ヒルクライム・ラバーズ ~初心者トシヤとクライマーの少女~

すて

第1話 買うぞ! ロードバイク!!

『何故山に登るのか? そこに山があるからだ』


 こんな言葉を耳にした事があるだろう。これは山に魅せられた一人の少年トシヤの物語……などでは無い。この少年、登山家でも冒険者でも無い。これはとある私立高校に入学したばかりの普通の少年トシヤの話だ。

トシヤはこの日、大枚(彼にとっては)を握り締め、スポーツ自転車のショップに来ていた。


「ドグマかっけぇなぁ……あっ、サーヴェロのS5だ。凄ぇ、初めて見た」


 ショップを華々しく飾るイタリアンロードバイクに目を奪われるが、一介の高校生に買えるシロモノでは無い。予算は二十万円、お年玉をコツコツ集めた全財産だ。しかもそれでヘルメットを始め用品一式を揃えなければならないのだ。


 夢のスーパーバイク(と言っても自転車だが)の前から離れ、店内をぐるぐる見て回っていた彼の目に一台のロードバイクが止まった。プライスシートには『型落ち最終処分』と書かれ、その下に記載されてある数字に彼の目は踊った。


「これなら買える!」


 トシヤは心を躍らせてその車体の仕様をチェックした。


「フレーム・フォークはカーボン、コンポは105。言う事無しだ」


 ロードバイクは車体であるフレーム、変速機やブレーキ等のコンポ、そしてホイールとタイヤでほぼ全てが決まると言って良いだろう。ロードバイク選びでは彼が口にした『カーボン』そして『105』と言うのが重要なキーワードとなる。一番大切なフレームの素材は現在クロモリ、アルミ、そしてカーボンが主流で、ロードバイクの中でも特に『ロードレーサー』と呼ばれる車体はカーボンが使われる事が多い。『カーボンキラー』と呼ばれるキャノンデールのアルミフレームもあるのだが、軽さと剛性、そして乗り心地を高いバランスで実現しているのがカーボンなのだ。

 そして『105』これはシマノと言う日本のメーカーが出しているロードバイク用のコンポで、上のグレードから『デュラエース』『アルテグラ』『105』『ティアグラ』『ソラ』『クラリス』『ターニー』の七種類の上から三番目のグレードだ。ロードバイク乗りには『最低105』と言う言葉が有り、初心者にアルテグラはちょっと贅沢だがティアグラでは物足りない。価格的にも性能的にもバランスが取れているのが『105』と言う訳だ。


 だがトシヤは大事な事を見落としていた。そう、消費税だ。しかもロードバイクの完成車にはペダルが付いていないので、別に買わなければ漕ぐ事が出来ない。しかもスタンドもライトも付いていないのでこれらも買う必要が有る。あと、ロードバイクのタイヤの空気圧は8キロ前後と非常に高く、マメにチェックしなければならない。しかもバルブが一般的な自転車の英式バルブと違い、高圧に耐えられるフレンチバルブとなっている為、空気圧計の付いた専用の空気入れも必要だ。店員に話を聞いているうちに車体以外に買わなければならないモノがどんどん出て来る。最終的にそのロードバイクに乗るには彼の手持ちの殆どを注ぎ込まなければならないと判明した。これではヘルメットやウェア、そしてビンディングシューズに回すお金が無くなってしまう。


「やっぱカーボンは無理だな」


 トシヤは残念そうに言うとアルミフレームのロードバイクを見る事にした。それなら、手持ちのお金で装備一式もなんとか揃えられそうだからだ。


「コレなんかどうだい?」


 話を聞いた店員が赤と黒に塗り分けられたロードバイクを出してきた。


「メリダのリアクト400。アルミだけどエアロフレームだし、フォークとシートポストはカーボンだよ。セール最後の一台、君の身長からサイズはオッケーじゃないかな」


『メリダ』はジャイアントと同じ台湾の自転車メーカーだ。他社のOEM生産で培った技術で自社ブランドのメリダを開発、最近はレースでも名前を上げてきている。そのエアロモデルのリアクトのエントリーモデルがリアクト400。コンポはクランクを除いて105が使用されている。彼はリアクトを舐める様に見回した。値段も手頃だし、何と言ってもマットブラックに差し色の赤が入ったエアロロードはいかにも速そうで格好良い。トシヤの中二心をくすぐるスタイルだ。跨らせてもらってドロップハンドルを握ると低く構えた姿勢となり、今すぐにでも走り出したい気分にさせてくれる。トシヤは大きく頷いた。


「うん、コレにします」


 バイクは決まった。次はウェアだ。ロードバイクに乗る時のウェアと言えばピチピチのレーシングパンツ通称レーパンに、これまたピッチピチのサイクルジャージだ。あと忘れちゃならないヘルメットとビンディングシューズ。赤黒のリアクトに合わせたコーディネートを試みると、漫画に出て来る走り屋っぽいと言うか……はっきり言って中二臭い。しかし彼は試着室で鏡に映る自分の姿に見蕩れていた。シューズとペダルを固定するビンディングはマウンテンバイク等にも使われるSPDでは無く、ロードバイク用のSPD‐SL。これ用のシューズはペダルに固定する為のクリートと呼ばれる器具を付けると実に歩きにくいのだが、せっかくロードバイクに乗るのだからと割り切った。

 なんとか予算内で全ての品物が揃った。支払いを済ませて懐は涼しくなったが心は熱くなった。


「これで俺もローディーの仲間入りだ!」


 店員の話によると、二時間もあれば納車整備をして乗って帰れるそうだが、ポンプやらスタンドやらウェアやらの用品全てをロードバイクに積む事は出来ないのでとりあえず今日のところは用品一式を持って帰り、明日乗って帰る事に話は決まった。


「ありがとうございました~」


 店員の声を背にショップを出たトシヤ。気分はもうすっかりローディーだが、彼は知らない。ロードバイクの楽しさは、疾走による爽快感だけでは無く、人力のみで走るが故のしんどさ・辛さにもあるという事を。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る