5章

1

 平穏に過ぎていた謹慎期間に、嵐志以外の暴風が来たのは、日曜日だった。長野にいる母方の伯父夫婦がやってきたのだ。

 伯父はドアチャイムをしきりに鳴らし、どかどかとドアを叩いた。来客があると知らせてくれる桜子も、この迫力にソファーの裏に隠れてしまった。

 嵐志が慌ててドアを開けると「嵐志!」と伯父は大声を出した。

「元気そうだな。でもちょっと顔色が悪いぞ。風邪でも引いたんじゃないか? あぁそれよりもお姉ちゃんはいるかい? いるだろ? いるんだよな?」

“いる”を三段活用しながら嵐志を押しのけて、伯父はずかずかと入ってきた。リビングで掃除機を掛けていた愛衣を見つけると「愛衣!」と叫んで近寄ってきた。愛衣はびっくりして手を止めて、庭で花壇に水を蒔いていた大樹と結衣も何事かと手を止めた。

「おじさんっ、おばさんっ?」

「愛衣ちゃん! 大丈夫だった? ごめんね、着くのが遅くなって! おばちゃんたちが来たからもう大丈夫よ! 何も心配することはないからね!! 恭平さんはいるかしら?」

 伯母は愛衣を見るなり荷物を放り出して抱きしめた。香水の匂いがぶわっと鼻を塞ぐ。その間に、伯父はどかどかと音を立てて何かを探すように家の中を踏み荒らしていた。

 兄に目配せをすると、大樹は思いきり首を横に振った。連絡していない、と困惑した表情からも読み取れる。

「恭平くんはどこだ! まさかいないってことはないだろうな!」

 雷みたいな声が降って、伯父はこめかみに青筋を立てていた。一番小さい結衣は、大樹の背中にすっぽり隠れて、顔を大樹の腰にぎゅっと押しつけていた。荷物を受け取り、運びながら愛衣も彼らと距離を置く。

 大樹が父の不在を告げると、伯父はさらに地団駄を踏んだ。

「まったく親の風上にも置けないやつだ! 子どもが大変なことになっているというのに、仕事がそんなに大事なのか!」

 連絡が取れないのだから仕方ないのに、と愛衣と大樹は顔を見合わせる。海の中は電波が届かない。それに仕事なのだから仕方ないだろう。伯母はまだ「愛衣ちゃんがかわいそう」とぶつぶつ言っていた。

「あの……どうしておじさんたちは愛衣のことを知ってるんです?」

 怒る伯父をなだめながら大樹が尋ねる。

 伯父の話では、中学校から連絡があったらしい。、実の親と連絡が取れない場合の、第二連絡網だ。連絡したのは学級主任だった。

「あんなこと起こして、きっと愛衣ちゃんには何か亜負担だったのかもしれない、両親がいないのが原因かもしれないから、見守ってやってください、って、先生から聞いてきたのよ」

 伯母が涙ながらに語っているが、愛衣は目眩に頭を抱えた。心の中で舌打ちする。やっと咲きそうだった花の蕾を、踏みつぶされた気分だ。

 伯父夫婦はこの家に住む気満々で、持ってきた荷物を広げ始める。その愛衣井谷も、口は互いに文句やら悲哀やらを吐き出していて、空気が汚れていくのをはっきりと感じることができた。

 突然現れた異質な存在に、兄妹全員が自室に戻っていった。午後から四人で買い物に行く計画が台無しになってしまった。

 背中で部屋のドアを閉めると、床に転がっていたクッションを掴んでベッドに叩きつけた。

 自分の中で、何かがひび割れていく音が、した。


  §


 生活が塗り替えられていくのは、あっという間だった。

 朝、冷蔵庫の中をぐるりと見渡す。桃子と吹雪、桜子の手作りごはんが見当たらない。おかしい、と首を傾げる。小分けにして作り置きしても、あと二日分はあったはずだ。嵐志が間違って食べるわけでもない。

 嫌なものが背中を走る。

「あら愛衣ちゃん、もう起きたの? 早いのね~」

 伯母がのっそりと起きてきた。寝起きだからか、昨日に比べて皺が大量に目に付いた。

「おばさん、冷蔵庫にあった小分けのビニール、知りませんか」

 すると伯母はめんどくさそうに鼻に皺を寄せ「あ~、あれ? 捨てたわよ」と軽く言った。

 あまりにも軽すぎて思わず聞き返す。

「だってなんだったのかわからないし、冷蔵庫もすっきりしたでしょ?」

「なんで捨てたの! あれ桃子たちの朝ごはんなのよ!」

「桃子って?」と伯母は今更気づいたみたいに、愛衣の足元をうろうろしている桃子と吹雪を見て、きゃっ、と悲鳴を上げた。

「キッチンに猫を連れ込まないでちょうだい!」とヒステリックに叫ぶが、吹雪は知らんぷりで歩き回り、桃子も不審な目を伯母に向けていた。

 愛衣が促して、ようやく二匹が退散する。不衛生だの、しつけがなってないだの文句を言いながら、伯母が人間の朝ごはんを用意し始めた。なにか、ごはんになりそうなものはないかとキッチンを探していたら、後ろから「そんなのキャットフードでいいでしょ」と声が飛んできた。

「手作りの方が安くすむんだから」

 それに健康的でもある。病院に行くと一階の受診で何万も取られてしまう。説明しても伯母はふーん、と生返事するだけで、しまいには愛衣もキッチンを追い出された。

 お腹を空かせてにゃんにゃん騒いでいる桃子と、不機嫌そうに尻尾を揺らす吹雪をなだめていると、今度はどかどかと伯父が起きてきた。こちらもまた不機嫌な顔をしている。

「大樹と嵐志がいないんだが?」

「二人はランニングに行ってます」

「こんな朝早くに二人だけでか? どこまでだ?」

「桜子の散歩も兼ねているので、そう遠くへは行ってないはずです」

 大樹と嵐志の早朝ランニングは、今に始まったことじゃない。二人でだいたいのルートを地図上で決め、桜子の気分で道を反れる。いつも一時間くらいで帰ってくるはずだ。

 それを知った伯父は、今すぐ連れ戻せと愛衣に怒鳴った。子どもは朝早くに外に出なくていい。そう連呼した。無理を言わないでほしい。けれど、面と向かうと勢いに負けて何も言い返せなくなる。大樹の後ろに隠れたくなるのだ。

 桃子と吹雪を連れて部屋に戻る。階段を嫌がる桃子を抱きかかえて、愛衣の前を吹雪が歩く。ちょうど起きてきた結衣に「今、下に行かない方がいい」と告げた。

 部屋に入ると吹雪はさっそく壁をガリガリ引っ掻き始める。

 朝から疲れた。ベッドに崩れるように腰掛けると、膝の上にちょん、と桃子が前足を乗せてきた。青みがかったまん丸な目が「ごはんはまだ?」と無言の圧力をかけてくる。

「ごめんね、キッチン、おばさんに取られちゃった」

 一日にして奪われた。

 冷蔵庫の中は、この前片付けてすっきりさせたのに、伯母が持ってきた食料や調味料でまたいっぱいになっていた。あれを入れるために桃子たちのごはんを捨てたのかと思うと、お腹の底が煮えたぎってきた。

 とりあえず即席で作れる猫たちのごはんを考える。他にも捨てられている者がなければいいのだが。

「これからどうしようね」

 一難去ってまた一難。いや、二難。三難。

 嵐志たちが帰ってきた音がした。すぐに伯父の怒号が聞こえる。耳を塞いだ。嵐志の反抗する声が聞こえる。大樹のなだめる声がする。それを消すように、宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』を唱えた。


 いつもより遅い朝食を取ると、愛衣はキッチンから紅茶の茶葉が入ったカゴや、ポット、マグカップを部屋に運び込んだ。今の状況では、キッチンで淹れることもままならない。

 トレイに乗せて持ってきた紅茶を机に置いて、空気を入れ換えるために窓を開ける。一緒に入ってきた桃子が、鼻をひくひくさせながら上を見ている。空気が違うことを感じているのか。

 冷たい風がふっと吹き込んで、机に積んであった書きかけの原稿用紙を盛大に吹き飛ばした。その一枚が、べらん、と桃子の顔にくっつくように落ちた。すると彼女はきょとんとした丸い眼で呆けた後、眼の色を変えて、ばりばりとそれを引っ掻き始めた。

「え、あ! ちょっと、コラっ!」

 桃子は猫パンチを繰り出して、ぱっと原稿に飛びつくと、両手でしっかりと押さえて、尻尾をぱたぱたと振っている。

「こら、もうっ、それ大事な原稿なの」

 ボロボロになった原稿を取り上げると、桃子は みぁぁぁっ! と反抗的な声を出す。取り返せた原稿はびりびりに破れ、もう原型を保っていなかった。桃子は別の原稿に標的を移している。見ているうちに、なんだかすっとしてきた。

「しょうがないなぁ」

 原稿はもう諦めるしかない。また新しい者を書こう。

 まだ半分しか被害に遭っていない紙を一枚、桃子の前にぺらぺらと振ってみせる。桃子は白い身体をころころと回転させながら、紙の端にじゃれついているかと思ったら、ぱっと離れて狩りのモードになって、またぴゃっと飛びつく。

 桃子とひとしきり遊んだあと、細かく引っ掻き回された原稿をゴミ箱に放り込み、一息吐いた。机に置いたままの紅茶はすっかり冷めていた。

 愛衣の部屋は、間取りの関係で小さな物置のようなくぼんだスペースがある。そこの壁を本棚で埋めてある。小さな椅子を一つ置き、本棚の一部をカップが置けるようにしてある。こうすることで、原稿と読書をする場所を完全に分けてあるのだ。

 小さなランプ型の電灯を点けて、文庫本を開いた。

 何度か、伯母が様子を見に来た。小さくドアをノックして「愛衣ちゃん、おやつどう?」と呼びかけてくる。椅子に座ったまま丁重に断る。最初はドアを開けて入ってきた。部屋を見るなり、子どもらしくない、と言い、物が少ないと批評し始めた。愛衣が拒むと、部屋に入ってこなくなった。

 改めて部屋を見回す。

 ハーブティー色のカーテンに、ドライブラウンの壁紙。赤土に似た色のカーペットの上に、小さな洋服ダンスとベッド、それと勉強机が一つずつ。カモミール色の布団の上に大きな猫のクッションが一つ。あとは全部本ばかりだ。

 愛衣はこの色合いが気に入っているし、落ち着くことができたが、伯母は気に入らなかったようだ。

 新しくポットから注いだ紅茶を口につける。一冊の文庫本に目を落とす。以前、雪彦にお薦めしてもらった本だ。

 むずかゆい、恋愛小説だった。ひどくやさしすぎて、少し冷めたコーヒーよりもぬるかった。誰かがこんな雰囲気の話を書いていた。夜鷹だ。こんなふうに、やさしすぎる風のような、でも水晶のようにきらきらする話を、彼は書くのだ。誰かに語りかけるような、そんな言葉で。

 文芸部が懐かしくなってきた。

「みんなどうしてるかなぁ」

 文字から目を話して、窓から見える空に目をやった。スズメが数羽飛んでいくのが見えた。カラスがふわっと電柱に留まった。たまに庭にやってくる片足のカラスかもしれない。空が飛べるっていいなと純粋に思った。片足がなくても、どこへでも行ける術を持っているのだから。

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