1-3-4 レディ・バグ / 蟲喰 その3



 MCG機関に所属する転移系の能力者ジェネレイターは、一部の例外を除いて、皆『情報部』へと配属される。これは、想定可能なあらゆる局面に於いて有用な人材を、支部、或いは国の枠組みを越えて使い潰す為である。

 情報部へと配属され、研修を終えた能力者ジェネレイターの一日は、平常時、緊急時を通して人員や物資の輸送に費やされる。その絶対数の少なさと多忙さから、分類クラス・コードがREDであろうとBLUE、YELLOWであろうと、基本的には変わらぬ仕事量が割り振られるが、RED職員の申請によって発生した仕事は、同じくREDの能力者に回される傾向にあった。


 別地球を突き抜けて照る朝陽の下、人気のないQ-220地区内の空き地に転移してきた者が居た。

 彼女は、スイングバイ加速の着地による衝撃を地に蹲りながら抑え込み、背にした大きな黒いバッグを落とさない様に支えた。その首元に揺れる赤色の紐と職員証が、彼女の纏う浮薄な雰囲気に隠れ潜む「残忍たる狂気」を如実に示していた。職員証に記されし名は『赤樫浮葉あかがし うきは』。主に東京支部周辺の業務を受け持ち、“RED御用達の能力者ジェネレイター”として知られている。

 その身体から慣性が抜けきった後、膝の土を払って立ち上がった赤樫は、付近に待機していた依頼人を見留めて、挨拶をしながら歩み寄った。


「えー、灰崎炎燿サマ、お届け物でーっす」

「おう」

「今日はハンコもサインも要らないっすよ」

「そりゃあな」


 赤樫の軽口に苦笑しながら、灰崎は重いバッグを受け取った。その中身が、ひとつとして正規の手続きを踏んでいない事などは、灰崎も重々承知している。


「なあ、参考写真はあれで良かったか?」


 灰崎が尋ねたのは、ちょっとした懸念に付いてだった。前もって送っておいた写真が、果たして十全に働いただろうか、と。


「撮影した場所がちょいと暗かったから、心配してたんだ」

「んー、資材部の連中は何も言ってなかったっす。大丈夫なんじゃないすか?」

「……不安だぜ」


 今回の相手が相手だけに、準備にも手を抜けない。用意した『小道具』のデキが悪くて死んでしまいました……なんて、そんな結末は真っ平だった。

 逸る手に、バッグが開かれる。すると、薄暗い中に朧げな朝陽がいい角度で差し込み、収められた物品達が照らし出された。一見して、それらに大きな問題はない。

 暫く手にとって検分した後、灰崎はようやく胸を撫で下ろす事が出来た。


「……問題はねぇな。うっし、それじゃ」

「……ちょっち、待つっす」

「おん?」


 停めていたレンタカーに戻ろうと反転しかけていた灰崎の体が、赤樫の呼び掛けに反応して中途半端な所で止まる。


「なんだよ、赤樫。今日は別の仕事に向かわないのか?」


 情報部の多忙は灰崎も知っている。ひとつの仕事を終えた職員が、すぐにまた別の仕事へ向かう光景など常なのだ。従って「今日も赤樫は忙しいのだろうな」と灰崎は勝手に考えていた。おまけに頼んだのが正規の仕事でないとくれば、いたずらに仕事を長引かせるのも忍びなかった。そういった気遣いもあって灰崎は早々に別れを切り出したのだが、どうも今日に限っては事情が違うらしい。灰崎は、体を赤樫に向け直した。


「ええ、今日は帰って寝るだけっす。麻薬カルテルの件がようやく決着するみたいで――ってソレは置いといて、話があるっす」

「話?」

「ハイ」


 常に浮薄ふはくな態度を崩さず、夜と昼を区別しない激務の疲労を、影すら伺わせない彼女が、柄にも無く真面目くさった表情で「話がある」と切り出してきた。そんな異常とも言える態度を見せられては、灰崎としても気を引き締めて傾注の姿勢を整えざるを得ない。

 少し、呼吸を整えてから、赤樫は口を開いた。


「東京支部はどうか知らないっすけど、情報部は人とか出さない気配っすよ。前の時に付いてった情報部のヤツが死んでるんす」

「……なんだよ、その事か? みたいだな」


 赤樫の言葉に、灰崎は端的に返した。それは、先を促す目的の、相槌に近い言葉だったが、赤樫には事も無げな真剣味に欠ける態度に映った。


「――正気っすか? 相手はEエイフゥースっすよ」


 赤樫は少しばかり語気を強めた。が、しかし、灰崎にとっては今更な話である。警告は、彼女が期待した反応を引き出す事は出来なかった。


「つってもよ、こっちはタマ握られてるんだぜ、逆らえるかよ。それに、天海だって勝算がねぇのに遣いを出したりしねぇだろ。俺らを殺してぇならテメェでやれる」

「でも、失敗したら、多分、その――」

「分かってる! 天海だな」


 不安を言い募る赤樫を強引に遮った灰崎は、今度こそという心持ちで勢い良く踵を返した。


「ま、相手は十四のガキで、それも虐待児と来た。教育も満足に受けてねぇ。精神的に付け入る隙は山程あるだろうぜ。なにより――」


 言葉を続けながら、徐々に遠ざかってゆく広い背中を、赤樫は眉を顰めて見詰めた。


「今回は大っぴらに『生死不問』の仕事だ。余裕だぜ」


 灰崎は、レンタカーの後部座席にバッグを乗せ、自身も運転席に乗り込む。そして、ホテルで待つ匡人を迎えにアクセルペダルを軽く踏み込んだ。

 空き地を出る直前、ふとバックミラーを見遣った灰崎の視界に、赤樫の姿は映らなかった。



    *



「出発する前に、オメェの能力で何処まで出来るか知っておきたい」


 出発前、バッグの最終点検していた灰崎さんは、車に乗り込こもうとする俺を制して、唐突にそう切り出してきた。俺は、その言葉に込められた含意をすぐには悟れず、おうむ返し気味に返す。


「えーと、『何処まで』って言うのは……?」

「握れそうな物は手からはみ出ても大概取れるんだよな。前の仕事――じゃなくて『新人研修』で長い鉄パイプを取ったって言ってたし」

「はい、多分……」


 自信の希薄な返事をする俺。灰崎さんは、手に持っていた携帯をバッグの中に仕舞い込んで、代わりに茶色い丸いものを地面から拾い上げた。


「まぁ、ともかく、まずはこの泥団子を取ってみてくれ」

「はぁ、泥団子?」


 改めて、その丸く固められた物体を眺めた。

 なるほど、泥団子。しかし、なぜ?

 疑問は尽きなかったが、俺は余り深く考えずに、その泥団子を握り込んだ。すると、果然かぜんとして手中に収まった。持ってみて、初めて分かる重量感に、ちょっとばかし手が沈む。灰崎さんに右手を見せ付けると、彼は何やら頻りに頷いていた。


「ふーん、そんな感じか」

「……何か、分かりました?」

「おう。じゃあ、次はここら辺の土を能力で取ってみてくれ」

「土?」


 そう言ってるだろ、と何故かムスッとした態度を取る灰崎さんは、ぶっきら棒に脚元を指差した。その指先にあるのは、常日頃から俺達を支えてくれている「大地」だ。それも、アスファルトだとかの人工物による舗装もなく、土がむき出しになった地面。

 それがどうしたのか? と、いまいち察しの悪い俺を、灰崎さんが「はやくはやく」と急す。ここでゴネる意味もないので、取り敢えず言われた通りの場所を注視して、準備が出来たと同時に握り込んだ。すると、これまた案の定、手中には柔い土塊が現れた。掌に広がる少し湿った様な触感を遊びながら、能力を行使した地面を再度みやると、俺が注視していた箇所に拳大の穴が出来ていた。灰崎さんは、またも頻りに頷く。


「ふーん、全体が握れそうに無いとそうなるか」

「……?」

「まだ、分かんねぇか?」


 恐らく、間の抜けた顔をしているだろう俺に向かって、灰崎さんは意地悪く笑いながら今の目的を教えてくれた。


「今やったのは、“人体に能力を使った時”のシュミレーションだ。つまり、オメェの能力を人体に使うと、肉が拳の大きさぐらいエグれるってことだな。ははは!」

「うぇ……!」


 想像していたのより三倍くらい気持ちの悪い答えに、俺は手元の土を投げ棄てて、付着した土も払い落とした。そんな俺を見ながら、灰崎さんは益々笑みを深めたが、笑みを保っていたのは一瞬だけで、すぐに神妙な顔を作った。


「やっぱ、オメェの能力は危険だな。天海とかに言うなよ、今の」

「はぁ……? はい」


「今の」と言われても何の事だかサッパリだが、灰崎さんの迫力に押された俺は曖昧に頷いた。

 首肯を確認するやいなや、灰崎さんはサッサとレンタカーの運転席に乗り込んでゆく。追って、俺も助手席に乗り込んだ。


「じゃねぇとよ、意識とか認識にロック掛けられんぞ」

「ロック?」

「ああ」


 ハンドル横に差し込まれたキーが強く捻られ、年季の入ったガソリンエンジンが唸りを上げる。


「前に天海が俺を紹介した時に『諸々の処置を施した』って言ってただろ? 俺って前はⅣのΔダグスだったんだぜ。けど、今はⅢのΓギバ。規模を縮小させられた上に、認識もいじられて外国人とかの見分けが微妙に付かなくなってんだ」

「へぇ……」

「精神に作用する能力も抱え込んでるからな、MCGは」


 そういえば、昔の灰崎さんは、見かけた外国人を無意識に燃やしてしまうのだったか。まぁ、確かにロックでも何でも、何かしらの処置をしなければ到底社会生活なんて無理だろうし、仕方のない事なのだろう。かく言う本人も、どこか納得している様な態度だ。

 ところで、そのロックとやらは、俺には掛けられてないのだろうか。

 先日の新人研修で神辺さんに能力を披露してもらった時、彼女は「仕事中か生命の危機に瀕さないと使えない」と言っていた。これは恐らくロックが掛けられていると見て良いだろう。だが、俺は何でもない日常生活に於いても能力を使用できている。前に天海の放った紙の資料も、問題なく拾う事が出来た。

 ……その辺りに、俺は少しばかりの引っ掛かりを覚えたが、別に灰崎さんが言うほど封印を施すような大層な能力でも無いんじゃないか、と思うと妙に腑に落ちた。

 その時、普段より荒い車の発進によって、俺の意識は思考から現実へと引き戻された。否応なく、俺達の向かう先が土壇場である事実を自覚させられ、身も引き締まる気分だ。

 調査も既に六日目を迎える今日は、上野ダム職員達の証言から絞り込んだ地区を重点的に捜索し、あわよくば鹿刎番との接触を図る。

 無論、その目的は『対話』だ。


「いいか? 段取りはこれまでに何度も話した通りだ。俺が主導する。オメェは距離を取りつつ傍観して、万一の時、俺の合図でサポートしてくれ」

「はい」


 まず、俺達が鹿刎番に対してしなければならないのは『勧告』である。「我々に付いて来てくれないか」、「MCG機関は君を保護する」等々。文言は何でも良いが、これらに類する勧告を怠った場合、その後に職員が引き起こした損害の責任をMCG機関が保障してくれないおそれがある。勿論、問答無用で襲われた場合など、例外や情状酌量は存在する。

 この勧告によって、円満に解決するとは俺も灰崎さんも思っていない。資料によれば、鹿刎番は前回派遣されたMCG職員六名を殺傷しているのだから。


「鹿刎番は既に一線を越えている。何の躓きもなく大団円――なんて、甘い考えは捨てた方が良いだろうな」

「……」


 そして、言葉ばかりの勧告を済ませた後に、灰崎さんの主導で『対話』乃至ないしは『戦闘』へと移行する手筈だが、不安事項は此処にも介在する。

 この六日間、俺達はQ-230地区を中心に周辺を探り回ったが、ついに手にした鹿刎番に関する情報は極わずかだ。能力が虫に関係する可能性が高い事、おおよその居場所、そして彼女が歩んできた、いや、惨憺さんたんたる人生について……それも、彼女の両親からの口授されたのみである。

 現状を把握してみて、抑え込んでいた不安が段々とぶり返して来た。


「灰崎さん、今更になりますけど……相手はEエイフゥースですよ、天海と同じ。戦闘になった時、どう戦うんです?」

「弱点はある! Eエイフゥースに限らず変異者ジェネレイターに共通する弱点がな!」


 新人研修中、ずっと眠そうな感じだった灰崎さんが、初めて自信の表情を覗かせた。ハンドルを握る両手にも力がこもっている。素性も、得体も知れぬ謎めいた自信だが、その表情を見て、俺の心は幾らかの安心感に包まれた。


「オメェは天海とやりあった時に『“生命の象徴”だか“根源”である心臓を奪った』と言っていたが、これは大きなミステイクだ。奪うべきは脳だった」

「脳?」


 赤信号によって一時的に手隙となった灰崎さんは、自分の頭を指先で軽くトントンと叩いた。


「そうだ。“能力の根源”というより“全ての根源”が脳なんだ。全ては脳主導だ。能力を使用させず、思考する間も与えず、一瞬で脳を破壊する事。それだけが俺達の勝機だ」


 その間、誰も横切らなかった信号がパッと青を点灯させた。レンタカーが再発進する。


「殺害でなくとも……昏睡とかではダメなんですか?」

「可能かも知れねぇ。けど『手加減』なんてのは強者の特権だ。忘れろ」


 脳を破壊する事のみを考えるんだ、と灰崎さんは繰り返し繰り返し、絞り出す様に言った。

 認めると、重圧に押し潰される錯覚に陥る為、今の今まで目を背け続けてきたが、Eエイフゥースという巨大を前にして俺達は相対的弱者だ。しかし「弱い」という事実が必ずしも「敗北」と関連付けられている訳ではない。

 相手は人間、謂わば肉の塊だ。

 それを脳が神経を介して動かしている。

 ならば――付け入る隙は、ある。


「匡人よぉ」


 思考の外から、灰崎さんの落ち着いた声が響いた。


「……ヤツに同情してるか?」

「はい、まぁ……」

「否定はしねぇ。俺だってカワイソーとは思うぜ?」


 表情を全く変えずに、灰崎さんは平坦な声音で俺に同意を示した。

 場に感傷の雰囲気が流れる。

 が、すぐに血なまぐさい会話に塗り替えられた。


「重ねて言うが出血死とかは現実的じゃない。狙いは即死、脳だ。なぁ、オメェの能力はどれくらい連続で使える?」

「握って、開く、という動作だけなら瞬き程の時間も掛かりませんが、実際のところ連続使用は数秒ぐらい間を置かないとダメですね。どういう原理か知りませんが」


 これは感覚的な話になるのだが、一度握ると、手中に溜まっていた力の様なものが抜けてゆく感じがするのだ。そして、それが戻るまでまでは能力を使う事ができない。全くの謎である。


「原理については学者共が研究するだろ。しかし、それなら脳や頭部を狙うのは不安が残るな。もしかしたら、頭蓋骨までしかエグれないかもしれん。そうなると効果は薄そうだ」

「ですね」

「よし! オメェは能力で眼球か足を狙って機動力を削げ。トドメは俺がやる」


 楽しそうに汚れ役を担った灰崎さんは、胸元を、MCG制服の内ポケット辺りを軽く叩いた。その姿は、けっこう様になっていて、実際たのもしく感じる。良い意味で先輩風がぶいぶい吹いている。だが、そこに収められている凶器の事を思うと、少し憂鬱だ。使わずに終わればいいと、心底から願う。

 そんな俺の複雑な期待を知ってか知らずか、灰崎さんは気まずそうに「ただ――」と、口をまごつかせた。


「俺ってヘタクソなんだよなぁ。外しても文句は言わないでくれよ?」

「……言いませんよ」


 言うとしても、あの世で再会した時になるだろう。



    *



 数時間も森を彷徨い歩いて、俺達は遂に彼女に出会えた。

 奥神流湖おくかんなこに注ぐ沢の一条いちじょうは、崖に三方を囲まれた天然の袋小路に端を発していた。その源流点げんりゅうてん岩清水いわしみずを枕に、周囲にこけ石塊いしくれしとねに、件の彼女、鹿刎番しかばね つがいは薄汚れたブルーシートを引っ被って寝転んでいた。

 まるで、六条河原の死体とばかり。

 しかし、良く見ればそうではないと嫌でも気付く。

 ほつれたブルーシートから突き出る石膏の足先は身動ぎ、蒼白に至るまで漂白された頬裏ほほうらには血潮ちしおが脈打ち、身を包む掛蒲団は上下に浅い呼吸を繰り返している。

 マトモな神経なら即座に通報するか、或いは返って捨て置くであろう光景を前に、俺は若干ばかし怯んだ。しかし、灰崎さんは、森の澄み渡った空気を肩で押し切りながら、ズンズンとその者へ近付いてゆく。その姿に勇気づけられた俺は、サポートの役目を果たすべく、灰崎さんの右後方で一定の距離を保ちながら、ありとあらゆる状況を想定して追随した。

 ――と、その時、不意にブルーシートが持ち上がり始めた。

 灰崎さんの足が、遅れて俺の足が、止まる。

 むくり――と、気取らぬ動作で身を持ち上げた鹿刎番は、節足動物の足の様に角張った長髪の中心から、正面に仁王立つ灰崎さんをしかと見据えた。


「――何の用かしら」


 鈴の音が鳴るような冷え切った声音が、木々の間を通り抜けゆく。

 初っ端から漂う険悪ムードに、胸が押しつぶされそうになる。しかし、頼もしい灰崎さんはそれを見事に跳ね除けて、平静に返してみせた。


「対話だ」


 そして、ここに至るまで「ひいこら」と言いながら背負って来た、馬鹿に大きなバッグを地面に下ろし、その燃えるような瞳をカッと開いて鹿刎番を品定めした。


「また、来たのね」


 鹿刎番は灰崎さんの視線を鬱陶しげに振り払って、おまけとばかりに俺の方をチラと見た。


「……ああ、だな」

「帰れ」

「『勧告』は……済んでいるのか? 一応言っておこう、我々の目的は君の保護だ、共に来てくれないか」


 執拗に俺達を厭う鹿刎番を無視する形で、規定に従った『勧告』が発される。

 ここまで、灰崎さんの選択した言葉に大きなミスは無いように思えた。だが、思いがけない事に、言葉でのやり取りに応じてくれたかに見えた鹿刎番が、突如として激昂した。


「人間風情が……! どの口から汚物を垂れ流しているッ! わきまえよッ!」


 鹿刎番は、所構わぬ怒声を撒き散らし、褥がわりの石塊を蹴飛ばして跳ね起きた。掛蒲団がわりにブルーシートが空に翻ったかと思うと、彼女の身に纏わった。

 それが、合図だった。

 異変は、まず周囲の環境に現れた。

 木々がどよめき、草花が囁やき、大地が吠えた。身の毛もよだつ天変地異の様相に、生存本能がけたたましく警鈴を鳴らす。だが、この災害めいた現象の数々が、単なる余波に過ぎない事を、俺達はすぐに知る事となる。

 自然が発した叫びは、更に遠方より現れたに覆い隠された。やはり、鹿刎番の能力は、想像した通り《虫》に関するものらしい。

 全方位から、大音量の羽音がじりじりと迫り来る。それに対して、否応なく抱かされる悪感情は、入眠前に聞くそれの比ではない。周囲を注意深く見渡しても、影すら見当たらない事が更に拍車をかけた。

 限界だ。

 そう考えた俺は自己判断で介入しようと踏み込んだが、灰崎さんは何の合図も出さないばかりか、「とどまれ」と打ち合わせにない手で制する様な仕草を取った。

 一体、何を考えているのか。灰崎さんはそのままの姿勢で動かない。冷汗と共に吹き出した不安が、俺の足場を不確かなものと錯覚させる。だが、灰崎さんに気を取られて、タイミングを逸してしまった俺は、不承不承だろうとその場に留まらざるを得なかった。


「此処に居るという事は、私の能力チカラも知っているだろうッ! 相応の覚悟があって来ているのだろうなッ!」

「急にキレんなって『対話』に来たと言ったろ。オメェをどうこうしようって訳じゃねぇよ」


 小さい体躯から血気盛んに吠える自然災害エイフゥースを前にして、何故か余裕綽々な様子の灰崎さんは、徐ろに地面のバッグに腰掛けると「知ってるか?」と尊大な赴きで宣った。


「最近、巷じゃ『不作』ってのが悩みのタネらしいぜ」

「……それがどうした。帰れッ!」

「なんでも、虫が葉っぱから何から食い荒らすんだとか! 心当たり、あるだろ?」


 灰崎さんの盛んに煽り立てる様な口調に、聞いているこっちの肝が冷える。

 果たせるかな、鹿刎番は不愉快そうに顔を歪めて、ブルーシート越しにも分かるほど肺腑を膨らませた。


「知ったことではない! 自然を顧みぬ破壊的な人類の生活事情などッ!!」

「や~っぱ、オメェさんの指示か」

「指示? 私は虫達に餌の在り処と生存の術を教えた。唯、それだけの事!」


 周囲の羽音から抜け出してきた、一匹の大きな黒い虫が、彼女の差し伸べた手にとまった。『会話』でもしているのか、一人と一匹はじっと見つめ合う。そういえば、天海も過去にこう言っていた「水に頼んでいるだけだ」と。その辺り、Εエイフゥースにしか分からない独特の感覚が存在するのだろうか? 黒い虫は、すぐに彼女の手から飛び立った。

 鹿刎番の言葉を受けて、灰崎さんは暫く考え込む様な顔付きで頻りに顎を撫でていたが、急に、パッとその手を離した。


「なぁ、おい。オメェ『人間は自然を顧みない』って怒ってるけどよ、田畑は自然の範疇に入ってねぇのか? 農家のじじいは結構、困ってるんだぜ?」


 こんな時に、いや、こんな時だからこそ、灰崎さんはそこが気になったらしい。

 一切、悪びれない態度の方ではなく。

 日常生活の中で、ふと思い至った疑問を尋ねる様な、軽い調子の問い掛けに対して、彼女は嘲笑まじりに鼻を鳴らして答えてくれた。


「農耕は自然破壊だろう」

「あぁん? なに、あれか? 全面有機栽培とかに切り替えろってか?」

「――違う!」


 灰崎さんの言葉を断ち切る様に、鹿刎番の振るった手が空を切り裂く。弾けた甲高い怒気に応じて、俺達を取り巻く羽音もより一層激しさを増し、頭上に小さな影が無秩序に飛び交い始めた。


「商業主義的な小手先の宣伝文句を言っているんじゃあないッ! 『農耕の本質が自然破壊だ』と言っているのだ! 開墾からしてそうだろう! 木を切り倒し、根を掘り起こし、草を毟る。これが自然破壊でなくて何だというのだッ!」


 彼女の訴えかける様な叫びに、俺は「そうかもしれないな」と思った。

 今まで、環境なんてもの関心の欠片も抱いて来なかった俺の感想など、大した価値は無いかも知れないが、そうと言えなくもないと思う。しかし、、現在の技術水準では農耕は避けられない。改善に取り組む姿勢は必要だろうが……。

 灰崎さんも似た意見だったようで、ハッキリしない口調で物言いを付ける。


「……安定した食糧供給源の整備の為、致し方ない事だ」

「フン、人間が今まで虫の事情を汲んで来なかった様に、虫だって人間の事情を汲まんさ、それだけの事! 人間なんぞ、亡びるが地球ほしの為。文句を言うな」


 消極的ながら、人類滅亡を願う鹿刎番。それも、仕方ないのかもしれない。まるで取り付く島も無いな、と俺は思ってしまったが、灰崎さんはそれでも会話を途切れさせない様に曖昧な言葉も織り交ぜて続ける。


「じゃあ、アレはどうなんだ? アレ。えーっと……桜の木が枯れてたぜ。虫による食害でな。これはどうなんだ?」

「日本にある桜は大半が園芸種! 人間が歪めてきた自然の象徴的存在だッ!」

「へぇ……」

「無駄話は終わりだッ! いい加減に帰れ!」


 子供しては含蓄のある彼女の返事に、灰崎さんの顔が好奇に似た色で染まる。

 灰崎さんは、「よっこいしょ」という親父臭い掛け声を出しながら、バッグから尻を持ち上げて、うんと腰を伸ばす。


「全く、小学校も行ってねぇってのに、お利口なこって」

「……っ!」


 丘壑きゅうがくに住み着く幼い隠者は、灰崎さんの口からポツリと漏れた一言から、不躾なが入った事を悟ってしまったらしい。その表情は、さっきまで満ちていた「怒り」とは別の、なにか、形容し難い複雑な情感を呈している。

 その時、灰崎さんの後ろ手に「接近」のサインが出た。少し、遅れて気付いた俺は、灰崎さんは見ていないだろうが取り決め通り「了承」のサインを返し、突き刺さる複眼を無視して、ゆっくりと近付きはじめる。

 この「接近」という指示には重大な含意が隠されている。

 その意とは、作戦パターンCへの移行――つまり『対話の継続』である。このサインが出たなら、俺は状況に応じてバッグの中身をかわりに取り出す役目が与えられる。

 作戦パターンA、Bの「吶喊」、「遁走」よりは安心できる展開であるが、気懸かりは依然として存在する。

 その中身とやらを、俺は詳しく知らされていないのだ。

 ただ、「白い布に包まれている、デカイの」とだけ。

 ……しかし、元より出たとこ勝負の心意気。信じるしかない。


「しっかし、惜しいなぁ、実に惜しい」


 血気の薄れた鹿刎番に向かって、灰崎さんが畳み掛ける。俺の行動に注意を払わせない為だろうか。俺は、なるべく鹿刎番に警戒させないぐらいに足をはやめる。


「特に農耕が自然破壊ってのは良い観点だ。最近は『不耕起栽培』なんてのもある。不耕起ってのは耕起をしない、つまり土を掘り起こさない栽培法だな。後は『塩類集積』とか、そういう議論も盛んだしよ、主張自体は的外れじゃない。だが、如何いかんせん――『後付感』が拭えないんだよな。恐らく、発想の出発点が別にある筈だ、環境保全なんかではなく、別の」

「……何が言いたい」


 彼女も何とか言い返すが、その語調は弱々しく、後半は震えてすらいた。

 分かりやすい虚勢。だが、ここでヤケになられでもしたら、俺達はすり潰されて死ぬだろう。

 それでも灰崎さんは、更にギアを上げてマシンガンの様に捲し立てる。


「いやぁ『仕方なく』って感じなんだよ、虫を食わせてゆく為に『仕方なく』農耕が自然破壊だという事にしたんじゃないか? だってよぉ、オメェは、さも『人間だけが自然破壊行っている』と言わんばかりだが、それこそ人間至上主義にも程がある。虫だって、環境に良い影響と悪い影響を受けて与えて何だかんだ生きてんだ。そこん所はどうなんだよ」

「そ、それは……」

「……オメェ、『虫以外はどうだって良い』って思ってるだろ?」


 灰崎さんが最後に言った指摘は、彼女が一瞬だけ見せた切歯扼腕せっしやくわんの反応を見るに、恐らく図星なのだろう。

 そのやり取りに紛れて、ようやくバッグにまで辿り着いた俺に、小声で「開けろ」と指示が飛ぶ。俺は、不発弾の様な鹿刎番を刺激しないよう、細心の注意を払ってバッグのジッパーに手を掛けた。


「はっ、動物の権利アニマル・ライツならぬ虫の権利バグ・ライツ。過激な個体主義者インディビジュアリストってトコか?」

「……名前を付けるな、枠に嵌めるな」

「本当は自然がどうなろうと、どうだっていいんだよな。虫さえ栄えれば満足なんだろ? なんで嘘をついたんだ?」

「黙れっ」


 バッグの中に蟠っていた暗闇を切り裂いて、白い正絹しょうけんの包みが姿を現した。白い布、これが例のブツなのだろう。中に包まれているのは硬質な手触りからしてガラスケース、サイズはバスケットボールを並べて二個も入りそうな大きさだ。

 そこそこの重量感を持つそれをバッグの中から取り出すと、灰崎さんは、すっかり勢いを削がれてしまった鹿刎番を更に詰めながら、「待機しろ」と新たな指示を小声で出してきた。


「オメェの手助けで無尽蔵に虫が増えれば、それは生態系の崩壊を招くだろうぜ。人間がそうだった様にな」

「――ッ!」

「オメェは自分自身も人間だってコトを忘れてんじゃねぇのか? 何の権利があって虫の代表ヅラしてんだよ。嘘の理由も聞きたい。『後付感』も『仕方なく』も俺の感想だからな」

「私、は――!」

「ここまで言ってまだ認めないのかッ!?」


 言葉を紡ぎ出す事が出来ない鹿刎番を見て、灰崎さんは仕上げとばかりに声を張り上げた。


「この場に於いて! 最も自然を軽視しているのはオメェなんだよ!

 認めちまえッ! 主張の矛盾を!」


 灰崎さんが捲し立てた言葉の、どれが誘因になったのかは分からない。だが、対話に進行に従って鳴りを潜めていた激情が、ここに至って最高潮に達したのは確かだ。


「――私は特別なんだッ!

 選ばれたんだッ!

 他の誰でもないッ! 私なんだッ!」


 鹿刎番は、身を包んでいたブルーシートを剥ぎ取った。

 その下に、彼女が纏っていた衣服らしい衣服というのは、擦り切れたサイズの合っていない子供服のみだった。それが実に見窄らしい色合だった為、始めの内、俺の目は空に待ったブルーシートの青いちらつきに奪われていた。しかし、それほどの間を置かず、彼女の胸部から腹部を覆う黒い蠢きに気付いてしまうと、心ならずも、視線はそちらへ釘付けとなる。


「食事も排泄も必要ないッ!

 新陳代謝を超越したこの完璧なからだを視ろッ!」


 黒い蠢きは、生命活動を肩代りする歯車パーツの廻転だった。柔肌のを這い回る彼らは、個々の役割を十全に果たさんと懸命である。

 その向こう側で、かすかに見え隠れする艶かしく萎縮した物体群は、果たして役目を終えた臓腑だろうか。

 ――今、俺の頭に過るのは、当人が言うように虫主導でも、灰崎さんの言うように脳主導でも、真実がどちらであろうと両親の証言に矛盾はない、という場違いの理解だった。


「虫の意思こそ私の意思ッ!

 逆もまた然りッ! これが答えだッ!」


 生命体の境界に大きく踏み込んだ彼女の姿を見て、暫し呆然としてしまっていた俺だったが、頭上から響いた、調子のかわらぬ灰崎さんの声を聞き、慌てて気を張り詰める。


「ほほーぅ、なるほどね……『恩返し』、それがオメェの信奉する正義か。いいんじゃねぇの、真っ当だよ。だが、主張の矛盾はまだ存在するぞ」

「もう話す事はないッ!」

「俺にはある。説明を聞きたいぜ」

「帰れッ!」


 膨らんだ嫌気を受けて、彼女の皮下に見られる無数の突起が、ドクンと一斉に脈打った。すると、羽音の包囲が急激に狭まり始め、のっけの清閑は何処へやら、場には不穏だけが立ち籠める。

 俺は「指示の無い内に勝手な行動はするな」と厳命されている。横目に灰崎さんを見やれば――そこには、依然として打ち合わせにない「待機」のジェスチャーが明示され続けていた。

 用意した「これ」はまだ使わないのか!?


「でなければ――殺すッ!

 人間を殺せる虫ぐらいお前も知っているだろうッ!?」

「ああ~……殺されちまうのは困るな。じゃあ、こういうのはどうだ?」


 黒一色に塗り替えられつつある周囲の景色には目もくれず、灰崎さんはズボンのポケットをまさぐり、中で握り込んだ“何か”を見せ付ける様に正面へ突き出した。

 それを黙って傍観している程、余裕のある鹿刎番でもない。彼女が瞬発的に衝き動かした右手に導かれて、複数の黒い影の塊が四方から同時に飛び出した。黒い塊は、予想の二段階上を行く速度で灰崎さんの手中から何かを奪い取り、主人に衝き動かした右手に恭しく献上した。――ころん、と彼女の手中に転がったのは、小さなガラス瓶であった。鹿刎番はほんの僅かに首をかしげるが、俺には見覚えがあった。

 昨日の夜、鹿刎番の両親から話を聞いた後、俺は「どうやって父親を昏睡させたのか」と問うた。それに対して、「REDだと支給品とかの面でも不遇だからな~」とボヤいた灰崎さんが見せてくれた中に存在したもののひとつだ。曰く、「密輸品」と。

 遠目にも分かる、巻きつけられたラベルの、厳めしい明朝体の印字。

 まさか、本当にそれを持ち出すとは思わなかった。

 黒い影の塊と接触した灰崎さんの右手から数滴の鮮血が垂れる。だが、灰崎さんは痛がる素振りも見せずに口を動かした。


「油脂系の焼夷剤だ。手製のな。ナパーム弾とか聞いた事ぐらいあるだろう?」

「ナパーム……?」

「おっと、歴史は未修か?

 そろそろ、手を離した方が良いと警告するぜ。3、2、1――」


 ――ゼロ。


「――ッ!」


 寸前に危機を察した鹿刎番に投擲されたガラス瓶が地面に接触、破砕、それにより周囲に飛び散った内容物――ドロドロとしたゲル状の液体――が、突如として勢い良く燃焼し始めた。

 初めてマジックを見た子供の様に驚く鹿刎番だが、俺に取っては予想通り出来事である、本当にやるのかという驚きはあるが……。文字通りの火付け役である灰崎さんも、ごく平静な面持ちだ。

 しかし、この発火が、砂漠か採石場での出来事ならともかく、草木の生い茂る山奥なのがマズイ。ナパームが、ただ勝手に地面の上で燃え盛る分には、ゆっくり火が尽きるのを遠巻きに待てば良いが、具合の悪いことに、幾つかの飛沫の行き先に樹木が存在していた。ナパームの燃焼温度は極めて高く、900~1300度にまで達する。対し、木材の発火点は260度だ。水分を含む生木とはいえ、水が100度内外ないがいで蒸発する事を鑑みれば――は、当然の帰結であった。

 延焼が、広範囲に於いて同時多発的に発生した。

 目に見えて、鹿刎番が大きく狼狽える。

 子供らしい悲鳴を上げた彼女は、虫を操る事も忘れ、寝床の隣に置かれていた、常用の跡が伺えるくすんだ陶器のカップを手に取り、背後で湧き出ていた岩清水をすくって近場の火にぶちまける。

 だが――それではダメだ。

 幹を滴り落ちる水の下、ナパームはなおも燃え盛る。


「き、消えない!?」

「無駄だぜ、木材部はともかく、ナパームはそれじゃあ消火できねぇ。アメリカの反戦団体がちょっとばかし騒いだのも分かるだろ? ナパームにはごく有りふれた消火手段である『水』が通用しねぇんだ。騒ぐ理由は、他にも酸素を大量に消費するとか色々あるが……ま、とにかく、付着すると大惨事って訳よ」


 ナパームの特性を説明しながら、灰崎さんは早足で木の幹に歩み寄り、今はまだ小さな延焼に留まっているナパームの飛沫たちに、次々と右手を翳してゆく。すると、あれだけ燃え盛っていた火が瞬時に消え失せる。

 そうして、全ての飛沫を処理し終えた灰崎さんは、「ふぅ」と息を吐きながら、ゆっくりと俺の居るバッグの元へ戻って来て、再び鹿刎番と相対する。


「だが、俺だけは消す事が出来る。理解したか? ここからが本題だぜ。俺達は、このナパームを周囲の山に設置してきた。大量に、それも撒き散らす為の爆薬と一緒にな」


 言うまでも無いかもしれないが、灰崎さんの言葉は嘘だ。ナパームは支給品をガメたものだと先ほど述べたが、そうせざるを得ない程にREDは冷遇されているのだから、山を全て焼き払える量のナパームなど用意できる筈もない。加えて言えば、設置する時間もなかった。

 今さっき、灰崎さんがナパームを鎮火してみせたパフォーマンスだって、恐らく、直接に手で触れなければ出来ない芸当だろう。彼の階位フェーズはⅢのΓギバであり、これは距離減衰が激しいと神辺さんから学んだ。森全体に火を撒き散らすなんて取り返しの付かない事を、灰崎さんはしない。


「時間とスイッチで起爆するぜ。まさに、木も、草も、虫も、オメェも、俺達も、みーんな燃えちまうだろうな」

「デ、デタラメを……!」

「じゃあ、殺せばいいだろ。俺を」

「くっ……!」


 灰崎さんの挑発に、鹿刎番は悔しそうに歯をむき出しにして、言葉をつまらせた。


「はっ、できねぇよなぁ! オメェが虫の事を大事に思っていて助かったぜぇ? 人質ならぬ虫質むしじち――ん? 羽音が減ったな、捜索にでも出したか?」

「……」


 無言は、往々にして消極的な肯定を意味する。俺に取ってそうだった様に、灰崎さんにとっても、彼女が虫を捜索に出す事は想定の範囲内だったのだろう、すぐに「まぁいい」と呟いて気を取り直した。


「これで時間はできた」

「……何の時間だ」

「『対話』の時間さ。

 死にたくなければ――虫を殺したくなければ、付き合ってもらうぜ?」

「くそっ……」


 灰崎さんが振り返って、立ち上がるようにジェスチャーを送ってくる。俺は、白い正絹の風呂敷に包まれた重量感のある何かを抱えながら、腰を伸ばして立ち上がった。


「さてと、随分タイミングを逃し続けちまったが……出番だぜ、匡人」

「やっとですね?」


 俺に灰崎さんを責める事は出来ない。対話が探り探りで進められた事は承諾済みである。むしろ、此処まで持ってきた手腕を、俺は褒め称えたいとすら思う。


「ああ、その中身を見せてやれ。しるしがあるだろう? そっちが鹿刎番の方向だ」

「分かりました」


 ゆっくりと、可能な限り刺激しないように努めながら、鹿刎番へと歩み寄る。だが、忍び足の一歩ごとに彼女が示す過敏な反応を見る限りでは、あまり効果は無かったのかもしれない。


「そう構えるな。友好の品だ」

「信用できるかっ」

「じゃあ、こうしよう。間に見える様に置くだけ。爆発なんてしないぜ? したら、俺達も死ぬだろ」


 丁度、中間地点にまで辿り着いた俺は、腰ほどの高さで天辺が平らな岩に荷を下ろし、黒い油性ペンで書かれた雑な手書きの印を鹿刎番の方へ向けた。そして、キツく結ばれた上部の結び目へと手を伸ばす。それにタイミングを合わせて、灰崎さんが口火を切った。


「論理矛盾の話を覚えているか? 俺は、オメェの言う自然破壊が唯の戯言でしかない事と、虫の代表ヅラを決め込む浅はかさを指摘したな。んで、『それ以外にもある』とも言った」


 さほど手こずる事なく結び目をほどき終えた俺は、最終的な意思確認の為に背後を見遣る。視線の交錯後、灰崎さんは力強い表情で大きく頷いた。

 此処まで来れば、灰崎さんと運命を共にする覚悟だ。


「これは、ずっと疑問だったんだよ。オメェと話す前から」


 荷の上部を覆う白い正絹を掴み、一気に取っ払う――。


「うっ、オエっ、うぇ……」

「なぁ……なんで親をぶっ殺してねぇんだ?」


 鹿刎番が嘔吐する。


 途端に乱れ始めた黒い蠢きの向こうには、萎縮した器官達も細かく攣縮れんしゅくを繰り返す様がありありと伺える。

 俺の眼下には、はためく白から顕現した予想通りのガラスケースが、おぞましくも静かに鎮座していた。「バスケットボールが並んで二個入る大きさ」と俺は言ったが、を収めるのであれば、これほどの大仰さは不要だった。この、バスケットボールと比べたら幾らかスリムな二級にきゅうを収めるのであれば、もう少し小さくとも事足りただろうに……。

 これでは、両側の空きスペースが可視性を高めていて、とってもじゃないか。


「おいおい、胃液すら満足に出てねぇぞ? ちゃんと食ってんのか? あ、食事はいらないんだっけか」

「ぐっ、はぁ、はぁ……はぁ……」

「――で、何で殺してねぇんだよ。親だけじゃねぇ。人間全体も、俺達も、何でさっさと殺さねぇんだ?」


 ガラスケースの底にガッチリと固定されている二級は、共に見覚えのあるカーキ色をしていた。右の長髪も、左の短髪も、昨日の今日なのだから覚えているに決まっている。

 そして、見覚えがあるのは鹿刎番とて同じだろう。

 だから、彼女は嘔吐した。


「勝手だが、オメェの人生は調べさせてもらったぜ」


 背の低い岩を椅子代わりに腰掛けた灰崎さんは、「う~ん」と喉を鳴らしながら首を回す。そして、腰を労る様に撫で付けながら、ここに来た当初は燃え盛る様だった瞳を半目に覆い隠して、地に蹲る鹿刎番を眠そうに見おろした。


「母親には愛されず、父親には疎まれ、自由を知らず、青空を知らず……ましてや“おふくろの味”なんて露も知らず、口中に溢れた血だけを舐めながら、きばんだ万年床の上で嬲り殺された……しかも、自分がひった糞にまみれて。なんとも、憐れな人生、「不憫」の一言だ」


 灰崎さんは喋り散らす。傍で聞いているだけの俺まで底冷えする様な、感情の全くこもっていない声音で。

 鹿刎番は、息も絶え絶えに、震える首を振り上げた。


「……し、死んでない……殺されてない……

 ……私は、虫に助けられて、選ばれて――」

「ああ、そうだな」


 苦しみの中からひり出された彼女の言葉を、灰崎さんは無感動に肯定した。


「オメェは幸運にも異能に目覚めた事で生き残った……だが、恨めしく思わないのか? 自然を貶め、虫をなみし、オメェ自身のさえ侮辱し、真夏の人造湖へ無責任にオメェを投棄した人間共を恨めしく思わないのか? 全く? これっぽっちも?」

「はぁ……はぁ……」

「『法的規制』『社会通念』『公衆道徳』――オメェは現代人の行動を縛る汎ゆる『固定観念』から解放された存在なんだ。オメェの能力なら、それこそ羽虫を叩き潰す労力で人間を殺せる。だのに、なんで、自分を殺した奴すら殺してねぇんだ!? 奴らはオメェが生きてる事すら知らなかったんだぜ!?」


 俺は、灰崎炎燿という人物がすっかり分からなくなっていた。

 今、彼はどういう心境なのだろう。分からない。けれど、最後に声を荒げたのが、彼の人間性の発露だと信じた。


「で、できない……できるわけがない……! そんなこと……!」


 石塊に生す苔の上に、数滴の涙がこぼれおちた。前後して、震える嗚咽の声が何処からともなく響き出し、流れ出る岩清水の音と重なった。周囲を取り囲んでいた羽音は、何時の間にか消えていた。


「だろうな、だから殺しといた。これが俺達の気持ちだぜ、受け取ってくれよ」


 それが追い討ち、いや、トドメだった。

 三方の崖に、幼子の啜り泣く声が木霊した。その人類種の本能に訴え掛ける様な不快な音色に、俺達は黙りこくって聞き入った。


「ああ……減ってゆく……あんなに賑やかだった虫たちの声が……」


 前に、灰崎さんに聞いた『位階深化フェーズシフト』が起こっているのだろう。彼の場合は深化だったが、彼女の場合は恐らくその逆。自らの胸裡に誇っていた正義の立脚点を見失った鹿刎番は、一時の感情によって到達していたΕエイフゥースのから浅化したのだ。

 最早、俺達の眼前で石塊の上に蹲っているのは、かつて肉親に暴行を受けた事によって生死の境を彷徨っただけの、唯の子供でしかなかった。

 彼女の胸部から腹部を覆っていた黒い蠢きが、徐々に減ってゆく。彼女が、どの程度まで身体機能を虫に肩代りさせていたか、それは定かではないが、変わらず泣き続ける姿を見るに、直ちに影響はない様だ。それに、未だ何十匹かは引っ付いたままである。

 驚異は去った。

 だが同時に、場は嫌な膠着状態に突入している。

 今ならば、『それこそ羽虫を叩き潰すほどの労力もかけずに』決着を付けられるだろう。俺達の勝利は、灰崎さんの懐に収められた銃を使って数発の鉛玉を叩き込むだけで得られる。

 手持ち無沙汰に灰崎さんを見遣ると、彼は唐突に「よいしょ!」とわざとらしい程の大声で掛け声を発して立ち上がった。俺に介入の意思が無いのは、灰崎さんも分かっていたと思う。

 灰崎さんが泣かした子供なのだから、灰崎さん自身に泣き止ませてもらわないと。


「――なんてな! 嘘だよ! 顔を上げろって!」

「……へ?」


 先程までの重苦しい雰囲気を取っ払って、急におどけ始めた灰崎さんを、鹿刎番は虚をつかれた様な締まりのない顔で見上げた。その、涙と鼻水に汚れた顔を見て、最初は作為的であった灰崎さんの笑みが、自然体に近いものへと変わって行った。


「匡人、ガラスケースを開けてくれ」

「開くんですか?」

「開くだろ、多分。どうやって入れんだ」

「そりゃあ、そうですね」


 開かなければ、壊せばいいだけの話か。俺は、灰崎さんの笑みの中に強い意思を感じ取り、了承の意を告げながら大きく頷いた。


「……なんのこと……なにを言って……?」


 目元に涙を湛えながら、困惑の表情を浮かべる鹿刎番を余所に、俺は、ケースのガラス部分と底のプラスチック部分を固定していた留め金を外し、カーキ色の二級を外気に触れさせた。

 しかし、こうして遮るものがなくなると、途端に安っぽく感じるのは気の所為だろうか。美術館にある物は美術品らしく見える現象と同じ類か? そんな事を考えながら、短髪の方を手に取ってしげしげと見入っていると、灰崎さんが「パスパース」と軽薄に要求してきたので、本物の頭部よりは軽いそれを、片手で放り投げた。


「『資材管理部、入魂の作』ってな、裏に書いてあるぜ。よく見ろよ、生首だってのにけっこう顔色が良いだろ。生きてる時を参考に作ったからだぜ? つーか、意味もなく人殺しなんてする訳ないだろ。MCGは『正義実現』を標榜するメチャンコ真っ当なホワイト秘密機関なんだぜ!」

「ど、どういう、事……?」

「まだ分かんねぇのか? こういう事だよッ!」


 灰崎さんは、生首を思い切り振りかぶり、地面に叩きつけた。その正体に気付いていても、思わず目を背けそうになるほどに不謹慎きわまりない光景だったが、真っ二つに割れた断面から覗くのは、砕けた頭蓋骨でも、うどん玉の様な脳でもなく、プラスチックっぽい質感の肌色一色である。それを見て、ようやく鹿刎番もガラスケースに入っていた二級の生首が作り物であると悟った様だ。


「そう……なのね、良かった……」

「良かった? 死んでた方が喜ぶと思って作ってきたんだぜ」


 そう言って、灰崎さんはゲラゲラと不謹慎に笑い飛ばす。


「そんな訳……無いじゃない……」

「ははは。ま、そこがオメェのやってる事といってる事の矛盾ってワケだ」


 人間が有害だと分かっていて、排除が容易である。ならば、自身の正義に従い、理想実現に向けて行動するのが当然だ。それに、階位フェーズΕエイフゥースであるというなら尚更だ。

 だが、彼女はそうしなかった。否、出来なかった。

 変異罹患者ジェネレイター鹿刎番ではなく、虐待児鹿刎番に、人間への恨み辛みなんてものは無い。虫への恩義で捻じ曲げる前は、そういう子なのだろう。虐待があろうと親は親であり、子は子である。度し難い事だが、今回ばかりはそれが真理であったという事だ。

 もっとも、そもそもの素が、虐待によって捻じ曲げられている可能性はある。が、それは今更、言ってもしょうがない事だ。それも含めて彼女だ。

 しかし、親という物を知識でしか知らない俺には、いまいち釈然としない来ない帰結である。


「オメェ、まだ虫に対する情はあるよな」


 思いやりに満ちた歩調で、警戒を以て開け放たれていた互いの距離を、灰崎さんは少しづつ詰めてゆく。その最中に於いてポツリと放たれたその問い掛けに、鹿刎番は華奢な膝を抱えながら小さくコクンと頷いた。


「だが、今みたいに人間の領域をおかしてまで虫に肩入れすれば、いつかは人間と敵対する事になるぜ。そん時、オメェはどっちにつく気だ? 人は殺せねぇんだろ?」

「それは……」

「あちらを立てればこちらが立たず。人間か、虫か、どっちに付いても――角は立つ。オメェも虫の勢力圏が拡大する事によって、人間の生活に余波が生ずる可能性は理解していたよな。『ちょっと痛い目を見てもらおう』ってその程度の考えだったのか?」


 小さな背中が更に丸みを帯びてゆく。鹿刎番は、俯き加減に目を閉じて暫く考え込んでいたが、やがてポツリ、ポツリと声を漏らし始めた。


「……私……虫さえ居れば良かったの。人間の事は……なるべく、考えないようにしてた。もう、私とは関係ないやつらなんだって……優しい虫のみんなとずっと一緒に居れたら、それでいいから……」


 不健康な蒼色の唇から紡がれる悲痛な言葉を聞きながら、灰崎さんは、燃え盛る炎の様な熱視線を以て俺を射竦めた。分かっている。その目配せが、俺の抱いている疑問を心中だけに留めさせる為のものだという事は、十分に分かっている。

 今回の新人研修、段取りは全て灰崎さんに任せっきりだったのだから、今更割り込むつもりもない。


「見て見ぬ振りをしていたんだな」

「虫は大事、受けた恩は返したい。でも、人にだってヒドイ事はできない……」


 彼女の弱々しい言葉を聞く内に、初対面時に抱いた印象は大分修正されてきた。あれは、彼女なりの精一杯の威嚇だったのだろう。そう思うと、余計に憐れに思えて仕方がない。


「融和が望みなのか? だが、このまま突き進んだとして、待っているのは共存じゃあなくの未来だろうぜ」

「……どうすれば……」

「分かんねぇか? じゃあ~、こりゃ勉強するしかねぇ」

「勉強……?」

「ああ!」


 鹿刎番の見せた食いつき相変わらず弱々しいものだったが、灰崎さんは欣然きんぜんとして頷いた。


「人間にだって自然について真面目に考えてる数奇者はいる。少数だがな。そいつらと一緒に勉強して、人間との折り合いをつける道を探せばいい。世の中にはまだオメェの知らない事が沢山あるはずだ」

「知らない……事?」

「そうだ! 例えば――蜜蜂っているだろ? 最近、アレが減ってるってんで困ってんだよ。これ、原因不明な。諸説はあるけどな! とにかく、『蜜蜂が減ったせいで人類が絶滅する!』なんて騒ぐヤツもいてな。でも、オメェなら原因を突き止めたり、あわよくば解決もできるだろ」

「養蜂場のだよね? うん、そこの蜜蜂さんと話せれば……」

「よっし、じゃあこんな所で隠居してるヒマはねぇぞ! MCG機関に来て勉強しようぜ!」


 灰崎さんは、話を強引に取りまとめると、まっすぐに手を差し伸べた。鹿刎番は、その手をじっと見つめていたが、暫くするとまた目を伏せた。


「信用、出来ないか?」

「……うん」


 その縮こまった涙声を聞いた灰崎さんは、彼女の正面に座り込んだ。


「なら、早速オメェの知らない事をまたひとつ教えてやろう。仲良くなるには適切な自己開示が有効なんだぜ」

「じこかいじ……?」

「自分の事を相手に教えてやる事さ。まず、あそこに突っ立ってるヤツの事を教えてやるよ。アイツは匡人っつーんだけど、昔はスリとかしてたんだぜ。スリって分かるか? 盗みだぜ」

「泥棒、なの?」


 涙目が、俺に向く。

 場が落ち着いて来た事もあり気を抜いていた俺は、それに対する反応が若干遅れた。その後、口を挟んだ方が良いのかと迷ったが、灰崎さんの催促の視線に気づいて堂々と釈明した。


「食うに困って、『仕方なく』ですよ」

「かなり盗みまくったらしいぜ。けど、やらかした事の規模なら俺だって負けてない。放火だもの。うっかりデケェ火事を起こしちまってな。だが、それでも生きてる!」


 灰崎さんは両手を振り上げて、ふざけた調子で快哉かいさいを叫んだ。それが余りにも大袈裟な振る舞いだったので、つられて俺も笑ってしまう。それは鹿刎番も同じだった様で、彼女の口元にも小さな笑みが浮かんでいた。

 ふざけてはいるが、MCGのホワイトな面をアピールしているつもりなのだろう。

 その後も、鹿刎番に尋ねられるままに、MCG機関と俺達の話は勿論の事、天気、人生論、食事、日曜の朝に毎週やっている女児向けアニメはまだ続いているのか――等々、多岐に渡る話題を節操なく行き来した。

 灰崎さんが賑やかし、鹿刎番が素朴に尋ね、俺は振られれば答えた。

 山奥の源流点は和やかな雰囲気に彩られ、東の方角では目白が鳴き始めた頃。


「――わかった。私……MCG機関に行ってもいいよ。それで、たくさん勉強して……虫に恩返しする!」


 鹿刎番は、そう宣言した。十分もない会話を介しただけで、あれ程まで頑なだった態度が、ものの見事に軟化していた。

 末恐ろしい話術だ。法倉螺湾にも引けを取らない手際だった。

 いや、本当にお見事! 新人研修として見たら、文句のつけようがない出来である。何と言っても、あのΕエイフゥースをすっかり手玉に取って見せたのだから。相手が子供とはいえ快挙である。学ばせて貰った事は数え切れない。


「よっしゃあ! 円満解決ぅ! 匡人、うぇーい!」

「う、うぇーい?」


 今日一番のテンションで、灰崎さんがハイタッチを求めてきた。それに、困惑気味にぎこちなく対応した事で、山奥には乾いた音が鳴り響いた。


「あはは! でも……MCG機関なんてあったんだ。初めて聞いた」

「……前に来た奴等から聞いてないのか?」

「前に来た奴等?」

「このダサイ制服に見覚えは?」


 少し元気の出てきた鹿刎番は、「見たことない」と勢い良く首を横に振る。その動作を見て、ちょっぴり安心した様な雰囲気の灰崎さんは、右拳を左手で包み込むように強く打ち鳴らした。


「やーっぱ、天海の嘘か。匡人、オメェも途中でこの辺『おかしい』って気づいてただろ? 変に口を挟まないで、黙っててくれてアリガトよ。お陰でスムーズに行ったぜ」

「……いえ、今回はお手並み拝見のつもりでしたから」

「ふはははは! ま、あの野郎は次でてきた時にでも一発ぶん殴ってやるか」


 天海には幾つもの前科がある。俺は別に殴ったりはしないが、止めもしないつもりだ。どうせ、出てくるのは分体なのだから、とくべつ気にする事もないだろう。本人もそう言っていたし。

 そんな俺と灰崎さんの会話を聞いていた鹿刎番が、口を挟んで来た。


「嘘って? 天海ってのは、さっきも言ってた人?」

「そうそう、そのクソ野郎の天海祈あまみ いのりだよ。アイツ、前に『鹿刎番の為に六人も派遣して、その殆どが死んだ』っつー大嘘を吐いてやがったんだ」

「へー、嘘つきだね!」

「おう! トンデモない嘘つきだ!」


 その時、まるで今しがた初めて気温の低下に気付いたかの様に、鹿刎番が身を震わせた。灰崎さんは「寒いか?」と気遣って、自身の上着を渡そうとしたが、彼女は首を横に振って「あれがあるから」とブルーシートを指さして断った。

 ひたひた、と地面に投げ捨てられたままだったブルーシートに歩み寄る痩せた背中を、灰崎さんは脱いだ上着を片手に何か言いたげな顔で眺めていたが、結局、何も言わなかった。


「でも、どうして天海って人はそんな嘘をついたんだろう……」


 ポツリ、と鹿刎番が素朴に呟く。

 正直、あまり考えたくない事柄だ。直接に尋ねても、適当にはぐらかされそうだし。答えは深淵の底の底に鍵付きで隠してあるのだろう。それに関しては、灰崎さんとも気があった様だ。


「知るか! だが、どうせクソみたいな理由だろうぜ」

「うーん……」


 ブルーシートを拾い上げて身に纏わせながら、なおも腑に落ちない様子の鹿刎番。当事者でもないのに、いつまでもその疑問に拘り続ける彼女に、灰崎さんが呆れの声を上げる。


「おいおい、そんなに引っ掛かる事か? オメェは知らねぇだろうが、天海ってのはトンデモない奴なんだよ」

「だって、意味が分からないもん。前に来たのは『二人』だったし、名乗ったのもMCG機関じゃなくて別の組織名?だったし。あ、着てたのも黒っぽい服だった」

「あん?」

「え?」


 俺と灰崎さんが、同時に声を発する。驚きと、疑問に満ちた声だ。

 身に纏うブルーシートの歪みを慣れた手付きで直しながら、鹿刎番は不思議そうな顔で俺達を見た。その後、今度は灰崎さんが鬼気迫る表情で俺を見る。瞳の炎が、大きく揺らいでいた。俺はぎこちなく頷いて、彼に任せた。


「やっぱり、知らないの? 別のとこ?」

「当たり前だろ! そいつら……『MCG機関』じゃないなら、なんて名乗ってたんだ?」


 どこか納得した様子の鹿刎番に、灰崎さんが切羽詰まった声で問う。


「うーんと、確か……『ばんしん? の――!?」


 しかし、その後ろに続く答えを、彼女の口から聞く事は未来永劫に渡ってないのだと、俺達は理解させられた。

 彼女の口は、物理的に遮られてしまった。

 何処からともなく、彼女の小さな口の両端りょうたんを突き破って覗いた、鬱屈と蟠屈ばんくつきっさきによって――。

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