ジャック・ザ・リッパー 第4話(2019/3/11 改稿)
当たり前だが、痛みは襲ってこなかった。
代わりに、きいんっ! という甲高い金属音がその場に響く。
「なっ……」
新井が驚いた声を上げ、目を見開く。
その視線が据えられていたのは薫ではない。
薫と新井の間に滑り込むようにして入ってきた一人の青年が、メスのようなナイフで凶刃を防いでいたのだった。アンティーク調のコートから覗くのは銀糸のような髪と、透き通るような蒼の瞳。
新井が飛びすさったのと薫が嘆息したのは同時だった。ああ、やっぱり出てきてしまった。
「お前……!」
語気を強めて新井が彼を凝視する。青年はそれを意にも介さず、後ろを振り向いた。
「遅いよ、薫」
「うん、ごめん、スワロー」
それは、図書館で女性たちに言い寄られていたあの青年だった。あまりに唐突な同居人の登場に、薫は驚いた様子でもなく苦笑する。
「でもスワロー、ストーカーはやめてよ」
「薫が遅いのが悪いんだよ。僕は迎えに行っただけ」
「迎えに来て、大学からずっと後つけてたの? 声かけてくれれば良かったのに」
いつから彼は影のように薫に付き従う職業に転身したのか。手に負えない彼の行動には悩まされるばかりである。
スワローは困ったように目を細めた。
「人の恋路は邪魔しちゃいけないって、聡さんが」
何を教えているのだ、あの女嫌いは。
どこから訂正しよう……と悩んでいる薫の耳に、突如激昂が届いた。
「お前……! お前だな、いつも、いつも、薫さんの隣にいるのは!」
いきなり名を叫ばれ、弾かれたように顔を上げた。さっきまでは丁寧な呼び方だったのに……そう思うと、何か得体の知れない悪寒が走る。
訝しげに腕をさする薫に、スワローは不思議そうに問いかけた。
「どうしたの? 薫」
「いや、なんか鳥肌が……」
名を呼ばれただけだ。だが、とにかく新井の声が苦手だった。声の奥に、ねっとりと絡みつくような、どろどろとした何かがある。スワローのような清涼感溢れる声を見習っていただきたい。
スワローもよく分からないといったように首をかしげたが、唐突にばっと振り向き、メスを振るった。がきん! と勢いよく刃が交わる音がする。
「お前! 不公平だ! お前が! お前ばかり薫さんのそばにいるのは!」
支離滅裂に怒鳴りながら新井は腕を振り下ろす。その動きはスワローに比べるとまるで素人じみていたが、冷静さを失った人間の動きは予想がつかない。
しかし、新井のめちゃくちゃな刃を全て正確に受け止めつつ、スワローは目をすがめた。
「君が切り裂きジャック事件の犯人だってことは聞いたよ」
鋭くナイフを弾いて、スワローは言う。それほど大仰な動きには見えなかったが、新井はよろめいた。何歩か後ずさり、図らずも距離が開く。
唐突な指摘に彼は面食らったが、すぐに苛烈な光を目に戻す。
「だからなんだっていうんだ? どうでもいいだろう、そんなこと! 問題はお前だよ、お前は一体なんなんだ……毎日毎日、誰の許可をもらって薫さんのそばにいるんだ!」
「え……薫だけど」
きょとんとした声でスワローが即答する。新井は大きく目を見開いて薫を見た。
「うん、まあ、そうだね」
正確には少し違うのだが、面倒になって頷く。確かに、スワローがそばにいることを許可しているのは、他ならない薫である。
愕然と口を開けた新井は、しばらく放心して動きを止めていたが、不意にぎっとスワローを睨みつけた。
「お前がいるから……お前がいるから、薫さんは僕のところに来てくれないのか!」
「それはどうでもいいんだけど、君、本当に切り裂きジャックになりたかったの?」
引き絞るような叫びをあっさり受け流して、スワローが問いかける。瞬間、新井は息を呑んだ。
スワローの瞳が、ぞっとするほど暗くなっていた。
「僕は、別に、君の先輩になりたかったわけじゃないよ。残念だけど、好きな人の
「は……?」
「僕が子宮を取り出したのは、そうしなきゃならないと思ったから……それだけだよ」
フードから覗く銀髪に、蒼い瞳。
明らかに日本人ではない出で立ちに、手に持つのは細い医療用のメス。
新井ははっきりと顔を強ばらせ、まさか、と呟いた。
「そんな、そんなはずは……だって、まさか………………生きているはずが……」
「うん、本当に……僕みたいなものが、どうして生きているんだろうね」
不思議そうなその目がゆらゆらと揺れる。今にもふらりとどこかへいなくなってしまいそうな、危うげな姿だ。
薫は、慎重に彼の横に並び立ち、ぐっと目を見上げた。いつもは澄んだ湖畔のような瞳が、薄暗く濁りかけている。
咄嗟にその手を握った。
「いいんだよ、スワロー」
ふっと彼の瞳が薫を捉えた。その一瞬を逃さず、畳み掛けるように言葉を連ねる。
「別に生きていたっていいんだよ。妖怪だとか人間だとかそうじゃないとか……関係ないんだよ。自分がどこにもいない誰かだからって悩まなくてもいいんだよ。どこにもいない誰かが、誰からも必要とされていないなんて、そんなの誰が決めたの?」
スワローは少し目を見開いた。
「切り裂きジャックが
スワローが、はっとしたように体を震わせた。目にうっすらと光が戻っていてほっとする。
「僕……薫のそばにいてもいい?」
「初めて会ったときからずっと言ってるでしょ、それは別に許可を取るようなことじゃないんだよ」
薫は苦笑した。
そばにいられるのが嫌な人とはそもそもあまり付き合わない……という至極単純なことが、スワローにはいつまで経っても理解できないらしい。世の中には嫌いな人ともずるずると交流を続ける人もいるようだが、薫はきっぱり縁を切る。
にっこりと微笑んだ。
安堵したのか頷いて、スワローはゆっくりと新井に向き直った。
「じゃあ、あとは君だね」
「お前……お前は……!」
うわ言めいた呟きを漏らし、新井は指でスワローを指していた。不躾な行動に薫は少しムッとする。
「お前は、なんなんだ、一体!」
新井が叫び終わるより早く、銀髪の青年は身を低くして地を蹴っていた。
一瞬で距離を詰め、呆気に取られた男の前で、しなやかに足を踏み切る。
「僕はスワローだよ。ただの、スワロー・アグノス」
ギリシャ語で「純粋」という意味の言葉を姓として与えたのは薫だ。彼には名前が必要だった。名前は物事の有り様をこの世に縛り付ける重要なものだということを、薫は知っていたから。
彼は軽やかに宙を舞い、身をひねってその長い足を新井の脇腹に叩き込んだ。呆気なく吹っ飛ばされる。悲鳴をあげる暇もない。
サバイバルナイフは手から離れ、地面に転がった。薫はさっとそれを拾い上げて刃をしまう。
ほっと息をつくと、新井の様子を見ていたスワローが立ち上がって、薫に言った。
「気絶したみたい」
「そっか、ありがとう」
にっこり微笑む。ざっと見たところスワローに怪我はなさそうだ。
薫は辺りを見回す。
住宅街のど真ん中でこんな騒ぎを起こしたというのに、辺りはしんと静まり返っていた。ふむ、と頷いてしばらく待っていると、木枯らしのような風が吹く。
それは、たまにビルの影で見かける
吹きすさぶ風に目を細めたとき、唐突に風がやんだ。
ややきつめの三白眼に、ろくに手入れしていないぼさぼさの黒髪。首に
見慣れた姿に薫はにっこりと微笑んだ。
「久しぶりですね、
「けったいな名で呼ぶな」
ぶっきらぼうに吐き捨てた男はがしがしと頭を掻いて面倒そうに新井を見た。
「こんな夜中に呼び出しやがって……で? なんなんだ、これは」
薫は端的に状況を説明する。
「襲われちゃいまして」
「……お前、そういう奴らに好かれるの、趣味なのか?」
「何のことですか?」
素で首をかしげた薫を半眼で見つめ、彼は呆れたとばかりにため息をついた。姿勢の悪さを全面に押し出したような猫背で、新井の元へ向かう。
「……ったく、俺だって暇じゃねえんだ」
ぼやく男が面白くて薫は笑ってしまった。
「また結衣に逃げられたんですか?」
「お前からも言ってやれ。あいつ、自分の立場分かってねえ」
「いつものことですねえ」
どうやら今日は図らずも結衣を助けてしまったらしい。あの男毎晩毎晩しつこいのよね、とぼやいている結衣の姿が記憶にのぼった。
男は軽々と新井を持ち上げ、米俵のように肩に担いだ。はあああと肺活量の素晴らしそうなため息をつく。
胡乱に薫を見る。
「お前、惹き付けやすいよな」
ぽつりと呟かれた言葉に、薫は婉然と微笑んだ。
「もう慣れましたよ」
「お前は慣れても、そこの男はどうだかな」
本当に不良のような振る舞いで
「僕?」
きょとんとした顔でスワローが自分を指さす。
「てめえ以外に誰がいるよ」
「僕は……別に、薫が魅力的なのは仕方ないのかなって」
「誰が惚気ろっつった?」
ドスのきいた声が響く。しかしスワローがきょとんとしているのを見て、やや引きつった顔で距離を取った。
薫は照れるでもなく苦笑する。スワローにかかれば、大体の人は魅力的という評価になるのだ。
「なんだお前ら、夫婦みてえな風格出しやがって」
「
「いや、知らねえよ」
呆れた声で彼は手を振った。
「とにかく、こいつはどうにかしておくから、お前らはもう帰れ。お前らがいるといらねえ仕事が増えるんだよ」
まるで薫たちがトラブルメーカーのような言い草である。
納得いかないながらも、薫はしかつめらしく頷いた。
「分かりました。帰ろう、スワロー」
「うん」
ぼんやりとした瞳でスワローは頷く。不安定な存在を繋ぎ止めるように、薫は彼の手を引いた。
「おい、
ふと呼び止められて、薫は首だけで振り返る。
妙に真剣な顔で
「お前、もう少し素直になったほうがいいぞ」
そう言って、彼は薫に返答させる間すら与えずにぱんっと手を打つ。
瞬間、
瞬きの間に世界は元に戻っていた。男どころか、一枚の
薫は何もない空間をじっと見つめた。
「薫、どうしたの?」
ふと、横から声がかかる。ぼんやりとした瞳は凪いだ湖のように清廉だ。
その虹彩を見上げて、薫はああ、好きだなあと思った。
スワローと薫は恋人ではない。ましてや夫婦だなんてありえない。そもそも薫はまだ学生だ。
けれど、スワローのことが好きかと問われれば、薫は迷うことなく是と答える。もちろん家族的な意味でも友達的な意味でも人としてという意味でもない。きちんと、そういう意味で、薫はスワローが好きだ。
けれど今日も、薫はゆるゆると首を横に振る。
「なんでもないよ、スワロー。迎えに来てくれてありがとう。……帰ろう?」
そう言って、にこりと微笑む。少し胸が痛かったけれど、気づかない振りをした。
スワローは人を好きになれない。というより、人を好きになれるほど自分に価値があると思っていないのだ。初めて出会ったときの、今にも死にそうな、まるで何かの手違いで幽鬼が生きているかのような瞳を、薫は一生忘れないだろう。
彼に必要なのは恋ではない。母親が子供に与えるような無条件の愛情だ。
だから、薫は彼を拾ったときに彼に愛情を与えようと決めたのだ。きっとスワローも薫のことを好きなどとは思っていない。今も昔も、彼は母親のような存在として薫を慕うだろう。
だが、それだけだ。
恋心は出会った瞬間に感じていた。そして、彼を拾うと決めたそのときから封印した。
だから今日も、薫は
「そろそろ寒くなってきたね。スワロー、そのコート結構古そうだけど、買い換えない?」
「ううん、僕はこれがいい」
「そう? 暖かそうだもんね、それ」
他愛ない会話を繰り返す。油断すれば浮かんでくる、母親として持ってはならない感情を胸の中に押し込めて、薫は笑った。
涼やかに吹いた秋風が、薫の胸に空いた目に見えない穴を、ひょうと通り抜けた気がした。
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