5章・6節

「くそ」

 夕暮れの少し高台にある公園で、ベンチに座っていた土門は誰にともなく零した。

 もう暗くなり始めたためか、公園に人はいない。土門以外にいる者といえば、空を舞う烏と人間のこぼした食べ物のお零れを狙う猫くらいであった。

 何も出来なかった。その事実に土門は焦燥感に駆られる。自分が透達を守らなくてはならなかったのに。結果は反対だ。自分が透に守られた。そして今日、透に突き付けられた。

 じゃあ、はっきり言います。

 貴方では、足手まといです。

「透、凄いな」

 土門は空を見上げながら言った。あんな異常な世界で、毅然きぜんとして動いていた。彼は素直にそれに尊敬の念を感じた。しかし、別に男女差別をするつもりなど毛頭ないが、女の子に全面的に頼ってしまうという状況に、どうにも土門の劣等感が刺激されてしまった。

「俺じゃ、駄目なんかね」

「少年。お困りのようだな」

 聞き覚えのある声。土門が声のした方を見ると、それは以前に美術館前で老人であった。

吉備真人きびのまひとという。この前はどうも」

「何か用ですか? 道案内くらいなら、やりますけど」

 警戒しながら、土門は言った。

「いや、よい。ところで土門君、随分と悩んでいるようだね。悩みがあるのなら、聞くくらいなら出来るが」

「申し訳ないんですが、別にいいです」

 それを聞くと、真人はその口元を微かに歪めた。

「そうかね、それは残念だ。しかし、誰かに話しにくいというのもむべなるかな」

「俺、もう行きますんで」

 土門はベンチから立ち上がると、鞄を持ってその場を後にしようとした。

 しかし、真人から発されたその言葉が彼を止めた。

「え、今なん、て」

 土門は振り返り、目を見開きながら言った。

「聞こえなかったかね、土門君。、と言ったのさ」

 土門はその場に呆然と立ち尽くした。真人から発された言葉が金縛りの様に彼の動きを、そして思考を縛り付ける。

「いやしかし、ならず者共めが少し可哀想じゃのう。突然因縁を付けられてあの有様ではな。まあ仕方あるまいか。身から出たさびという奴だ」

「は? 何言ってんだよあんた」

 土門はやっとの事で口から言葉を絞り出した。呆けているのか、と土門は思った。それではまるで先に仕掛けたのは野球部、湯浅だという事になる。

 しかし、この奇妙な老人の言う事に土門は心当たりがあった。

 伝え聞いた話でしかないが、不良達はそんな事を言っていたらしい。先に手を出したのはあいつらだ、俺達じゃない、と。だが、明確に誰かが目撃したわけじゃない。だから、不良達は自分達が不利になるのを恐れてそう言っているだけだと土門は思っていた。それに野球部側の連中だってそう言って――。

 いや。

 もし野球部の人間が不良達になすり付けているのだとしたら。ふと、そんな事が土門の頭の中に浮かんだ。自分達が手を出したとあっては罪が重くなるから、丁度素行の悪い連中に押し付けてしまえば、罪は軽くなる。被害者でいられる。

 野球に情熱をかける高校球児と社会の落伍者らくごしゃ、どちらの声に耳を傾けるかは明白である。

 いや、そんなわけない、妄想だ。土門は頭から必死でその推測を振り払おうとする。

「儂はな、よーく知っておる。先に手を出したのはな、野球部の奴らじゃ。ああ、何と言ったかの。あー確かー、おおそうだ、湯浅とかいう小僧が真っ先に手を出したんじゃて」

「な」

 土門の表情が凍り付く。何で、よりにもよって湯浅なのか。

「おお、いい顔しよるわ。少しは興味を持ったかの」

「なわけねえだろ。おい爺さん、あんまり適当な事言うなよ」

 そんなわけある筈が。土門は必死でそれを否定する。

「適当なわけあるかい。何故なら儂は観てたのだからな、真実だよ。おお、信じられないなら写真を見せてやろう」

「何だと」

 真人は懐から布に包まれたものを取り出し、中の物をぶち撒けた。それは、写真だった。土門は地面にぱらぱらと静かに落ちていくそれらを見る。そして、その事実を認めた。

 ああ、本当だったのか。

「加工したんだろうなどと言ってくれるなよ。これほどの加工は流石に出来んよ」

「何でだよ」

「うん?」

「何でこれを警察に持って行かなかったんだよ、って聞いてる」

「何じゃ、小僧悪い奴だのう。儂がそんな事をすれば仲間の立場が悪くなるだろうに、あろう事か身内の不幸を願うとはな」

「そんなんじゃねえよ。んなもんわざわざ撮っておいて、警察にも持っていかないなんて変だって思っただけだ」

「ああ、そんなら答えは簡単だ。罪悪感があってな、持っていくのははばかられたんだよ」

「あんた、無関係だろ。何で罪悪感に駆られるんだ」

 「ふむ」と老人は顎をさする。

「なあ、少年よ。ギリシャ神話にメデューサという怪物がいるだろう」

「は?」

「メデューサは見た者の動きを止めてしまうという特別な眼を持っていたと言われている。いや、メデューサに限るまいて。少年、相手の眼を見るのを怖いと思った事はあるだろう。それはな、眼というものには魔力が備わっているからだ。だから、直視されると実に不愉快にもなるし、固まったりしてしまう。分かるか、眼というものは実に厄介だ。何故なら、眼というものはまじないの最適な流入口にして放出口だからだ」

「だから、何だってんだ」

「だがな、相手の動きを止めるというのは最もポピュラーな在り方だが、眼に宿る力は必ずしもそうとは限らない。色々あるんだよ。例えばそう、この儂のように、人の感情を昂ぶらせ扇動する眼とかね」

「扇動……」

 その言葉がいやに土門の頭に響いた。ぼんやりとだが、目の前の老人が言いたい事を土門は悟ってしまった。

「無から有を作れんがな、増幅させてやる事は出来るのよ。ああ嘆かわしきかな。如何に朗らかな人柄とて、社会の爪弾き者共を軽蔑せずにはいられなかったと見える。故に、私は手を貸してやったのだ」

「おい、あんた。何言ってんのか分かんねえよ。悪いけどさ、ぼけてんじゃないか」

 老人とは目を合わせないようにしていた。たが、土門は自身の頭に血が上るのをはっきりと感じる。手が震える、声が震える。

 だが、老人はそんな土門の忠告など全く聞こえていないようだった

「ああ、湯浅達だが実に見物みものだったぞ」

「おいやめろよ、てめえ」

 一瞬だけ間があった。風が枯れ葉を伴って通り過ぎた。

 真人は少しだけ口元を歪めながら、口を開いた。

「儂の合図一つで、まるで抑制の効かぬ子供のように不良共に殴りかかる様はな」

 自らを辛うじて留まらせていた、最後の一本の糸がぷつりと切れるのを土門は感じた。

「……ああ、てめえ、てめえええ!」

 土門は激昂し、真人に向かって駆け出し拳を振り上げた。しかしそうやって振り下ろされた拳は真人には到達せず、土門は勢いよく踏み込んだせいで転んでしまう。

「ふむ、悔しいかね。まあ悔しかろうて。何せ湯浅の小僧もその他の有象無象も全て、儂の玩具おもちゃでしかなかったのだからな」

 土門は真人を睨み付けるが、彼の持っていた杖で腹を突かれた。思わず土門は嗚咽おえつする。

「ほれ、そんなもんかの。お前の仲間にかける義憤とやらは。根性を見せてみるがいい。出なければ、湯浅の奴も報われまいて」

 畜生、土門は呻いた。この男は人間ではない。人の不幸を請い願い、それを心底嬉しそうに貪り喰らう外道だ。

 なのに、自分は、この男に一矢報いる事すら出来ない。

「ここまでか。存外腑抜ふぬけよの。まあよい、ではお前にはもう一働きしてもらうとするか」

 真人が手を伸ばそうとした時であった。

 鋭利な物が空を裂く音がした。真人は咄嗟とっさに音の発生源の方を向く。

 槍であった。槍の形をした赤い光が真人に向かって飛んで来ていた。

「ふむ、成程」

 槍が自分を目掛けて襲いかかっているにも関わらず、老人はそこに立ったまま動かなかった。その槍は空中で十数個もの槍に分かれ、老人と土門の二人の周りに突き刺さった。

「あ〜あ、避けた所を一突き、って算段だったのにな」

 女の声がした。土門がその声のした方向を見ると、公園より高い位置にある公園沿いの道、そこでおよそ三十代半ば程の見た目の、長い黒髪の女がこちらを見下ろしていた。

 女は跳んで公園へと降りてきた。もう冬になるというのに女はコートも着ず無地のワイシャツにライトブラウンのスラックスという寒々しい格好であった。きりりとしたその顔には薄っすらとした笑みが浮かんでいる。

「よお、御老体。私の縄張りで好き勝手やってくれてるじゃないか」

「何だ、お前は」

真羽櫻子まのはねさくらこだよ。知らんのか?」

「おお、春坂にあるあれか」

「そうだよ。しかしよくもまあ、好き勝手に暴れてくれたもんだ。覚悟は出来てるんだろ」

「何の覚悟かね」

 老人は踵を返し、真羽の逆方向へと跳躍しようとした。

 しかし、跳躍しようとした先にあったのは拳であった。真羽の拳は、老人の顔にめり込み、老人は勢い良く、弾丸の如く吹き飛ばされた。

 真羽はうずくまって顔を手で押さえる老人へと歩いていく。

「いい加減諦めちまいなよ。散々人を玩具にして甘い蜜を吸ってたんだろう。じゃあ今度はお前が私の玩具になる番だ」

 真羽が手をぐっと握って開くと、そこにはそれまでいなかった筈の拳大のおたまじゃくしの様なものが二つ生じ、老人へと襲いかかった。

 老人はさっきまで痛そうにしていたとは思えないくらいの速さで口から火を吹いた。しかし、その空中を滑空するおたまじゃくしは火炎をものともせずに老人の体に喰らいつく。

「くそっ。忌々しい、離れんか!」

 老人はそれらを体から引き離そうと手をばたばたさせるが、そのおたまじゃくし達は軽やかにそれらを避け、何度も何度も老人へと襲いかかった。

 やっとの事でおたまじゃくしを振り払った老人の目の前に真羽が立ちはだかる。

「大人しく茶でもすすってりゃそっとしといてやったのに。もう何もかもが手遅れだがな」

「ぬかすなよ」

 この時を待っていたとでもいうように真羽に襲いかかろうとした。真羽はにやりと笑い、老人の首根っこを掴もうとする。しかし首根っこを掴もうとした瞬間、老人の体は黒に染まり、やがて分化して烏の群れとなって上空へと舞い上がる。

 すかさず真羽は胸ポケットからライターを取り出し、それを飛び立った烏の群れに投げた。ライターはまるで風船の様に膨れ上がり、そして空中で爆発した。飛び立った烏は一羽としてその爆炎を逃れることは出来ず、その場にぱたぱたとボロ屑のように落ちていく。

「ん?」

 ふと、真羽は後ろの方を見た。そこには小さな黒鼠がいたが、あっという間に壁を登って公園の外へと出ていってしまった。

「ふん、惨めな奴め。まあいい」

 真羽は薄っすらと笑みを浮かべた後、土門の方へと顔を向ける。

「おい、そんな怯えた表情しないでおくれ傷付くじゃないか。繊細な乙女なんだぞ、私は」

「あんたは」

「あれ、知らない? 春坂の魔女ってこの辺じゃ有名な筈なんだけどなあ」

「魔女?」

「そう、魔女さ。春坂の魔女は魔女っぽいお姉さんじゃなく、本物の魔女だったってオチ」

 そう言って真羽は悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「あの、何とか、何とかなりませんか」

「え」

 真羽は首を傾げる。

「あいつの事。湯浅とか野球部の連中の事、何とか、ならないでしょうか」

「ああ、不祥事の件か。気の毒だが、私には無理だ」

「そんな。何か方法は」

 土門はそう小さく呟いてうつむく。

「記憶を改竄かいざんするっていうちょいと厄介な魔術がある。私はあんまりそういうのに詳しくはないが、それを使えば論理的には可能だ」

「じゃあ」

「落ち着け、少年。あくまで論理的には、だ。つまり、実質的に無理。だってね、ニュースになっちまった以上、不特定多数の人間の知る所になっちまったからさ。そんな何千何万の人間達に記憶の改竄を行えってのは無理な話だ」

「でも、あいつらは自分のせいじゃないのに」

 確かにあの老人の言う通り、不良達を疎ましく思う気持ちが湯浅達にはあったのだろう。だけど、そんなものは誰もが持ちうる至って普通の心情だ。それなのに、何故彼らだけがそんな目に合わなければならないのか。

 土門の呻くような声を聞いて真羽は申し訳なさそうに顔を背ける。

「ごめんね。魔術は万能じゃないんだ。君の友人や仲間を何とかしてやる事は出来ない」

 それを聞いて、土門は力なく俯く。

 騒動の後、土門は湯浅に何度も頭を下げられ、謝罪をされた。済まない、済まない、済まない。部室の床を湿らせながら、ただ、そればかりを言っていた友人。土門はその姿に何て声をかけてやればいいか分からず、ただ黙って聞いている事しか出来なかった。

「畜生」

 彼らがやった事は勿論許される事ではないだろう。だからこそ、彼らにどう接すればいいか分からなかった。なのに、それは仕組まれた事だった。彼らはもてあそばれ、人生に一生消えない傷痕を付けられたのだ。

「少年。顔を上げろ」

 はっとして土門は顔を上げると、真羽が表情のない顔で土門を見ていた。

「こんな事を言っても仕方ないとは思うが、誰も死んじゃいないんだ。せいぜいが数人程度の骨折。そりゃあ精神的なものは残るかもしれないが、人生棒に振った、ってのにはまだ程遠い。人は結構薄情だからな、この不祥事も数年すれば皆の記憶から薄れちまうよ」

「だからって」

「少年よ。人の事を思いやるのは君が優しい証拠だ。だが同情し過ぎるな。勝手に君が想像を膨らまして苦しんでも誰も得はしない」

「ええ。分かって、ます」

 湯浅達を勝手に思って苦しむのは只の自己満足だ。自分が悦に浸る以外の意味はない。

「なあ。そういえば君の名前って何だっけ?」

「え」

 さっきとは打って変わって朗らかな声に変わり、土門は呆気に取られた。

「名前だよ、名前。まさか名無しさん太郎とか言うんじゃないだろう」

「土門誠、です」

「そうか。つちかどまこと、か。なあ、土門君」

「何ですか?」

「敵討ちってわけじゃないが、ちょいと私に手を貸してくれないかな」

 そう言って、真羽は不敵な笑みを浮かべた。


「上がりなさいな。あ、洋館だけど土足禁止ね」

 玄関で真羽は言うと、靴を脱いで館の中へ入っていった。土門も靴を脱ぎ中に入る。

 土門は玄関から見える廊下を見回す。中はイメージしていた洋館のそれと同じであった。

「ん、どうした?」

「いえ、別に。こういう所での生活ってどんなんなんだろって思っただけです」

「別に、一般的な家庭とそんなに変わらんと思うよ。中身は現代風にリフォームしてるし」

「そうなんですね」

「ここね。昔曰く付きで誰も買い手が付かなくなっててさ、客寄せにも使えないしで破格の値段で売られてたのを私が買い取って改築したのよ」

「はあ」

 真羽は居間と思しき所へと入って行き、土門もそれに従う。

 居間も一見すると特に変わった場所ではなかった。テレビやノートパソコン、電子レンジなどの現代的な家電類などがアンティークな置物や調度類に混ざっているが、これといって特筆すべきものがあるわけではない、と土門は感じた。

 さりげなく居間を見回してる土門を見て、ははあ、と真羽は笑みをうかべる。

「土門君。ひょっとして魔法っぽい何かを期待してた?」

「い、いえ、別に」

「隠さなくてもいいよ。へえ、案外夢見がちなんだね。可愛いくて結構。何処かのませ過ぎて枯れきった少年とは大違いだ」

 真羽は居間の中心部分にあるソファにどさりと座る。

「まあ座んなさい」

「はい」

「何なら隣に座ってもいいよ?」

 土門は目を逸らしながら向かいのソファに腰を下ろした。

「なんだ、つれないね」

 真羽は少しだけ口元に笑みを浮かべながら言った。土門は、彼女の言動が今いち読めず、困惑を隠しきれないでいた。

 ふと、土門が脇を見ると、小さな人形がいそいそと配膳をしていた。その人形はゆっくりとだが、配膳版の上の黒い液体で満たされたカップと砂糖などを机の上に置いていく。

「ああ、そうだった済まない。コーヒーで大丈夫だったかな?」

「あの、これは」

自動人形オートマタって奴さ。知り合いに作ってもらったんだが、凄いもんだろう」

「え、ええ」

 突如として現れた非日常的なものに土門は意表を突かれ、変な声音で返答してしまった。

「そういえば、土門少年は魔術的な業界とは無縁だったね」

「……正直、ここ最近信じられない事ばかりです。妙な男はいるし、妙な子供はいるし、知り合いの女の子がそれの関係者っぽいし」

「ん? 知り合いってのはひょっとして滋丘透の事か」

「知ってるんですか? 滋丘の事」

「まあね、少しは。君は何処まで知ってる?」

「本人から聞いた訳では無いんですが、昔、滋丘家はそういう筋の家系だったとか」

「正確にはだった、ではなく今もなのだけれどね。ただまあ、私がこっちに拠点を移した時はもう当主らしい当主は居なくなってて、幼いあの子しかいなかった」

「そうなんですね」

「あ、父君はご存命だよ。西区の方に住んでるみたい」

「どういう事ですか? さっき、当主は居なくなったって」

「単純な話さ。父親は跡を継がなかった」

「継がなかった?」

「そんな不思議な顔しなさんな。今時珍しいもんでもないだろう。職人の子が跡を継がないとかそんなのはさ」

「それはそうですが」

「世知辛い話でね、今時、魔術師なんてのは金にならないんだ。だから彼女の父親は極々常識的な判断をしたというだけだ」

「はあ」

「と、そんな事は今はいい。こっからが本題なんだけど、君はさ、少なからずもさっきの男にむかっ腹立ってると考えてもいいかな」

 土門はこくりと頷いた。今でも、土門は先程の事を反芻はんすうすると怒りが込み上げて来る。

「何なんですかあいつは? 人の不幸を喜んだり、気味が悪いし、何より頭がいかれてる」

「そうだな。色々あるが、とりあえず言えるのは、あれは人間の成れの果てだ」

「成れの果て?」

「そうさ。怨霊と言うのを聞いた事があるだろう」

「ああ、真夏の心霊特番とか、ホラー映画とかに出てくる奴なら」

「うーむ、近い様な遠い様な。ほら、天神様とか聞いた事あるでしょ、日本史とかで」

「天神様って、菅原道真ですか?」

「そうそう。端的に言うとね、あの男、吉備真人はそういう手合いなんだ」

 土門はそれを聞いて眉をひそめる。

「同じにするな、って顔だね。だが実際そうなんだ。元を正せば天神様だって祟る者だ。吉備真人もそうさ。だが、これら両者の間には違いがあった。天神様は神として祭り上げられ、今や人に益をもたらす存在になったが、真人はそうはならなかった。怨霊ってのは祭り上げられるまでがワンセットなんだが、何故奴がそうならなかったのかは分からない。都合良く鎮魂されるのを拒んだのかもしれない」

 土門は少しだけ目を伏せる。一般的な認識でしかないが、怨霊とは何かしら恨みを残して死んだ者だという。なら、あの男もそれに足りうるだけの何かがあるという事なのか。

「昔ね。とある地域に貴族の男がいたんだ。その男は元を辿れば大変高貴な血筋に合流するし、男自身も品性が優れ、教養があり、武芸も達者だった。お陰様で市井の評判も上々、ゆくゆくは太政官などと持てはやされていた。しかしある時に起きた戦が彼の運命を変えた。何が起きたと思う?」

「……戦は男を討つためのものだった」

「冴えてるね。そうだ。表向きは夷狄いてきとやらを討つという名目だったが、本当の目的は厄介な存在になりつつあったその男をほうむる事だった。やあ、やるせないね。男は質実剛健、誠実を形にした人間だったのに。まもっとも、だからこそ厄介な存在になったわけだけど」

「それで、どうなったんですか?」

「ああ、討たれたよ。まあそうだわな。数人じゃ、何万もの軍勢に勝てるわけない」

「は、数人?」

「ああ、数人だ。仲間に裏切られ、親友に裏切られ、兄弟に裏切られ、父親に裏切られ、母親にだって裏切られた。男は信じていた者全てに裏切られたんだ。何万も下らなかった筈の彼を慕っていた者達は、最期には五本指で数えられるくらいになってしまっていた」

 土門は息を呑む。想像が付かない。そんな奈落に落とされたかの様な人間の気持ちなど。彼は、自分がソファに貼り付けられた様に体が動かなくなっていた事に気が付いた。

「その後、特に天変地異も起きなかったので特別その男を祀り上げる様な事はされなかった。だがしかし、だ。怨霊は確かに誕生していたのさ。以来、奴はじわじわと目立たない程度に人を、特に

「それで今に至る、ってわけですか」

「ああ。だが奴は只の悪霊ってわけじゃないんだ。時に気まぐれを起こして貧しい少女を――いや、何でも無いや」

 真羽は顔を逸らし、また顔を上げた。

「今も同じ事を続けているって事は怒りは消えてない、って事ですか」

「さあね。もう奴は自分の怒りの源が何だったのかも忘れているかもしれん。只、根源の分からぬ人類への憎悪の様なものが奴を突き動かしているのかもしれんし、そうでもないかもしれん。こればっかりは本人に聞かないとね」

「そうですか」

 土門は目を細める。拳は震えていた。

「あー、少年。憐れな男ではあるが、だからって奴に同情する必要はないぜ。それにさ」

 土門の考えている事を察したかの様に真羽は言った。

「私の縄張りで好き勝手してくれたからな。最初は大目に見てやったがもう看過出来ない」

はらったりするって事ですか?」

「有り体に言うとそうだね。で、君はどうする? ここに連れて来といてなんだが、別に君が関わる事はないんだ。だがもし関わるつもりがあるというのなら、協力してもらえると助かる。人手は多い方がいいからね」

「協力って何すればいいですか。それ次第です」

「成程。確かにな。何、簡単な事だ」

 そう言って真羽はにやりと笑った。

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