3

 愛衣が部屋から出て行って、ようやく大樹は一息ついた。つくづく自分の妹だと思い知らされる。愛衣は嵐志の次に行動的で、兄妹のなかで一番苛烈なだけある。

 たまにだが、大樹には愛衣が燃えさかる炎のように見えることがある。愛衣は周りからは冷静に見られることが多いが、実はその逆で、一番感情に動かされる。一度わき上がった感情を糧に点いた炎は、批判や反論みたいな風に煽られて大きく燃え上がる。

 今回はことさらに派手に荒れてた。投げつけられて床に散らばった洗濯物を拾い、片付ける。せっかく畳んだのに、それも忘れてしまうくらいに愛衣の心の中は乱れていようにも見えた。

 時間が欲しいなんて、一番ずるい言い訳を愛衣にしてしまった。結局のところ、なにも考えられずに先伸ばしにすることだ。今度も曖昧にしたら、今度は本気で殴られそうだ。

 机に置いたままのノートを鞄に戻す。マジックペンで落書きされたノートは、もうよれて使い物にならなくなっていた。また新しく書き直さなくちゃいけない。そう思うんだけど身体に力が入らなくて、今はそんな気力なんてない。

 ベッドに寝転がって携帯を開く。雪彦とのメールの履歴を眺めた。

「おはよう」と「おやすみ」の繰り返し。それ以外だと、部活の用事や、出かけるときの待ち合わせ場所の連絡だけ。恋人らしいメールなんて送ったことがなかったし、雪彦も送ってこなかった。

 これで、本当に付き合っていると言えるのだろうか。身体が底知れない沼に沈んでいくようだ。こんなに不安になる原因なんてわかりきっている。だって雪彦は、なにも求めてこないから。

 恋したこともない大樹には難しい。数学よりも難しい。

 雪彦の心の中が読めない。

 なにを考えているかなんて、わからない。

 厄介で、協調性のない、とてつもなくめんどくさい奴。

 でも。

 そっと携帯を閉じた。文面ではわからなかった雪彦の表情が、だんだんと瞼の裏に思い出されてくる。

 声を上げて笑うこともあれば、いっちょ前に照れることもある。好物を口いっぱいに頬張るし、手を繋ぎたいと掠れた声で言うこともある。

 開いた右の手のひらに、そのときの温度が蘇ってきたような気がした。そっと、指先を唇に当てる。手を繋いだだけ。キスもしてない。それ以上も、今はまだ考えられない。

 それでも。

 そう、それでもなのだ。

 あいつが傷ついているのは嫌だ。いなくなるのは嫌だ。いなくなったら、きっと大樹は悲しむ。悲しむだけじゃない。想像しただけで胸に穴が空いたようにすーすーした。息ができなくなって、なにもやる気が起きなくなりそうだ。

 母が入院して昏睡状態になったときもそうだ。あの時も、どうしようもない不安が襲ってきて、ずっと泣いていたっけ。でも、そのときよりもずっと、胸の奥が痛い。

 優しくしなきゃいけない。

 大樹は恋人に対する優しさを知らなかった。大樹が持っていたのは、家族や友人に対する優しさだけ。

 友人だった雪彦が、それ以上になった。でもそれは家族未満。友達以上、家族未満。

 なにかの本で読んだことがあるフレーズに、まさか自分が引っかかるなんて思ってもみなかった。その間の優しさを知らないからこそ、兄妹と同じように触れた。それ以上、雪彦に触れるのが怖かった。

 怖い。そう、怖いんだ。

 はっきりと自覚したとき、身体が思った以上に激しく身震いした。失いたくない。失うことが怖い。

 この気持ちに名前をつけるのなら、何というのだろう。それを自分で考えなければならない。これは『好き』でいいのだろうか。『恋』と読んいいのだろうか。それとももっと醜い感情なのだろうか。例えば、独占欲とか。

「………これ以上、置いてけぼりをくらうのはやだなぁ」

 まだはっきりしないけれど、少し曖昧な『好き』に、縋るのもいいだろうか。

「俺は……雪彦を……失いたくない」

 はっきりと自覚したら、後は。

「雪彦に……」

 思っていることを口にするだけ。

「あ、」

 前に愛衣が言っていた。言葉にして口に出せば、もう戻れなくなる、と。言葉にして口に出せば、もう戻れなくなる、と。

「い……」

 それでもいい。戻らなくていい。

「た……い……」

 雪彦に会いたい。

 心臓の辺りから熱がぶわっと放出されたみたいに熱くなる。咄嗟に布団をたぐり寄せて顔を隠した。きっとみっともない顔をしている。

 もっと話せばよかった。

 もっと近くにいればよかった。

 もっと手を繋いでおけばよかった。

 もっと触れておけばよかった。

 もっと……

 後悔し出したらきりがない。だからといって過ぎたことだと開き直れない。

 海底に沈む人魚姫の気持ちが、少しわかったような気がする。人間と関わった。それで恋に落ちた。忘れられない。でもどうしようもない。恋を知ってしまったら戻れない。人魚でもいられない。人間にもなれない。ひどく不安定でどっちつかずの存在。

 じわっ、と目の前が霞んだ。目の奥が熱くなって、酷く泣きたくなった。耳鳴りがやまない。やがてそれは聞き慣れた声に変わっていく。雪彦の声が、大樹を呼んでいた。

「………雪彦、」

 まだ知らない雪彦の温もりを求めると、身体の中心がさらに熱を持った。意識の奥がざわめいている。一人で抱えるには熱すぎる。くらくらしてきた。 

「あつい……」

 風邪でも引いたかもしれない。そういえばテレビでインフルエンザが流行り始めたって言ってた気がする。季節の変わり目にも胃腸風邪を引いて雪彦とのデートをすっぽかしたのに、これかよ。つくづく自分の体調管理の甘さを痛感する。

 でも、なんだ、この身体の中の疼きは。

 今まで感じたことのない熱の渦巻きに、大樹は身体を震わせた。這うような寒さを感じないのだ。ただ、熱い。それも少しねっとりとした熱だ。その熱が身体の中でぎゅっと収縮しているようで、腹の奥で疼いている。

 そっと、手のひらで下半身をなぞる。疼きの中心を確かめる。途端に背筋に快楽が走った。これがなんの感情かもわからないまま、大樹はそのまま手を動かした。せり上がってくる感覚に抵抗しながらも、すぐに快楽に呑まれて、手のひらがべっとりと濡れた。

 手のひらに吐き出された白い熱を、大樹は大きく息を乱しながら見つめた。大樹が熱を吐き出したのは、これが初めてだった。

 一息つくと、妙に眠気が襲ってきて、大樹は瞼を閉じた。

「………会いたい」

 このまま眠ってしまおう。すべてが夢であればいい。そう、すべてが夢で―――


  §


 ―――夢だった。

 目を覚ました雪彦は火照った頬に手をやった。熱い雫が流れているのを感じた。目元に手をやると、大量の涙で手のひらがべっとりと濡れた。

 カーテンを閉めていなくても、ぼんやりと暗い。外の様子だと、夕刻をだいぶ過ぎているようだった。

 身体を起こすが、途中で力尽きてまたベッドに横になる。薄手のトレーナーがぺったりと肌に張り付いていて気持ち悪い。布団も掛けてなかったせいで身体が冷えている。着替えたいけど、そんな気力はない。身体が ずん、と重い。気怠さもある。

 枕に頭を埋めながら、さっき見た夢のことを思い出す。

 昔の思い出だ。小学生の頃の記憶。

 雨が降っていた。突然降り出した雨に、傘を持っていなかった雪彦は、公園の木の下で雨宿りをしていた。速く走りすぎて、酷く心臓が痛かったのを覚えている。

 なかなか雨はやまなくて、地面を叩く雨粒は思いの外強くなっていく。そのときは夏だったというのに、雪彦は冬のような寒さを覚えた。腕にうっすらと鳥肌が立って痛い。

 そろそろ辺りも暗くなる頃だったと思う。誰かが雪彦の前に立った。その誰かは差していた唐傘を雪彦に差し出して、こう言った。

『これ、使って』

 思い出の中では、雪彦の知らない少年だった。でもこの夢では、現在の大樹の姿で現れた。

『雪彦、帰ろ』

 夢の中で、大樹がいつもの声で雪彦に告げた。それだけだ。たったそれだけで、目頭がかぁっと熱くなる。わけもなく、声を上げて泣きたくなった。

 その手を取ろうとしたところで、雪彦は夢から目覚めたのだ。

 なんで、と瞼を閉じる。あれだけで涙が出てきてしまったのだろう。大樹に声を掛けられただけなのに。

 触れようとして、消えてしまった。すぐ近くにあるものが、目を離した隙に消えてしまう。

 大事なものが消えないようにするには、そもそも手に入れなければいい。そうすれば、後悔もしないし、執着もしない。怖い思いをしないでいい。だから雪彦はずっとそうしてきた。

 今回だってそうだ。最初から大樹に近づかなければよかった。手に入れなければよかった。

 雪彦と付き合っていることが周囲にバレた時から、大樹に風当たりが強くなった。弓道部でも大樹に声をかける者が減少した。

 全部、雪彦のせい。

 傷つけたくなかったのに。大事にしたかったのに。自分と付き合ったことで、大樹のことを傷つけてしまった。

 求めちゃいけなかった。

 世界は残酷だって知ってたのに。

 ふと、思い出した。あれだ。父が家を出て行ったときと同じだ。

 十歳の時、雪彦が同性を好きになると知って、母はヒステリックに雪彦を罵った。父は雪彦を庇ってくれたけれど、それが母をさらに逆上させた。結局、両親は離婚に至った。更生の名の下に雪彦は母に引き取られた。

 それからのことは、思い出したくもない。

 毎夜のように女を教えられた。初めてのとき、無理矢理に母の中に挿れさせられた。そのときの痛みは、忘れたくても絶対に忘れられない。

 十歳だった雪彦は、まだ不完全な性のまま、母親と性行為を繰り返した。上手く気持ちよくできなければ平手打ちが飛ぶ。それは雪彦が中学二年に上がるまで続けられたが、女の母が満足したことは一度もなかった。

 女の中に挿れるとき、熱を吐き出すとき、雪彦が感じていたのは気持ちよさよりもおぞましさの方が勝った。自分の命が引きずり出されそうで、その恐怖だけで死んでしまいそうになった。

 お前が壊した、言葉が呪いになって雪彦を縛っていた。

「…………大樹、」

 壊したくない。心の底から強く願う。大樹との今の関係を壊したくない。あの純真無垢な兄妹たちを汚したくない。壊したくない。

 そのためには。

 雪彦は一つしか解決方法を知らない。

 これ以上、求めなければいい。

 途端、胸が引き裂かれるような痛みを感じた。身体が拒否反応を起こす。離れようと決めた途端に、温もりを欲しがる。

 あぁ、この身体が汚らわしい。影崎雪彦は、高潔でなければいけないのに。けれど、それも弓道場の上でのことだ。弓を置いたら、雪彦は高潔ではなくなる。

 無意味にシーツを手のひらで撫でる。枕に染みついた涙の跡を指でなぞる。

 今の雪彦の状態を、きっと大樹は受け入れてくれる。どこかでそう確信している。大樹の優しさに甘えている自分がいた。

「大樹………会いたい」

 枕に顔を埋めると一気に涙が溢れてきた。

「やだ、別れたくない……無理だ、怖いっ、助けて……大樹っ、」

 声に出すと、さらに胸が引き裂かれていく。このまま紙切れみたいに粉々にしたら、なにも感じなくなるのかな。

 手を繋いだときのことを思い出す。雪彦よりも温かかった手のひらが、雪彦の細い指に絡んでいた。身体の奥が熱を持ち始める。この感覚を、雪彦は久しぶりに感じた。

 ダメだ、本当に戻れなくなる。

 何度言い聞かせても、反応した身体には無意味だ。身体の中からなにかが引きずり出されるような、あのおぞましい感覚が蘇る。でも、少しだけ心地良い。

 身体が、熱い。奥底で熱が渦巻いている。吐き出したいと、雪彦の身体を押し上げて疼いている。風邪じゃない。これは体調不良の熱じゃない。

 熱から逃れたくて、雪彦は下着に手を滑り込ませた。程なくして、白い熱が吐き出された。

 快楽の余韻に身を委ねながら、手のひらについた白くねっとりとした熱をぼんやりと見つめた。前に一人で達したのは、いつだったっけ。真っ白になった頭の中が、はっきりとしてくる。

 白い熱を吐き出すとき、一人ではどうしようもなく辛くて苦しい。でも、熱を分け合ってほしい人は、今ここにいない。

 大樹の手のひらをを思い出して、性欲を感じた。

 あぁ、と両手で顔を覆った。

「……だいき、」

 自分だけを見て欲しい。

 名前を呼んで欲しい。

 触れて欲しい、大樹のものにして欲しい。

 あの、優しい熱が、欲しい。

「……会いたい、」

 もう、手遅れだ。

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