ジャッ、と鎖が音を立てる。

 音莉ねりの隣をスピードを上げてブランコがすり抜ける。そのまま空へ飛んでいってしまうんじゃないかと思うくらいに勢いがいい。

文乃あやのちゃんすっごいですねー 音莉はついて行けませーん」

 立ち漕ぎで文乃が戻ってくる。そのまま後ろへ、前へ、と止まるよしもない。

「それは、音莉ちゃん先輩が臆病だからっすよー」

「音莉は臆病ではありませんもーん、危険なことは敢えてしない、正統派です」

「それはそれはー まぁお利口さんってことでいいっすかー?」

「いや~ それほどお利口さんでもありませんけど~?」

「そのへん、ちゃーんと自覚あるみたいでよかったっす」

 よっ! と声を上げて、文乃がブランコから飛び降りた。華麗に着地を決めて「山下文乃選手、十点ッ!」と両手を挙げてポーズまで決めている。

 そんな文乃は音莉からしたらなんと元気なことか。スカートがめくれても気にしていない。下にスパッツを履いているからいいってものじゃない。

 一応、女の子なんだから。

 言いかけて、やめた。

 音莉が座っているブランコから、キコ、キコ、と軋んだ音が鳴っていた。

 ふと、文乃に音莉は声色こわいろを変えてこんなことを聞いてみた

「それはそうと、文乃ちゃん。音莉になにか言うことはありませんか?」

 音莉は文乃に聞きたいことがあった。文乃と二人きりになるのはそんなにない。文乃の隣にはいつも鐘花しょうかがいる。人望もあるらしく、クラスメイトたちにも囲まれた彼女と二人だけになるチャンスは、ここしかない。

「なにがっすか?」

 今日の給食のメニューでも聞かれているみたいな軽い反応に、音莉は目を細めた。さらに突っ込んで聞いてみる。

「音莉、知ってますよ。文乃ちゃん、時々別の人になることあるでしょう?」

 文乃の目がかすかに開いた。思わず唇が持ち上がる。

「例えば、そうですね……あの日。愛衣ちゃん先輩が襲われたとき。図書室に愛衣ちゃん先輩を連れてきたのは、文乃ちゃんではなくて……」

「何で知ってんだよ」

 文乃の口調ががらりと変わった。それに伴って目つきがギッと鋭くなった。雰囲気がぐっと重たくなった気がした。少女というより、少年だ。

「あらやだ、かまかけて正解ですね!」

 くすくすと笑ってみれば、文乃の目がさらに鋭くなって睨みつけられる。警戒の視線は結構痛い。

「貴方のお名前は?」

 びくっと肩を強張らせる。唇は真一文字に結んだままだ。音莉は構わず話し続けた。

「知ってると思いますが、私は星野音莉。文乃ちゃんの一個上の先輩で文芸部です。それで、文乃ちゃんの中にいた貴方のお名前は?」

 ぎりぎりと歯ぎしりをしたと思ったら「何で名前なんか……」とぼやき始める。

「なにかを始めるにはまずお互いを知らなくちゃいけません。それにともなって一番初めは自己紹介でしょう? 音莉はもう名乗りました。次は貴方の番です。それとも、貴方には名前がないんですか?」

 文乃の顔でぱちぱちと瞬きをして、ふいっと目をそらした。

「……言理ことり

「そう、言理くんですね」

 言理と名乗った人物は、足で砂をざりっと蹴った。

「あの先輩……さっき、大丈夫そうに見えなかった」

 ふいに言理が口を開いた。あの先輩、というのは愛衣のことだろう。

「辛そうにしてる。まだ、我慢してる」

「わかりましたか」

「わかるさ。俺、そう言うの見抜くの得意なんだぜ」

 にっと頬を持ち上げる。特技を自慢する小学生みたいな言い方に、少しだけ文乃の顔が幼く見えた。

「優しいですね、言理くんは」

 また、ふいっと顔をらす。耳が赤くなっていた。目がなにかを訴えるみたいに、潤んでいるようにも見えた。

「俺は……あの先輩になにも言えなかった。『悠馬に知らせるのはダメだ』っても言ってた。あの二人、幼なじみなんだろ? それなのに言えないって、それだけ辛いって事なんだろ? それなのに、俺は聞くだけでなにも返せなかった。文乃だったら、もっと、こう……気遣えたことでも言えたんだろうけどさ」

 言理の喉が震えていた。懺悔ざんげを聞いている気分になる。音莉はブランコに座ったまま、じっと言理の目を見つめ返した。

「なにも、言えなかった。それだけが……先輩に、すごく申し訳なかった」

 肩を竦ませて突っ立っている言理が、小さく見えた。夕暮れの黄色が言理の顔を照らしている。綺麗だった。

 文乃同様、この少年も優しい。優しすぎる。愛衣を助けたのは、他でもない言理なのに。その事実は変わりないのに。なにもできなかった、と嘆くのだ。

「貴方が愛衣ちゃん先輩を守ったことは変わりありませんよ」

 言理が顔を上げた。泣き出しそうに顔を歪めて、それから想いをしまい込むように俯いて目を閉じた。音莉は続けて語りかける。

「もっと堂々としてらっしゃい。その方がかっこいいですよ。そう思いません? 言理さん」

 三十秒遅れて、言理は微かに首を縦に振った。

「『勘違いされるから』って。『悠馬は望んでない』って。そう言ってた」

 さっき飛び降りたブランコに座って、言理は思い出したように話した。

 口には出さないが、あの時、音莉はちょうど微睡んでいたから、愛衣の声を実際に聞いていた。なにかを恐れているみたいな声だったのを覚えている。

「俺、違うと思う。悠馬先輩は愛衣先輩のことすっげぇ大事にしてると思う」

「言理くんもそう思いますか」

「俺、そういうの気づくの得意だから間違いない」

 愛衣の件は正直、自分が出張ることではない。けれど、事は先輩たちの方で進めてくれると思っていたが、悠馬は使い物にならなさそうだし、風夏も花鶏もどこか気まずそうにしている。何より、悠馬と花鶏の仲がここまで悪いとは思わなかった。

「……厄介なのを持ち込んでくれましたね、愛衣ちゃん先輩」 

 だとしても、かき回すには十分だと音莉は思う。変わることを恐れていたらなにもできない。小説でも漫画でもないのだから、自覚しなきゃ恋は動き出さない。このまま卒業してなかったことで終わらせてなるものか。かっこよく卒業なんか、させてやるものか。

 結局、人は綺麗じゃないんだから。

「音莉先輩、なんか囓ってませんか?」

「あ~らやだ、疑ってるんですか~言理くん? 音莉、な~んにも囓ってませんよ~」

 いつもの猫かぶりをしてみると、言理は文乃の顔で不服そうに顔を歪めた。はっきりきっぱりが信条の文乃と同じように、さぞかし音莉は不誠実に見えていることだろう。

「俺……音莉先輩とは上手くやってけそうにないっす」

「やっだー、そんなこと言わないでくださいい言理くん。先輩がなにかおごってあげますから」

「じゃ、ブラックで」

「はいはーい」

 前に文乃と自販機に立ち寄ったとき、文乃は甘いカフェオレを飲んでいた。人格が違えば好みも違うのか。

 鞄を言理に見ててもらうよう言いつけて、音莉は小銭入れをじゃらじゃら鳴らしながら自販機に向かった。


  §


 愛衣の前を足早に歩く。太陽が黄金色に姿を変えて、悠馬の顔を正面から照らしている。眩しくてくらくらして、目を細めた。足音が後ろから聞こえてくる。それだけが愛衣が後ろにいることを確認できることだった。

 振り返るのが怖かった。

 愛衣と目を合わせるのが怖かった。

 隣を歩くのが、怖かった。

 どうしてこんなに愛衣に対して怖い感情を抱くのか、自分でもわからない。

 まず第一に思いついたのが罪悪感。手首を強く掴んだことを謝らなきゃいけない。でもあの折れそうな細っこい感覚が手のひらに蘇ってきて、肩が思わず強張った。

 もう一つは、ここ最近の部員たちのせいで浮き彫りになった、得体の知れない感情だ。名前のないそれが何なのか。決めつけられること、もしくは、悠馬が目を逸らし続けていることへの恐怖。

 それから。

「悠馬」

 澄んだ声で名前を呼ばれると、とくんと心臓が跳ねた。

「どうした?」

「ごめん」

「……なにが?」

「……いろいろ」

 立ち止まった愛衣も、つっかえながら答える。愛衣が「いろいろ」と言うときは、早くなにか言おうとして考えがまとまっていないのに口を開いたときだ。

「いいよ、愛衣は悪くない」

 身体ごと愛衣の方を向いて、悠馬はできる限り優しく答えた。でも目を合わすことができなかった。

「いろいろ、怖かったんだろ?」

 思い切って愛衣の顔をのぞき込む。俯いて、前髪に隠れて表情が見えない。髪の隙間から大きな目が潤んで揺らいでいるのが見えた。

「もう大丈夫だから」

 愛衣の目が逸れる。思わず息を吐くと、するすると言葉が出てきた。

「教室が辛いなら部室にいればいい。音莉にロッキングチェア貸してもらえ。部長でも音莉でも、傍にいてもらえ。俺だって、」

 言いかけて口を噤んだ。

 俺だって、愛衣が望むなら。

 幼い頃の泣いていた愛衣と、今の愛衣が重なる。あの頃から、悠馬の気持ちは変わらない。変わっては、いけない。

 だからといって変わらないことを愛衣に強制できない。

 愛衣は愛衣だから。

 悠馬とは、違うから。

 左の胸ポケットに手を当てる。生徒手帳の感触を確かめる。そろそろ、覚悟を決めないといけない。これから悠馬が起こす行動が、どんな結末の発端になったとしても。

 愛衣に気づかれないように大きく息を吸い込み、静かに吐き出した。心臓の音が一層強くなる。

「愛衣」

 生徒手帳のあるページを開いて愛衣に突きつけた。

「なに?」

詩織しおり先輩の電話番号」

「詩織先輩の?」

 愛衣の目が丸く見開かれ、頬が赤く染まった。悠馬は微かに首を縦に振った。愛衣が詩織先輩のことをリスペクトしているのは知っている。なんだって愛衣は、詩織先輩の影響で書き始めたのだ。聡明な詩織先輩なら、なにか解決策の糸口でも示してくれるかもしれない。

「大樹さんのこと、相談してみたらどう?」

 自分は助けられない。だからせめて、愛衣だけは。今の苦痛から引き上げてほしい。詩織先輩なら、部長みたいに茶化すこともしないだろう。

「どうして悠馬が詩織先輩の連絡先知ってるの。私知らないのに」

 どうして手に入れたのか、悠馬自身もよくわからない。

 一昨年の卒業式の時、詩織が愛用していたものが悠馬たちに与えられた。風夏はクローバーの髪留め。花鶏はペチュニアのコンパクトミラー。愛衣はのゼラニウムの万年筆。悠馬はスミレのしおり。それと一緒に悠馬だけ、一緒に連絡先が渡されたのだ。「あー………なんでだったかな」と適当にはぐらかした。

「ずるい」

「なにが」

「悠馬だけ」

 見ると、愛衣はむぅっと頬を膨らませて悠馬をにらんできた。申し訳ないが全く怖くない。そんな癖も、小さい頃から全然変わってなくて少し胸がぎゅっとなった。

「愛衣、」

 名前を呼ぶと、今度はまっすぐ悠馬を見てきた。愛衣にこんなふうに見られるのは、少し、緊張する。

「大丈夫だから」

「ん、ありがと。悠馬」

 なんの根拠もない。もしかしたら、悪い方に転がるかもしれない。今言ったことが嘘になるかもしれない。真実がいつも残酷なのは至って普通のことで、そっちの方が可能性が高い。

 でも、今だけは、そう言わせて。

「帰ろ」

 愛衣を促して歩き出す。隣が少し温かかいのは、夕陽に照らされているだけじゃないと思う。

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