† 〜網膜の兄〜


 乾いた地面を蹴り、呼吸を忘れるほど、意識を走る事だけに持っていく。日が落ちた後のお陰で、誰ともすれ違うことなく、家に帰ることができた。


「…………っ!」


 大きな音を立てて扉を開けると、目を丸くさせて驚きを隠せないサラの姿が視界に映ったが、シンは気にせず通り過ぎ、境布を乱暴に捲った。


「ちょっ、お兄ちゃん!」


 サラの声を背で聞きながら、シンはサンダルを脱ぎ捨てて寝台に乗った。奥の石壁を触り、小さな窪みがある石を左右にずらしながら引き抜くと、中には今まで少しずつ貯めたお金の袋が入っている。大きさはシンの手の平二つ分ほど。これだけあれば、一か月分の酒か、もしくは日用品が買えるだろう。


 シンは躊躇いなく袋を持ち、裸足のまま駆け出して、扉に向かおうとしたが、両手を左右に大きく広げたサラに阻まれた。


「そのお金、どうするの?」


 訝しむサラに、シンは仮面のような笑顔を向けて応えた。


「何も心配はいらないよ」


 諭すように優しく語り掛けるが、察しのいい少女は首を左右に振って頑と譲らない。


「ダメ、ダメだよ。そんな事をしたら、絶対にダメ!」


「どうして?」


「どうしてって……」


「僕は勝ちたいんだ。いや、勝たなくちゃいけないんだよ!」


 シンは怒鳴るように言い放った。“リディアの戦士”としての責任。自分自身の技量の無さ。妹と友人の存在。いくつもの重圧に押し潰されそうになる心が、悲鳴を上げて助けを求めている。この重圧に打ち勝つ為に必要なものは唯一つ。


(完全なる勝利だけだ)


 リディアの“戦士”としての責務を果たし、尚且つ妹と友人を救える手段が、この手の平の小さな袋に詰まっている。普段の冷静なシンならば、これがどれだけ愚かな行いか理解できただろうが、今は魂を悪魔に売ってしまっている。


 誰にも止められない。


 止めてほしくない。


 自分の視界に映る妹が、目に涙を溜めて懇願している。それでも……。


「僕は行くよ。絶対に」


 サラの姿がシンの心に油を注し、決意の炎をさらに燃え上がらせて確固たる存在になる。


 シンはサラの横をすり抜け、走り去ろうとした。が、腕に絡みついてきた手が、それを阻止した。


「駄目。わ、たし、お兄ちゃんが絶対勝つって、信じてるから……。こんなマネはしないで」


 掠れる声を振り絞って言い切るサラの手は暖かかった。温もりがあった。幼い頃から手を繋ぐたびに、この暖かな手の平がシンの荒んだ心に水を与えて、潤してくれるようで、大好きだった。


(だから、こそ!)


 シンはサラの頭を優しく撫でて、目線を彼女に合わせた。潤んだ瞳は、まるで枯れる前の泉のように綺麗で透き通っている。


 シンは微笑を浮かべて彼女の頬に手を当てた。


「大丈夫、きっと上手くいく。それで儀式が終わってザギの体調も良くなったら、また三人で遊びに行こう。な?」


 誰に言い聞かせているのかは分からない。自分の口が自分のものではないような感覚に陥る。


「いってきます」


 これだけは自分の意思で言った。絶対にここに帰ってくるという意味で。


 サラは手の甲で、目に溜まった涙を拭い、口端を上げて、作ったような笑顔を見せた。


「いって、らっしゃい。お兄ちゃん」


「うん!」


 帰ってきた時は満面の笑みを向けて欲しい。そう心で呟き、シンは駆け出した。


 これがサラと交わした最後の会話とも知らずに。



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