ぼくの初恋は、始まらない。第1章
さとみ・はやお
第1話 窓居圭太と財前明里、窓居しのぶを尾行しその秘密を知る
よくテレビ・ラジオ・雑誌などで恋愛相談のコーナーをやっていて人気も高いようだけど、その相談内容の大半は、恋が始まってからの悩みについてのものだ。
ところがぼくが悩んでいるのは、いったいどんな相手に恋の告白をすれば恋がうまく始まるかなのだ。だが、そんな初心者みたいな相談にのってくれる親切な相談者は見たことがない。そんなことにいちいち答えていられるかと言わんばかりに。
でも、それこそがぼくが知りたいことなんだけどね。
ぼくの名前は、
ぼくは中学入学以来、三年間で三十人の女子に告白して、全戦玉砕してきたという経歴の持ち主だ。
ぼくの初恋は、いまだ始まっていない。
冷え込みの厳しい、一月下旬のある日のことだ。その日は吹奏楽部の部活もなかったし、悪友からの道草の誘いもなかったので、三時過ぎには自宅に帰り着いていた。
ちなみにぼくの通っている高校は、自宅のすぐそば、歩いて四、五分のところにあるので、徒歩通学をしている。
特に進学やスポーツで輝かしい実績がある高校でもないのだが、とにかく家に近くて通学が楽だというシンプルな理由でそこにしたのだ。成長期の少年にとっては、睡眠時間の確保は切実な問題だからね。
さて、玄関のドアを開けようとして、違和感を覚えた。あれ、既に開いてるじゃないか?
しかも暖房まで入っている。ということはお姉ちゃん、もう帰っているのか?
いや、そんなこと言ってなかったぜ、けさは。それにしても、開けたままで鍵をかけてないとは物騒だ、まったく。
そうブツブツ言いながら奥に進もうとしたら、リビングルームの一隅にある、バスルームの引き戸がガラッと開き、中から何も着ていない、というかその、ありていにいえば全裸の女性がゆっくりと現れた。
フンフンと鼻唄まじりで、長い髪を拭きながら。
お互いの目線が、衝突した。スパークした。
!!!!!!!!!!!!!!!!(0.5秒)
最初の一瞬は、その身体全体に視線が行き、続いてその顔に移った。目鼻立ちがクッキリしている、というか、いわゆるケバめのギャルメイク。
誰、この子!? 全然知らない顔。怖っ!
「ギャアアアアアアアアアァッ!」(ぼくの叫び声)
「こらこら、慌てんなや、けーくん。うちや、あかりや」
ギャルは悠然と、少しハスキーな声でそうのたまった。
ん? 顔に見覚えはないが、その声、そして関西弁には聞き覚えがあった。
「お前、ひょっとして、伸一伯父さんとこのあかり?」
「そや」
ギャルはひと言、答えた。
全裸で、けっこうボリュームのある胸を張りながら。
って、ヤバっ、正視しちゃマズいだろうがっ!
「は、早くバスタオルでも巻け!」
小休止。やっとのことでその子、
まあ、さっきはぼく自身相当とっちらかってしまったので改めて説明すると、彼女の名前は
母の兄にあたる伸一伯父さんのひとり娘で、大阪に住んでいる。
かつてぼくの父が転勤となり、一家で大阪に二年ほど住んでいたことがあったのだが、その頃は毎週のように互いの家を行き来して遊ぶような間柄、つまり幼なじみだった。
あれから何年たったのか。ぼくが小三の冬に東京に戻ったから七年は経った勘定か。そりゃ、いまの顔なんかわかるわけない。
「で、要するに今回東京の高校を受験するにあたって、おさえていたはずのホテルが手違いでとれてなくて、おふくろに電話して泣きつき、うちに泊まることになった、そういうことだな?」
「そうなんや。えらいすまんなぁ。頼むわ、けーくん」
バスタオルを巻きつけた姿のまま、悪びれることなく、そう言って明里は微笑んだ。家の鍵も、母の勤務先まで取りに行ったそうだ、やれやれ。
物怖じしない性格といい、羞恥心の感じられない言動といい、昔と変わってないなと思いながら、ぼくはしばらく彼女とお互いの近況を話し合った。
「それにしても、家では湯上りはいつもあんな感じなのか、明里」
「無論、そうや。身体が乾くまで、うちはすっぽんぽんや。バスタオルいらずのあかりちゃんと呼ばれておる。それどころか、健康のために常時裸族や」
「どんな健康法だよ」
いけない、ぼくの中の常識体系が揺らいで来た。
そして、あることをぼくはすっかり忘れていた。
決して忘れてはならない、重要なことを。
一時間くらい経った頃、ドアホンが鳴った。
ピンポーン。
その一音で正気に戻った。ヤバい! ぼくの本能的な何かが、アラート音を大音量で発し始めた。
「おい、まずいぞ、明里の天敵襲来だ。早く服を着ろ! あとはぼくがなんとかごまかすから!」
そう言って、明里をせき立てながら、ぼくは玄関に向かい、ひと息飲み込んでからドアを開けた。
そこには予想通り、ぼくに似て小柄で童顔な少女、わが姉君が立っていた。
「お帰り、お姉ちゃん。早かったね」
にっこり微笑んで、お姉ちゃんは答えた。
「ただいま、けーくん❤️ なんか変わったことなかった? お姉ちゃん、きょう学校でちょっと妙な胸騒ぎがしてね。予定変更して帰って来たんだけど、何かヘンなことなかった?」
ぼくは作り笑いをしながら、答えた。
「いやあ、別になんにもないよ。あ、そうそう、変わったことといえばさ、きょう、突然だけど伸一伯父さんとこの明里ちゃん、高校受験で上京してるよ。おふくろが、泊めてあげてってさ」
そう言って、ぼくはさっき急いで閉めておいたリビングルームのドアを開けて、中の女性を紹介した。
「しのぶちゃん、お久しぶりやね。お世話になるわぁ」
ニットのセーターとミニスカ姿の明里が、ペコリとお辞儀をした。
一瞬、お姉ちゃんの顔から血の気が引いたのを、ぼくは見逃さなかった。
その後、三人でリビングでお茶を飲みながらしばらくよもやま話をしていたのだが、明里がトイレのため席を立ったすきに、お姉ちゃんがぼくににじり寄ってきて、こう言った。
「まったく三泊もあの子を預かるなんて、ママもひとが良すぎるわ。今晩だけ泊めて、あとは放り出したいわ。ま、伯父さんにはお世話になったから、しかたないけど。いまいましい」
お姉ちゃん、本音ダダ漏れですけど。
「わたしとしては、けーくんとのスイートホームをあんな跳ねっ返りに乱されたくないの、ねえ、けーくん❤️」
そんな同意を求められてもねえ。
ぼくは姉ほど、明里のことが嫌いではないのだ。もっとも、彼女とかそういう感じではなく、妹みたいな存在としてなのだが。
「それにしても、最近の若い子はふしだらよねぇ。気づいてた? けーくん、あの子ノーブラだったわよ」
そう言われて、その後すぐに戻ってきた明里の胸元をちらっと見たら、慌てて服を着たせいでブラ装着までは手が回らず、彼女のセーターには乳首の形がポッチリと浮き上がっていた。
今度は、ぼくが青ざめる番だった。
ここまでで、賢明な読者諸兄ならお察しかと思うが、ぼくの一才上の姉、窓居しのぶは重度のブラコンである。
彼女はぼく以外の男性生物に一切興味のない、真性の「おとうと命」なお姉ちゃんなのである。
そして彼女は、ぼくに接近する生物はたとえメス猫一匹たりとも許してくれない。
だから、かつての幼なじみ、明里にも決して警戒心を解くことはなかったのである。
三人で一緒に遊ぶときも、自分+弟チームVS明里、という仕切りを欠かすことはなかった。
天真爛漫な明里の方はまったく意識していなくても、いつも姉は明里をライバル視していた。およそ相性は最悪なふたりなのだ。
次第に、いろいろと昔のトラウマが蘇って来た。例えば、姉のたまたまいないときに、明里とお医者さんごっこをしたことが姉にバレてしまった、あのときの彼女の剣幕ったらなかった。
当時ぼくは「将来は医者になる」などと言っていたのだが、明里が「じゃあ、実技訓練が必要だね」などと煽ってきて、ついそれに乗ってしまったのだ。
がんぜない子供の遊びだったとはいえ、二度と思い出したくない出来事だ。
中学生時代は「失恋王」という、全くもってありがたくない二つ名を同級生から授けられていたぼくだが、ぼくが例によって女の子に告白して断られ、落ち込んでいると、お姉ちゃんはこう言って慰めてくれたものだ。
「けーくん、心配することはないんだよ。たとえ世界中の女性全員にフラれたとしても、このお姉ちゃんがいるんだから。きょうだい手を取り合って、禁断の愛に生きていく道もあるんだから。お姉ちゃんはいつだって準備オーケーだよ❤️」
全然嬉しくない。
ぼくはお姉ちゃんにとってラブの対象だけど、ぼくにとってお姉ちゃんは、やはり実の姉以外の何者でもなくて、ぼくが何十、何百人の女の子にフラれたとしても、最後の頼みの綱として彼女を選ぶなんて可能性はありえない。
でもまあ、その拒否の気持ちをストレートに伝えると、お姉ちゃんはひどく悲しそうな顔をする。
まるで、ぼくが死んでしまったときのような悲しい顔を。これはえらく精神的にこたえるのだ。
だから、ぼくはお姉ちゃんの言葉は、なるべく素直に受けとめるようにしている。過剰な好意にはまったく応えないけど。
そんなわけで、この四日間はとにかく、ナーバスなお姉ちゃんに余計な刺激を与えないよう、細心の注意を払わねばならない。
幸いというべきか、夜は母もいつもより早めに帰宅してくれたので、明里に対していかにも家庭的なもてなしを出来たのだった。
明里の寝る場所は、明里自身は「うちはけーくんとでも、かめへんで」とコワいことを言っていたが、さすがに思春期のふたりを一緒に寝かすわけにはいかないわねと母が言って、姉と一緒の部屋になった。
姉も表面上は素直に従っていた。内心はいかばかりやら。
これで一日目は、なんとか終了。あと三日、無事過ぎるのを祈るのみだ。
翌朝は、前日打ち合わせした通り、早めに起床して、明里を試験会場である五反田まで送って行った。
その後ぼくはトンボ返りして学校の授業にギリギリ駆け込む、という寸法だ。
明里は昨日のギャルメイクは完全に落とし、髪型も三つ編みにして、セーラー服をまとって清楚系女子中学生に化けている。
いや、こちらこそが本来の姿だから化けているというのもおかしいか。
なにわのド派手ギャルも、少しは常識があるようで、ホッとした。
ノーメイクの素顔も、意外とかわいい気がしなくもない。
「明里、昨日はしっかり眠れたか?」
会場までの道のりで聞いてみたのだが、彼女はいまひとつすっきりしない面持ちで答えた。
「うーん、枕が変わるとやっぱ調子狂うわ。それよりも……」
「それよりも、なんだ?」
「あんな、しのぶちゃんのことで、気ぃなることがあってな」
「なんだい、それは」
あまり時間がなかったので、ざっくりとした話しか出来なかったが、夜中の二時ごろに、姉が寝床を離れたときにその物音で明里も目が覚めたのだが、それから一時間も姉は寝床に戻ってこなかったそうなのだ。
明里も最初は姉がトイレにでも行ったのだろうとたかを括っていたが、いつまで待っても戻って来ないので気になり、目もすっかり覚めてしまった、そういうことなのだ。
「そういうの、気になる性分なんよ、うち。今晩も同じことになるか、確かめてみるわ」
「いやいや、受験に来たんだろ、そっちに集中しろ!」
思わずそうツッコミを入れたのだが、その一方で彼女の旺盛な好奇心を抑えつけることは多分無理だろうな、ぼくはそうも思っていた。
「そういえば」
明里は最後にこう付け加えた。
「寝る前にしのぶちゃんとガールズトークしたんよ。やっぱり、けーくんの話になったわ。しのぶちゃん、うちがけーくんのこと、どう思っとうか気にしとるから、『今ははただの幼なじみや、将来はどうなるか知らんけど』と言うたらしのぶちゃん、しみじみと言っとったわ。『明里ちゃんがうらやましい、だってけーくんと結婚だって出来るから。私はしょせん、お姉ちゃんだからね』って。そんなしおらしいしのぶちゃん、初めて見たから、なんかジーンと来たわ」
「そうか、あのお姉ちゃんがねえ」
ぼくも、その発言はちょっと意外に感じられたのである。
行きで明里も道順を把握したようなので、その日は試験会場で別れて、ぼくは一日、普段通りの学校生活を送った。
その夜、ぼくは朝の明里の話が気になってなかなか寝つけなかった。
お姉ちゃんは、夏ならともかくこんな冬場の寒い日の丑三つ時に、いったい何をしているんだろう。
まさかの丑の刻参り? いやいやそれはないでしょ。
まあ、明里の報告を待つとしますか。
そんなのんきな事を考えていたら、さすがに夜半を過ぎてしまった。明日は日直当番もあるからと、眠ることにした……。
と、ふいに誰かに身体を揺さぶられた。なんだなんだ一体!
薄暗がりの中、目をこらすとその人物は明里だった。パジャマ姿だ。
「明里お前…」
思わず声を上げそうになったぼくの口を、明里の手が塞いだ。
「しっ、今夜もしのぶちゃんは動いた。今ならまだ後を追える」
いつになく真剣な声に毒気を抜かれ、ぼくは彼女とともに抜き足差し足、パジャマ姿のまま表の道路に出た。
そこには、やはり白いネグリジェ姿のまま、やや前のめりにゆっくりとした足取りでどこかへ向かおうとするお姉ちゃんの姿があった。
姉については、もう一点、追加説明をせねばなるまい。
彼女は人並みはずれて霊感が強いのである。
明里がやって来た日に感じた胸騒ぎがいい例だと思うが、そういう虫の知らせがあると、百発百中で何かが起きるのだ。
生まれつきそんな「体質」だったのかどうかは、正直よくわからない。
でも、それがあることがきっかけで顕在化したのは間違いないだろう。
姉は小五のときに気管支系の大病をした。学校も半年近く休まざるを得なかったので、ぼくもさすがに覚えている。
あまりに病が長引くことに母は心を痛めていたが、ある日病床のわが娘から、奇妙な夢の報告を受ける。
「われはこの地をおさむる、ウカノミタマなり。われに祈りを捧げなば、汝を病より救わん」
というお告げめいた言葉にピンと来た母は、家から歩いて七、八分くらいの場所にある稲荷神社にお百度詣りを始めた。
母が雨の日も欠かすことなく、三か月あまりお稲荷様に通い続けたおかげか、次第に姉の病状は好転していき、半年で快癒を迎えたのだった。
それ以来、お稲荷様は、姉にとっての守り神になった。
中学受験のときは姉自身がお百度詣りを続け、見事合格を勝ち取った。
あと、やたらとくじ運が強くて、福引きではたいてい大当たりをものにしている。
それもこれもお稲荷様のご利益だと、本人も語っていて、現在もことあるごとに願をかけに行っているようだ。
その夜、夢遊病者のような歩みを十分近く続けた姉がたどり着いた先は、果たして稲荷神社だった。
三百坪あまりの広さの境内。その社殿の手前、石畳の上で、姉は歩みを止めた。そしてぼくと明里も、神社を取り巻くように配された石垣の陰に身を隠して、彼女の様子を伺った。
そして、息を呑むような光景が、なんの前触れもなく始まった。
一瞬、天空より閃光が走ったかと思うと、それが消えることなく地上にとどまり、姉の全身を包み込んだ。
ぼくたちはしばらく、ぼうっと光る姉の身体の内側から、紅、朱、緋、橙、藍、紫といったさまざまな光の渦が湧いては消え、湧いては消えしていくのを目撃していた。
「明里、これはチャネリングしている、そういうことだよな?」
「まさしく、そうや。稲荷の神様としのぶちゃんが交信しとる」
神々しい光の饗宴を目にして、ぼくはゴクリと唾を飲み込んだ。
お姉ちゃんは、生身の人間のまま、神の使い、神使となっているのだ。
「こうやって見るべきものを見た以上、もはや長居は無用、だな」
「ああ、そうや」
ぼくらは、本能的にその場所に居続けることのリスクを察知していたのだろう。来た方角に向きなおろうとした。
が、その瞬間。
光を放っているお姉ちゃんの身体から、一筋の閃光が飛んで、こちらを直撃した。
ついに、神に悟られた!
身構える余裕すらなく、あっさりぼくらの身体は吹っ飛んだ。
いや、吹っ飛んだだけじゃない。意識が、途切れた。
どのくらい経ったのだろう。何時間も経ったような気がするが、ほんの数十秒だったのかもしれない、とにかくぼくは目を覚ました。
地面にうずくまった状態で。
あたりを見回した。
五メートルほど離れたところに、お姉ちゃんが光をまといながら、こちらを向いて立っていた。
いや、見た目は姉だったが、明らかに別人だった。
その両眼は黒目を失い、真っ白だった。
ふと気づいて、ぼくは自分のすぐ周囲を確認した。明里はどうなった?
果たして明里は、隣で仰向けになって倒れていた。意識はない。
「明里、起き…」
呼びかけようとしたとたん、姉モドキは口を開いた。淡々とした口調で。
「無駄じゃ。そのおなごの心はわれが封じ込めた。声をかけたところで、目を覚ますことはない」
「うっ」
ぼくは言葉を失った。
「われはこの地をおさむる、ウカノミタマなり。われは
そう言って、白い瞳でぼくを直視した。
もう、逃げも隠れも出来ない。ぼくは覚悟を決めた。
姉モドキがみずから名乗った通り、今の彼女は稲荷神社に祀られている神様に他ならなかった。
「われの使いにして汝の姉、窓居しのぶは、われにひとつの願をかけた。汝窓居圭太と未来永劫、共に過ごせること、それじゃ」
「そのために、汝の姉はわれにかくのごとく乞うた。弟の
懸想? ああ、それはぼくでも知っている。
古典の授業で聞いたことがある。恋、恋愛のことだ。
…えっ? となると、こういう意味じゃないか。
「弟の全ての恋愛を妨害してくれ」
なんと! なななんと!
ぼくがかつて恋の告白で三十連敗を喫した陰に、この神様の暗躍があったとは!
ぼくは絶句した。
神様はこう続けた。
「昨夜、汝の姉はこの社に詣でてわれにかく伝えた。従妹の色香より弟を守り給えと」
従妹とはもちろん、今ぼくの傍らで意識を失っている明里のことだ。
しかし、それにしても色香って。中三女子に色香って……。
でも、あながち否定は出来ないか。正直、生身の女性の裸身を初めて見てしまったのだが、とても十五才には見えなかった。
今日から水商売に飛び込んでもオッケーかも。いやいやいや、それはさすがにまずいか。
神様の言葉で全てが腑に落ちた。
そこでようやく、ぼくは口を開いた。
「で、神様、あなたはぼくに何をお聞きになりたいのですか?」
神様は、おごそかにこう答えた。
「汝の心持ちを、知りたいのじゃ。汝に、汝の姉の想いを受けとめる気はあるのかを」
ひと呼吸おいて、ぼくは答えた。
「姉がぼくのことを、肉親として大事にしてくれるだけでなく、異性としても好きであることは知っています。
しかし、ぼくには姉を恋の対象として見ることは、無理なのです」
それを聞いて神様はしばらく黙っていたが、おもむろにこう答えた。
「そうか。われはこれまで汝の懸想をことごとく妨げることで、なんとか汝の目をその姉に向けようとしたのじゃが、どうやらそれは無駄だったようじゃの」
そうして、深く溜息をついた。
「じゃがの、われとてひとの心を変えることは出来ぬのじゃ。汝の心を変えられぬように、汝の姉の心を変えることも出来ぬ。
よって、汝の姉の心が変わらぬ限り、われはその願いに沿うようにしか動けぬのじゃ。
汝の姉の想いを変えうるのは、ひとのみと心得るがよい。
今宵はこれまでじゃ」
そう言うと、神様はこれまでの何十倍もの光を放って、ぼくの目を眩ました。
ぼくの意識は、再び途切れた。
ぼくが次に目覚めたときは、すでに朝だった。
しかも場所は稲荷神社ではなく、自分の寝床の中だった。
神様はぼくを家までテレポートさせたのに違いない。
ぼくが洗面所で顔を洗っていると、果たして、明里がげっそりとした顔で現れた。
「おはよう、というかお疲れ、だな」
明里は無言でうなずいた。
「お前が気を失っている間に、お姉ちゃんに憑依した神様から、彼女がどういう願をかけているかを聞いた。
やっぱりお姉ちゃんは、ぼくの全ての恋愛を神様の力によって妨害していたんだ。
なんとかしないと、ぼくは一生恋愛出来ない、ということなんだな」
「ふーん、やっぱりやね。それでどないすんの、けーくん」
「いくつかアイデアはないではないけど、果たしてうまく行くかどうかは、わからない。でも、今日中に結論は出すから、お前も協力してくれ。作戦実行は、今晩だ」
ちょうどそこへ、こちらも疲れを顔ににじませた姉がやって来た。
「ふあぁ〜、眠い。なんか夕べは悪い夢を見たみたいで、まったく疲れが取れなかったわ、お姉ちゃん」
どうやら、夜中の出来事は全く記憶に残っていないようだ。
これもまた神様の計らい、だな。
ぼくは密かに、明里にウインクを送った。
その日は明里の入学試験の二日目だったが、場所は昨日と同じだったので、全て明里に任せて、ぼくは学校でずっと解決策を練って過ごした。
ぼくが自己犠牲で姉の求愛を受け入れればことは解決するのだろうが、それはご免だ。
となれば、取りうる策は何か。
ぼくが明里とラブラブであるということにして、あきらめさせるってのは?
いやいや、それは危険過ぎる。姉の性格を考えたら、火に油を注ぐようなもんだ。
嫉妬に狂って、最悪明里を呪い殺す、なんてことになりかねない。
あれこれ悩んだあげく、ぼくはウルトラC級の秘策を考え出した。
それとて成功の保証はない。でも、一か八かやってみるしかない。
夕方、時間に余裕があったので、無事入試日程を終えた明里を、会場まで迎えに行った。
この二日間のドタバタで、入試どころではなかった明里だが、なんとか最後まで試験をこなし、肩の荷が下りたようだった。
「もともと記念受験やからね。落ちてても、しゃーないわ」
そう笑った彼女にぼくはねぎらいの言葉をかけ、今晩の作戦内容を告げた。
一瞬、ただでさえ大きい彼女の目が極限まで開かれた。
さて、その夜の午前二時過ぎ。
昨晩のようにお姉ちゃんは稲荷神社まで歩き、同じく神様との交信を始めていた。
もちろん、ぼくと明里もその様子を陰から見守った。
そして、再び稲荷の神様は降臨した。
そこでぼくは、身を隠さずに、神様の前に歩み出た。
「神様、今晩もまた参りました。
ぼくの気持ちはやはり変わりようがなく、姉の気持ちを受け入れることは出来ません。
でも、ぼくはひとつ重要なことをお伝えしに来たのです。それは…」
ぼくは手で後方に合図を送った。
陰に潜んでいた明里がすっと寄って来て、神様のすぐ前に出た。
ぼくはまた合図した。
明里は、神様の手を取って、ちょっと言いにくげに話し出した。
「実はな……しのぶちゃん、うち、あんたのこと、大好きやったんよ。今回東京の高校を受けたい思たんも、しのぶちゃんとずっと一緒に過ごしたい思って…」
その言葉を言い切らないうちに、神様の様子が急変した。みるみる光が失せて黒目も復活し、身体をわなわなと震わせ出した。
「えええぇっ、そんなこと言っても、わたし、わたし…」
それ以上、言葉が続かなかった。そして、へなへなと石畳に崩れ落ちた。
明里は姉を優しく抱きかかえるようにして、こうささやいた。
「まだ誰にも、好きやって言われたことなかったんやね。かわいいわぁ、しのぶちゃん」
姉は少し涙ぐみ、明里の胸に顔を埋めた。
「うん、わたしもあかりちゃん、好きかも」
その後、明里と姉は互いに寄り添うようにして、家路を辿っていった。
打ち合わせ内容を大幅に上回る、見事な明里の演技だった。
予想だにしなかった従妹の告白という揺さぶりで、姉の心に大きな異変が生じ、自身の中に眠っていた百合志向を呼びさまされたのだ。
乾坤一擲、百合役を演じてくれた明里には、感謝の言葉もない。
翌朝、明里は荷物をまとめて大阪へ帰って行った。
そして数日後、こんなメールをぼくによこして来た。
「先日はお世話になりました。
けーくんの作戦、最初はビックリしたけど、実はうち、ほんまにしのぶちゃんのこと好きやったん。
でも、けーくんの手前、これまで言い出せんかった。
今回、しのぶちゃんに告るきっかけが出来て、よかったわ。おおきに」
なんとまあ、嘘から出た誠かよ。
サバサバしたその性格を見込んで頼んだとはいえ、明里があの奇策をすんなり引き受けてくれたのも、これで納得がいった。
この分だと、姉が神様に願って明里の合否も操作してしまいそうだな、うん。
そういうことで、姉のぼくへの執着という積年の問題はついに解消した。
だが相変わらず、ぼくの初恋は始まっていない。やれやれ。
(第1章・了 第2章に続きます)
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