第10話 嫌な予感

 手芸フェスティバルが終わり、ネットで注文を受けていた商品の発送を終えた日に、麻子は隣の異世界へやって来ました。

春以降の商品展開をイレーネたちと相談しようと思ったのです。


暖炉の火がぬくぬくと心地いいパルマおばさんの居間は、今日も美味しそうな匂いで満ちていました。

「ビーフシチューね!」

「そうだよ、アサコが来るかと思って、朝早くから仕掛けといたのさ」

「アサコは、おばさんが作ったビーフシチューにパンダルの奥さんが作ったカタパンをつけて食べるのが好きだもんね」

イレーネが言っているのはフランスパンのことです。こちらでは細長い形ではなくて、大きめのレモンのような形をしています。

パンの端っこを食べるのが好きな麻子には、理想的なパンだといってもいいでしょう。この固パンだけはパンダルの店で売っているのが一番です。パン作りの途中で吹きかける霧になにか秘密があるのかもしれません。


「少しは元気になったみたいだね。一時はどうなることかと思ったよ」

パルマおばさんは麻子の顔色を見て、ホッとしていました。マクスがいなくなってからずっと落ち込んでいた麻子を心配してくれていたのでしょう。

顔には出していないつもりでしたが、二人にはお見通しだったようです。


午前中は三人でミーティングをして、昼前にイレーネと一緒に村の店までパンを買いに行きました。

パンダルさんの店の前まで行くと、そこには人だかりができていました。見たことのない大きな馬車が止まっているのが原因でしょうか?

馬車のそばで作業していた若い男の人が、麻子とイレーネが近づいて来るのに気づいて微笑みました。


「やぁ、イレーネ。久しぶりだね!」

「ゲッ、ソルマン。あんた、都に行ってたんじゃなかったの?」

ソルマンという男の人の嬉しそうな顔とは対照的に、イレーネの方は会いたくなかったとでもいうように、しかめっ面をしています。

麻子が二人の様子を伺っていると、ソルマンが毛糸の帽子を取って、麻子に軽くお辞儀をしてくれました。

「こちらはどなたかな? 僕が留守をしている間に、ダレン村にも美しい隣人が増えたようだね」

「もう、あんたの女好きにはキリがないね。アサコには手を出させないよ!おとといお出で!」


イレーネはぷんぷんと怒っていましたが、麻子はソルマンが手に持っている毛糸の帽子が気になっていました。

「あの……その帽子をみせてくれませんか? 私が知っている物に似ている気がするんです」

「ふうん、いいよ。どうぞ」

ソルマンが快く渡してくれた帽子を、麻子は裏返して調べました。

これ……マクスにプレゼントした物だ…………


「都の路地裏に落ちてたんだよ。手触りがいいし、見たことがない染め方だろ? 洗う前にはちょっと血が付いてたから、酔っ払いが喧嘩をした時にでも落としたんだろうね。知ってたら、どこで作ってるのか教えて欲しいな。うちでも……」

ソルマンは話し続けていましたが、麻子はそんな話は聞いていませんでした。


血ですって?!

マクスが怪我をしている?

麻子の中から血の気が引いていきました。


真っ青になった麻子をイレーネが気づいて支えてくれました。

「アサコ、アサコっ?!」

「イレーネ、マクスさんの、彼にあげた帽子なの……」

「なんてこと……とにかく家へ帰ろう。顔が真っ青だよ」


帽子のことをソルマンに何か言われたようですが、イレーネが蹴散らしてくれました。



「皆で都に行こう。マクスを探し出すんだ」

二人の話を聞いたパルマおばさんは即刻、決断をくだしました。

「だっておばさん、家はどうするの? 手芸店のことだってあるし……」

「アサコ、人生には些事さじを放ってでも何かを成し遂げないといけない時があるんだよ。アサコの命の恩人が困っているかもしれない。それに恩人っていうだけじゃない。その人はアサコの大切な人なんだろ?」


パルマおばさんの言葉が、麻子の中に染み込みました。

大切な人……

そうなんです。ずっと認めたくはなかったけれど、マクスは麻子にとっていつの間にか、何にも代えがたい大切な人になっていたのでした。

「うん。うん、おばさん」


「さぁ、そうと決まったら腹ごしらえだ。人間、お腹に力がないと何にもできないからね」

パルマおばさんの一声で、イレーネは再びパンダルさんの店へ買い物に行き、麻子は昼食の前に日本に戻って用意を整えて来ることになりました。


服飾メーカーに頼まれていた刺繍は、旅の途中で仕上げることにして、それに必要な材料もいるわね。

ネットのサイトにはしばらく休むことを書いておかなくちゃ。

ええっと、それから……孝代おばあさんには、あのお話を断っておこう。フッ、雅史さんを断って得体の知れないマクスを取るなんて、私もとことんバカなのかも。


でも、心はそれを望んでる。


麻子はマクスがいなくなって初めて、生き生きとし始めた自分に気づいていました。

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