4. 最後の日



黒木教授がビニールの中から菓子パンを出す音が、耳障りにテントの中に鳴り響く。


もうこれで何個目だろうか。その答えは彼の背後にある、ゴミ用のビニール袋をひっくり返せば、分かるのだろう。


しかし平子には個数を調べる気も起きなければ、教授につられて湧いてくる食欲もなかった。


室内のガサガサという雑音に加え、テントの外に吹きすさぶ風切り音が激しい。けれど助手の口から自然発生的に漏れた諦めの溜息は、なぜか黒木教授の耳にしっかりと届いていた。


「平子くん。落ち込む気持ちはわかるが、食べれる時には何か食べておいた方がいいぞ」


黒木教授は視線を合わせずに忠告した。彼は食べかけの惣菜パンの残りを喉に押し込んだ。


「あんな事があった翌日に、よく普通に食べられますね」


クチャクチャと口を動かす先生の様子を見て、平子の表情がさらに暗くなった。


「あんな事って?」


「あれ以外に無いでしょう! 巣立ちの失敗の事ですよ!」


平子は気色ばんだ。


「ここに来るのすら、気持ち的に無理かと思ったんですよ? 卵から観察してた可愛い子達が2羽とも、あんなに簡単に命を落としちゃったんですから…人間で言ったら、成人してこれから人生が始まる瞬間じゃないですか! 可能性とか希望とかに満ちあふれている、まさにその時ですよね? なのに、一瞬で何もかも失われてしまうなんて、こんなショックはありませんよ…

おかげで食欲もわきません。せっかく街まで行って手に入れた、パティスリー・タタンのロールケーキ、冷蔵庫に入れたまんまです。早く立ち直らないと、賞味期限が切れちゃいそうです」


「そうかなあ。生まれて卵のまま死ぬのと、年老いて天に召されて亡くなるのに、生物学的には何も違いは無いように思えるが」


教授はちょうど、雛鳥が崖の上にたたずむ様子を写した画像を眺めていた。


絶壁の上から観察していても、巣立ちの場所はせり出す岩に阻まれて、ほとんど見えなかった。それでも雛鳥たちが無惨に落ちていく様子は、克明に記録されていた。


教授が連写で撮った画像を一気に流し見ている為、落ちていく様子は、本のページ端に鉛筆で書いたあの遊びの絵のように、動いて見えた。


「もう、それ・・何度も見せないでくださいよ」


「人生がこれから始まるって、言ったよね。けどそれは人間の勝手な価値観じゃないのかな。長く生きた者が幸せなのかい? 彼らがどう思っているかは、分かりっこないんだ。だから誰にも命の価値なんて測れないものなのさ」


教授がぱっと、望遠鏡の方に体の向きを変え、デジタルスコープの接眼レンズを覗き込んだ。


「それはそうですけど…」


正論を言われるほど納得できない自分がいる。平子はまっとうな反論を思いつけず、言葉を詰まらせた。


「わ、私はロールケーキが大好きなだけです! だから食べるまでの日もワクワクして楽しいし、食べる当日だって、きっと幸せに決まってます。だからその前に死ぬなんて、絶対に嫌なんです!」


そう言ったものの、自分でも反論の意味が分からなかった。恥ずかしくなった彼女は、頬を膨らませて怒ったふりをし、ぷいっとそっぽを向いた。


「まあ何でもいいけれど、我々は見守り、記録するのみだ。さて、そろそろ仕事に戻ろうか」


黒木教授の声の調子が変わった。はっとして、助手は教授の方を見た。


「ほら、最後の1羽。彼の飛び立つ時がやってきたようだ」




朝はいつもと同じようにやってきた。


明るい陽の光が巣の奥まで差し込んできて、お腹の辺りの羽毛を柔らかく暖めている。


今日がその日だと言われなければ、再び目を閉じて、浅い眠りを楽しんでいても、不思議はない。


それぐらい特別な感情はわかなかった。


不思議だった。一方的な関係とはいえ、兄と姉である。尊敬や畏怖の念はあった。


その2羽が満を持して迎えたのに、全く太刀打ちできず、無力な姿をさらし、結果的に残酷な死を迎えた。


そして自分の番だ。そんな難関を到底くぐり抜けられる訳がない。自ら言うのも変だが、1パーセントも可能性が感じられなかった。


なのに、そこから逃げ出そうともせず、父母に許しを乞うこともなく、漫然と時が過ぎるのを待っている自分がいる。


心が麻痺しているとしか思えなかった。


そんな自分を見ていても、父と母は何も言わない。厳しいわけでもなく、かといって言葉をかけるわけでもない。ただ語らずに息子に背を向けて、時を測っていた。


そしてついに、父母から鳴き声の合図があった。


1歩1歩、足を踏み出した。待ちすぎて足が少し痺れていたので、感覚が戻るまで、ゆっくりと慎重に進んだ。


生まれてからずっと見ている岩肌。外敵から自分ら護ってくれていた崖が、いまは垂直に切り立ち、自分を阻んでいる。


不格好に2本の足と口を使って、崖を登り始めた。


何度も爪の先が滑り、外れそうになる場面があった。その度に安定を取り戻すため、登るのを止めなければならなかった。


台座までたどり着くのに、だいぶ時間を要した。ここ最近では、どの者よりも遅かったに違いない。


息を整えるまでに少し時間が必要だった。落ち着いてくると、周囲を見回す余裕が出てきた。


台座に立ってみて、この場所の異常さが感じられた。ピカピカに光る床は、明らかに他の岩と異なる材質で出来ている。そのせいで妙に冷たく感じた。


姉を突き落とした床の傾斜の違和感が凄い。体が常に斜めになっているようだ。


巣から何十メートルも登ったわけではないのに、海からの波の音が全く聞こえない。予想外の不気味な静寂が、雛鳥を待ち構えていた。


巣から見て、想像していた方向を見ると、そこに一本の枝を見つけた。そしてすでに、そこには老鳥が鎮座していた。


年齢は良くわからない。ただ齢を重ねている証拠に、胸の羽毛がだいぶ抜け落ちていて、体が縮んでいる印象があった。


けれどその老鳥には、不思議な威厳があり、若鶏に言葉をつつしませる迫力が備わっていた。


何かが告げられるのだろうと思い、待っていたが、老鳥からの言葉は何もなかった。


沈黙が続く。時間だけが風にのって過ぎていった。


兄や姉も、この気まずい思いをしたのだろうか?


ついに耐えられなくなって、自分から口を開いた。


「これから…何か試練を頂くのでしょうか?」


返事はない。老鳥は、くすんだ朱色のくまどりの中の目をつむったまま、動かなかった。


聞き方を間違えたかも知れないと、再度口を開いた。


「これから何がおこるのですか?」


「答えられない」


今度は返事があった。しわがれた声。老鳥は片目を開いて自分を見た。


「台座に立つ者に何が起こるのか。私は知っている。けれど教えられない」


それは自分が知りたかった答えではなかった。少し残念な気分になる。


自分の気持ちなど構わず、老鳥は続けた。


「私はお前を導く為にここにいる訳ではない。ただ起こった事実を記憶し、父母に伝える為にいる」


その突き放す返事に、さらに拍子抜けした気分だった。


では誰がどうやって、自分を導いてくれるというのだろう。あらたにどこかから、別の大人が飛来してくるのだろうか。


そんな様子は、兄たちの巣立ちでは見られなかったのだが…


周りを見回していた時、老鳥の片方の眉がピクリと動いた気がした。何だろう。さらに注意をするが、どこにも何も来ない。


そう思った矢先だった。


それはすべての予想を超えて、自分の内部からやってきた。


こめかみがドクンと脈打った。驚く暇もなく、ついで心臓の鼓動がどんどんと速まり始めた。全身の血管という血管に、血が急速に回っていく。


血が意志を持って騒ぎ出すような、初めての感覚に声もあげられなかった。やがて頭の中から羽の先まで、体中が千の虫が蠢くビリビリとした感覚に包まれた。


それでも心臓は容赦なく動き続ける。手足が外側に引っ張られて、羽一本も動かせなかった。


やがてどこかから声がした。


脳から、指先から、胸から。体中の血という血が、同じ声で同時に語りかけてくるという、不思議な感覚だった。


「…だれ?」


ようやく声を出した。もしかしたら心の中で思っただけかもしれない。


けれど答えは返ってきた。


「私はお前たちの言う神ではないし、偉大なものでもない。ただ生まれた時から、お前の体の中に脈々と存在してきたもの、とだけ言っておこう」


まったく意味不明の言葉だった。だが声は構う様子はない。


「お前は選べねばならない」


「…選ぶ、だって? 飛ぶ為に、ここに来たのに?」


「そうだ。ここに立つものは、選ばなければならない」


「何を?」


「ここから飛び立つか、それとも羽を広げぬまま、その命を海に委ねるかを」


「なんだって?」


驚いて声に出していた。老鳥にもその言葉が聞こえたと思うが、彼からの答えはない。


「死ぬとしても、それは飛ぼうとして失敗した結果だろう? なぜ最初から命を捨てなきゃならないんだ?」


声からの返事は、最初からその質問を予測していたように、よどみなかった。


「問うなら教えよう。お前が成鳥として飛び立つことを選べば、お前の一生は悪夢そのものとなるからだ。


お前が選べば、自由自在に空を飛べる術を知るだろう。しかし体は劇的に変化し、羽を広げる度に、体に走る激しい激痛に耐えなければならない。


お前が選べば、あらゆる獲物を仕留める狩人の感覚と技を知るだろう。しかし知を得る代償として、お前は相手に爪を突き立てる度に、獲物が感じる激痛や、苦しみに泣く魂の叫びまで、感じる心も得る事になる。


お前が選べば、そなたは天空の支配者の称号を得るだろう。しかしその先には、冠を頂く者の宿命が待っている。お前の夜の安寧は一生奪われる。お前の命を支える獲物、死んでいった兄や姉、他の仲間たち。彼らの亡者の叫びは悪夢となり、夜が来る度に、お前の夢に現れるのだ。王の道は、彼らの血塗られた屍の上に、敷かれているのだから。


だから訊いている。私は選ばない道も残されていると言った。それは、痛みも苦しみも悪夢も知らず、まだ残る温かい雛の羽毛に包まれたまま、幸せのままに生涯を終える方法だ。それは簡単。ただその崖から1歩、踏み出せばいいだけの事」


古き者の告げた言葉に、体の痺れを忘れる程、衝撃的を受けた。


兄や姉も同じように、この声を聞いたのだ。それは老鳥でも台座からでもなく、自らの体の中に生まれた時から刻まれていた、宿命の伝言だった。


まさか、台座でそんな事が告げられようとは、いくら冷静な姉でも、予想できる訳はない。


声はさらに続けた。


「言葉では分からぬだろう。その体と心で、お前に待ち受ける試練を知るがいい」


声が告げた途端、体中に恐ろしい激痛が走った。羽を支えている骨がバキバキと音が聞こえるぐらい、変化していくのがわかる。気絶しないのが不思議なぐらいの痛みだった。


そして次に、痛みにかすれる眼に映像が見えた。空から急降下して、獲物の小鳥に向かって飛びかかる自分が映っていた。鋭い爪が、逃れようとする鳥の背骨に突き刺さる――


その刹那、襲いかかる痛みに、叫び声が声が止まらなかった。小鳥に突き刺さった部分と同じ場所、自分の背に焼けるような痛みが走った。このまま小鳥が生きながら食われ、意識が消失するまで、この痛みが続くのかと思うと、恐怖で背筋が冷たくなった。


痛みがいきなり消え、今度は視界がぱっと暗転した。そこに、ぽつ、ぽつと明かりが灯っていく。それはただの火ではなかった。それは亡者どものむくろが発する、青白い光だった。彼が過去に食してきた小鳥の小柄な骨もあれば、仲間のハヤブサの頭蓋骨もあった。それが何十も何百も、カタカタと音をたて、闇の中で笑っていた。


「オマエニハムリダ…オレニスラ、トビタテナカッタ」


大きな眼窩を持つ頭蓋骨が現れ、骨だらけの翼を広げ、闇夜に羽ばたいた。それは兄の骨だった。


「サア、ニゲナサイ…ヨワキ、オトウトヨ」


細い嘴を動かしてケタケタと笑う姉の頭蓋は、顔半分が割れ、欠けていた。


視界が亡者たちの姿に覆い尽くされ、死者の声があらゆる角度から降り注いだ。


いきなり稲妻が落ちたような痛みが脳に刺さり、思わず頭を掻きむしった。特に左目が、炎が宿ったかのように熱い。耐えられなくなり、頭を押さえて床に突っ伏した。鏡と化した岩肌は、苦しみに吠える自分の姿を鮮明に映していた。


姉の顔に見た、血に染まったくまどりが、みるみるうちに左目の周りを侵食していくのが分かる。目の周囲を覆い終えたその紋章が、次に目元から赤い涙の筋となって走り落ち、焦げた臭いを発しながら、頬骨までを赤く焼いていった。


「それが、一族が空を飛ぶ代償に得られるものだ。苦しかろう?」


声が響く。しかし下を向いたまま、息をするのも苦しく、沈黙で答える事しか出来ない。


「その体の変化はもう止められない。お前は選ぶしかない。飛ぶか生きるか飛ばぬか死ぬかを」


流れる祖先の血が、決断を迫った。


すべてを理解した。知りたくもない真実だった。


自分がここに立った動機はただひとつ。この雛鳥という殻を破って、世界を知りたかった。それだけなのだ。


好奇心。それが生きてきた中で、誇れる全てだった。


それなのに…それなのに…


激しい憤りが湧き上がってきた。怒りに任せて言葉が口をついた。


「兄と姉はお前の声を聞きながら死んでいった。2羽とも自分なんかより遥かに強い力を、飛ぶ意志を持っていた。それなのに諦めてしまった。でも、その理由がわかった気がする。彼らは飛ぶことだけが目的だった。それさえ叶えばよかったんだ。なのにお前は飛び立ち、大人になることを、すべての苦しみの原因のように言った。そんなお前の言葉に、彼らは絶望したんだ」


クマドリから流れる血が垂れて左目に入り、視界をぼやけさせた。それでも構わなかった。話しかけている存在がそこに浮かんでいるかのように空を見上げ、言葉を続けた。


「自分は違う…飛ぶことなんて気にするものか。あらゆる物を見るために、飛んでやる。知る為に、生き抜いてやる。飛べもせず、知りもせず、ただ落ちて死ぬことなんて、絶対に出来ない!」


叫びに対する、祖先の血からの答えはなかった。


代わりに体がまたガクガクと震え出した。そして再び強烈な痛みが体を引き裂いた。翼の骨や筋肉から、メリメリとすごい音がする。体がバラバラになるぐらいの衝撃だった。

その痛みは顔にもやってきた。今度は右目の眼窩に焼けるような痺れが走り、きな臭さがあたりに充満がした。今度こそ意識が、空の彼方へと遠のいていく。


強い、とても激しい海風がびゅうと吹いた。


劇的な変化で力を失った体は、その強風に耐えられず、ふらついた。よろけて体がどんどんと岩の上を滑り、海側にずれていく。やがて岩の縁にぶらさがったのも束の間、自分は頭から落ちていった。


生きていて感じたことのない、強い落下の感覚と耳をつんざく風切り音がした。


なんだ、結局は飛ぶことを受け入れても、死ぬんじゃないか。ならば儀式とはなんだったんだ? そんな疑問がうっすらと脳裏をかすめながら、どんどんと意識が遠のいていく…ように思われた。


しかし実際は逆だった。その落下の中で、一気に精神は覚醒していった。羽が意識を超えて動き、ばっと開いた。翼を支える胸の筋肉から、痛みの信号が絶え間なくやってくる。けれども高揚した脳は、その痛みを感じてもなお、翼を的確に操り、風に向かって羽を立てる余裕を持っていた。


海風のクッションを得て、落下していた体が急激に向きを変えた。海面ギリギリで弧を描いた後、体は一気に軽くなり、風が味方したように背中を押した。そこからは落ちる時と同じぐらい、一気に上昇し始めた。


かつて雛鳥だった自分は、空を飛んでいた。まだ痛みの残る目から見える景色。そこにあるのは自分が知りたい世界そのものだった。


飛びながら眼下を見てみれば、緑色の布のそばに、2人の人間たちの姿があった。


自分には見えた。彼らの周りに流れる時流の姿が。やがて彼らが年老いて、骨になって、土に帰る姿が予見できる。これから待ち受ける悪夢と引きかえに、自分はそんな力を手に入れたのだ。


そうだ、これが自らが望んだことだ。


そうしてユキハヤブサは翼を振り上げると、一気に空の高みへと羽ばたいていった。




旋回する若きハヤブサを見上げる平子の眼に、涙が溢れていた。


「よかった…飛べて。これで、あの2匹も浮かばれるわ」


彼女は構えていたビデオカメラを停め、流れる涙を袖で拭い取った。


黒木教授がテントのジッパーを下ろし、ごそごそと音を立てて出てきた。


「まさかのバッテリー切れとは…これだけ苦労したのに、結局また、くまどりが出来る瞬間は捕らえられなかったよ」


彼はあぐらで凝り固まった足腰を、ぐっと伸ばした。


「先生…わたし感動しました」


平子の目はまだ、空を舞うユキハヤブサを追っていた。


「3匹のうち1匹だけか。あの子は最初から、飛ぶことが定められていたのかもしれないね」


「うん…そうです。ちゃんと生き伸びる子もいるんだわ」


「けれど相変わらず、ユキハヤブサの巣立ちは、彼らにとって試練であることに変わりない」


「はい。ただ、私はあの子たちに教わりました。希望を捨てては駄目なんだという事です。それに…」


「それに?」


「明日死んでも困らないよう、今を生きなきゃって思いました」


「ああ、それは大いなる悟りだ」


「だから…ロールケーキ…」


「え?」


「賞味期限前だけど、研究室に戻ったらすぐ、食べようと思います。ひとりで丸ごと。明日死んでも、後悔しないように」




(ホルスの目  終わり)

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