零糸町物怪奇譚
七星
ジャック・ザ・リッパー
ジャック・ザ・リッパー 第1話
「ちょっと、
三コマ目も終わったころだった。教室から出た途端、ばったり会った親友が呆れ顔で報告してきた。
きょとんとした薫は、行くつもりのなかった図書館へと視線を巡らせる。
「また? 今日は何人?」
「三人よ。知らない顔だったわ。そろそろ大学の女子全員コンプリートするんじゃない?」
ありうる。もう既にひとつの学年くらいは制覇しているかもしれない。
「
思わず問いかけると、結衣は片方の眉を器用に上げて手を横に振った。肩まで伸びた茶髪が少し揺れる。
「あたしが? あの中に入るの? 冗談じゃないわ、無理無理。大体、あいつの保護者は薫でしょ」
「うーん、処世術は教えたんだけどなあ……あと、スワローは私より年上だよ」
「じゃあよっぽど女の扱いが下手なのね。中学生でももっとマシな対応するわよ」
辛辣である。薫は苦笑して視線を図書館へ向けた。次のコマも授業が入っているが、担当の教授はいつも来るのが遅い。
「教えてくれてありがと。行ってくるね」
「いいのよ、あんたも大変ね」
ぽんっと肩を叩いて、結衣は歩いていった。わざわざ教えに来てくれたのだろう。彼女はさばさばしているだけで実は面倒見がいい。
少し歩いて、薫は建物から出た。薫の通う大学は規模が大きく、図書館は独立した建物として存在する。本の匂いが立ち込める図書館は二階まであって、階段も三つほど存在している上に、たまにスロープなどもひょっこりある。入った瞬間に複雑な構造に目を回しそうだ。
しかし、薫は入ると同時に吸い寄せられるようにある場所へと目を向けた。
そのとき、丁度相手も引き寄せられたかのように薫を見た。ばちりと視線が交錯する。
明らかに日本人ではない青年だった。透けてしまいそうな透明度の銀髪に、劣性遺伝の青い瞳。西洋風の顔立ちは儚げだが綺麗にパーツが収まっていて、桜のような美しさを思わせる。その周りにはなるほど、確かに三人ほどの女性が立っていた。
「薫」
彼は背が高い。女性達の壁をものともせず透き通った低い声が響く。その瞬間、ばっと周りの三人がこちらを振り向いた。薫は彼の頭をひっぱたきたくなった。
このままいくと何が起こるのかは理解しているが、無視するというわけにもいくまい。
なるべく穏やかな笑みを保って歩み寄る。
彼は一見無表情だが、ひそかに焦っているのが薫には分かった。
「スワロー、どうしたの?」
「連絡先教えてほしいって言われたんだ。別にこの子達に興味ないし、断ったんだけど全然聞いてくれなくて」
女性達の気配が荒々しいものへと変わる。
薫がスワローと呼ぶこの青年はどうも気遣いというものに欠けている。そして彼女達の怒りは何故か、デリカシーのないスワローではなく薫に向くのだった。
三人のうち、化粧の一番濃い女性がじろじろと薫を眺めた。
「あんた、誰? この人の彼女?」
そう来ると思っていた。軽く首を横に振る。
「いいえ、違います」
「はあ? 彼女じゃないのに名前で呼んでんの?」
そんなのおかしいというふうな言い草に思わず呆れた。彼女でなかったら異性同士は名前を呼ぶことも許されないのだろうか? どんな論理だ。
実のところ彼女達はなんでもいいから薫を貶めたかっただけなのだろうが、彼女にそれを察知する力はなかった。薫は薫で、人の心の機微を察することがあまりうまくない。
可愛らしい、ツインテールの女性が小首を傾げた。いかにも自分の持つ可愛らしさを理解しているような、やや見下した視線だった。
「ねえ、あなたはこの人の連絡先、知ってるの?」
あまりに可愛らしく問われてきょとんとする。思わず正直に答えてしまった。
「ええ、まあ……」
しまったと思ったがもう遅い。彼女はにんまりと笑う。
「じゃああなたが教えてよ。この人は教えたくないらしいけど、あなたから聞くならいいでしょ? 彼女じゃないっていうし……ね?」
勝ち誇ったような笑みに薫は困惑した。一体何が「ね?」なのか意味がわからず、思わず小声で確認する。
「えっと、スワロー、教えてもいい?」
「駄目」
食い気味に返される。そうだよねと頷いて、彼女達に向き直った。
「残念ですが、無理です」
「は? 何よそれ? 彼女じゃないんでしょう?」
髪の長い薄化粧の女性が追随する。
薫はそろそろうんざりしてきた。「彼女」という肩書きは何かそこまで強大な力を持っているのだろうか? 謎である。
「彼女とかそうでないとか関係ないですよ」
「何言ってんのあんた。彼女じゃないあんたにこの人の行動を制限する権利なんてないでしょ?」
「それを言うなら、私と知り合いでもないあなたたちには私の行動を制限する権利などないのでは?」
連絡先を教えろというのは、十分行動を制限する行為であると思う。
図星だったのか反論に驚いたのか、化粧の濃い女性が顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせた。
すると黙っていたスワローが口を開いた。
「僕はここに仕事をしに来てて、君たちはここに勉強をしに来ているんだよね? 僕の連絡先を渡す必要はないと思うんだけど……」
追い打ちである。嫌味でもなんでもなく、純粋にそう思っている雰囲気がにじみ出ているのが特に。
しかし全くそのことに気づかないスワローは困ったように視線を巡らせた。いつの間にか色々な人の視線が集まっている。図書館でこれだけ騒いでいたらそうなるだろうなと薫は思った。
彼女達はドがつくほどの正論と大衆の目に焦ったらしい。行こ、と一人が言い、三人は頷きあって立ち去った。
彼が小さくほっと息をついた。
「ありがとう、薫。助かったよ」
少しは怒ろうと思っていたのに、この笑顔を見るとその怒りも萎んでしまう。彼のほわほわした雰囲気には相手の矛を収めさせる力がある。
代わりに薫はやれやれと首を横に振った。
「スワローは何度言っても上手くあしらえるようにならないね」
「うーん、僕もいつの間にあんな話になったのか分からないんだよね。最初は普通に本の場所聞かれただけなんだけど……なんでみんな僕の連絡先聞きたがるのかもよく分からないし」
薫は苦笑した。スワローは自分の美しさにまるで頓着がない。それが美点でもあるのだろう。
彼のように整った顔立ちをした人は大抵人生においてモテにモテまくり荒波にもまれ、その中で女性に対して何かしらの対処法を身につけているものだと思うのだが、彼にそんな力は皆無だった。
はっきり言うと、壊滅的に察しが悪い。
この図書館で働いている彼はあんなふうに女性に言い寄られることが日常茶飯事だ。
そのとき、ふと二人のほうへ近づいて来る影があった。
「また来たのですか。最近はああいう輩が多いですね」
「星野さん」
現れたのはこの図書館で司書をしている
「さっきのは良かったと思いますよ、スワロー君」
「さっきの?」
「彼女達は勉強をしにきているはずだというくだりです。いや、実に良かった。君の悪気なく嫌味を吐けるところ、私は美点だと思いますよ」
いけしゃあしゃあとそんなことを
毒舌で有名な彼は、綺麗めの顔立ちをしているが学生たちからは遠巻きにされることが多い。というのも、星野はスワローと違って自分が女性受けする顔なのをわかっていて、
そういう学生は大体彼の話術によって知識責めに合うので、特に女子学生からは敬遠されているのだ。
スワローが女性に言い寄られるのは星野のせいでもあると薫は思っている。
まあ、二人並んでいる姿を見て、眼福よね……などとのたまう結衣のような強者もいるので、一概には言えないが。
精神が鬼のように強い親友を思い出していると、スワローが少し肩を落とした。表情にはあまり出ていないが、おそらく落ち込んでいる。
「僕も聡さんみたいに上手く女の人をあしらえるようになりたいんだけど」
それはどうか遠慮してほしい。スワローが星野のようになったら薫は泣く。
「あなたはそのままのほうが良いですよ」
星野はにこりと微笑む。スワローがいると女性を避けられるから、というのも絶対にあるだろうなと薫は半眼になった。
じとりとした目で見ていたことに気づいたわけではないだろうが、彼はおや、と薫のほうを向いた。
「貴女もいたのですね」
露骨なくらいにトーンが下がった。しかし彼にとっては悪気のあるうちに入らないくらいのレベルである。
薫もそんなことで気に病むようなヤワな精神の持ち主ではない。最初は驚いたがもう慣れた。驚くだけ時間の無駄だ。
「嫌ですね、ずっといましたよ」
「そうですか。見えませんでした」
「スワローは背が高いですもんね」
ふんわりと微笑む。星野は毒気を抜かれたように面食らった顔をして首を振った。
「貴女と話していると調子が狂いますね……スワロー君と話している気分になります」
「……え、そんなに似てます?」
「似てます」
即答だった。薫はううんと唸る。そこまで天然ではないと思うのだが……
おそらく本当に何の気なしに言ったに違いない言葉を重く受け止め、考え込んでしまっていると、そういえば、と星野が呟く。
「どうかしましたか?」
「ああ、大したことではないんですが……」
彼は珍しく薫のことを真正面から見据える。
そして、世間話をするのとなんら変わらない口調でそのセリフを口にした。
「あなたは妖怪が見えるのでしたよね?」
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