく、健全である筈の千覚原寧々ちかくはら ネネだった。

 地下に舞い降りた光芒――望月要人もちづき かなめの意識は、襲いかかってきた二人の無力化を見届けた為に、当然、喘ぎの方へと向けられた。

 千覚原は、REDに相対した時の様に怯えるでもなく、戦う訳でも逃げ出す訳でもなく、望月の乱入時に居た場所から動かず、ただ――呆けていた。

 マトモではないが少なくとも敵意を抱く人間の様相ではないと見て、望月は千覚原を意識から外した。


「椛、遅れてゴメンね、九蟠くばんちゃんからのメールに気付くのが遅れちゃってさ……えっと……こんなコトを改まって言うのも照れくさいんだけど……無事で良かった!」


 親友の無事を心から喜び、顔に喜色を呈する望月。

 だが、対する椛は、千覚原の緩んだ腕の中で藻掻きを続け、遂に脱した。そして、あらぬ暗がりを目掛けて千鳥足で駆け出した。


「椛、どこ行くの? 悪い奴は倒したよ。暗いから、危ないよ……」


 儚げに発された注意喚起は、コンクリートに反響して暗がりに消えた。

 虚しく。

 全てに於いて朧げな椛は、暗がりの底に這っていた投影機の配線に蹴躓き、強かに顔面を打ち付けた。


「あぁ……だから、言ったのに……」


 悠々と追いついた望月が、天体を思わせる懐の深さを以て手を差し伸べる。そこに込められているのは、友愛によって立つ純雪なる深切に外ならなかった。

 しかし、貧乏人の説く金の不要論や、極悪人の説く刑法論と同様、無二の親友たる望月の行動だからこそ、冷笑的シニカルな視点でしか受け取って貰えない。

 右上と左上を同時に見ていた椛の視界が、徐々に中央に回帰し、焦点が一つに重なってゆく。


「ほら、立てる?」


 反応の無さに痺れを切らした望月が、蹲る背に触れようとした時、椛は肉付きの悪い手で全ての憂いを振り払った。


「寄るなぁ!」

「――い、痛っ」

「全部、要人かなめの所為じゃん! 要人が悪いんじゃん! なのに、なんで……なんで笑ってるの!」


 半ばまで自己を取り戻した椛は、硬いコンクリートに手足を打ち付け、もんどりを打ちながら捲し立てる。


「気持ち悪いんだよ! 私を巻き込まないで! やるならひとりで勝手にやって、勝手に死んでよ!」


 こうまで強い拒否を真っ向から示した例は、過去、幼年時代にまで遡っても無い事だった。

 時に能動的な望月が手を引き、時に消極的な椛が諌める。そうして、地球と月が自転公転のかいを同じくする様に、世の中の全ては上手く回ってゆくのだと、望月は浅く、深く、漠然と思っていた。

 しかし、そうではないのだ、と。

 ……実を言えば、長年の付き合い故に望月は薄々感づいていた。

 だが、それでも、目を逸らさざるを得なかった。椛の「悩み」の正体が、他ならぬ自分であるという事実を、万が一、欠片でも認めてしまえば、それは風光にして明媚な規則的導きが、根本から揺らぐ事を意味するからである。


「……どうして? どうして、そんなコト言うの!?」


 されど、“誤魔化し”はとうに限界に達していた。

 望月は、心中に広がる、満天の星空を蒼庇がおおってしまった時と同程度の衝撃を持て余しながら、どうにか現実がくつがえってくれないかと、地表に満つ大気に、宇宙に満つ暗黒物質ダークマターに、そして胸裡に満つ星辰おもいでに縋る。


「も、椛が教えてくれたんだよ?」

「教えてない!」

「あの日、コップに入ってた……ほら、見てて!」


 望月は、制服の二の腕部分に巻き付けていたベルトをキツくしめ、間もなく浮き上がってきた脈に使い古しの不衛生な注射針を刺した。そして注射器の内容物が血管内に注入された瞬間、望月の脳内に於けるネガティブなイメージは全て矮小化された。


「――アァ! 大気圏外から降る福音が見えるよ! この垂れ流される熱視線!」


 こうなった望月はもはや誰にも止められない。溢れ出る脳内物質が幻覚と五感を次々にリンクさせてゆく。椛の異能によって生み出された数種類の《薬》を、望月が独自に配合した『外宇宙アウター・スペースの呼び声』の効能である。その超越的な脳の過労の余波を受けた千覚原は、呆けるだけでは耐えきれず遂に意識を絶った。

 天国にトリップした望月。それを機に、また更なる地獄へと尋常を投げ捨ててまで逃げ込んだ椛。

 だが、望月はもう全てが気にならなかった。


「ねぇ、あの蒼い庇を越えて『宇宙』を見に行こう! 今なら行ける気がするの! そうすれば、椛の考えも変わるよ!」


 言うが早いか、『地面』という絶対的信頼が大きく揺らいだ。

 辛うじてダグスの範疇に燻っていた望月であったが、薬と悲憤の力を借りた事で一線を踏み越えてしまった。

 階位フェーズは、遂に人外の域Εエイフゥースへ。

 そして、今日を以て、麻薬カルテルの謀議によって延命され続けた自由主義経済の敗北者は、『工場』から『宇宙船』へと再定義され、地下に拡張された空間ごと《浮上》した。

 その下部に位置する操縦士たる望月は、曖昧に向かい合う椛を優しく胸中に抱え、ひとっ飛びで屋上に降り立つと、其処を『操縦室』と定義した。

 さあ、めくるめく冒険の始まりである。

 無制限燃料付きの大質量は、地球の重量を順調に振り切ってゆく。周囲には大気も地上と同じ圧で纏わり付いている為、加速度以外の苦しさはない。


「見て……どんどん庇が近づいてくるよ。私達の羨望を遮る宇宙の怒りが……」


 この時の望月を満たしていたのは、見上げてみて改めて感じるちきゅうの宏壮さと、来たる未知を目前にしたとしての心地よき感動だった。

 はやく、庇の向こうに辿り着きたい。

 けれど、辿り着いてしまえば終わってしまう。

 終焉と継続を同じ観点から望む、正に至高の一時――だが、それも長くは続かなかった。

 意識の埒外に嘲笑が湧く。


「フン、怒りなどではない」


 唐突に水を差してきた聞き慣れぬ声音に神経を逆撫でされた望月は、刺々しい嫌気を隠さず、深淵の瞳を差し向けて睥睨した。


「お前……だれ? 私達と一緒に宇宙を見に行きたいの?」

「あれは、知的生命体の持つ『認識』に関わるものだ」

「……なにを、言ってんの?」


 耳元に掛けていたMCGモデルの骨伝導ヘッドセットを投げ捨てた天海は、水の玉座の上で頬杖を付き、人類の想像を越えた尊大さでのたまった。


「既に、他の者どもは回収させてもらった。貴様の腕に収まっていた井手下椛いでした もみじもな」

「――ッ!」


 望月の動揺を代弁するかの様に、上昇を続ける工場が大きく揺らいだ。

 見上げるばかりだった望月が足元へ目を向けると――

 そこには何も存在していなかった。

 上部の工場も、地下に広がる空間も、椛も……あるのは『操縦室』たる屋上だけ……それ以外の全ては忽然と消失しており、代わりとして同質量の靈瑞みずが追随して来ていた。


「下に夢中なところ申し訳ないが、次は上を見て欲しい」


 天海は右の人差し指をまっすぐに立て、天を指し示した。

 だが、混乱の渦中、望月に、その気取った仕草に注意を払う余裕はない。

 現在地――“熱圏”上層。

 だというのに、今、彼等の足場には『巨大な影』が差していた。これは抜き差しならぬ不自然である。気付いてしまった以上、望月は天海に促されるまでもなく、顔を振り上げて正体を確認せねばならなかった。

 その一瞬の内に過る幾つかの候補。


 遊星、小遊星、人工衛星……。


 そのどれもが、的を逸していた。

 望月は見る。

 天に隔たる庇を背景に、スイングバイの加速で迫り来る――“家屋セーフハウス”を。


「セーフハウスだ」


 天海の宣言に則り、配達人赤樫浮葉あかがし うきはは自身を地球へ離脱させながら、宇宙船の進路上に荷物を投下した。

 赤樫の能力によって、地球の重力を利用し切っているセーフハウスは、相対的な速度も相俟って、もはや視認も困難な小隕石と化した。この時、望月は宇宙へ弾き返さんと自身の《引力操作》を咄嗟に行使したが――間に合わない。

 衝突。

 辛うじて直撃は避けられたものの、望月と天海の丁度中間地点に着弾した小隕石セーフハウスは、剥き出しの『操縦室』を粉砕する。

 現在地――“外気圏”。大気の気体分子、原子が逸出を始める場所である。それ故に、拠り所である『宇宙船』を失った望月は、着弾の衝撃によって地球重力圏外へ向けて第二宇宙速度を遥かに越えたスピードで投げ出された。


「ぅぁ………………!」


 宇宙空間に轟く無音の悲鳴。

 縦も横も区別なく高速で廻転する望月は、今の衝撃で『宇宙船』に留めていた大気を逸してしまった失態を、異能によって拡張された第六感に理解した。

 解放という概念からすらも解放された真の自由。

 その待ち望んだ感覚を堪能する余裕もなく、望月は即座に自らを『天体オブジェクト』と定義する。これは、廻転を抑制しつつ、引力圏内に大気を集め、そして地球への帰還を試みるという、一挙三得の試みであった。

 ところが、廻転と速度を半ばまで殺し、大気をわずかに一呼吸分ほど集めた所で、思わぬ横やりが入る。

 突然、順調に見えた大気の収集が滞り始めたのだ。未だ外気圏、背には庇を背負っている。ならば、極限まで薄くなっているとはいえ、存在はする大気を集められぬ道理はない筈だった。しかし、異変はそればかりに留まらず、廻転、速度の抑制にも支障をきたし始めていた。

 なにゆえに――と、黙してかんじた望月の視界に、ふと、天体が映り込んだ。


 地球である。


 蒼い、蒼い、生命の揺籃。

 天に投影されている庇とは、これまた別の趣。

 宇宙狂いの望月に取って、これ以上ない至極の光景――にも関わらず、この時の望月が胸裡に抱いた情は、感動とも、尊敬とも言い難いものだった。期待外れの見た目に失望したからでもなく、天海の操る大量の靈瑞みずが視界の一部を侵犯していたからでもない。

 厳密に、後者は遠因と呼べるかもしれないが、それだけであれば望月は地球の美しさに心を奪われたであろう。

 だが、揺るがぬ現実として、望月は地球観賞に浸れなかった。

 天海の操る靈瑞みずは、砕け散ったセーフハウスの瓦礫を受け止め、『宇宙船』で得た慣性も併用して追撃を試みていた。

 とはいっても、天海祈がそうである様に望月要人もΕエイフゥース、ひとりでは大なり小なり干渉力が拮抗してしまうのは目に見えていた。

 故に用意していた訳である。頼もしい『助っ人』を。


 この為、である。

 細やかな準備は全て、この為に――。


 地球観賞もままならなかった理由を述べる。

 望月は、セーフハウスの瓦礫にまじり、自らを猛追するを知覚してしまったからだ。そして、畏れた。



「謨吶∴縺ヲ縺上l縲√♀蜑阪�隱ー縺�?」



 暗黒物質をも振動させ、望月のに到達した悍ましき声音は、正面から迫りくる靈瑞みずに着座せし岩石遊星がんせきゆうせい鳳声ほうせいに他ならなかった。

 まるで、深海から水揚げされた得体の知れぬ生命の様な、生理的な拒否感を催す冒涜的で毒々しい形状。その処々ところどころから突き出した《刃》は、果たして……。

 畏れに呑まれる中で、望月は不意に理解させられた。

 コイツだ、コイツが私の試みを邪魔しているのだ、と。

 妄執にも近いこの刷り込みは奇しくも事実と符号しており、望月が自らに定めた『天体オブジェクト』の定義が揺らぎかけているのも、大気が集まらないのも、廻転、速度の抑制が滞っているのも、全ては岩石の如き生命ゆうせいが無差別に異能の干渉を撒き散らしている事に起因していた。

 尤も、この時の望月に、MCG隷下の研究者たちが見出した『深度優先則デプス・ルール』の存在など知る由もない。だが、目前に迫る生命の危機を看過できなかったが為に、彼女は発想と認識を飛躍させ、この状況下で選択し得る最適解へと至った。

 岩石遊星と、それを押し上げる大量の靈瑞みずが、2×10⁻¹¹天文単位AUにまで迫った時、望月は不本意ながらも謝意を奉じた。

 次の瞬間、視認すら困難な高速移動するが、岩石遊星の一部を鋭く、音も無くえぐった。


「菴輔□?」


 気勢を削がれた岩石遊星とは反対に、望月は著しく昂った。


「まさか、あの忌々しきスペースデブリがここで役に立つとはな!」


 それは、宇宙開発への深い憎悪が齎した処方箋――『対象體の変更』。

 岩石遊星の中心に強く食い込んだの正体とは、衛星軌道上を高速で周回するスペースデブリであった。

 時に、人工衛星や宇宙ステーションに衝突し、その機能をおびやかす為、度々問題視されるスペースデブリ、だが、望月が親の仇の如く忌み嫌う理由は別にある。

 そもそも、望月は人類の「宇宙開発」や「進出の野心」を強烈に批判しており、四藏匡人よつくら まさとが地下で見たような怪文書を常日頃から方々ほうぼうに送りつけているのだ。彼女に取っての『宇宙』とは、思索し、希うべき『概念』乃至『神』であり、神道的な『踏み穢してはならない聖域』という認識なのである。けして、単なる『地球の外』を意味する訳ではないのだ。

 そんな蛇蠍だかつが、ここに来て望月を助くとは随分と因果なものである。

 望月は、目に映る全てを嫌悪しながら、四方八方から誘引したスペースデブリを矢継ぎ早に差し向けてゆく。


「地に墜ちろ! 宇宙を穢す醜物しこものめ!」


 みるみる内に削られてゆく岩石遊星は、遺伝子に組み込まれた本能か、狂気の中に残った知性か、迫り来るスペースデブリ達に干渉力を注ぎ始めた。しかし、彼の《變換へんかんする》能力では、既に加速が付いている體を減速させる事はできず、形状の変化によって衝突時の威力を増すばかりだった。

 そして、最後のトドメとして誘引された、一際大きなスペースデブリを正面から受け止めた事で、岩石遊星は彼を押し上げていた靈瑞みずを引き連れて地球へと流れ墜ちる。


「やったぞ! 宇宙煢然けいぜんとしてわれ独り在り!」


 弛緩による絶頂を迎えた望月は、真に無重力空間を支配し、囚われた親友を腕の中に取り戻さんと、自らに与えた『天体オブジェクト』の定義を固めるべく能力を行使した。

 その時――視覚、触覚の訴えに異常を認識した途端、薬の恍惚感やオーガズム程度では到底味わう事の出来ない、かんばしき万能感と孤独感とが望月の脳を支配した。

 妙に、視界が開けていた。

 素晴らしく、素晴らしく。

 満天、満天の星たち。排気瓦斯はいきガスに穢れた大気、一定間隔で並ぶ電灯……あらゆる煩わしさが完全に除かれた、夢幻の無垢。

 星辰雲集せいしんうんしゅうし、又、無限夜天むげんやてん生動せいどうす。

 ひらけた展望の内、遅々として悟る。望月の認識を司る『天体オブジェクト』が、天に投影されていた『別地球』を突き抜けていた事を。

 それは得も言われぬ幸福であった。親友の窮状を、はたと忘れるほどに。

 思索が虚無に同化し、又、膨張する。曼荼羅のイメージ。紛いの脱我でなく、真の神秘的合一ウニオ・ミスティカ。だが、世界輪廻に身を委ねる快楽は、薬によって引き伸ばされた偽りの時間間隔に於ける出来事に過ぎず、長続きはしなかった。

 須臾の時を挟んで望月は液体に突っ込んだ。そこで、ようやく、望月は『宇宙船』の『操縦室』に勝手に乗り込んできた天海が消えている事実に辿り着く。

 あの女は!? と、半ば悟りながら振り返り、望月は傲岸不遜の上に座す天海の姿を見た。


「終わりだな、望月要人もちづき かなめ


 天海は、地球とを誇る靈瑞みずの球体を通じて、声を降らせた。

 その圧倒的なまでのスケールを前に、卑近な感性を取り戻しつつある望月は、俗っぽくも戦慄し、現状を打破すべく、自らと靈瑞みずに異能を以て働きかけた。が、時すでに遅し、天海は全ての仕掛けを終えている。


「――な、なんで!? 椛の薬が、こんなにも早く!?」


 靈瑞みずは、[望月要人]の有する穴という穴から内部に侵入、血中に混ざると、薬によってみだされていた機能を瞬時に[治療(D)]した。


「あっ、あっ、あっあっあっ……消える、消えてしまう……神秘の引力……私を、みんなを、等しく見下してくださる冷たき深淵の静寂が……! う、宇宙に居るのに! 景色が! 世界が! こんなに、こんなにも……遠い!」


 望月の認識から、宇宙のみならず遍く全てが遠ざかってゆく。

 引力を失った『天体オブジェクト』は、大気圏に突入した流星物質の様に脆く、海王星の放つ輝きの様に儚い。次第に、望月の定めた定義は綻びを生じ始め、四方から均等に掛かる靈瑞みずの圧に耐え切れなくなった。

 ギリギリまで防がれていた口中、食道、肺腑にまで靈瑞みずが満ち、なぜゆえに呼吸が出来ているのかすら不透明である。この段に至ると、もはや天海が直接に息を吹きかけるまでもなく、望月の生命の灯火は自動的に鎮火の一途を辿り始めていた。

 それでも、避けようの無い死を目前にしながら、ふと、望月の脳裏には驚くほど緩やかな時が訪れた。

 体温の羊水に浸る思考は、へし折れてゆく四肢に気付かず、窒息の苦しみを看過した。そこには、先程まで繰り返し語っていた突飛な思想や、死への恐怖はなく、夢にまで見た景色への特別な感慨もなかった。

 あるのは、ただ、郷愁。

 帰りたかった。

 唯一無二の親友、井手下椛いでした もみじの隣へ。

 そして、それ以上に。



「椛に見せて、あげたかったな……宇宙……」



 その言葉が、自らに捧げる弔鐘の音となった。

 音も無く、彼女の身体は旅行鞄ポートマントーの如く真っ二つにへし折られた。

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