再び、レッド・シー



 黒狼のボスを追ってニィルがたどり着いたのは、やけに見覚えがある場所だった。

 それもそのはず、レッド・シーである。

 再び、レッド・シー。感じる思うのは、気のせいなのか。よもや、どこぞの万年幼女が余計な忠告めいたことを言ったがために、乱立するフラグを踏み抜いてしまったのではあるまいか。

 しばし後戻りができない所にまで来てしまった錯覚を覚えたニィルだったが、そこは持ち前のポジティブシンキングで深く考えないことにした。

 強酸の海は不人気であると見えて、数日前にニィルが放置した資金調達の残骸がそのまま残っている。

 ゴミを放置するのは景観に良くないだろうと考えを改めた良い子のニィルは、新調した靴の側面を用いて、かつての靴の残骸を強酸の海へと蹴り込んで証拠隠滅を狙った。

 そうして何事もなかったことにして、ニィルは改めて知ったのだとばかりに愕然とした顔をして呟く。

「ま、マジかよ……ここなのかよ……やい、クソ犬。マジでここなのか!?」

 ウォン!

「……うえぇ……」

 今度は本心からげんなりとなって、ニィルは呻いた。

 先日潜った際に使用したアルカリ性中和溶液の残りは、未だ後生大事に取ってあるニィルである。

 よって、新たな経費として考えられるのは靴の新調くらいのものだったが……今回の目的は、独自の進化を遂げた魑魅魍魎と同義たる魚介類などではなく単なる人探しだ。ならばここは、靴を脱ぎ捨てた生まれたままの自然児スタイルで挑むべきではないのか。

 貧乏人の権化であるニィルは、にわか倹約家精神を発揮して、姑息にも考えを巡らせた。

 なお、この時に節約したはずの金銭は後日嗜んだ賭博にて一瞬で溶け消えてしまうのであるが、ケチった自分を褒め称えることに忙しいニィルは知る由もない。

 装備品を外して着ていた服を脱ぎ捨てたニィルは、新調したばかりの靴を脱いで、海岸にそろえて並べる。次にマジックバッグを漁ってアルカリ性中和溶液と回復ポーションに加えて小瓶を取り出し、靴の横に置いた。

 小瓶の中身は、ニィルが飼い馴らした穀物の粒くらいの大きさの虫である。土地柄からモザイク現象にて交換の法則が作用するかもしれないという凶悪極まりない存在ではあるが、気軽に持ち運びできる臨時の荷物番としては申し分ない。もしもニィルがレッド・シーに潜っている間に荷物を狙うような盗人がいたならば、ただちに小瓶に蠢く虫たちが対応してくださることだろう。

 かつてのニィルは、この偶然手に入れた虫を量産して金策する計画をしたこともあったものであるが、通りすがりの不幸な犠牲者が出てしまったがために、身の危険を感じて中止した次第だ。なお事件の真相はモザイク・シティの日常の一コマとして片付けられており、完全犯罪が成立しているから安心だった。

「さって、と。行くかクソ犬」

 は、は、とご機嫌な様子で尻尾を振る黒狼のボスは、すでに準備を終えている。強酸の海にも耐えるオリハルコン製のアーマード・マッスル・スーツで全身を固めて、ニィルを見上げていた。

 心なしか、レッド・シーを前に気落ちするニィルを認めて尻尾の振りが高速化したような気がするのは、被害者意識に過ぎるというものか。最新のアーマード・マッスル・スーツは尻尾の高速振りにも対応しているらしいのがまた、地味に苛立ちを誘う。

 とはいえ、いかに黒狼が巨躯とだと言っても、四つ足で立つ黒狼に比べると、二足歩行のニィルの方が頭二つ分ほど高い位置に目線がある。

 背後から頭突きをしたり股間に狙いを定めたりと、日頃は人間様に対する敬意が足りない黒狼であるだけに、こうして見下ろすと溜飲が下がる思いがするニィルである。

 ニィルは、背伸びをして身体をほぐし、気合を入れた。

「っし。で、どっちだ?」

 ウォン! ウォン!

 黒狼は、ついて来いとでもいうように二度吠えると、海原へ向かって跳躍。

 ざぷん、と赤い海面を波立たせた黒狼に続いて、ニィルもまた懐かしき強酸の海へと頭から飛び込んだ。






 レッド・シーの透明度は、意外にも高い。

 視界はクリアであり、遠くには決して近付いてはならない大きさの何かがうねうねと渦巻いているのが見えた。

 レッド・シーに巣食う怪物からぎこちなく目を逸らしたニィルは、犬かきをして器用に泳ぎ進む黒狼に続いてゆるりと海水を蹴る。

 主人である幼女の指示があるためか、黒狼の泳ぎに迷いはなかった。前へ前へと突き進み、数分が過ぎてそろそろ呼吸の心配をし始めた頃、ニィルはそれを見ることになった。

 それは、まだずいぶんと先に在った。

 薄暗い赤の中でそれは白く輝き、存在を周囲に知らしめていた。

 二階建てのビルと同じくらいの大きさの球体だった。鳥の卵のような色と形をしていて、近付いて行くほどにその全容が明らかになっていった。

 そして、ニィルは歌を聞く。

 地の底をなぞり上げるような、悲鳴にも似た独特の声音だった。

 おおよそ人間の声ではない。

 だがそれはどこか蠱惑的でもあり、ニィルの感情を、意識を、揺さぶった。

 動揺したニィルの口からこぽり、と空気が漏れる。

 一方、先を行く黒狼はというと、危機感を覚えるニィルとは違い、躊躇なく歌が聞こえてくる球体へと向かって突き進んで行く。

 仕方なくニィルもそれに続いたわけだが……その先にいたのは、ニィルが予想したものではなかった。

 ウォン!

 水中でひと吠えした黒狼は、役目は終えたとばかりに頭上の水面へと引き返していく。

 そうして黒狼の帰還により、ニィルはそれと一人で向き合うことになった。

 不可解な球体の根元に居たのは、おそらくモーモであろう何かだと思われた。

 確信はない。だが、モザイク・シティでも最高峰の捜索者サーチャー であるマリリアンヌの術式に失敗はないのだ。これがフジタが探すモーモであるのだとみて間違いなかった。

 あいまいな表現になってしまうのは、すでにそれ――彼女が、人間ではないからだ。

 ニィルが白銀の毛並みを持つ猿人であるとするならば、彼女は下半身に魚の尾びれを持つ人魚だった。痩せ細った上半身を剥き出しにして青緑色の鱗を煌めかせるその姿は、すでに地上で生きることを許されない身であるのだと察するには充分な説得力を持っていた。

 人魚は、鬼の形相だった。

 両手で球体にしがみ付いて、人魚は歌っている。

 怖い。意味がわからない。ドン引きである。

 とはいえ、ニィルはすでにフジタから受け取った前金へ手を付けた後であったし、何より成功報酬が欲しかった。

 だもので、自分を奮い立たせて人魚に接触しようと試みたニィルは――だがしかし、そこでぎくりと動きを止めた。

 球体の中に、多数が廻り漂っているもの。

 幾つもの手、或いは無数に思えるほどの足。頭部。

 そのうちの、一つ。

 それは。

 こぽりと、ニィルの口から息が漏れた。

 ――あれは、オレだ。



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