7話 接触


 旧ロンドン。二年前にとうとう治安という概念が消え去り、ギャングや雇われ、人狩り、信仰者達が溢れた土地も人間も荒廃した街になっている。ゴミが散乱し、野良犬が街路を徘徊する。売春婦が道で客引きをし、マンホールは隙間から臭気のある煙を吐き出す、街の裏路地の入り道には柄の悪い男が立っている。旧来は石造りの建築物と紳士が歩く綺麗な街道であったが、現在は明滅するネオンと悪党が蔓延る街になっている。


 そんな道を白霧を被ったエスと装いを長外套とワークキャップに変えたユエシィが街路の真ん中で複数の男達に囲まれ、街の雇われ達や破落戸ならずもの達の注目を集めていた。


 「ちょっと、エス。どうすんの」


 エスのコートの袖を乱暴に引っ張り、彼の顔を見上げる。エスの強さを知っているが故に彼女の胸中にさして不安は無かったが、自身を取り囲む男達の卑しい視線が彼女には耐え難かった。


 「どうするったって、こういう街なんだから。汚くて、汚くて、そして、汚い。なぁにどうもしないさ、排泄物のフリでもしとけば問題ない。ただ、俺が一歩歩いた時に何かにぶつかりでもしない限りな」


 彼はそう言って、歩みを進めようとするも、結果は見えていた。正面に立っていた腰に鉈を提げた坊主頭の男の肩にぶつかる。すると坊主頭は笑みを浮かべてエスの肩を押し返した。

 エスの身体は後退してユエシィの隣にゆっくりと一度戻ってきてから自分を押し返した男の顔を見る。


 「ごめん、うんこ付けたわ」


 押し返されたというのに、再度わざわざ男に近付いてエスはそう言った。

 顳顬に青筋を立てた別の男がエスを睨みつける。やけに目が血走った太った男には腕にクスリの注射痕が目立っている。ちっ、ばれたかとエスは排泄物のフリをやめた様である。


 「てめぇ! ナメてんのか!」


 取り囲んでいる男の一人がエスの背後から殴りかかるも、容易く回避され、男は自らの背に鈍器をぶつけられた様な痛みを味わう事となった。


 エスはブーツを押し付けながら「うんこ踏んだみたい」とユエシィに顔を向ける。そう言われた彼女は非常に怪訝な顔をしていた。その顔は、こいつ大丈夫か、と言わんばかりである。

 何も言わず、そんな顔をする彼女の横でエスは無言で足に力を込め足の下の男を気絶させた。一連の流れを静観していた坊主頭とエスの視線が交わる。


 「なんだ、人質のつもりか? わりぃがそんな役立たずいらねぇよ! ……意味がねぇんだよなぁ、馬鹿野郎め。お前はここでボロ雑巾にされて、そこで人生終了だ!」


 坊主頭が笑い声を上げると、周囲の仲間達も笑い出した。笑い声の中心でエスはやれやれと肩を竦め、ユエシィは相変わらずエスの袖に引っ付いていた。それを見た坊主頭はより愉快そうな声を発しながらユエシィに視線を向ける。


 「お前の女かぁ? ここいらじゃこんな綺麗な女は見た事がねぇ、それオレらに譲ってくれよ? 今なら腕一本で許してやるからよ。そしたら礼くらいはしてやるよ」


 ははは、と笑いながら腰の鉈をエスに向ける。仲間達はにやにやと次の展開に期待していた。男が謝り、女は自分達のモノに。都合の良い展開と爛れた欲望がその顔には滲み出ている。再度ユエシィに視線が集まり、彼女はエスの袖を掴む手の力を強める。


 しかし、切っ先を突き付けられているエスの横でユエシィは急に背後から伸びて来た腕に腰を掴まれ、男達の側に抱き寄せられる。


 急に身体が引っ張られた感覚に驚きながらもユエシィは咄嗟にそれが周囲の男達の仕業だと理解し、焦る。男達は欲望を暴走させ、ユエシィに触れようと手を伸ばすが、されるがままでいる彼女では無かった。


 彼女は自身を掴んでいる男の手にナイフを突き刺し、伸びて来た手に噛み付いた。


 「いでぇぇ!」


 ナイフを刺され叫ぶ男の手から逃れ、ユエシィはすぐにエスの側に戻った。それを見届けたエスは再び坊主頭へと向き直り、これでもヤる気なのか? と再び肩を竦めた。


 「ははは! 威勢のいい女だぜェ……気に入った。てめぇをとっととぶちのめして夜通し楽しませてもらおうか! 礼はてめぇの前でその女の泣き顔を拝ませてやるぜェ!!」


 坊主頭は半身に身体を捻り、鉈を後頭部の辺りまで引くとエスの首を目掛けて横薙ぎに振るった。元よりエスを生かす気が無かったのか、それとも今の数秒で記憶から飛んだのか、改造を施した腕の筋力では今更間違えたからと腕を止める術もない。


 が、当然ながら改造を施されているとは言えこれまで幾度となくMOとの死線を潜ってきたエスにとっては所詮怪物以下の存在でしかなかった。

 それどころか訓練された只の人間でさえ、幾分かマシである。坊主頭の放った鉈の一撃はエスがただ半歩引いただけで躱された。


 「遅い。その程度じゃ怪物どもには劣るなぁ……」


 躱したと同時にエスは「あ」と声を漏らす、坊主頭の腕は振り抜いたまま止まる気配が無く、坊主頭が自身の力を制御出来ていない事をエスは察すると掌で目を覆い天を仰いだ。小声で神よ憐みたまえ、と呟いて。


 「なんっ」


 男が次の言葉を吐く前に決着はついた。

 首が一人でに飛んでいく。

 否。フルパワーで振るった坊主頭自身の腕が握っていた鉈がぐるんと一周すると、骨の折れる音と共に男の首を気前よく跳ね飛ばしたのである。


 「見ろ。これが英国名物、セルフギロチンだ。日本じゃ土下座や腹切りだろ? 英国ではこれが謝罪の最上級って訳だ」


 青褪めているユエシィと、坊主頭の仲間達。それとは逆に感心した、と何度も頷いているエスではまるで場の温度が違う。


 この状況に動じないどころか、楽しんでいる様にも見えるエスに対し、ユエシィは彼の精神が強いんじゃなく、ただ罪悪感とかそういう部分が壊れているんじゃないかと不安になった。


 「んな訳ないでしょうが……」

 

 ユエシィがエスの言う英国式切腹を否定する。

 言いながらユエシィは吐きそうになった。Comでは人死になど珍しくは無かったが、こうして目の前で首を刎ねて死ぬ人間を見たのは初めてであり、当然彼女にとっては衝撃的であった。人間の首が破裂したホースの様に飛沫を上げるのは無機物じみていて、それがまた彼女には気持ち悪かった。


 「あーあー、こっちまで血塗れじゃねぇか、相棒だけならまだしも俺まで巻き込みやがって……」


 血の雨が降ったせいで作り物っぽい大きな血溜まりが出来上がり、当然一番近くにいたエスとユエシィは血を浴びる事になった。生臭い血の臭いと、街そのものの臭気が混じり咽せる空気が生まれる。

 辛うじて吐かずにいたユエシィだったが、押し寄せる吐気の波にのまれてしまった。


 「──うええええ……」


 咽く彼女の目には反射的に涙が浮かんでいた。幸い朝から何も食べていなかった為、吐瀉物には何も混じっておらず、無色の液体だけが地面に跳ねた。

 

 肩を震わせている彼女をよそにエスは固まっている破落戸達へと目線を向ける。既に戦意喪失しているのか、男達はどうするべきか戸惑っていた。


 「お、オマエらがい、行かないなら、オレが行く、ど」


 くぐもった声が男達の中から上がる。始めに血走った目をした太った男がエスの視界に入ると、取り囲む群れが左右に開き、太った男に道を作り出す。そうしてエスと太った男が対面した。


 吐き終えたユエシィが呼吸を浅くしながら、口元を拭いエスの側に近寄った。太った男は血走った目をユエシィに向け、次いでエスへと向ける。周囲の群れからは「あいつ終わったな」「ちっ、俺たちに女は回ってこねぇな」などと愚痴を零している。


 「そ、そこの、女、名前、な、なんていう」


 太った男はユエシィを指差してエスに問う。


 「んな事知ってどうすんだ?」


 意味ないだろ、とエスが返す。ユエシィは横で「言うな……!」と念を押す。


 「ほっ、ふほっ。お、オレの愛人に、し、してやる」


 空気が漏れる様な音を出し、太った男はにちゃっとした笑みを浮かべユエシィを見つめている。


 「キモすぎる……」


 ユエシィは思わず声を漏らした。その言葉に太った男が即座に反応する。


 「ききききキモいってい、言ったか? ほほほっふほほっっ! 女、やっ、やっぱり愛人は、やめ! ど、どれい達とお、おんなじにする!」


 太った男は興奮して両手に斧を握り締めた。周囲の破落戸達は「本気だぞあいつ」「俺こえーよ……」と太った男を恐怖している。何が彼らを恐怖させているのか、エスの目には上半身裸で股間が盛り上がっているだけの薄汚い男にしか映っていない。


 「おいおいユエシィ、お前がキモいとか言って傷つけるから!」


 そう言ってエスはユエシィを責めると彼女は怒りの表情でエスを睨んだ。


 「バカッッ!!」


 彼女は太った男を指差した。


 「ふほっふほっ! ゆ、ユエすぃって言うのか、ふははっふほっ!」


 血走った目がユエシィを凝視する。太った男は興奮し、肌をぼりぼりと掻き毟ると、奇声を上げてエスへと向かっていく。


 「ほほぉーーー! ユエすぃぃいい!!」


 弛んだ巨体からは想像出来ない速度で太った男がエスの前に迫る。視界を埋める様に迫る圧は凄まじく、ユエシィは腰を抜かし、エスの横で座り込んで見上げている事しか出来ない。両手の斧は既に振り下ろされ、エスの頭蓋を砕こうとしている。


 エスはまるで動こうとしない、むしろ彼は太った男から視線を外していた。ユエシィは彼が油断して気付いていないのではないか、と焦る。思考が恐怖に染まる中、彼女はそれを振り切り声を発した。


 「エスぅぅ!!」


 彼女の叫び声が響き、太った男は歓喜の笑みを浮かべる。男の脳内を支配するのは快楽と勝利の確信である。欲望に塗れた腕を降ろせば、男の望み通りになる。涙を浮かべるユエシィの顔を見てそれは更に加速した。


 「はいよ」


 軽い返事が一つ返ってきた。

 声の後、太った男はその場に崩れ落ちる。既にその息は無い。確実に死んでいた。


 「……え」


 泣き顔をやめ、ユエシィは不思議そうな顔をする。


 「その顔すげぇ間抜けっぽいぞ」


 エスに指摘され彼女は涙を拭う。そうして改めて状況を確認した。


 太った男は傷もなく息絶えている。エスが何かした様な様子は無かった。彼女は改めてはみたが、結局何が起きたのかは分からなかった。


 「なにが……」


 彼女は不安げにエスを見上げる。


 「そりゃ企業秘密だ」


 エスはそう言って帽子を被り直して、周囲を見回す。取り囲んでいた男達はただ立ち尽くしているだけで、これ以上挑んでくる者はいなかった。



 ◇



 「さて、これ知ってる?」


 先程までエスとユエシィの二人を取り囲んでいた男達に向けて一枚の羊皮紙を見せ、エスが問う。


 羊皮紙には楕円型の目があり、瞳孔の中に宇宙が描かれている。その印はComの要注意団体の一つ、〈ゲヒルンミステリウム〉のものである。二人が欧州までこの組織を追ってきたのもそもそも、ユエシィの脳が奪われた事が原因であり、組織は欧州にあるという事だけは分かっていた。


 「どうなの」


 ユエシィが威圧的な様相で、男達に顔を近づけている。


 すると男達の中から一人声を上げる者がいた。


 「知ってるぞ」


 群れを分けて一人の変わった風貌の男が二人の前に現れた。百九○はあろう背丈に黒い中折れ帽と白髪混じりの黒髪、黒い革の長外套、その内に漆黒の喪服、背には男の背丈程の十字架を背負っている。周囲に抱かせる印象は死神か葬儀屋だ。十字架の男はユエシィに歩み寄ると、羊皮紙に何かを書き込んでいた。


 「ここだ。ここに奴らがいる。俺には関係は無いが、用があるんだろう」


 「あ、ありがとう……」


 戸惑いながらもユエシィは紙を受け取り、それに目を落とす。そこにはゲヒルンミステリウムの拠点までの地図が記されていた。


 「構わん」


 そうして十字架の男がその場を去っていった。ユエシィとエスはその背を見送ると、エスは「あー」と考えていた事を口に出す。


 「あいつ、さっきはここにいなかったよな?」

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