潜る猿人
ないに。
レッド・シー
レッド・シーは、東海岸に位置する強酸の海だ。
その呼び名の通り赤く深い色合いは、幾人もの生命を奪った血染めの海であるのだと云われている。
だが、人間種の坩堝とまで云われるモザイク・シティにおいては、人間の血の色は赤いだけではいられないとあっては、「血染めの赤」などという云いようはいかにもおかしい。モザイク・シティの人々には、血の色が青いのがいれば黄色いのもいる。なんなら、黄金色まで当たり前に存在しているのだから。
では、なぜ赤い血が、などと云われているのか。
ニィルはその理由を知らないし、別に知りたいと思ったこともなかった。おそらくこれからも、未来永劫知らないままだろう確信まで持っていた。
ニィルは、どこまでも続く赤い大海原に目をやりながら、両手を腰に当ててぐぐぐぐ、と背伸びした。続いて肩を回し、屈伸をする。
季節は、冬季を迎えたばかりだ。ほぼ全裸で立つにふさわしい季節であるはずもなく、澄み切った空気は肌を刺すように冷たい。頭上からひらりひらりと白いものが舞い降りたものがニィルの全身を覆う白銀の毛並みに着地して、毛並みの隙間から漏れた熱気に充てられたのかゆるりと溶け消える。
全身に上質の毛並みを持つニィルであれど、これは時間との勝負なのだ。さしもの神秘の毛並みとて、こんな場所で手間取っていてはいずれ凍え死んでしまう。かといって決行しなければ、やむにやまれぬ諸事情により素寒貧のニィルは餓死コースへと一直線だ。ここは、是が非でも成果を出さなければいけない局面であった。
ニィルは、慎重に深呼吸を繰り返して、心を水平に保つように心掛けた。
吸って、吐いて。また吸って、吐いて。
空気が体内を震わせて、浸透していく。
そうしてひときわ深く静かに息を吸い込みながら両手を伸ばし、まっすぐの体勢になったニィルは、強酸の海レッド・シーへと頭から飛び込んだ。
ざぶん、と音がして、音の少ない世界が始まる。
ニィルが息を止めていられるのは、せいぜい十分が限界だ。
その間に、何としても獲物を捕らえなければならない。
レッド・シーはいつ潜っても視界の悪い濁った水質が特徴ではあるが、そんなことは言ってられない。もしもこれが失敗したならば、それは墓場への入り口に相当する。次なる金策を捻り出さなければ、ニィルには餓死の未来が待っている。
世界には、二種類の人間が存在するのだ。
金持ちと、貧乏人。
ニィルはもちろん後者だった。
――いたぞ、あれだ。
海底の岩陰できらりと光った何かを視界に捉え、獲物を捕捉したニィルは、歯を剥き出しにして獰猛な笑みを浮かべた。
ごぼぼっ。
笑んだ拍子にうっかりと口の端から水泡が漏れて、くるくると惑いながら頭上の水面へと登っていく。
ニィルは、腰に吊り下げていた銛を手に取り、構えた。
幸いにも岩陰のきらめきは、こちらに気がついた様子がない。絶好の機会だった。
ニィルは、いよいよ狙いを定めて、強酸の赤い海でたくましく生きる銀色の煌めきに向かって銛を放ったのだ。
ニィルは、レッド・シーから岸辺へと身を乗り上げて、予め陸に置いてあった籠に獲物を突っ込む。続いて同じく陸に置いてあった強化容器を手に取り、なみなみと湛えられていたアルカリ性中和溶液の半分を頭からかぶる。じゅう、と不安になるような音を立てて、赤い海水が透明へと変化する。
続いて容器に残った溶液を少し手に取って身体中に擦り付け、これを何度か繰り返した。
ここで手間を怠ると大変なことになるからと、ニィルは念入りに確かめる。
そうして気が済むまで確かめて、ニィルはようやく堰き止めていた息を吐き出した。
「くはっ! が、はっ、はっ、」
わずかに残っていた息までもを洗ざらいと吐き出して、新鮮な空気を補給していると、ニィルの足元でまたじゅう、と音がする。
結局のところ、気が済むまで確認したところで肉眼では限界があるのだ。おそらくは、足裏などにレッド・シーの雫が伝い落ちていたのだろう。これはもう、仕方がない。
ニィルは、ダメになった靴を脱ぎ捨てると、レッド・シーと同じ色をした回復ポーションの蓋を開けて一気に飲み干した。
目まぐるしい勢いで再生していく皮膚組織――もとい白銀の毛並みを横目に、脱ぎ散らかしていた衣服を手早く身に着けていく。
その間にもニィルの脳味噌はフル回転だ。
――三回目のダイブにて本日やっとこさゲットできた獲物は、申し分のない大きさの銀魚だった。料亭に卸されるような、間違いのない高級魚である。収支は、これでプラスになった。消費した回復ポーションと特注した靴がイカレてしまったのは惜しい限りだったが、薬と靴だけで済んだのならば安いものだ。
この希少な銀魚のおかげで、ニィルはまたしばらくの間モザイク・シティで生き延びることができる。居場所を確保することができる。
近頃めっきりと仕事の依頼が減ってしまい、懐には隙間風が吹き通していたが、これならばどうにかなるだろう。
何人をも寄せ付けぬ強酸の海に棲む魚だからこそ、価値は跳ね上がる。レッド・シーに棲息する魚はどいつもこいつも癖の強い逸材揃いで、猛毒持ちからオリハルコンの鱗を持つ魚まで、バラエティに富んでいる。
ニィルは、漁師ではない。
それが、禍つの大都市とされるモザイク・シティにおけるニィルの立ち位置だった。
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