第02話 ママレード・ガール
「今日の物語は檸檬です」
コーハイは差し止め判の貼られた本を顔の横に掲げながらそう言った。
「……今回は唐突だな。もっと前口上とか、伏線と見せかけて実は全然関係ない雑談とか、普段ならあると思うんだが」
「本編に入るまでが長すぎて誰にも読んでもらえないから何とかしようって試みッスか?」
「マナちゃん、メタ発言は程々にね」
「りょーかいッス」
とりあえず釘を差しておく。いつも自重してくれないけど、それでも言っておかないとな。
「コーハイちゃんもたまには仕事できるってところを見せておかないと。と、いうことで『檸檬』はご存知ですよね。梶井基次郎が執筆した短編小説が只今問題アリアリの状態です」
「ふぅん、檸檬ねぇ……」
正直、文学作品というのは名前だけは耳にするが、その内容までは把握していないことが多々ある。この檸檬もそういうタイトルだけ聞いて知った気になっている作品の一つであるように思える。
わたしはマナちゃんの方をちらっと見る。
あっ。
目をそらしたな。
きっとこの娘知らないぞ。
「れ、れれれれレモンッスよね。ええ、レモン。有名ッス。あちゃー、夢じゃなかったー! ってやつッスね」
「え、夢オチ?」
「マナちゃんは別の何かと勘違いしてる気がします。まあ短編小説ですから、ティンカーの範囲も限られるでしょうし、先輩なら余裕かと」
そう言われると悪い気はしない。
などと感心していると、コーハイが一歩二歩とわたしに近づき、屈んで姿勢を低くする。
「ん」
「……ん?」
「ん? じゃないでしょう先輩。コーハイちゃんが頑張ったんだから労うのが当然の流れじゃないですか。よーしよしって猫可愛がりするのがパイセンとしての努めでしょうがっ!」
急にテンション上げるな。
そしてパイセン呼びは止めろ。
わたしは辺りを見渡して、なぜかテーブルの上に置かれていた蜜柑を一つ手に取りコーハイの頭に載せた。
「あれ? 何ですかこれ」
頭に蜜柑を乗せたまま、器用にコーハイが声を上げる。
「何って、蜜柑」
「わーい蜜柑だやったー。ってならないですよパイセン! この部屋の小窓開けて蜜柑ぶん投げますよ!」
それはやめて。風が入ってきてむせるってレベルじゃ済まないから。
頭の上の蜜柑がポテッと落ちる。鮮やかなオレンジが絨毯の模様と同化して視界から外れていった。
「シショー、センパーイ、準備できたッスよ」
わたし達の無為なやり取りをよそにマナちゃんは着々と物語の中に入る準備を進めていた。準備というのは、本を開くためのスペース作りとして机の上を片付けることを往々にして指している。
「さすがマナちゃんは手際が良いなぁ。よーしよしよし」
思わず頭を撫でてしまう。
「えへへー」
「んなっ!? やっぱりコーハイちゃんとマナちゃんで扱いに差がありすぎません?」
「気のせいだよ」
「嘘だっ!」
「でもシショー、センパイのおかげで順調にことが進んでいるわけだから、センパイも褒めてあげてほしいッス」
「えー、まぁマナちゃんがそういうなら、仕方ないな」
「まったくパイセンは素直じゃないんですから! さぁ、コーハイちゃんを存分に労うと良いですよ! それはもう、コーハイちゃんをずぶ濡れの捨て犬だと思って構いません!」
「なんだその謎の哀願は」
「まさに愛玩動物ッス」
わたしはマナちゃんお得意のオヤジギャグは聞かなかったことにして、渋々コーハイの頭を撫でてやる。縮こまる動作といい、ぎゅっと目を瞑る様子といい、本当に犬を愛でているような気分だった。
「いつもこれくらい手際が良いと助かるんだけどなぁ」
「優しい口調で辛辣なお言葉! ……ゴロゴロゴロ」
いつの間にか犬から猫の喉を鳴らす動作に移行していた。
「そろそろ良いだろう。本題に戻るぞ」
「またまたご冗談を」
「いいからさっさと本を開け!」
「ちぇー、はいはい……よっと」
相変わらず一つひとつの動作を気だるそうに行う。ナマケモノか。
コーハイはマナちゃんが片付けてくれた机の上に『檸檬』の本を置き、ゆっくりとページをめくる。
「汝のあるべき姿に戻れ!」
「それ毎回言わなきゃ駄目なのか」
「様式美というやつです」
本が開かれるとつむじ風が巻き上がり、部屋全体へ渦巻いていく。それはやがて収束し、淡い光の渦となって再び開かれた本の上でゆらゆらと漂っている。
「行くよマナちゃん。準備は良いね」
「バッチリッス!」
「頑張ってくださいねー。あ、お土産は檸檬以外でお願いします」
引きこもり体質のコーハイはいつも居残り組である。
「やっぱりお前は行かないんだな」
「コーハイちゃんは頭脳派ですから」
「無能派の間違いだろ」
「おっと、いいんですかそんなこと言って。コーハイちゃんは喜びますよ?」
「……前言撤回だ」
緊張感のないやり取りが続く中、わたしは光の渦にそっと手を触れる。
さぁ、物語の中に突入する。
艶やかなる檸檬の、鮮やかに彩られた文豪の世界へ旅立とう。
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