5 絶体絶命
「誰か、その子を捕まえてえ!」
でっぷりした体型のメガネのおばさんが、ドスドス体を揺らして向かって来る。
そのすぐ先には、まるで綿のように白くて小さい物体が青いリード紐を引き摺って突進して来ていた。
――犬だ。
まさか、このシチュエーションは……やっぱり……。
父さんの両目に、正義の炎が燃え盛っていた。今にも犬を捕まえに飛び出しそうだ。
「あ、あの。犬は、放っておいた方が――」
父さんの耳にその言葉は届かなかった。
残りのアイスをガブリと口の中に放り込むと、猛然と交差点に向かってダッシュし始めたのである。
――さっき、犬は助けないって言ったばっかりじゃん!
「追いかけるわよ!」
残ったアイスを投げ捨て、間髪入れずにアゲハとオレも父さんの後を追う。
何台もの乗用車が、交差点を目にも止まらぬ速さで過ぎ去っていく。
歩行者信号は、赤。白いゴム毬みたいに跳ねながら、犬が横断歩道に差し掛かった。
それでも犬は止まらない!
喘ぐご主人様を引き離し、赤信号を突っ切った。
父さんも赤信号などものともしない。
犬を目指して横断歩道の中へと突っ込んでいく。
と、左手から空気をつんざく轟音。
――やばい! トラックだ!
遂に父さんが犬を捕まえる。怯えた声で鳴き喚く犬をすっと抱えて持ち上げ、穏やかに笑いかけた。
けれど父さんは、トラックに気付いていなかった。
「早く逃げて! トラックが来る!」
アゲハが父さんに向かって叫ぶ。
オレはといえば情けない限り。横断歩道を前にして、声も出なければ足もすくんで動けない。
「ちょっとあんた、何してんのよ。とっとと助けてきなさいッ!」
アゲハは、オレの右手に小指くらいの大きさのガラスの小瓶を掴ませた。そしてオレの胸ぐらを掴むと、姿三四郎よろしく、オレをぶん投げた。
「どわあああ」
――うっそおお! オレ飛んでる! それも絶体絶命の父さんと犬に向かって!
父さんは、トラックに向けて目をひん剥いたまま身動きできない。
そこへと降りかかる、大砲の弾丸のようなオレ。
大きな音をたてて父さんにぶつかったオレは、綿のような犬と父さん諸とも道路に倒れた。
そしてそのとき、オレの手の中で何かが弾けた。
黄色い煙が吹き出してきて、何も見えなくなる。
――さようなら、オフクロ。そしてまだ見ぬ、わが妻よ。今度こそオレは本当に天国に行くのだ。って、あれ? トラックにぶつかった気がしないぞ。どうして?
黄色い霞のような煙が晴れていく。
さっき倒れた体勢のまま、オレは向こう側の歩道の上に倒れていた。父さんがオレの体の下敷きになって、犬を抱えながら気を失っている。トラックが交差点を過ぎ去った。
「だ、大丈夫ですか? 誰か、救急車!」
犬のご主人様が駆け寄り、悲鳴のような声を上げた。
――よくわかんないけど、助かって良かったあ。
そんなとき、誰かがオレの手を取った。
「さあ、行くわよ。時間がないわ」
アゲハだった。
バラバラになりそうな体を持ち上げ、オレは無我夢中で走り出した。
「行くってどこへ?」
「元の時代よ。ほら、私もお父さんも色が薄くなってる。スパイスの効き目が、切れかかってるんだわ」
ぎえええ! 確かにオレの体、透明になってきてるよ!
「さあ、時空を移動するわよ。ぐっと体に力を入れて!」
暗黒が支配する世界。そしてやってくる、虹色の空間。
虹はどんどんと色を増し、やがてその色が融合して白一色に――。光が戻る。見慣れた景色に、嗅ぎ慣れた空気。
オレとアゲハは、十年後の現在に戻ってこれたのだ。
そこはタイムスリップしたカレー屋の前だった。
あれからオレたちが向こうにいた時間と同じだけ時間が経過しているらしい。雲を赤く染める太陽が夕暮れどきを示していた。
「お父さん、感謝してよね。あのとき、私が研究した瞬間移動のスパイスがなかったら、今頃トラックに轢かれてたんだから」
あのときオレの右手に無理矢理掴まされた、ガラスの小瓶。そして、きな臭い黄色い煙。やっぱりアレは、スパイスだったのか!
――それにしたって、オレを勝手に連れていって死に目に遭わせたのはお前だろ?
「じゃあ、私も帰るね。ここから二十五年後の世界に。楽しかった、また来る!」
「もう、来なくていいです……」
アゲハはオレの目前で陽炎のように揺れた後、消えていった。
――道草せずに、ちゃんと帰れよー。
そういえばツカサの奴……あれから大丈夫だったのかな? まあ、カレー屋も無事みたいだし、きっとアイツのことだから、心配ないよな。
オレはカレー屋に置いてあった自分の自転車に跨ると、夕闇の中、我家に向かって走り出した。
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