第4話 無謀な挑戦
帰り道も順調だ。少々車は増えて後ろには気を遣うが、幅寄せしてくるバカな車に遭う事も無く快適に距離を稼いでいく。初めは驚愕した固い乗り心地にもすっかり慣れ、レーシングバイクに乗っているという実感がひしひしと湧いてきてペダルを思い切って回すとサイクルコンピューターは結構なスピードを表示する。
「リアクト、最高だ!」
ロードバイクを手に入れた喜びを感じながら走るトシヤ。昼前には川沿いの景色の良い道を走り終わり旧街道へと入ったが、まだまだ元気だ。
「俺、結構いけるじゃん」
初めてのロングライド(くどい様だが彼にとってはだ)も終盤となり、余裕のトシヤ。次の交差点を西へ曲がれば市街地を抜け、家に帰る事が出来るのだが、ここでトシヤは初心者にありがちな無謀な考えを起こしてしまった。
「ここを東に曲がれば峠に行けるんだな……」
体力にはまだ余裕が有る。なら、この勢いで峠だって駆け上ってやる。そう、彼はヒルクライムにチャレンジしようと思ってしまったのだ。
西へ曲がる予定だった交差点を東に曲がり、トシヤは峠を目指した。
東へ曲がって少し走ると、緩い勾配が始まった。トシヤはギヤを落とす事も無くサドルに座ったまま、所謂シッティングのポジションでペダルを回し続けた。さすがに若いだけあって体力はある様だ。スピードが少し落ちただけでグングンと坂を上って行く。突き当たりに当たってしまったのでスマホのナビで確認すると、どうやら峠はもう少し北の様だ。左に曲がって田舎の住宅街といった感じの道を走ると少し大きな東西に走る道との交差点に出た。そこにはこれからヒルクライムに挑むのであろう二台のロードバイクが停まっている。トシヤの姿に気が付いたのだろう、二台は軽く会釈をするとスタートした。
言うまでも無い事だが、日本では自転車は左側通行だ。トシヤは交差点を渡り、さっきまで二台が停まっていた場所に足を着くと背中のポケットからすっかり温くなってしまったスポーツドリンクを口に含んで一息ついた。目の前には長い上り坂が緩やかな左カーブを描きながら伸びている。先行した二台がカーブの向こうに消えて見えなくなってしまったところでトシヤはクリートを嵌め、リアクトをスタートさせた。
朝に走った山を迂回するコースと違い、ここはガチの山越えの峠道。トシヤは若さに任せてペダルを思いっきり回した。まだ勾配はそんなにキツく無く、徐々にではあるがスピードは乗っていく。ほんの数分で二台に追いついてしまった。
「へへっ、やるじゃん、俺」
ほくそ笑みながら前の二台を観察すると、一人は黒い長髪で、もう一人は茶髪のショートカット。二人共妙に尻がプリプリしている。足も筋肉質ではあるが、細くて長い綺麗な足だ。
「この二人って、女の子じゃないのか!?」
トシヤはまじまじと前を行くロードバイクを、いや、ロードバイクのシートに乗っているお尻を見つめた。間違い無い。アレはどう見ても男のケツじゃ無い、女の子のお尻だ。
ヒップラインが出るのを嫌う女性の為にレーパンの上から着用するサイクルスカートなんてモノも売られていたりするが、この二人は見事なまでに健康的なヒップラインを惜しげもなく晒している。いやぁ眼福眼福……いつものトシヤならそう思っただろう。しかしこの時の彼は違った。
「この程度のスピードなら抜けるな」
トシヤはチラッと後方を振り返り、車が来ていないのを確認すると、ペダルに力を込め、右側から追い抜きにかかった。
「あらっ、元気良いわねー」
「本当、あのペースで走りきれたら大したモノですよね」
追い抜きざまに二人の声が聞こえた。そんな風に言われたら是が非でもこのペースを維持して上らなくてはなるまい。しかし威勢良く二人を追い抜いたのは良いものの、無駄なアタックでトシヤの足はかなり削られてしまった。ヒルクライムはまだ始まったばかりだというのに。
勾配が段々キツくなり、呼吸は荒く、足は重くなってくる。だが、一度抜いた相手に抜き返されるのは嫌だ。ましてや相手は女の子なのだ、トシヤは気合と根性でペダルを回したが、気合と根性だけでどうにかなるものでは無い。スピードはどんどん落ちていき、サイコンの速度を示す数字は一桁となり、遂には二人の女の子に追いつかれてしまった。そして彼女達はふらふらと蛇行気味に走るトシヤをあっさりとパスし、シッティングのままカーブの向こうに消えてしまった。と、同時にトシヤの心が折れた。ブレーキをかけるまでも無くサイコンの速度を示す数字がゼロになり、慌ててクリートを外して足を着いたものの、リアクトは重力に引かれてズルズルと後退しようとする。咄嗟にブレーキを握り締め、何とか立ちゴケを免れたトシヤは呼吸を荒げながら項垂れ、自分の思い上がりを後悔するばかりだった。
その場から動く事も出来ず、体力の回復を待つトシヤを何台かのロードバイクが追い抜いていった。また、上からもロードバイクが何台か駆け下りてきた。駆け下りてきた人のほとんどは会釈をしてくれ、中には「頑張れ」と声をかけてくれる人もいたが、疲れきったトシヤは会釈を返すのが精一杯だった。
どれぐらい休んだだろう? トシヤはまたリアクトをスタートさせた。だが、ノロノロとしか進めない。軽かったリアクトがとてつもなく重く感じる。サイコンの示す速度はずっと一桁のままだ。何度も足を着いて休みながら必死に走るトシヤの目に道が大きく左に弧を描きながら上っているのが見えた。この峠の最初の難関、通称『第一ヘアピン』だ。必死にペダルを回すトシヤだったが、カーブの途中でまた足が止まってしまった。クリートを外して足を着く事は出来たが、焦って勢い良く足を着いてしまった為、上り坂で荷重の抜けているフロントタイヤが浮き上がり、リヤタイヤを軸にして九十度転回、真横を向いて止まってしまった。
「ダメだ……帰ろう……」
右足のビンディングも外してリアクトを降りたトシヤは安全を確認してからトボトボとリアクトを押してUターン、対向車線に移動した。
「きっと今日はいっぱい走った後だから疲れてたんだな……」
言い訳を探しながらのろのろとペダルに足を置き、クリートを嵌めゆっくりと走り出す。下り坂なのですぐにスピードが乗るが、トシヤの心は踊らなかった。ついさっきまで、初めてのロングライドで楽しかったのに。自分がまだまだヒヨっ子なのだと思い知らされた気分だった。
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