止まりたい、止まれない!?

 展望台の駐車場を出て、渋山峠を一気に下る。上る時は死ぬ程しんどいのに下るのは楽ちんだ。もっとも『楽ちん』だと言ってもペダルを回さなくても進むから足と呼吸が楽なだけだ。4キロにも及ぶ長い下り坂なのでブレーキで速度を調整しないと、それはもう恐ろしい事になってしまう。だからブレーキを握る指と腕は下りの方が遥かに辛い。もっとも上りではブレーキを使う場面など殆ど無いのだけど。


 とは言ってもやっぱりダウンヒルは快適だ。もちろんコレは季節に思いっきり左右される。今が夏だから『快適だ』なんて言っていられるだけなのだが、トシヤもマサオもロードバイクに乗り始めてまだ半年、冬のダウンヒルの辛さなど考えた事など知る由もないのだ。


 ダウンヒルの途中、マサオは『ルナが一人で上ってこないかな……』などと考えたりしていたが、当然の事ながらそんなうまい話がある筈も無く、それどころか擦れ違うのは車ばかりでロードバイクなど一台たりとも上って来ない。まあ、お昼のクソ暑い時間にヒルクライムに挑む様な物好きなどそうそういないという事だろう。


 熱い風を切る事十分弱、麓の交差点の信号が見えた時にはトシヤとマサオの腕はパンパンだ。ちなみに今、信号は青。出来ればこのままノンストップで交差点を通過したいものだが……

 トシヤがそう思った瞬間、信号が黄色に変わった。はっきり言ってコレは一番イヤなパターンだ。


 この信号はダウンヒルの時は左カーブを抜け、右カーブに侵入した辺りから見える。信号が見えた時、既に赤だったら問答無用でブレーキをかけ始めるしか無い。逆に言えば余裕を持ってブレーキをかけ始める事が出来る。しかし、この場合は信号が青だと認識してから黄色に変わるまでに走った分だけ短い距離・短い時間で止まらなければならないのだ。


「止まれぇぇぇぇ」


 トシヤが思いっきりブレーキレバーを握るが、その努力も虚しくリアクトの速度はあまり落ち無い。そんなうちにも交差点、赤信号はどんどん迫ってくる。


 ロードバイクのハンドルはドロップハンドルだ。このドロップハンドルは状況に応じた様々な持ち方が出来る。トシヤは基本中の基本と言える『ブラケットポジション』つまり、STIレバーのブラケット部分を握っている。もちろんコレがダメだと言うわけでは無い。ただ、この持ち方よりもハンドルの下の部分を握る、所謂『下ハン』の方がブレーキレバーを握る際にテコの原理が上手く作用し、ブレーキをよく効かせられるのだ。


 とは言うもののこの『下ハン』はただでさえ低いハンドル位置の一番低い位置を持つのだからダウンヒルだと前にひっくり返ってしまいそうで恐ろしく怖いのだ。


 必死にブレーキレバーを握るトシヤだが、いくら握る力を強くしたところでブレーキの効きには物理的限界が二つある。


 一つはタイヤのグリップの限界。タイヤがグリップしてこそ進む事も止まる事も出来るのだが、下り坂のブレーキングでは後輪の荷重が少なくなり、グリップを失いやすくなる。その分前輪の荷重は増えてタイヤのグリップが良くなるのだが、グリップが高くなればなる程限界を越え、タイヤがロックしてしまった時は一気にブレーク、滑ってしまって転倒・落車の危険性が跳ね上がる。

だが、現在のトシヤではその心配は無い。フロントタイヤをロックさせられるぐらいなら、とっくに停止出来ているだろう。


 問題はもう一つ、ブレーキの剛性だ。

 ロードバイクのリムブレーキは『速度を調整するという役割がメインで停止する事はあまり考えられていない』と言われていた程、その出せる速度に制動力が見合っていない様に思える。今でこそ強力な制動力を誇る油圧ディスクブレーキがロードバイクにも普及してきているが、まだまだ従来通りのリムブレーキも健在だ。このリムブレーキとはゴムで出来たブレーキシューをホイールのリムに押し当てて摩擦の力で運動エネルギーを熱エネルギーに変換して制動力を得るブレーキシステムで、早い話がママチャリと同じブレーキシステムだ。もっとも同じだとは言ってもその精度や剛性には天と地ほどの違いがあるのだが。


 そしてココで問題になるのがもう一つの限界、キャリパーブレーキの剛性の話だ。トシヤのリアクトのブレーキは105、デュラエースの二つ下のグレードだ。普通に走っている分には必要にして十分な性能を持っているが、ダウンヒルでのハードブレーキングという今の状況ではちょっとばかり心許無い。

ブレーキシューをリムに押し付ける力がある一定以上に達すると、そこから更にブレーキレバーを握り締めてもその力はブレーキキャリパーを歪ませる方に食われてしまい、制動力はあまり強くならない。しかしそれでも止まらない以上はブレーキレバーを必死に握るしか無いのだ。


 そんなうちにも停止線は容赦無く近付いて来る。こうなれば最後の手段を使うしか無い。



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