蒼き日々
鹿苑寺と慈照寺
1曲目 拝啓。皆様
私は子供の頃から建築現場を眺めるのが好きだった。
まっさらな土地に建築予定と立て看板が立っているのを見ると、そのことを脳内にメモしておく。そして、いつも歩いている道順を変えて、毎日その場所の前を通るようにする。
毎日毎日、その場所の前を通って少しずつ変化していく様子を眺めるのが私は好きだった。
やがて工事が始まる。
幾人もの現場作業員が忙しなく動き回り、一日中、けたたましい騒音が鳴り響く。
少しずつ少しずつ鉄骨が積み上がっていく。
それからどれくらいの時間が経過しただろうか。
その日も私は建築現場を眺めていた。立派な一軒家がほぼ完成へと近づきつつある。すると、曲がり角からスーツを来た男性と2人の男女が近づいてくる。よく見るとその3人の後方を幼い子供がとぼとぼと歩いている。
やがて彼らは建築現場の前に足を止めた。何やら話をしている。話の内容は聞き取れないが、おそらく彼らがこの一軒家に住むのだろう。
それからしばらくして、その一軒家は完成した。ビニールシートは取り払われたし、建築機材も撤収され、現場作業員もいなくなった。
いつものことだが、私はそこで興味を失ってしまう。もう私の目的は達成された。何が私の目的かはわからない。
このような私の癖を両親は嫌がった。
家族と買い物に出かけても普通の子供であれば、お人形を買うまで親の手を話さないのだろうが、私の場合はおもちゃ屋さんにはときめかなかった。むしろその帰り道に通りがかった建築現場から離れようとしなかった。早く来なさいと私の手を引っ張る両親にまだ見ると泣きながら訴えた記憶が今も脳裏にこびりついている。
なぜ両親は理解してくれないのだろう。
なぜ私は建築現場を見るのが好きなのだろう。自分でもわからない。
中学生になって建築現場をぼおっと眺めることは少なくなったものの、たまに足を運ぶことはあった。やはり今でもなぜそんな光景を眺めるのが好きなのかわからない。
校門をくぐった瞬間にチャイムが鳴る。これが私の日常だ。わざわざ学校に早く登校する理由はない。それでも遅刻の常習犯だというレッテルを貼られるのは不愉快なので、急いで教室に向かう。
下駄箱を開けた瞬間に紙パックのジュースの容器やチョコレート菓子の袋がこぼれて落ちてくる。地面に落ちた紙パックのジュースの空き容器を見て、よくもこんなすぐに温くなってしまう飲み物を好き好んで飲むよなと思う。下駄箱の奥にはまだスナック菓子の袋が押し込められているので、掻き出して地面に捨てる。
幸運にもまだ担任の教師は来ていないようだ。教室の奥の方でたむろしている男子学生を掻き分け、窓際の席に向かう。ホームルームに遅れてくるような教師に遅刻を咎める権利はないと思う。私は絶対に遅刻はしないが。
机の上にもごみが置かれている。どうして世界はこんにもごみで溢れているのだろう。人間も同じようなものだが。
机に置かれているごみをできるだけ手に触れないようにさっと手で払うように床に落とす。私の隣に座っている女が怪訝な顔をしたのが目の端に映った。
椅子の上に画鋲でも置かれてるじゃないかと思ったけど、さすがにそこまではしてこないようだ。椅子に座ろうとしたところで、担任教師が入ってきた。「さあおはよう。席に着け」と大きな声で捲くし立てた。
ホームルームが始まり、すぐに担任教師は私の周りの席に散らばるごみに気がついたようだ。
「おい、どうした佐伯。このごみは」
「何のことですか?」私はほんとにわからないといった様子で首を傾げた。
「わからないことはないだろう」
そう言って担任教師は私の席の周りの指差した。私の席の反対方向、つまり入口に近い方の席で数人の女子たちのくすくす笑う声がした。
「ああ、これですか。私が来たら、机の上に置いてありました」
「だったらごみ箱に捨てなさい」
「置いた人が、ですよね?」
「佐伯じゃないのか?」
「違います」
誰かが置いたんじゃないですかねと教室中を見渡す。私のその言葉と同時に、くすくす笑っていた女子たちが下を向くのがわかった。
まったくもうといった様子で目の前の教師が溜め息をつくのがわかった。何も言わずに散らばったごみを拾い、黒板の前に戻る。やはり教師は頼りにならない。
授業が始まる。退屈でつまらないもの。国語辞典で授業と調べたら、「退屈でつまらないもの総称」と出てくるはずだ。国語辞典でわざわざ調べる気は起きない。
窓の外を眺めると、つい先ほどまで晴れ渡っていた空が嘘のように灰色に覆われていた。天気ってこんなにも変わるものだろうかと驚いた。
私が通う学校の隣で古い民家の取り壊しが始まったのが半年くらい前のことだ。それからずっとその場所は空き地として放置されていた。いつ建築が始まるのかとずっと待っていた。3週間ほど前からその土地の周辺がビニールシートで覆われ始め、工事が始まった。窓の外を眺めると、もうすでに現場作業員は忙しなく働いていた。重そうな鉄骨を屈強な作業員の男が運んでいる。
黒板の前で熱弁をふるっている教師の言葉も上の空に、ずっと工事の様子を眺めていたら、窓を雨が伝い始めた。すぐに雨は本降りに変わっていった。黒板に目を移す。雨は嫌いだ。
小学校のときに仲の良かった女の子と建築現場を見に行ったことがあった。当然ながら、私が強引に誘ったのだ。呆然と眺める私の隣で「ねえいつまで見るの?早く行こうよ」と彼女は私の手を引っ張った。「こうやって少しずつ建物が出来てくるなんてすごいと思わない?」という私の言葉は「ちょっと意味わかんない」という彼女の言葉に掻き消された。彼女はぷいと別の方向を見た後、足早に去って行った。その日から彼女とは遊びに行かなくなった。
チャイムが鳴る。いつの間にか昼休みになっていた。
翔子ちゃんという声がして振り向くと、そこには同じクラスの佐々木美穂がいた。
このクラスでは唯一といっていいほど仲の良い友達だ。いや、このクラスというより、この学校で、と言った方が正しいだろう。
彼女とは非常にドライな関係性だと私は評価している。
女子特有の、あのべたべたした関係性がほとんどない。今日だって4限目の授業が終わり、周囲に目をやると彼女の姿はなかった。戻って来た彼女を見ると、手には袋を下げている。どうやら昼ごはんを買いに行ったようだ。私の学校は給食ではないので、弁当を持ってくることが多い。でも、両親の仕事の都合などで弁当を作れないこともあるので、学校のエントランスにはいつも近くのパン屋さんが売りに来てくれる。佐々木さんはそこでお昼ごはんをいつも買ってくる。普通の女子同士の関係性であれば、用事がなくても、一緒に行こうよとなるはずだが、彼女とはそうはならない。私はそれが心地良かった。
彼女は席に着くと、袋からサンドウィッチとコーヒー牛乳の紙パックを取り出した。彼女はお昼ごはんはいつもこの組み合わせだ。逆にこれ以外の組み合わせを見たことがない。
ちょっと前に訊いたことがある。
「なんでいつもサンドウィッチとコーヒー牛乳なの?」
「美味しいから」
「飽きないの?」
「飽きないよ」彼女はそう言うと笑った。「翔子ちゃんはさ…、いつもコーヒーに砂糖は入れないけど、苦くないの?」
「苦いよ。でも、それが美味しいんじゃん」
「苦いのは無理だなあ…、私まだ子供なのかな」
「私も子供だよ」
佐々木さんはサンドウィッチを頬張っている。それに対して私は玉子焼きを口に放り込んだ。私はいつも母親が作ってくれる弁当を食べる。いつも同じおかずだから飽きるけど、我慢している。
「それ、美味しそう」佐々木さんは私の弁当箱に入った唐揚げを指差した。
「食べる?」
「いいの?」
「いいよ」そう言うと、佐々木さんは弁当箱に手を伸ばし、唐揚げを口に放り込んだ。
「美味しい」彼女は破顔し、コーヒー牛乳に手を伸ばす。
「唐揚げをコーヒー牛乳で飲み下す人、初めて見た」
5限目の授業は理科だ。ただし、この授業は選択授業になっていて、基礎と発展にわかれている。私は発展クラスで、教室は移動しなければならない。
「じゃあ、私、行くね」
「行ってらっしゃい」佐々木さんは手を振って私を送り出す。それに私も軽く応じる。
教室を出て少しすると、前から園田さんたちが歩いて来た。嫌な予感がしたけど、無視して歩くことにした。でも、その予感は案の定、数秒後には的中した。彼女たちの脇を通り抜けるほんの一瞬前に私の前に園田さんの足がひょいと差し出され、見事に廊下に転んでしまった。危うく壁に頭を打ちつけるところだった。くすくす笑いながら、園田さんたちが立ち去っていくのが、声の遠ざかり具合でわかった。スカートが埃で汚れてしまったので、さっと払って立ち上がる。
くだらない。本当にくだらない。
これでは子供じゃないか。あまりに幼稚がすぎる。
そう思考して、数秒後にはすぐにその考えを打ち消した。
そうだ、私たちは子供だ。
だからこそ、くだらない。
授業に遅れてしまうので、小走りで教室に向かう。
教室に辿り着いたときには授業の開始時刻を1分過ぎていた。ただ、幸いにも教師はまだ現れていなかった。
選択授業はほどんどの場合が席は決められていない。だから、私はいつも窓側の席を選ぶ。時間に遅れてしまったが、まだ窓側の席は空いていた。
窓際の席に座ると、ほっとする。人に囲まれていない、ただそれだけで安心感がある。こう思うようになったのは、園田さんたちからいじめ、と呼んでいいのかわからない仕打ちを受けるようになってからだ。なぜ彼女たちから仕打ちを受けなければならないのかわからない。何度か考えてみた。でも、やはりわからない。仕舞いにはもうどうでもいいやと思った。大したことではない。
元々、中学に入学したときから友達などいなかった。園田さんたちから仕打ちを受けるようになって、余計にクラスメイトから話しかけられなくなった。そんな中、唯一話しかけてきたのが佐々木美穂だった。
そんな佐々木さんが最初に私に発した言葉は思い出すと今でも笑ってしまう。いつかの放課後のことだ。
「助けてあげようか?」
「はあ?」
「だから、助けて欲しいんでしょ?」
「そんなこと言ってないけど」
「助けて欲しそうな顔してるよ」
「してない」
「強がらなくていいのに」
私はかばんに教科書を詰め込んで、とっとと帰ってしまおうと思った。
「強がってないから」
「佐伯さんは強そうに見えて、実は弱い」
「私の何がわかるの?」なんで彼女はこんなにもわかったような口をきくのかわからなかった。おかしくて笑いそうになった。
「私にはわかる」
「わかるはずがない」
そこから、執拗に話しかけてくる佐々木さんと私との半ば折れる形での交流が始まった。園田さんたちから睨まれるようになって、意識してクラスの雰囲気などには頓着しないように心掛けた。だから、クラスの雰囲気などはまったくわからないけれど、園田さんたちに睨まれている私と交流を持つようになった佐々木さんのクラスの中における立ち位置も危ういものになっているのではないかと少し心配したものだが、彼女のあっけらかんとした様子を見るにつけ、どうでもよくなった。
科学の元素記号が右の耳から左の耳へ抜けていく。
まだ雨は降り続いている。窓は閉め切っていても、学校の隣の工事現場の微かな振動音は聞こえてくる。ここの教室からも工事現場は見える。ホームルームの教室では工事現場が西側に見えるが、ここの教室は北側といった具合だ。方向が変わっただけなので、あまり変わり映えのしない景色だが、微妙な変化があって面白い。
思えば、私が工事現場を眺め続けることにも辛抱強く付き合ってくれたのも佐々木さんだった。私の短い人生の中でそんな人は今まで一人もいなかった。
「これのどこが面白いの?」
「面白さがわからないなんて不幸だね」
彼女は多少、不満げではあったが、それでもかつての女の子のようにぷいと横を向いて帰るようなことはしなかった。それだけで嬉しかった。
今日も工事現場の作業員は雨にも負けず風にも負けず任務を遂行している。
佐々木さんの異変に気づいたのは数週間経ってからだ。
クラスの雰囲気に頓着しない私でもさすがに毎日顔を突き合わせている彼女の微妙な変化には気づく。
気になって昼休みに訊いてみたのだ。
「どうかした?」
「えっ……、どうって?」彼女は私から明らかに目を逸らした。
「なんか元気ないような気がするんだけど」
「そんなことないよ」彼女は薄く笑った。
それよりさ、と彼女は話題を変えた。
「また建築現場、見に行こうよ」
「美穂から言い出すのって珍しくない?」もう佐々木さんはいつもの調子に戻っているようだった。
「そうかな?」
「そうだよ。だって私が見に行こうって言ってもいつも嫌がるじゃん」
「そんなことないよ」彼女は相変わらずコーヒー牛乳を飲んでいる。
私への仕打ちは悪化する一方だった。以前であれば、登校したときに下駄箱の中がごみだらけになっているので、すべて地面にぶちまけて終わりなのだが、ここ最近は下校するときもごみだらけになっている。酷いときには体育の授業で靴を履き替えるときにもごみで溢れているときがある。いつも隣には佐々木さんがいるので、まただよと笑ってごまかすのだが、佐々木さんの表情は複雑だった。私と目を合わさない。地面にはコーヒー牛乳の紙パックが打ち捨てられている。
ある日のこと。下校時に下駄箱のごみを掃き出してから靴に履き替えようとしたとき佐々木さんが隣で固まっていた。
「どうした?」
「ううん…、なんでもない」明らかに佐々木さんの様子がおかしい。
大丈夫と言って、佐々木さんは慌ただしく靴を履き替え、下駄箱を閉めようとしたが、私はその手を押さえた。強引に下駄箱を開けると、案の定と言うべきか、佐々木さんの下駄箱はごみだらけだった。しかも私よりも酷い有様だった。
行こうと言って、私は佐々木さんの手を取って走り出した。
学校からかなり離れたところでようやく立ち止まった。全速力で駆け抜けたから、二人とも息が上がっている。
「いつから?いつからなの?」
「2週間前から」
「そんなに前…」確かに佐々木さんの元気がないのもそれくらいのときからだった。
怒りが込み上げてきた。佐々木さんにはぶつけるのはお門違いだとは思ったけれど、言わずにはいられなかった。
「なんで言ってくれないの?美穂がそんな目に遭ってるのってどう考えても私のせいじゃん」
「違う…」
「違わないよ」
「ごめん…」
「なんで、ごめんなんて言うの?」
「違うの…、ごめん」
そう言うと、佐々木さんは走り出してしまった。
それから彼女は3日間、学校を休んだ。
そして、3日目の朝、ホームルームで担任の教師は佐々木さんが駅のホームに飛び込もうとしたところを駅員さんに止められたと告白した。
私はどうしていいかわからなかった。どんな顔をして、彼女の前に現れたらいいかわからなかった。
何が大したことない、だ。
何がどうでもいい、だ。
自分だけが辛いと思い込んで、周りなんてどうでいいと超然として、一番身近な「周り」の異変に全然気づいていなかった。
まだ授業の途中だった。でも、構わなかった。そんなことはそれこそどうでもいいことだ。
かばんを掴んで、走って教室を出て行く。
一度だけ彼女の家の近所まで行ったから、わかるはずだ。
住宅街を全速力で駆け抜ける。
やがて見覚えのある景色に辿り着いた。走りながら思い出そうとしても判然としない。でも、あと少しでぱっと明かりが灯るように思い出せそうな気がする。
そうだ、まだ私が小さかった頃、見に来ていた建築現場があった場所だ。あれは確かすぐこの近くだったはずだ。おぼろげな記憶を頼りに歩く。
周囲の風景で思い出した。ここだ。この場所で私はずっと工事現場を眺めていた。この場所でサラリーマンの男性と夫婦、そして幼い子供を見たのだ。
ただ、思い出した理由がわからない。
なぜならその一軒家は更地になっていたからだ。
あの幸せそうだった家族に何があったのか。それを調べようにも情報が明らかに不足していたし、興味もなかった。でも、形あるものはいつかはなくなってしまう。目の前の風景はそんなことを連想させた。背中にすうっと刃を当てられたように恐怖がせりあがってきた。
私は再び歩き出した。佐々木さんの家はもうすぐだ。
佐々木さんの住む一軒家が見えてきた。2階の窓は開いている。カーテンが外に揺らめいている。窓の内側を誰かが横切った気配がした。
「美穂」
すると佐々木さんが顔を出した。遠目からでも顔が少しやつれているような気がした。
「翔子…、ちょっと待ってて」
佐々木さんはそう言うと、どたどたと階段を降りてきた。玄関から飛び出してきた佐々木さんは息が上がっている。
「無茶しすぎだって」
「ごめん」
「謝るのは私の方だよ。もっと早くに気づいてあげてれば…」
「違うの…。その…下駄箱にごみを入れてたのは私で…、申し訳なくて…」
やはり佐々木さんは園田さんたちに強要されて私の下駄箱にごみを入れさせられていたようだ。
「だからって死のうとするなんてあんまりだよ。私のこと助けてくれるんでしょ?私のことを助けてくれる人がいなくなったら困る」
「強いんじゃななかったの?」
「強いよ」そう言って、私は強がるしかなかった。
所詮、人間は孤独だとずっと思ってきた。
でも、そうではない。
それに気づけただけでも十分だ。
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