第3話 気になるあの子の意地
それでも僕は、店長にあの12万円を「期限なしで貸すだけだ」と押し付けて、しばらくアルバイトを休むことにした。
その間、理性を保つのは大変だった。なにしろ毎朝毎晩、シャワーを浴びた後は僕のぶかぶかの服を着てるのだから。顔が火照る思いで、下着も一緒に買いに行かなくてはならなかった。
その帰りに、ふらっと近所のお寺の境内に入ってみたりする。
傾いだ松の枝の緑が、夏の光に眩しい。青空の下で、僕の服を不格好に着た紫衣里の白い肌はやっぱりよく映えた。
それはそうとして、この娘は相変わらずよく食べる。エンゲル係数は一気に上がり、ついにはご飯に納豆だけが僕と彼女の前に並ぶことになり、そして……。
「食わないと気を失うとは……」
紫衣里によれば、あのスプーンは持っているだけで、ものすごいエネルギーを消耗させるらしい。
ましてや、それを使ったとなれば……。
極貧に輪をかけた絶対の危機に瀕してアルバイトのシフトを入れに行くと、12万円はまるまる返ってきた。
店長が寂しげに言った。
「そんな借りは作りたくないって無理してさ、体調崩しちゃったんだって」
黙って聞いていた紫衣里もまた、何か考えているようだった。
気になってフードコートに誘おうとしたところで、ゲームセンターにわざわざ挨拶して入ってきた者がいた。
「ごめんください」
佐藤だった。店長がそそくさと歩み寄ると、大きなポスターが1枚、手渡される。それは早速、店内に大きく張り出された。
《リタレスティック・バウト・ワールドタイトルマッチ》
夏休みの末に行われるらしい。
「いかがでしょう、紫衣里さん」
なぜか、声がかかったのは僕ではなかった。紫衣里は無言で、ゲームセンターから出ていった。
「あなたが欲しいんです、紫衣里さん」
例のフードコートでワンタンメンを前にした佐藤が口説きに掛かる。
「……本当のお名前ではないでしょうが」
「お前な」
あまりに失礼な態度に僕もいささかムキになったが、澄んだ瞳に見つめられると、その気持ちも一気に冷めた。
佐藤は居住まいを正すと、僕に向き直った。
「どういうご関係かは詮索しません。これまでは年配の方とあちこちを転々となさっていて、なかなか直接お話ができなかったんです」
何でも、あのスプーンを持つ女の子と、行動を共にする老人は世界中で目撃され、医療技術の関係者も血眼になって探しているらしい。紫衣里が力を貸せば、佐藤は「アルファレイド」全グループを挙げた新たな技術開発を始めるというのだ。
「このスプーンとあなたを必要としている人が、世界中にいるんです」
飢餓に貧困、戦争、あらゆる不幸を、佐藤は並べ立てた。
「私はこの計画に人生を賭けています」
そう言われると、僕も反論できない。だが、紫衣里はキッパリと言い切った。
「お断りします」
物を食う以外の用件で言葉を口にしたのは、これが初めてと言ってよかった。佐藤は怪訝そうに眉をひそめた。僕も意外だった。
澄んだ音で頭の中の火花がスパークした、あの時の感覚はよく覚えている。
あれが錯覚でないなら、人のために使わない法はない。
しかし、紫衣里は冷たく言い放った。
「そう、世界中に……あなたの言った不幸をもたらす人たちも」
言葉に詰まった佐藤は、僕に向き直った。
「いかがでしょう、この大会で優勝したら、私どもが奨学金という形で、プロを目指すための諸経費を負担するというのは」
信じられないほどうまい話だった。だが、それだけに迂闊な返事はできなかった。
これは、取引だ。
紫衣里の顔色をうかがうと、ものすごい勢いで大盛りのラーメンを啜っていた。
……任せる、ということか。
「すこし、時間をくださいませんか」
答える僕を、丼を両手で口に運ぶ紫衣里が横目で見る。ガラスの瞳はやっぱり冷たかった。
「では、1週間後に」
佐藤は名刺を置いて席を立つと、ショッピングモールの人混みの中へ消えた。
チャーハンを蓮華でカチャカチャすくいながら、紫衣里は僕と目も合わせずに言った。
「使うと大事なものを失うって、ずっと言われてきた。でも……」
それは、僕のために破られた。
佐藤の申し出を呑めば、世界が救われる。でも、あのスプーンを守ってきた紫衣里のプライドは深く傷つくことだろう。
この半月ほど、僕は幸せだった。極貧状態も、僕のシャツを着た無防備な寝姿も、多少の金銭には代えられない。
答えは、NOだった。
だけど、ラーメンのチャーハンセット大盛りを食べ終わって食器を返しに行く紫衣里は、一言つぶやいた。
「お友達のことは?」
振り向くと、ぶかぶかの服の細い背中で、黒髪が揺れている。
その声に嫉妬の響きがあったと思うのは、自惚れだろうか。
自分の部屋で、床に寝転がって考えた。
シャワーを浴びた紫衣里は僕のパジャマを着て、決断を促すかのようにガラスの瞳を向けていた。
紫衣里のスプーン。僕の進学。板野の修学旅行。
そこで思い出したのは、あのポスターだった。
《リタレスティック・バウト・ワールドタイトルマッチ》。
そこには、世界的に活躍するプロのe-スポーツプレイヤーたちも招待されていた。
名前と顔写真、得意とするキャラクターを思うだけで、全身の血がたぎる。
……決めた!
僕は佐藤の名刺を取ると、起き上がって電話を掛けた。
「条件があります」
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