2. 台座



気がついた時から、血を飲み、肉を喰らっていた。


鉄の混じった血の匂いを嗅ぐと腹が鳴り、心が疼いた。必死に嘴の付いた顔を、羽と鉤爪の付いた手足を前に出し、少しでも餌にありつこうともがいた。


けれども、自分の先には常に2つの壁があった。


兄と姉。自分よりも時に早く、力に強く、頭に賢く生まれた「先を行く者」たち。


たったそれだけ、が大きい。決定的。たったそれだけで、父母が運んでくる食事の取り分が減った。


さすがに兄や姉に殺されるまで、虐げられることはないが、彼らの残してくれる餌の量は、いつもごくわずかだった。


自然は平等かつ残酷だ。力のある者が生き残る。ルールはそれだけ。


自分は確実にその反対側の、生き残らない方の運命を、歩んでいた。



ユキハヤブサのつがいの3番目の子供として、この洞窟の中で生を受けた。


外の世界は明るくて、寒かった。自分が最初にできた事は2つ。口を開ける事と、鳴くことだけ。


それだけをして、懸命に生きていた。


硬い殻を突き破った瞬間から、兄と姉が隣にいる。それが運命と思っていた。苦痛があっても、それを仲間のせいと考えることは、だいぶ前に止めていた。


自分から見ても、兄は自慢の存在と言えた。力強い顎と腱を持ち、雛にしては体が大きい。翼が3匹の中で最も長かった。彼が巣の中で飛び立つ練習をすると、抜け落ちた毛が洞窟中を舞った。


兄は行動ひとつをとっても、猛禽の鳥の模範生だった。ときおり、巣の端のギリギリに立ち、そこかしこを飛ぶ野鳥――将来の糧――を目で追っていた。すでに頭の中では狩りの構図を組み立てていたのだろう。兄は本能的で、両親が許せば、今にも岩を蹴って飛び立ち、狩りに行ってしまうのではないかと思われた。それぐらい、彼はハヤブサとして生きることに、熱心だった。


自分の姉は冷静な鳥だった。彼女も兄よりは小柄だが、すでに充分に発達した脚と羽を持っていた。彼女は他のどの鳥たちよりも、狡猾だった。崖から海を見ている時は、兄と異なり、飛翔する大人たちの様子を眺めていた。


彼女がときおり喋っている内容は、そもそも兄とは異なった。海から吹き上げる風の種類だとか、逃げ惑う鳥たちの行動パターン、そして餌を横取りする狡猾な山ガラスの退け方など、誰もが生きながら覚えることを、雛にしてすでに悟っていたようだった。


この2匹は「台座」に立つ前に既に、大人になる準備を終えているように思えた。


じゃあ自分はどうかといえば、全くの劣等生でしかない。


餌の量のせいか、そもそも生まれながらにして劣っていたのかは、わからない。


通常の仲間よりも小さく、体の線は細かった(羽ばたきが弱かったので、仲間には「虫の羽音」と馬鹿にされた)。かといって「鋭敏な判断力」とか「類まれなる知覚」なんて能力は持っていない。


そもそも猛禽としての獰猛さが足りないと、兄たちが嘆いていたのを聞いたのは、一度や二度ではなかった。


あえて自分を示せと言われて、思いつくものは何だろう。好奇心ぐらいだ。それがハヤブサにとって何の役に立つものか、自分にはわからなかった。



自分たちユキハヤブサが、成長になって生きていく上で、重要な節目があった。


それが巣立ちの試練だった。


一般に飛ぶ鳥にとって、巣立ちは危ない瞬間といえる。それは弱者でも王者でも、避けられない種類の危険だ。


ただ仮に失敗したとしても、下に地面があり草が生えていれば、命は奪われず、再度挑戦の機会が与えられる可能性もある。


しかし我が一族にとって、この旅立ちの行為に2度目はありえなかった。


理由の説明をするのに、言葉は不要だ。「台座」に立って眼下を見て、感じるといい。その尖った岩だらけの地を。荒れ狂う波の勢いを。


失敗は避けようのない死だった。


自分たち雛鳥が大人になるためには、この究極の状況から生を勝ち取らねばならない。


そして高いハードルから来る恐怖のせいなのか、この苦難を乗り越える雛鳥が、ほとんどいなかった。


我々一族の大人の数が、極端に少ない理由が、ここにあった。


どうして自分たちは、あんな所から飛ばなければならないのだろうか。


雛鳥たちは当然、この不条理な儀式を疑問に思っていた。


身近にいて自分を育ててくれる父も母は、台座から飛び立ち、生き残った者たちだ。


だから理由を問いかけてみた事がある。けれど大人たちは決して口を開かず、わけは教えてもらえなかった。


そんなとき成鳥たちは必ず、赤いくまどり模様の中心で光る黒い目に、何とも言えない感情を浮かべて、われわれ雛鳥を見返すのだった。




天候もよく、海からの風も安定している。そんな日を「絶好の巣立ち日和」とでも呼ぶのか。


とにかく兄が台座に立った日の朝の空気は、そんな印象だった。


儀式に参加する許可は、父と母から与えられる決まりだった。


母はすでに岸壁の巣穴の先端に、単独で止まっていた。やがて、天空から舞い降りてきた父が、狙い違わず滑り降りてきて、母の横にピタリと止まった。


父と母はコロロと喉を鳴らし合った。そのあと、お互いキィと一声ずつ鳴いて、兄の方を鋭く見た。


それが合図だった。


兄に迷いはなかった。


自分と姉が見守るなか、2度、3度と両足で跳ねて、巣穴の出口までたどり着くと、彼は側面の岩肌に足をかけた。その力強い嘴で岩を噛み、首の力だけで、体をぐいと持ち上げる。兄は生まれ持つ道具を使い、危なげなく垂直の崖を登り始めた。


兄が目指す台座は、我々の巣を斜めに数メートル登った所にある、せり出した岩の上の事を指していた。


その場所は我々が生まれた時から、すでにそこにあった。不自然なぐらい薄く平らな一枚岩が崖に突き刺さり、飛び出していた。その岩の表面は、世界を映す鏡のように輝いていた。不思議なことに、長年風雨にさらされているはずなのに、その輝きが時に侵食された様子は微塵もなかった。


自然のどんな意志が作り出したのかわからないその場所を、ユキハヤブサたちは、彼らの儀式の舞台に選んでいた。


兄はまもなく、台座が突き刺さる根本の部分までたどり着いた。


さらに最後の蹴り上げで、彼は完全に自らの体を台座の上に引き上げた。


兄は疲れた様子もなく、堂々と胸を張り、これから起こる何かを待ち受けていた。


巣から覗いていた自分や姉は気づかなかった何かを、感じ取ったらしい。兄の首がくるっと横に回った。


そこに、年老いたハヤブサの老鳥が止まっていた。台座の少し上、岩と岩の間から生えている低木の枝の上だった。


いつから? という質問に答えられる者はいない。なぜなら、誰も彼の飛来を見ていなからだ。


遠目で、兄の口が開いたり閉じたりしている様子が見て取れた。老鳥と何か会話をしているのかもしれない。その証拠に軽く会釈する場面も見られた。


その合間に、横にいる姉の様子を見た。彼女も非常に真剣な顔で、台座を見つめていた。兄が飛び立てば、次に挑戦するのは彼女なのだ。そこに映る兄の姿に自分を重ねて見るのは、当然の事と言えた。


突然、眼の前で姉の表情が曇った。冷静な姉にしてはとても珍しく、瞳に疑いと困惑が浮かんでいた。


あわてて注意を台座に戻した。


兄は変わらず同じ場所に立っていた。特にさきほどと変わった様子はない。


そう考えたのも束の間、異変はすでに起こっていた。


兄の黒い真珠のような瞳から、すっと光が失われていった。彼の目は何も反射しない黒い塊となっていた。最初に肩が小さく震えだした。その震えは翼の先から腹の毛、爪の先まで、虫が這うように全身に伝わっていった。


いきなりその震えがピタリと止まった。すると兄のあんなに力強かった体が、ぐらりと傾いた。倒れるかと思ったが、ギリギリで左脚で突っ張り、何とかこらえた。


「兄さん?」


今まで黙っていた姉が、問うように口を開いた。彼女すら見たことのない兄の様子が、そうさせたのだ。


明らかに兄の様子がおかしくなった。また全身の震えが始まり、今度は体にピタリと寄せていた2枚の翼が、だらりとぶら下がった。恐怖の感情なのだろうか。口が大きく開いて、普段は見えない舌があらわになった。


「…!!」


叫びに似た鳴き声が、台座から鳴り響いた。それは兄が発した恐怖の悲鳴だった。あの恐れを知らない長兄が、心から怯えていた。その声に含まれる恐怖の成分を感じとって、自分も肌が泡立つような不気味な感覚を覚えた。


兄の体が上下に揺れていた。彼の足が――意志を超えた者がそうさせているかのごとく――1歩また1歩と、体を後退させていく。彼の目は何も見ていない。眼窩にはまっているのはもはやガラス玉同然で、ただ彼の前にいる老鳥と青い空を反射していた。


姉も自分も、そして両親も、ひと声も出さなかった。


兄は亡霊のようにユラユラと、後退し続けた。しかし道は有限だった。硬い岩を踏みしめていた彼の爪は、ついに虚しく空をつかんだ。


頭から逆さまになって、兄は落ちた。彼の姿は衝突の音もなく、黒岩と白波の間に消えていった。

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