第90話 トシヤとハルカ、初めての共同作業

 修理と言っても出先でパンク修理をするわけでは無い。単に予備のチューブに交換するだけだ。

 ハルカはサドルバッグからタイヤレバーと予備のチューブ、そして携帯ポンプを取り出し、慣れた手付きでまずはエモンダをひっくり返して自立させるとクランクを回してギアをトップに入れた。次にリアブレーキをリリースし、リアホイールのクイックを起こすとディレイラーをずらしながらホイールを引き上げ、チェーンを躱してリアホイールを外した。


「ハルカちゃん、凄いな」


 トシヤも出先でパンクした時の為に何度かタイヤを外してみた事があったが、こんなに手際よくは出来なかった。フロントは簡単だが、リアはチェーンがスプロケットに絡んだり、クイックに引っかかったりして手こずる事が多かったのだ。まあ、初心者にありがちな事なのだが。


「慣れよ、慣れ」


 ハルカは言いながらホイールを寝かせてタイヤレバーを掛けた。さあ、ココからは力仕事だ。

 三本のタイヤレバーを駆使してホイールからタイヤを外すのだが、初めのうち、特に最初の一発目は結構力が要る。そこでトシヤの出番だ。ハルカと交代したトシヤだったが、実はタイヤレバーなんて使うのは初めてだ。上手くビードを掴む事が出来ず、何度も引っ掻いているうちにビードが削れ、ボロボロになって行く。これでは面目丸潰れだと焦るが、いかんせん初めてする作業なので焦る気持ちとはうらはらにタイヤは外れる気配が無い。


「トシヤ君、もしかしてタイヤ外すの初めて?」


 見かねたハルカが尋ねると、トシヤは恥ずかしそうに頷いた。


「……うん。やり方は知ってるんだけど、いざやってみると思うようには行かないね」


 知っているのと出来るのとでは大違いだ。しかもやった事の無い事をハルカのエモンダで実践しようとはトシヤも恐れを知らない男だ。


「でしょうね。もっとタイヤを押してビードを浮かせないと一生外せないわよ」


 言いながらハルカがトシヤの横から手を伸ばし、タイヤを握り込む様にぐいっと押し込むとリムとビードの間に僅かな隙間が出来て、中からチューブが見えた。


「ソコに突っ込んじゃって。チューブは交換するから気にしなくても大丈夫よ」


 ハルカの指示に従ってトシヤがタイヤレバーを差し込み、ツメをビードに引っ掛けた。後は梃子の原理を利用してタイヤレバーをひっくり返してタイヤをリムから外すのだが、コレが硬い。何しろ携帯用のタイヤレバーの長さは10センチぐらいしか無いので梃子の原理があまり働かないのだ。

 ミシミシと音を立ててしなる樹脂製のタイヤレバーが折れるんじゃないかと不安を抱きながらトシヤが力を込めるとベコンっと音を立てて無事に最初の一発目、タイヤの一部がリムを乗り越えた。ココまで出来れば後はもう楽勝だ。タイヤレバーの反対端をスポークに引っ掛けて固定し、残る二本のタイヤレバーを使って同様の手順を繰り返してタイヤの全周の三分の一程を外してやれば残りは指で外す事が出来る。


 ホイールからタイヤを外すと言ってもチューブの交換の為なので片面だけ外れればそれでOKだ。トシヤがバルブのナットを外し、チューブを引っ張り出している間にハルカは予備のチューブに少し空気を入れ、少し考えた結果チューブは自分で入れる事を決めた。


「ありがとう、トシヤ君。ココは私がやるから、後でタイヤ嵌めるの手伝ってね」


 ロードバイクのタイヤチューブは細く薄いので、捩れた状態で入れてしまうと空気を入れた時に破裂してしまう。初心者にありがちな失敗ではあるのだが、せっかくの苦労が水の泡となる上に予備のチューブまでも使えなくなってしまう(トシヤも予備のチューブは持っているだろうが)のだからコレは何としてでも避けたい。

家でだったらトシヤに練習にチューブを入れさせても良いのだが、出先でとなると冒険は出来無い。この暑い中、もう一度タイヤを外すなんて事はゴメンだ。そんなハルカの気持ちを理解したのかどうかは定かでは無いがトシヤは素直にホイールをハルカに渡した。


 ハルカはチューブを入れる前にタイヤに異物が刺さっていないかをチェックした。コレを忘れると、せっかくチューブを交換しても同じ所がパンクしてしまうから要注意だ。

 だが、幸いにも異物は発見されなかった。ただ、タイヤに小さな穴が一つ空いていたので何かがタイヤを貫通してチューブにまで到達し、チューブに穴を空けて抜けてしまったのだろう。まあ、タイヤに異物が刺さったままだとソレを除去するのに手間取る事もあるので良かったと言えば良かったと言えよう。

タイヤのチェックを終えたハルカはバルブの部分からチューブを捩れない様に注意しながら入れ、タイヤを嵌めだした。外す時は最初の一発目が固いが、嵌める時は最後の一発が固い。それと半分ぐらいまではペコペコと簡単に嵌めていけるのだが、ある程度嵌めていくと上手く押さえていないとせっかく嵌めた所が外れたりする。コレは身体が小さく手の短いハルカにはちょっとばかり厄介だ。


「トシヤ君、お願い出来るかな?」


 厄介だとは言ったが、ハルカにも出来無い事は無い。『お願い』する事でトシヤを立てているのだ。もちろんトシヤが断るワケが無い。


「OK、任せて」


 笑顔で答えたトシヤはぎこちない手付きながら、あと一歩のところまでタイヤを嵌めた。だが、その『あと一歩』が強烈に固くて嵌める事が出来無い。


「かってーな、こりゃタイヤレバー使わなきゃダメだな」


 トシヤが音を上げたところでハルカがまたタイヤレバーを手にし、リムに掛けた。そしてそのままタイヤを嵌めてしまうかと思ったら手を止めた。


「じゃあ、このままグイっとやっちゃって」


 タイヤレバーを掛ける時はチューブに傷付けない様に気を付けなければならない。だからそれはハルカがやって、最後はトシヤに花を持たせようと言うのだ……って、それぐらいで花を持たせるも何も無い様な気もするが。


「わかった」


 トシヤがタイヤレバーに徐々に力を加えていくが、予想以上に固い。まあ、タイヤの銘柄によってビードが固いのやそうでも無いのがあるが、ハルカのタイヤはどうやら固いヤツみたいだ。


「大丈夫だから一気にやっちゃってちょうだい!」


 ハルカの声にトシヤが「えいやっ」とばかりに力を入れるとブリュっという手応えと共にビードがリムを乗り越え、無事にタイヤは嵌った。慣れている人なら何でも無い事だが、今まで自転車のパンク修理は自転車屋に任せていたトシヤにとっては初めての経験だ。もっともロードバイクのタイヤは銘柄によってはビードが妙に固いモノもあるので普通の自転車のパンク修理とは比べられないかもしれないが……


「ふうっ、やっと嵌ったか」


 トシヤが安堵の溜息を吐きながら呟いた。あざとい女の子ならココで「すごーい。さすが男の子、力があるわねー」などと言うのだろうがハルカはそんな事はしない。


「うん、ありがとう」


 笑顔で言うとホイールを回してビードがタイヤに噛まれていないかチェックしてリムナットを装着し、バルブを緩めた。そう、今から地獄のポンピングが始まるのだ。

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