6
大樹は雪彦の家の前にいた。先日、弓道部のOBからメールで送られてきた地図と住所を照らし合わせる。
「ここか」
雪彦の住所を送ってきたOBは、大樹たちが一年生のときの部長で、よく雪彦のことを心配していた。集団行動の輪の中に溶け込ませようとして悉く失敗していた。大樹が連絡を取ると、元部長権限だと、快く教えてくれたのだ。
影崎の表札を確認して見上げる。シンプルだが邸宅を思わせる風貌の一軒家で、玄関に行くまでに階段を上っていかなければならない。その途中でシャッターが降りた車庫がある。離れと思われる小屋もあった。雪彦に兄弟はいないと仮定して、いったいこの家に何人で住んでいるんだろうか。
玄関のチャイムを押す。三分経っても応答がない。もう一度。もう一度。それを何回も繰り返す。
しばらくして、かちゃ、と扉が開いた。十センチ、相手の顔を確認できるくらいの隙間から女の顔が覗いた。
「どちら様?」
雪彦の母親だろうか。大樹は一瞬、姉かと思った。とてつもなく若く見える。十代のギャルと言っても通用するかもしれない。すらっとした体格と目元が似ている。けれどそれだけで、他は全く似ていない。痛んだ金髪に低い鼻、鎖骨は浮き出て、貧相だったが化粧をすれば華やかになるかもしれない顔立ちをしていた。鳶が鷹を生む、と言う諺がこんなに当てはまる人を、初めて見た。
彼女は大樹よりも二十センチも低いところから、ぎっと睨みつけてくる。
「突然済みません、雪彦はいますか?」
「アンタ耳悪い? 誰って聞いてんの」
腰に手を当てて、女はいらいらをそのままぶつけてくる。
「一之瀬大樹。雪彦とは、同じ弓道部です」
付き合っていることは言わなかった。雪彦は家のことをなにも話さなかった。それなりの理由があるらしかったが、彼女を見ただけで容易に想像できた。
「ふーん。うちの雪に何の用?」
“うちの雪”という呼び方に大樹は眉を寄せた。犬か猫みたいだった。
「会いに来ただけです」
「何の用事かって聞いてんの。用事なしに会いに来ただけとか、何様のつもり? 恋人でもないくせに」
そっちこそ何様だよと心の中で毒づいた。口に出さないだけ、自分を褒める。
「……友達だからですよ」
「あっそ。雪はいないわよ」
そう言いながら、彼女は大樹を値踏みするように上から下まで眺めた。視線が気持ち悪いと思ったのは久しぶりだった。
「……わかりました」
できるだけ穏やかに対応して、大樹は影崎家を後にした。雪彦があの家にいたくないと言ったのが、よくわかった。
§
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさ………
軽快に足を走らせる。でも足とは反対に雪彦の心は ずっ、と重苦しくのしかった。
口に出さずに雪彦はごめんなさいと唱え続けた。走りながら口で呼吸をしても、酸素が吐き出されるばかりで、身体に取り込まれていかない。肺が痛くなって、心臓がばくんばくんと跳ねている。
それでも雪彦は足を止めなかった。さっき、愛衣の伯父という人に叩かれた頬が冷たい風に当たって、さらに痛みを増していた。
一気に目が覚めた。
あれが世間だ。
あれが普通だ。
周囲がそのままの雪彦を認めてくれていたから、すっかり忘れていた。自分は、排除される側の人間なのだ。生ぬるい温泉に浸かっていただけだ。
雪彦を現実に引き戻すのは、いつだって痛みだ。身体を突き刺すような痛み。心を裂くような痛み。その度に実感する。まだ、雪彦は生きているのだと。
電車に乗り込んで、入り口でずるずるとしゃがみ込む。一緒に乗ってきた女性が「大丈夫ですか」と声をかけてくれたが、雪彦は答えられなかった。
電車から降りると、雪彦の足にはほとんど力が残っていなかった。家まで引きずるように足を動かす。少しずつ、暴れていた心臓が元の位置に戻っていく。引き攣っていた喉が解けていく。
影崎家の玄関が見えてきた。車が止まっている。母がいる。それだけで雪彦の身体が強張るのがわかった。
でも、帰らなきゃいけない。あそこが、雪彦の家だから。
ただいまも言わずに玄関を開ける。これが一之瀬家の玄関だったら、きっと嵐志か結衣辺りに怒られていると思う。
キッチンに行って、コップいっぱいの水を飲み干す。喉は潤ってくれなくて、それから何倍も飲み込んだ。
「雪ー」
リビングから母の声がする。いらいらしている。こういうときは適当に返事をしておけばいい。けれど今日はそうはいかなかった。
「イチノセダイキって、誰?」
雪彦の背筋がぞっと粟立った。
「会いに来たとか言ったけど、いないっつったらすぐに帰ってった」
今、なんて言った? どうして、母が大樹の名前を知ってるんだ?
「ねぇ雪、あんた、アイツのこと好きなの?」
なにも言わない雪彦に、母がゆっくりと近づいてくる。それに気づかなかった。肩を思い切り掴まれる。顎を掴まれて、ぐっと持ち上げられる。やめて、今この顔を見るな。
それでも、しっかりと雪彦の表情を見た母は、ふーん、と冷たく鼻を鳴らした。
「そーなんだ、このお顔でアイツをたぶらかしたんだ。ってか、そんなに男がいい? 前にたくさん“女”を教えてあげたはずだけど」
目の前が赤くなる。知りたくなかった性の色が、ありありと思い浮かんで吐き気がしてきた。さっき、水をあんなに飲まなければよかった。
「女だからなんだってんだ。俺は好きなものを好きって言っちゃダメなのかよ」
「ホモは気持ち悪いし、普通じゃねーからいらねーんだよ」
普通じゃない。言葉が雪彦を抉った。そうか、やっぱり俺は普通じゃないか。
腹に走る一つの傷が疼いた。雪彦が男を好きになると自覚した小学四年生のとき、母に知られて、逆上した挙げ句につけられた刺し傷。あの時、母は確実に雪彦を殺そうとしていた。
父と離婚した後、男に飢えた母が取った行動を思い出して、雪彦はさらに肌が粟立つ。
「つか、イチノセダイキもかわいそー 男に好かれて気分いい奴なんていないわけだしさー」
リビングのカーペットに押し倒されて、雪彦はぎゅっと瞼を強く閉じる。なにも言い返せない。
確かに、大樹に思いを伝えたのは雪彦の方だ。でも大樹は思いを受け入れてくれた。それは大樹の意志だ。雪彦は元から振られてもいいように、わざと軽い態度で臨んだのだから。
「もっかい、しつけし直した方がいいかなー あの時とは違って、重要なとこもちゃんと成長してくれたみたいだしね」
息を呑んでも、もう遅い。
やめて。
大樹、助けて。
君なら、助けに来てくれるんだろ?
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