第2章 この悲しみを叩きつける壁はダイヤモンドでできている


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 彼が私の名を呼ばなくなった。

 代わりに僕の名を呼ぶようになった。

 彼にとってもはや私は僕であり、私は無と化した。

 私はいなくなった。

 彼の笑顔が増えていく。

 私にとっては喜ばしいことなのだが、不在になった私はもう彼の笑顔を見ることができない。

 僕はどう思っているのだろう。

 私と僕は意識も記憶も断絶しているので共有はできない。

 願わくば僕が彼を幸せにしてくれることを。

 願って。

 明確に意識が遠ざかって行くのがわかる。

 これが死なのかもしれない。

 痛みはない。

 どちらかというと心地よい。

 もとより私は私が好きでなかった。

 私が私でなければよいのに。

 何度そう願ったか。

 ああ、そうか。

 彼に望まれたふりをして私は。

 私でなくなることを願ったのだ。

 私は僕になる。

 私は。

 

 彼が帰ってきた。

 僕はいつも通りおかえりを言う。

 いつものとおり。

 だってずっと変わらず僕はここで彼の帰りを待っている。

 それが僕に与えられた役目だからだ。

「おおきにな、■■」彼が僕の名前を呼ぶ。

 あれ?

 僕の名前。

 そんなんだったっけ?

 記憶に穴が空いているのがわかる。

 でも彼はその記憶の穴ごと。

 僕を愛してくれている。

 だからまあ。

 いいか。

 思い出さないならそれまでってことだ。

 今日のご飯は何にしようかな。

 そんなことを考えながら。

 細かな字で書かれた日記を机の引き出しにしまった。

 鍵は。

 どこにあるかわからないからかけない。

 彼が呼んでいる。

 行かなきゃ。

 何度も何度も呼ぶだなんて。

 よほどお腹が空いてるんだろうな。

 毎日おつとめご苦労さま。








 第2章 この悲しみを叩きつける壁はダイヤモンドでできている



     1


 ヨシツネさんを送って屋敷に戻る。

 天気予報では曇りだったが、どす黒い色の雲が山にかかっている。

 迎えに行くときは傘が必要だろう。

 池の鯉に餌をやる。

 寒い。

 上着を車に忘れた。

 きょろきょろしながら廊下を歩いている姿が眼に入る。

「起きたか」

「ごめん、いま何時?」能登ノトが眠そうにメガネをかける。「ケータイの充電切れちゃってて」

「そっち行く」

 奥の座敷のさらに奥に離れがある。

 充電用のコードとペットボトルの水を持って行く。

「ありがとう。いつも鞄に入れ忘れるんだ」能登が申し訳なさそうに云う。「うわ、昼からだな」

 ここから能登の通う大学まで、最速でも一時間弱かかる。

 正午まであと一時間を切った。

「疲れてるのかな。続いてるよね、こうゆうの」能登がペットボトルを手の中で転がす。「バイト休んで早めに寝ることにするよ」

「駅まで送る」

 車の中で能登はケータイをいじっていた。寝ている間に来ていた連絡に律儀に返事をしているのだろう。

 信号で止まる。

 駅はもう眼と鼻の先。

「ねえ、群慧グンケイくん」能登が云う。「ヨシツネさんがしてることって」

「俺に聞かないほうが」

「教えてくれないんだ。云いたくないみたいで」

 信号は。

 赤色。

「俺だけ知らない」

「知りたいのか」

「ううん、予想は付いてる」能登が云う。「内容を知りたいわけじゃなくて、たぶん、俺だけ仲間外れにされてる気がしてるだけ。ごめん、自分で聞くよ。忘れて」

 いつもの場所で降ろす。能登が改札に走って行く姿を見送った。

 屋敷に戻ると、師匠が縁側で銃の手入れをしていた。

「あとで」師匠は俺を見ずに云った。稽古のことだ。

 冷蔵庫に昨日の晩飯の残りがあったので、レンジで温めて食べた。

 味がしない。

 薄味なわけじゃなくて、俺の舌がおかしいだけだろう。

 裏庭で師匠に稽古をつけてもらう。力と才はあるが、使い方がわかっていないと説明を受けた。

 強くなりたい。

 稽古は苦ではない。

 強くなれるなら。

「迷うと負ける」師匠が云う。全然息が乱れていない。「今日は終わり」

「ありがとうございました」

 まだやれる。そう云いかけて呑み込んだ。

 無理矢理呑み込んだ息が変なところに入ってむせる。

「迷いわかってる。なんで迷ってる?」師匠が云う。俺の呼吸が整うまで待ってくれた。

 何も云えない。

 まだ、なのか。

 ただ、なのか。

「迷う悪くない。けど、迷ったまま戦えない。戦う前決める」師匠はそれだけ云って帰った。

 稽古のためだけに来てくれたのか。俺の現状を指摘するために稽古という場を使ったのか。

 部屋で筋トレする。ときどき時計を気にしながら。

 タイマーをセットして、座禅を組む。

 答えは出ているしわかっている。

 師匠の云う通り、迷っているのだ。

 本当にそれでいいのか。本当にそうするしかないのか。他にもっといい道はないのか。

 ヨシツネさんの下に転がり込んで三つの季節が過ぎ去った。

 四つ目の季節。

 白い冷たいイメージ。

 温かさを求める。心も身体も。

 ヨシツネさんの傍にいればそれ以上の喜びはないと思っていた。思いたかった。

 望んではいけない。わかっている。いまはそんなこと考えるべきでない。

 ヨシツネさんがやっていること。これをいいか悪いか決めるのは俺じゃないし、口を出す権利もない。

 手足に脳は要らない。

 ヨシツネさんの云うことに従っていればいい。

 本当に?

 それでヨシツネさんが幸せなら。

 幸せなのだろうか。

 もともと悲しそうに笑う人だった。

 本当に?

 少なくとも俺が初めて会ったときは。

 ヨシツネさんに本当の意味で幸せになってもらうことは俺には出来ない。

 本当に?

 やらないだけではないのか。

 やれないと思い込んでいるだけではないのか。

 ヨシツネさんは、朝出掛けて夕方に帰って来る。夜出掛けて次の朝帰って来ることもある。シフトみたいなものだとヨシツネさんは云っていた。

 屋敷にいるときはほとんどパソコンと睨めっこ。顧客の対応とやら。全部一人でやっている。

 その他の時間はすべて、能登との交流。

 能登は大学に通っている。住んでいる場所も決して近い距離ではないし、能登だって暇ではないはずだが、ヨシツネさんが呼べば極力時間を作っているようだった。

 嫌なら断ればいい。違う。できない。能登がヨシツネさんのいいなりになっているわけではない。

 ヨシツネさんが嬉しそうな顔をするから。

 断れなくなる。

 ヨシツネさんが笑顔なのは俺も嬉しい。

 でも、ヨシツネさんが笑顔になる本当の理由は、能登の知らないところにある。

 俺は知ってる。

 知っていて知らないふりをしている。

 師匠が云っていた迷いは、たぶんこれだ。

 このままヨシツネさんの笑顔を守る方向で俺が全力を尽くしてもいいのか。

 例えその方法が、人殺しに相当する非道だとしても。

 俺は。

 ヨシツネさんのために鬼になれるのか。

 それを決めろと師匠は云っていたんだと思う。

 覚悟がないなら去ったほうがいい。邪魔だし、そもそもそういう条件でここに置いてもらっている。

 俺が。

 すべきことは。

 アラームが鳴った。

 ヨシツネさんを迎えに行く時間だ。

 客の家まで直接迎えに行くことは稀。そういう場合は師匠が出向く。何か問題があった場合だから。

 俺は指定された場所で車を止めて待つ。

 色素の薄い髪。

 寒空の下に和装が映える。

「おかえりなさいませ」俺は頭を下げる。

「ただいま」ヨシツネさんが口の端を上げて云う。

 後部座席のドアを開ける。

 冷たい。

 水滴。

「雨やん。危なかったな」

 ヨシツネさんが乗ったのを確認してドアを閉める。

「濡れてませんか?」運転席に乗ってシートベルトを締める。

「間一髪な。ええよ。出して」

 後ろからヨシツネさんじゃないにおいがする。

 いつも。

 迎えに行くと違うにおいを纏っている。

「能登くんは?」ヨシツネさんが云う。「気持ちよう寝てはったさかいに。置いてきてもうたけど」

「午後から大学に行ったと思います。駅まで送りました」

「そか」

 ヨシツネさんが聞きたかったことはそういうことじゃない。

 俺はわざと。

 違う答えを返した。

 ヨシツネさんもそれをわかっている。

「すっかり日が短うなったね」ヨシツネさんの眼が窓の外を見ている。

 バックミラーで見えた。

「あと、もうちょいやさかいにな」

 屋敷までの距離か。

 今年の終わりまでのカウントダウンか。

「もうちょいで、キサが俺んとこに帰ってくる」

 能登は。

 ヨシツネさんの好きだった人に似ているらしい。

 もう、死んでるが。



     2


 ヨシツネさんの好きだった人は、妃潟キサガタという。ヨシツネさんはキサと呼んでいる。

 俺がここに来る前に死んだ。

 俺が知ってるのはこれだけ。

「ケイちゃん、ちょおええか」ヨシツネさんの呼んでる声がした。

 奥の座敷。

 畳の上に。

「疲れて寝てもうたさかいに。布団連れてってくれへん?」

 能登がヨシツネさんの膝で眠っている。頭をこちらに向けて。

「了解です。離れですね」

 能登は見た目よりずっと重い。勉強ばっかりしているが、身体の作りが本来は運動向きなのだろう。育ててもらえなかった筋肉が怨み事を並べて、勉学の妨げをしているように思えてくる。

 ヨシツネさんが先に離れに向かって布団を敷いてくれていた。ゆっくりと能登を下ろす。

「おおきにな。夜遅いし、あとはもうええよ」

 下がれということだ。

 俺は頭を下げて障子を閉める。

 布団は一人分だけ。

 ヨシツネさんは決して能登を起こさない。疲れて寝てしまった能登を敢えて叩き起こすのが忍びないわけではない。

 障子に人影が映る。

 ヨシツネさんのと。

 もう一人。

 能登じゃない。能登はまだ寝ている。

 能登は。

 朝まで眼を醒まさない。

 いまのところ。

 でももし。

 朝になっても眼を醒まさなければ。

「おはよう」障子の向こうから聞こえる。「なんか僕、昼夜逆転してない? 最近ずっと」

「日が高いうちは寝てはるん。ほんま、ぐうたらやなぁ」ヨシツネさんの声。

 誰と話すよりも嬉しそうな。

 邪魔な俺は部屋に戻る。眼が冴えても起きていないほうがいい。

 適当に風呂に入って、無理矢理眼を瞑る。

 楽しそうな声が聞こえてくる前に。

 能登が眠い理由。

 夜の間ずっと起きてるんだからそれは眠いだろう。

 能登が訪れる頻度がどんどん増えて来た。

 二週に一回。週に一回。毎週土日。バイトのない日は必ず。

 能登は何を思ってここに足を運んでいるのだろう。

 ヨシツネさんが喜ぶから。本当にそれだけだろうか。

 いや、邪推するのはやめよう。

 実際に聞いたわけでもないのに。

 でももし。

 能登が俺と同じ理由でここに来ているんだとしたら。

「迷い消えるまで稽古ない」師匠が構えを解いた。「来たばっかり、迷ってなかった。弱くなった」

「師匠はヨシツネさんと話をしますか」

 手が凍える。

 こすっても握っても変わらない。

「様付けろ云われる」師匠が大きな石の上に腰を落とす。「機嫌悪い蹴られる。雑用手伝え小言」

「会話になってないすね」

 俺も同じようなものだが。

「負担大きい。昔もっと人いた。ぜんぶ死んだ」師匠は手癖で銃をいじる。「死ぬの見たくない。負担大きいのとつながらない。そのためみんないる」

 師匠も理解している。でも口を出さない。出しても届かないからじゃない。部署が違うから。

 冷たい風が吹いた。

 立っているだけで体温を持っていかれる。

「云う?」師匠が俺を見上げる。「ヨシツネ、傍に置く。価値よく考える。力じゃ護れない」

 わかってる。

 わかってるんだそんなこと。

「何怖い? 追い出される? 嫌われる?」

 俺は首を振る。

「掃除、オレがいる。片付けもする。ケイ何する?」

 俺は。

 何をするためにここにいるんだろう。

 そういえば。

「話す得意じゃない。あと考える。終わり。迷い消えたらまた来る」そう云うと、師匠は身軽に塀を飛び越えた。

 すぐにバイクの音が聞こえた。

 何度注意しても玄関から入らないから、ヨシツネさんに怒られているのを聞いたことがある。

 アラームが鳴った。

 ヨシツネさんを迎えに行く時間だ。

 指定された場所で待つ。

 来ない。

 場所をカーナビで再度確認する。

 合ってる。

 例え五分でも時間超過したら。

 師匠に連絡する。客の住所を伝えた。

 稀にあるが、客が渋って無理に引き止めている。或いは。

 ヨシツネさんに何かあったか。

 動けなくなるから無駄な想像はするな。師匠からの教え。

 こうゆう場合の俺の役割は、師匠がなんとかした時間を見計らって車を回すこと。

 タイミングは。

 なんとなく。

 マンションは血のにおいがした。野次馬も警察も来ない。その前に撤収するから。

「奥」師匠が銃を点検しながら仕舞う。玄関で入れ違いになった。「先帰る」

「お疲れさまでした」

 客は頭を撃ち抜かれて即死。いつもの正確な射撃。

 部屋には入らないほうがいい。

「大丈夫すか?」声をかけた。

「ああ、すまん。行くわ」ヨシツネさんが顔を見せた。

 返り血も飛んでないし怪我もなさそうだったが、車に乗る際によろけたので支えた。

「おおきにな。眠れてへんさかいに」

 車を出すとすぐに寝息が聞こえた。バックミラーにヨシツネさんの寝顔が映る。

 このまま。

 屋敷に帰らずに。

 とかよぎった俺は失格だろうか。

「気にせんでええよ。慣れてもらわな困るさかいに」ヨシツネさんが眼を瞑ったまま云う。「あかん。めっちゃ眠うて意識飛んでまうわ」

「着いたら起こしますので」

「起こさんと、そのまま部屋に運んでくれへんかな?」

「了解しました」

「頼むわ」

 またすぐ寝息が聞こえてきた。

 俺の思考が読まれなくなって。

 だいぶ経った。

 以前は心の内なんか筒抜けで恥ずかしい思いをしてばっかだったが。

 もう。

 読む必要もないのか。読む意味もなく興味もなくなったか。

 駐車場に車を戻して、後部座席のドアを開ける。結局シートを倒して仰向けになったようだった。運転に集中していて気づかなかった。

 違う。

 見ないようにしていた。

 ヨシツネさんじゃないにおいと血のにおいが混じった身体を抱き上げる。

 身体が冷え切っていたので、俺の上着をかけた。

 俺は。

 寒くなかった。

 玄関から奥の座敷までがもっと遠ければよかったのだが。

 暖房をつける。

 布団にヨシツネさんを下ろした。

 起きない。ふりなのか、本当に眠っているのか。

 俺の上着を取り払う。

 白い首筋に赤い斑点。

 足袋を脱がせる。足首に縄みたいな痕があった。

 客を師匠が殺した正当な言い訳がでっち上がる。

 ヨシツネさんの着物を肌蹴させる正当な理由をでっち上げる。

 障子も襖も閉まっている。

 師匠も来ないし、誰もいない。

 ゆっくり着物を解く。

 手首。太もも。二の腕。鎖骨。

 白い肌に縄の痕が仄赤く浮かび上がる。

「ん」ヨシツネさんが首を動かす。身をよじった。

 起きたのかと思ってビックリするが。

 また寝息が聞こえた。

 胸部と腹部は縄の痕がもっとくっきりしていて、擦り傷になっている部分もあった。

 舌を這わせる。

 自分でやってビックリした。

 肌に付いた唾液を拭う。ふりをして肌に触れる。

 指先で。

 舌先で。

 甘い気がした。

 今日口に入れたどんなものよりも甘美だった。

「いいよ。続けて」声がした。

 ヨシツネさんの声じゃない。

 誰もいるはずない。

 誰も。

 いる。

 はずは。

 ほんの少しだけ障子が開いていた。廊下に通じる。

 誰だ。

「まだ本調子じゃないけど、いままでで一番クリアだと思うよ」障子の人影が云った。「見なかったことにしてあげるから、最後までやってごらんよ。たぶん、君が望むものはそこにないから」

 誰だ。

 聞きたいけど声を上げたらヨシツネさんが起きてしまう。

 誰だ?

 本当に。

 わからない?

「ここにいられたら気が散るよね」人影が移動する。「夕飯でも作るよ。材料はなんかあったかな」

 一人しかいない。

 昨日の夜に泊まって。

 朝は起きてこなかったから寝かしておいた。もちろん起きたら駅まで送っていくつもりだった。

 起きてこなかったからそのまま。

 離れに。

 その思考を封印したくて白い身体に縋りついた。

 もう後戻りできないのは、こちらとて同じ。

 最後の布を剥ぎ取る。

 眼を逸らしたくなった。

 これが。

 あなたが毎日やっていることの積もり積もった結果なのか。

 身体がここまでずたぼろで。

 心が無事なはずはない。

 ああ、とっくに。

 あなたは。

 壊れていたのか。

 壊れかけの精神を繋ぎ留めるために、禁忌の術に手を出した。

 誰が。

 止められようか。

 あなたの罪は。

 俺が一緒に背負います。

「なんで人ひん剥いて泣いてはるん?」ヨシツネさんが嗤っていた。「もう面倒やさかいに好きにしたったらええよ」

「すみません、俺は。おれは」

 全然わかっていなかった。

 わかっているふりをして眼を背けていただけ。

 ヨシツネさんが俺に求めていたことは。

 俺に。

 ヨシツネさんの指が俺の頬に触れる。「一緒に付いてきてくれるんやろ? その駄賃代わりやわ。めちゃくちゃにしたったらええよ」

「愛してます」細い身体を力の限り抱き締めた。

 あなたが望むのなら。

 共に。

 地獄に落ちるまで。



     3


 日々真面目に勉学に取り組んでいる能登だが、実は致命的に運が悪く、殊試験や受験の類において、極めつけの最終局面で必ず不運に襲われる。

 からかうレベルを超えている。笑い話にするには哀れすぎて。

 中学受験、高校受験共に試験当日に体調を崩し、受験資格ごと失った。真面目で頭がいいのが取り柄のはずの能登は、自分の望む進路にことごとく追い返されている。

 学校のテストや模試は問題ないのだが、本番となると途端にうまくいかない。そのたび能登は自信を喪失し、がんじがらめになった思考で自分を責め続ける。

 そんな能登が生まれて初めて成功した重要局面が、大学受験だった。頭が真っ白になって何も覚えていないというのが本人談だが、結果は見事合格していた。

 このときの喜びは何物にも勝る最上のものであったに違いない。

「やっと苦労が報われた気がするよ」能登はそう云って笑っていた。

 能登が行きたい大学は本当は県内にあったが、行きたい学部が存在していなかったので、泣く泣く第二希望を採ったら他県に出ることになった。

 能登の両親並びに兄は今時珍しくドが付くほどの過保護一家であり、だいじな息子ないし弟が我が家を出て一人暮らしを始めるに当たってそこそこ悶着があったらしいが、本筋とは関係ないので割愛する。

 ここで問題なのは、なぜ、能登の両親と兄は過保護になったのか、という点に尽きる。

 能登には、かつて、親友と呼んで差し支えない幼馴染がいた。

「ねえ、群慧くん」いつだったか、能登が俺に聞いたことがある。「ヨシツネさんのところに来るって決めるのってけっこう迷った? やっぱり君のことだから即断だった?」

 俺はこの問いに何と返したんだろう。

 迷った憶えはないので、そう答えたんだろうか。

 近頃は妃潟が家事をすべてこなしてくれるので、俺の仕事はヨシツネさんの送迎と会合のときの護衛だけになった。お陰で、待機時間はすべて師匠との稽古に宛てられるようになった。

 何か手伝うか聞いても、聞いた段階でほぼ滞りなく終わっている。家事と簡単にいっても、掃除も買い物もあるし、とても一人で片付けられる量ではないはずだが。元来器用なのだろうか。おまけに家事が好きだと云う。男では珍しい部類だと思うが、その能力を買ってヨシツネさんは連れて来たのだろうか。

 妃潟は、不思議な雰囲気の男だった。

 俺が今まで会ったことのない匂いがした。

 そして、ヨシツネさんは妃潟を大切に想っている。

 家族というかそれ以上。

 あんなに楽しそうに笑うヨシツネさんは見たことがない。

 あんなに嬉しそうに話すヨシツネさんは見たことがない。

 嫉妬というよりは、居場所がなくてやさぐれる。

 ヨシツネさんを送って屋敷に戻ると、妃潟が庭掃除をしていた。腰に黒いエプロンをして、竹ぼうきで地面の枯れ葉を集めていた。

「頑張ったら焼き芋していいってさ」妃潟が笑顔を見せる。

「芋は?」買い出しに付き合うか、と云ったつもり。

「ううん、これから。集め始めたところだしね」

 今日は師匠は来ない。

 夕方までヨシツネさんは帰ってこない。

「僕に話? いいよ」妃潟が竹ぼうきを門に立てかける。「君の部屋でいい? 手を洗ったら行くよ」

 俺の部屋からは裏庭が見える。同じく裏庭が見える部屋は他に風呂とトイレだけ。

 もともとこの棟は四部屋に分かれていたが、狭かったので壁をぶち抜いて二部屋にした。玄関から遠い、つまりヨシツネさんの部屋に近いほうを俺がもらった。隣は空き部屋。

 後から来た妃潟は離れを与えられた。

「何もない部屋だね。僕のとこもそう変わらないけど」妃潟が云う。エプロンは外していた。

 畳の座敷。座布団が一つしかないので譲った。

 換気のために開けていた窓を閉める。

「君が聞きたいのは身体の持ち主のこと? それとも僕について?」妃潟が云う。

「能登はどうなった?」

 能登はメガネをかけている。

 妃潟はメガネをかけていない。

「死んじゃいないけど、生きてもないって感じかな」妃潟が座布団の上で脚を伸ばす。僕と彼は連続した存在じゃないから、互いに会話はできない。相手が何考えてるのかも、推測の域を出ないし、記憶も共有してない」

「あんたが妃潟なのは、その、ヨシツネさんが」

 望んだから。

「そうだね。役に立ちたかったんだろうね」妃潟が云う。脚が痺れたのか脛をさすっている。「彼は自分の生に対してあまり執着がないみたいだ。よくそんな希薄な生命力でここまでもったと思うよ。彼の中の一番奥底の記憶を見ちゃったんだけど、云わないほうがいいかな」

「ヨシツネさんは」知ってるのかどうか。

「どうだろ。蓋閉めてガムテープでぐるぐる巻きにして重石のせて海の底に沈めてあった記憶だから、彼も忘れてるかもしれない。忘れてた方がいい部類のひどい記憶だったけど」

 そこまで云われたら気になる。か?

 聞かないほうがいいのか。

「僕とヨシツネの関係のほうが興味あるかな?」妃潟が云う。「君はヨシツネが好きなの?」

 妃潟は。

 ヨシツネさんを呼び捨てにする。

 ヨシツネさんが。

 呼び捨てにされて怒らないのが意外だった。

「愚問だったかな。好きじゃなきゃ、全部捨てて付いてこないよね」妃潟が云う。「ヨシツネの傍にいたいなら、ヨシツネのことを諦めたほうがいいよ。そういう気持ちがあるといざってときにヨシツネを護れなくなるから」

「どういう意味だ?」ちょっとムっときた。

「スゲだっけ?君の師匠。あの人に何を教え込まれているか知らないけど、君に求められる役目は、ヨシツネを銃弾から守る盾になることじゃない。ヨシツネを傷つけるあらゆるものから護る盾になることだ。そのためには」

 この気持ちは。

 枷か。

「ヨシツネが毎日毎日身体売ってカネ稼いでる理由を知ってる?」

 外でカラスが鳴いた。

「僕も詳しくは知らないけど、元締めみたいなのがいてね。そこに納める年貢みたいなのが必要なんだ。想像付いてると思うけど、こうゆう屋敷はいくつもある。要は他の島と競争してるんだ。他のところのやり方はさ、攫ってきた少年を会員価格で派遣して稼ぐ効率のいい方法なんだよ。わかる? 従業員が多いってこと。個人経営には限度がある」

 それはなんとなく想像がついていたが。

「先代の頃、ヨシツネはいわば営業成績ナンバーワンの人気者だった。その知名度が生きてるからもってるとこが大きいけど、たった一人対その他大勢じゃ時間の問題だよ」

「その納めるカネが少なくなったら」どうなるのか。

「さあ。殺されはしないだろうけど、連れ戻されるだろうね」

 連れ戻される?

「ああ、聞いてなかった? ヨシツネは、総元締めの息子なんだよ。後継者なんだ」

 なんの?

 後継者だって?

「あれ、知らなかったの? 弱ったな。口が滑ったかな」妃潟がわざとらしく口を覆う。「いまの聞かなかったことにして」

 立場的に偉いのはわかっていたが。

 ヨシツネさんの背負っていたものの重さを今更思い知ったところで。

「単純に従業員を増やせばいいのにね。でもそういうの嫌がるでしょ? 全部自分でやらないと気が済まないっていうか」

 犠牲になるのは自分だけでいい。

 ヨシツネさんらしい。

「ついでに僕のことだけど、僕は先代のいわゆるお気に入りだったんだよ」妃潟が他人事のように云う。「いや、先代が攫われる前に好きだった片想いの相手って云ったほうが正確かな。先代を追い詰めるために利用された可哀相な一般人だったんだけど、ちょっと手違いがあって。痛めつけられ方が悪かったのかな? 頭がおかしくなっちゃってね。もともとの人格はそこで死んだんだ。新たに生まれた人格は先代のことを憶えてないし、性格も大層歪んじゃって、人をいじめるのが愉しくてしょうがない。裏を返すとさ、そんなことでしか愉しみを得られないんだ。ヨシツネが僕を好きだとか云ってるのは、十割同情だろうね。ほら、ヨシツネって壊れかけのものを放っとけないから」

「あんたはどうなんだ? ヨシツネさんのこと」

「どうもこうもないよ」妃潟がにっこり笑う。「云い忘れてたけど、僕は先代が好きだったんだ。先代と半分くらい血が同じだから似てるとこあるけど別人には違いない。身代わりにしたって虚しいだけ」

「何とも思ってないってことか」

「そんな顔しないでよ。良かったじゃん、ライバルが減って」

 そうじゃない。

 そうじゃないのなら。

 なんだ。

 このもやもや。

「好きでもないのに寝てあげてるのが気に障る?」妃潟が云う。

 わざと。

 俺が怒るような言葉を選んでいる。

 たぶん。

 妃潟は俺が怒るのを眺めて愉しみたい。挑発だ。

「君もっと激情的な性格だと思ったけど」妃潟が溜息をつく。「ねえ、話変わるけど、ずっとこのままはつらいな」

 手が勝手に。

 妃潟にのしかかって首を。

 気に入らない相手をすぐ殴る癖は自力で直したが。

 これは。

 新しい癖なんだろうか。

「けっこう苦しいんだけどな」妃潟が云う。

「あんたは何がしたい?」

 妃潟が無言で俺の手をつつく。声が出ないみたいだった。

 力を緩める。

 妃潟が勢いよくむせた。

「あんたは、ヨシツネさんを幸せにするために来たんじゃないのか」

 妃潟が大声で笑い出した。

「俺はそうだ。でもあんたが来てからヨシツネさんは」

 楽しい顔と同じかそれ以上悲しい顔が増えた。

 嬉しそうな顔と同じかそれ以上切なそうな顔が増えた。

「ヨシツネさんは、あんたが好きなんじゃないのか?」

「ねえそれ、本気で云ってるの?」妃潟が仰向けのまま目尻を拭った。「ヨシツネは幸せだね。君みたいな子が傍にいてくれて。僕のだいじな人は死んだのに。ずるいよ。僕だけ生き返らせるなんてさ。僕を生き返らせるんなら、あの人も一緒じゃないと。不公平だ」

 じゃあヨシツネさんは、想いが届かないとわかってて。

「思ってたのと違った? お生憎さま。僕は、ヨシツネのことなんか好きじゃないよ」

 前の俺ならここで妃潟を殺していた。

 殺せない。

 だって殺したら。

 ヨシツネさんが悲しがる。

「あーあ、早く帰ってこないかなぁ」妃潟が天井に向かって云う。「今日はどうやっていじめてやろうかな」

 むちゃくちゃ腹が立ったので。

 夕方まで部屋で筋トレしてた。



     4


 ヨシツネさんの顔が日に日に蒼白くなっていく。やつれて身体もますます細くなった印象。

 休んだらどうか。

 喉まで出かかるけど俺は云っちゃいけない。資格がない。

 妃潟が云ってくれればいいが、素知らぬ顔で掃除機をかけている。

 いっそ倒れてくれたら、とか不穏なことを考えてしまう。

 俺がそんな罰あたりなことを思ったせいだろう。その日は俺が迎えに行くよりも前に、ヨシツネさんが帰ってきた。サダさんが担いできた。見た目細腕のサダさんでも担げるくらいヨシツネさんが軽い。サダさんが連れてきたことよりも、俺にはそっちのほうがきつかった。

 サダさんは座敷にヨシツネさんを下ろすと、「ああ、しんど」と云って肩を回した。

 ヨシツネさんの顔は、朝よりさらに蒼くて白かった。

「ありがとうございます」俺は布団を敷きながらお礼を云った。

「いっそ置いてきた方が楽やったかもしれへんけどな」

 妃潟は買い物に出掛けたまままだ戻ってこない。

「あかんやろ、ツネ」サダさんが俺を見ながら云う。「見てられへんわ。次こないな醜態さらしよったら、ほんま連れ帰るで?」

 客のところで倒れたヨシツネさんをサダさんが迎えに行ったらしい。サダさんが悲痛な顔をしなくてもわかる。

 前代未聞だ。

 あのヨシツネさんが。

 客のところで倒れる?

「最近眠れとるか?」サダさんが云う。「ああ、あっちに聞いたほうがええか」

 サダさんは、ヨシツネさんの育ての親だそうだ。

 俺がヨシツネさんの下で働くに当たって一度挨拶したことがある。

 でもそれきり。というか、ヨシツネさんが追い出した。二度と顔を見せるな、と。

 ケンカ別れというよりは、たぶん、ヨシツネさんがやろうとしていることに対して口を出されるのが嫌だったのだろう。

 ヨシツネさんが後継者なら、サダさんはもっと上の立場にいる。呼び方だってさんづけじゃなくてもっと相応しい役職名とかがあるはずなんだけど、サダさん本人が「ややこしさかいに、サダさんでええよ」と云うからそう呼ばせてもらっているだけで。

 風の噂だが、サダさんに逆らうと次の日池に浮かんでいるらしい。あくまで噂だが。

 ヨシツネさんは仰向けで眼を瞑っている。

 寝たふりの可能性も踏まえて。

「いってらっしゃいからおかえりなさいまでツネを見守っとる護衛のケイちゃんくんの見立てを聞こか」

「限界だと思います」

「せやろな。見たらわかるわ」サダさんが俺を見ずに云う。「見てわかることやったらいちいち聞かへんよ。禁術の反動でおかしなっとるわけと違うやろ? 現実的な話をしとるんや、俺は。仕事できひんくらいふらふらやったら、門出る前に止めろゆうとるの。物云われへん足控えさせとる憶えはあらへんけどな」

 俺に。

 ヨシツネさんを止めろというのか。

「お前が守っとるもんはなんや? 便利なタクも分厚い防護壁も要らんわ。お前がへいこら仕えとるんは、俺の命よりだいじな」

「やかましな。おちおち寝てられへんわ」ヨシツネさんが上体を起こす。「用済んだらとっとと帰りや」

「ツネ、人間は最低睡眠時間ゆうんがあらはってな」サダさんが云う。

「せやからやかましゆうとるやろ。くっちゃべりたいんなら消え」

「ツネ、俺は心配しとるんやで? 稼ぎ口が減らへんかどうかひやひやもんやさかいに」

「優秀なにいやんがいてるやん。そっちに任せるわ」

 ヨシツネさんの兄。

 俺は会ったことないが、サダさんのところにいるらしい。ヨシツネさん曰く、「似てへん」とのこと。

「ああ、せや。その兄やんからの提案。この際合併しよかゆうて」

「却下」ヨシツネさんが食い気味に云う。

「まあ、最後まで聞きい」サダさんが云う。「ツネが気に入らへんのは、攫ってきたガキに春売らせて稼ぐ檀那様システムやろ?」

「ああもう、頭がんがんしよるわ。音源が帰らんと寝られへん」ヨシツネさんが布団にもぐった。

「ほんまに眠れるん?」サダさんの声音が変わった。「お前のそれは睡眠やないで?気絶や。限界来とるのに知らんふりして無理を通すさかいに。身体も脳も悲鳴あげよって、電源切れたみたいにふっと停止するん。気ィ失ったんがあのザーメン掃除機ジジイんとこやったから生きとったさかいにな。ああ、そか。そこも計算づくで客ローテ組んどるんか。大したもんやな。せやけど、次はあらへんで? 雑務はこの雑用のプロのサダさんに任せて、檀那様は踏ん反りかえっとったらええ」

「寝たから返事せえへんよ」布団の中からヨシツネさんの声がする。

 サダさんが肩を竦めて立ち上がる。部屋を出るのかと思ったが、ヨシツネさんに近づいて掛け布団を強引にはいだ。

 ヨシツネさんにも予測がついてたんだろう。

 ヨシツネさんはうつ伏せだった。

「あれは妃潟やあらへん。妃潟は死んだやろ」

 ヨシツネさんは何も云わない。

「墓掘り起こしたん誰や。骨壷どないしたん?」

 ヨシツネさんはぴくりとも動かない。

「ツネ」

「帰りや」ヨシツネさんの声は。

 震えて聞こえた。

「お前がしたはることは、傷口素手でかっさばいて荒塩ぶちこんでテキトーに糸で縫い合わせただけの欠陥工事やさかいにな。あとで絶対しっぺ返し来よるで? そんときに泣くんは俺やない。お前や。わかったはるん?」

「お前かて低反発が生き返らはったら嬉しいやろ」

 部屋を出て行こうとしたサダさんの足がくるりと向きを変えて。

 うつ伏せのヨシツネさんの襟をつかみ上げる。

「聞いてええか」サダさんの声音が濁る。「生き返るには一遍死ななあかんやろ? なんで死んだことんなったはるの?」

「枕は死なへんやろ。枕と違うん?」ヨシツネさんが鼻で嗤った。

 布団に。

 その顔面を叩きつけた。

「久々にメンテしたろか? 文字通り出血大サービスやさかいにな」サダさんが云う。

「は? 折檻の間違いやろ?」

 殴ったら止めようと思った。サダさんに盾は要らないと云われたが。

 俺に出来ることはそのくらいしかないから。

「ケイちゃんくん、ちょお出てってくれる?」サダさんが云う。ヨシツネさんの後頭部を押さえたまま。「ああ、サダさん急に葛餅食べたなったわ。買うてきてくれへんかな。贔屓の本店の地図渡すさかいに」

 俺はヨシツネさんの下についた。サダさんの下についたわけではない。

 なので、ヨシツネさんからの指示を待った。

「ケイちゃんくん? 聞こえへんかったかな」

「ケイちゃん。ゆう通りにしはって」

「わかりました」ヨシツネさんがそう云うのなら。

 黙って従うだけ。

 本店の地図とやらは、サダさんの乗ってきた車の運転手から受け取った。店の宣伝パンフ。

 けっこう遠い。隣の県じゃないか。

 帰ってくるなと。そういうことだろう。

「あれ? もう迎えの時間?」妃潟が帰ってきた。

 なんで。

 こんなタイミングで。

「じゃないか」妃潟が門横付けの見慣れない車に気づいた。「来てるの?」

「追い出された」

「じゃあ僕も行かないほうがいいね。どうしよっかな。ナマモノだけでも冷蔵庫に入れときたかったんだけど」妃潟が運転手に目を遣る。「あのぉ、頼めます? 僕らたぶん追い返されちゃうんで。台所わかります?」

 買い物袋3つを提げた運転手の背中を見送る。

「僕も付いてっていい?」妃潟が云う。

 断るための言葉を探していたら勝手に助手席に乗られてしまった。

「サダさんでしょ? 僕、嫌われてるみたいなんだ」

 返答の代わりにアクセルを踏んだ。

「先代を殺しちゃったから、怨まれてるのかもしれないね」

 適当に相槌を売っていたのが気に入らなかったのか、最初のインターを越えたあたりで寝息が聞こえた。

 寝息?

 妃潟が?

 寝たのなら。

 まさか。

 後続の車に追い越し車線を譲る。あんな速さではあっという間だろう。

「あれ?」能登の声だった。「俺、なんで、こんな」

 わざとか。

 次のサービスエリアまで何キロだ。

 逃げ場なんかない。

「群慧くん? 俺、なんで」

 何と答えたら。

 ヨシツネさんの意に沿う?

「おかしいな。全然憶えてない」能登が眼の周りをしきりに触る。「眼鏡。あれ? 眼鏡知ってる? あれがないと」

 目的地変更?

 いや、目的の遂行?

「群慧くん」

 アクセルを踏み込む。

「ねえ、何か知ってるなら」

「疲れて寝てた」

「本当に? てか、ここどこ? どこに向かってるの?」

「家まで送る」嘘だ。「もうちょいかかるから、寝てていい」

「おかしくない? なんで俺は眼鏡してなくて、しかも手ぶらなんだろう? ヨシツネさんのところにいて、それで俺が起きないから家まで送るにしたって新幹線のほうが速いじゃん。てか、いつもそうしてるじゃん。なんで」

「能登」

「逆なんじゃない? 俺を家に送るとこじゃなくて、俺をヨシツネさんのところに連れてくとこで。無理矢理、気を失わせて車に乗せた。だから眼鏡も置いてきたし、何も持ってない。ケータイすらないんだよ? 絶対おかしい。ねえ、群慧くん。ヨシツネさんに頼まれたのはわかるよ? でも俺の意志を無視してやっていいことといけないことが」

 頼むから。

 同じ顔で同じ声で。

 そんなことを云わないでくれ。

「今日って何曜日? あ、日曜か。でも休みの日だって俺にも都合があるわけだから」

 サービスエリアまで。

 2キロ。

「ちょっと寄る」

 駐車場で停止。

 極力、他の車と離れた場所を選んだ。

「トイレ?」

「能登」

 能登が。

 こちらを向いたタイミングで。

 意識を落とした。

 駄目だ。

 もう。

 能登に生きていてもらわないほうがいいだなんて。

 思ってしまっている。

 わかってる。

 一緒に地獄に落ちたのだ。

 あなたの罪は俺の罪。

 寝息が聞こえる。

 交代するだろうか。

 カーナビのデジタル時計を見つめていた。

 数字が。

 3つほど進んだ。

「あーあ、よく寝た」妃潟が伸びをする。「僕、変な寝言云ってなかった?」

「いや」

「それならいいけど」

 サダさんの用事を終えて屋敷に帰る頃には、すっかり日が落ちていた。門前にサダさんの車がないのでちょっとホッとする。葛餅は本当に方便だったのだ。

 妃潟が台所に入ったのを確認してから、ヨシツネさんの部屋をノックする。

「ケイちゃん? 入ってもええけど、吃驚せんといてね」

「失礼します」

 障子を開けて漂ってきた匂いに一瞬息を止める。

 覚悟はしていたが。

「ああ、開けたままでええよ。換気しよか」ヨシツネさんは布団の上で力なく四肢を伸ばしていた。

 白い脚が視界の片隅に映る。着物が脱ぎ散らかしてある。いや、脱いだというより剥ぎ取られたといったほうが正しいか。

 サダさんは、この屋敷以外の場所で管理されている“商品”のメンテ係をしていると聞く。

 ヨシツネさんにもしたのだろうか。

「湯に行きますか」

「せやな。すまんけど、運んでくれる? 力入らへん」

 バスタオルでヨシツネさんの身体を包んでゆっくり抱き上げる。僅かだが、ヨシツネさんの眉間に苦痛が滲んだ。

「すみません。痛かったですか?」

「ええて。早う」

 細い腕が首に回される。

 浴場には一旦外に出る必要がある。俺が使ってる浴室じゃなくて、ヨシツネさん専用のヒノキの露天風呂。寒いので冬向きでないのだが、ヨシツネさんは気に入っている。

「ここでええよ」

 ヨシツネさんを脱衣場の椅子に座らせる。

「一緒に入らんでええさかい、そこにおってくれへん?」

「了解しました」

 脱衣場と洗い場はガラスの壁で仕切られている。

 ヨシツネさんはシャワーで適当に身体を洗い流して、浴槽に浸かった。

 何かの苦行か?

「なあ、ケイちゃん」ヨシツネさんの声がする。響いて聞こえた。「サダにされたことは気にせんでええよ。売り言葉に買い言葉やさかい。あいつな、好きなやつおってん。そのこと蒸し返すと怒り狂うさかいに。わざと怒らせたんやわ」

「そうですか」

「死んだゆうかな、動かななったんよ。人形みたいに動かれへん。病気と違うさかい、ようわからへんけど、とにかく二度と喋れへんかったら、それは死んだのと変わらへん。傍におったとこで、二度と動かれへん死体やさかいに」

 なにが。

 云いたいのだろう。

「なあ、ケイちゃん。今日、俺が寝るまでそばにおってくれる?」

「わかりました」

 なにを。

 させようとしてる?

 ヨシツネさんの部屋に戻ると、シーツと布団カバーが取り換えてあった。妃潟が気を回したのだろう。障子も閉まっていて、暖房も付けてあった。

「サダが買いに行かせた葛餅な、俺の好物やさかいに。食べよか?」

「いえ、特に」

「そか」

 間が持たない。

 いや、俺は何時間でも黙って部屋の隅に控えていられる。ヨシツネさんが気を遣って話しかけてくれているのがわかって居たたまれないのだ。

 内線が鳴った。俺だけ吃驚した。

「ああ、ええよ。今日はこっちで。ええやろ、見せといた方が」

 なんの。

 話をしている?

 日付けが変わる半時ほど前、妃潟が部屋にやってきた。ヨシツネさんが呼んだのだ。いや、今日だけじゃない。

 知っている。

 俺は。

 毎晩、ヨシツネさんと妃潟が同じ部屋で過ごすことを。

 今日は離れじゃない。そのことが余計に俺を追い詰める。

 苦行なんてもんじゃない。

「見てなくてもいいけど、手は出さないでね」妃潟が云う。

 ヨシツネさんは布団に仰向けになって眼を瞑っている。湯で上気したはずの頬はすでに朱が消え失せていた。

 なにを。

 する気だ。

 妃潟はヨシツネさんに圧し掛かって。

 細い首に手を。

「何のために君をここに呼んだか。わかってから僕を糾弾するなりぶん殴るなりすればいいよ」

 右手を左手で押し留める。左手を右手で押さえ込む。

 なんで。

 そんなこと。

 妃潟は。

 無抵抗なヨシツネさんの首を絞めながら。

 無遠慮に貫いた。

 無限の時間が経ったように思えた。

 ヨシツネさんの意識が落ちるまで。

「ひどい顔。よく耐えたね」妃潟が云う。「いいよ、何か思ってることあるなら聞くよ」

「まず抜け」

「どうせまた挿れるのに?」

「じゃあ布団掛けろ。身体が冷える」

「律儀だね。いいよ、そのくらいなら」

 サダさんが云っていたことを思い出す。

 睡眠ではなく気絶。

「ヨシツネも自分で言えばいいのに。自分から頼んだからキサは悪くない、とか。そうしてくれないと、一方的に僕が悪いみたいじゃん」

 理解できてしまった。

 妃潟がしているのは性行為でも強姦でもない。

「そうしないと、眠れないのか」

「物分かりがよすぎていっそつまんないまであるね」妃潟が云う。「どう? 僕への殺意は落ち着いた?」

「朝まで起きてるのか?」

「そうだね。赤ん坊の夜泣きと同じだよ。起きたらまた落とす。繰り返し繰り返し。僕はちっとも眠れないわけ」

 ふと、嫌なことがよぎってしまった。

 違うと思いたいが。

 ヨシツネさんが、妃潟を眠らせないためにわざとやっている可能性。

 妃潟は眠ると、能登に戻る。

 いや、どっちが先だったかを追及しても仕方ない。

 いずれにせよヨシツネさんはもう、まともな方法で睡眠を採ることができない。

 そこまで。

 壊れきってしまっていたのか。

「君が思い詰める必要はないよ。ああ、そうだ。ヨシツネの条件は、自分が寝るまでだったね。戻っていいよ。あとは僕が」

「俺が代われないのか?」

「正気? 一緒に狂ってあげようって?」妃潟が莫迦にしたように嗤う。「冗談云わないでよ。ヨシツネは君に地獄に堕ちてほしくないんだ。君の役目は一緒に地獄に堕ちることじゃない。甚だ勘違いだよ。君の本当の役割は、地獄に堕ちたヨシツネを力づくで引き上げることにある。そうじゃなきゃ、何のために僕がこんなことしてるかわかったもんじゃない」

「あんたにとって嫌がらせとやらの一環てことか」

「まあそうだね。僕はヨシツネの苦痛に歪んだ顔が大好きなんだよ。いじめていじめていじめ抜いて、それでも穢れない綺麗な眼が、まさか僕だけを見てるだなんてぞくぞくしてくる。何度このまま絞め殺してやろうかと思ったよ」

「そんなことしやがったら、俺がお前を殺す」

「できる? 君の好きな人の好きな人だよ?」

「煽るな。止められる自信がない」

 代わるなんてできやしない。

 俺なら。

 加減がわからなくて一回で殺してしまう。

 妃潟も相当に狂っているのだろう。そうでなければ毎晩こんな気の触れたことを続けられない。

「お前も眠れるといいな」

「ありがと。おやすみ」

 障子を閉めるとすぐに衣擦れと吐息が聞こえた。

 どこからかはわからないが、ヨシツネさんに聞かれていたらしい。

 あの人はすぐに寝たふりをする。

 今夜は俺も眠れそうにない。



     5


 サダさんの計らいで医者がやってきた。思ったより若かった。

 ヨシツネさんとは初対面らしかった。

 医者はひとこと、極端な自傷行為はやめなさい、とだけ云って帰って行った。

 意味がわからなかったが、ヨシツネさんには何か思うところがあったらしく、サダさんに長電話をしていた。

 翌日、ヨシツネさんはサダさんと出掛けて行った。どこに行くのか、いつ帰ってくるのかも云わず。

 妃潟は。

 つまんない、と云って。

 能登に戻った。

 いつものように能登を駅まで送って、屋敷に帰る。

 何日経ったのか。

 ヨシツネさんはまだ帰ってこない。

 曇天は、雪雲に変わっていた。

 どうして雪雲だとわかったか。

 ヨシツネさんが教えてくれた。

 師匠が顔を見せた。

 鍛練をする気分でなかったが、気分如何で護れないのは本末転倒なのでお願いした。

 でも身が入っていないとすぐに師匠に見抜かれて、筋トレの量を三倍にされた。

 ありがたかった。

 何かに打ち込んでいなければおかしくなりそうだった。

 ヨシツネさんは戻ってこないのではないか。

 自分は用済みだから置いて行かれたのではないか。

 そんな下らないことを考えなくて済む。

 俺はあの人に。

 何ができるのだろう。

 ただの盾なら要らない。サダさんの云う通りだ。

 迷っていたら護れない。師匠の云う通りだ。

 地獄に落ちたヨシツネさんを力づくで引き上げる。妃潟が云っていた。

 引き上げるには俺は地獄に落ちれない。

 ずっとここで正気を保って耐えていなければいけない。

 できるか?

 ヨシツネさんが望めば。

 違う。他人の命令にすりかえるな。

 お前は。

 どうしたい?

 車の音がして門まで走る。

 色素の薄い髪。上品な生地の着物。

 蒼白い肌は幾分か生物の色をしていた。

「ヨシツネさん!」

「ただいま、ケイちゃん」

 サダさんはいないようだった。車も入れ違いで走り去った。

「ちょお、話ええかな」

 ヨシツネさんの部屋に行く。

 暖房を一番強くした。

 部屋が寒かったのもあったが、ヨシツネさんが纏う濃厚な残り香を消したかった。

「黙って留守にして悪かったな。ちょお話しつけて来たわ」

 元締めと、だろうか。

「サダの口八丁のお陰でな。まあ、優秀なにいやんがそこそこ上手くやったはるさかいに。そっちも大きかったんかな」

「客のところに行かなくていいってことですか」

「さすがにゼロゆうわけにいかへんよ」ヨシツネさんが苦笑いする。「せやけど、いままでの半分、いや、三分の一でええて。将来に向けた長期療養ゆうとこやろか。本調子に戻るまで、ゆう曖昧な期限付きのな」

「本当ですか?」

「俺が後継者なんは知っとる?」

 黙ってうなずいた。

「そか。知られとったか。まあ、簡単に予想付くやろし」

「後継者ってのは、何をするんですか?」

「なんやろ? ケイちゃん相変わらずおもろいこと気ィつくね。せやね、何したはるんやろね、あの女」

「母親ってことすか?」

「でやろ? それこそようわからへんわ」ヨシツネさんが欠伸をした。「こっから本題なんやけどね」

 身体を。

 眼線が射抜いた。

「俺にはやっぱキサが必要やさかいに。離れて思い知ったわ。能登くんが要らんゆうことやあらへんよ? 能登くんがおらんかったらキサに会えへんかった。感謝はしとる。せやけど、俺に必要なんは能登くんやない」

 そんな。

 ことをあえて。

 俺に云う必要は。

「ケイちゃんにゆうたったかな? 能登くんな」

 こんな。

 話を聞くために俺は。

 ここにいるんだろうか。

「本人も忘れたはるけど、昔な、むっちゃ嫌な目におうてそのことで転校までして。あ、せやけどそのお陰で俺が会えたんやけど」

「能登なら帰りましたよ」

「ケイちゃんが送ってくれたんやろ? おおきにな。キサが俺をいじめてるうちはええんやけど、もし、もしな? キサが能登くんをいじめたったら、間違いなくその記憶掘り起こすさかいに。それだけは阻止せんとあかん」

 ああそうか。

 それを理由にするのか。

 自分でも吃驚するくらい冷徹に頭が冴えた。

「せやからケイちゃん、能登くん連れてきてくれる? いますぐ行ってほしいんやけど」

 俺が断るとでも思っているのか。

 俺にそれをさせるのか。

 同時に浮かんだ対極の返答を握り潰して立ち上がる。

「わかりました」

 たぶんこれが最後。

 次に能登がこの屋敷に来たらそのときは。

 存在ごと妃潟に変わる。

 もう能登には戻らない。戻らせない。

 ヨシツネさんの眼は、そう云っていた。

 この時間なら大学か。車を飛ばして大学の近くのパーキングに止めた。

 日が陰り始めている。

 能登の電話を鳴らす。

 一回切られたが、すぐにメールが来た。講義中だから終わるまで待てとのこと。

 うとうとしていたら、ウィンドウをこんこんと叩く音がした。

「時間割渡したと思うんだけど」能登が迷惑そうな顔で立っていた。「必修は絶対に落とせないって話もしたよね」

「終わったのか」

「終わったから来たんだよ。一回家に寄らせてくれる?」

 マンションに横付けする。

 いつもより時間がかかっている。これが最後になることを悟っているのか。

 俺の顔に書いてあるなら消さないといけないが。

「お待たせ。いいよ」能登が助手席に乗った。

 後部座席に放った荷物の量はいつもと変わらない。いつもと同じ、一泊二日の旅行程度。

 勘繰りすぎか。

 来るときに通った道を逆戻りするだけなのだが、もう二度と通らない道だろうと思うと。

「しばらくぶりだけど、何かあったの?」能登が云う。

「ちょっと留守してた」

「君は留守番?」

「ああ」

 暗くなるまでに到着できればいいが。

「今日こそは説明してくれるのかなぁ」能登が呟く。

 ハイウェイで事故があったらしい。道理で平日のこの時間にしては車の流れが悪いと思った。

 とうとう停止してしまった。

「悪いが、ヨシツネさんに連絡してもらえると」

「いいけど、これ、降りたほうがいいんじゃない?」能登が電光掲示板を指さす。

 事故で発生した渋滞の距離。それを抜けるまでの所要時間。

「次のインターで降りようよ」能登がカーナビをいじくる。「道はこれでいけると思うし」

 道案内を信じて一度も降りたことのないインターで降りる。ただ、同じことを考えている車もそこそこ多く、国道もそれなりの渋滞具合だが、全く動いていないわけではないので走っていればいずれは到着できるだろう。

「腹減ったら言ってくれ」

「俺はいいけど、群慧くんは運転してるから」能登は俺に合わせるつもりだ。

「わかった。そのうちどこか停める」

 空腹は感じていない。むしろ一秒でも早く能登をヨシツネさんの屋敷に連れて行きたかった。

 時間がかかればかかるほど背中にのしかかる得体のしれないものの質量が増えていく気がした。

「ヨシツネさんは俺が好きなんじゃないんだよ」能登が云う。

 何て答えればいいかわからない。

 ヘッドライトをつけた。

「ヨシツネさんのためになるならそれでいいって思ってるんだけど」能登が云う。「一応俺も渦中にいるわけなんだからそれなりに説明を受ける権利はあると思うんだ。俺が不満に思ってるのはそれだけ。ヨシツネさんに口止めされてないなら、教えてほしいんだけど」

 この先ずっと真っ直ぐ。案内が案内を放棄して久しい。

「ねえ、群慧くん」

「口止めはされてないが」正直に云おう。「ちゃんと説明できるか自信がない」

「群慧くんが知ってることだけでいいよ。詳しく知りたい部分は聞いてみるし」

 この先ずっと真っ直ぐ。

 わかっている。

「群慧くん」

 わかっている。

「ヨシツネさんは何をしようとしてるの?」

「なんで転校した?」

 わかっている。

 質問を質問で返す理由。

「転校? ああ、うん。小学校のときね。よく知ってるね。そっか。ヨシツネさんから聞いた? あれ?でも俺それ云ったっけかな。ツグかな?」

「ヨシツネさんは転校の原因になった奴を捜してる。これの意味がわかるか」

「どういうこと? え、ちょっと待って」能登が眼鏡のブリッジに触る。「なんで知ってるの?ていうか、原因? あれ、俺なんで転校したんだろう。兄貴に聞いた?」

 妃潟が云っていた。

 蓋閉めてガムテープでぐるぐる巻きにして重石のせて海の底に沈めてあった記憶。

 俺がここでそれを開ける意味。

「あのとき死んでれば、て思ってただろ」

「なんのこと?」能登の顔が蒼い。「ねえ、群慧くん。さっきから何の話してるの?」

「思い出さないように忘れてたんだ。つらいだろうが、思い出したほうがいい」そうしないと。

 妃潟にこじ開けられる。いや、もっとやばいのは。

 ヨシツネさんが開けること。

 あの人は。

 開けようとしている。開けることで。

 能登を完全に。

 封じる?

 違う。

「思い出せ」

 殺そうとしている。

「お前を殺そうとしたのは誰だ?」

「ごめん、云ってる意味が」能登が首を振る。

「本当にわからないか? 忘れてるだけじゃないのか? 思い出したら耐えがたいから、お前は無理矢理忘れてることにしてるんじゃないのか? ガキの頃、殺されそうになっただろ?」

 能登は黙って首を振る。

 駄目か。

「ねえ、それがなんだって云うんだろう」妃潟の声だった。「あえて思い出させないでくれる? 僕もあれはなかったことにしておきたい部類なんだから」

「え」能登の声がした。「だれ」

 この先ずっと真っ直ぐ。

 じゃなかったのか。

 能登と妃潟は互いに認識できないはずじゃ。

「君のせいだよ。余計なことしてくれたから」妃潟が云う。「はじめまして? ていうか、これが最初で最後になるんだろうから馬鹿丁寧なあいさつは要らないけど、そうだね。最後の手向けに思い出させてあげるよ」

「待て。お前が云う必要は」

 ようやくわかった。

 俺は本当に余計なことをした。

 このままだと、能登を殺すのは。

「え」能登の声が震えている。

「君が小学校に通ってた頃だ」妃潟が意気揚々と語り出す。

「云わなくていい」

「なんで止めるのさ」妃潟が云う。「邪魔するなら運転狂わせて僕ごと死ぬけど」

 それは。

「ねえ、この人誰? 俺?じゃない。おれじゃない」能登が首を振る。「群慧くん、後ろに誰か乗せた?」

「何云ってるのさ。僕は君だよ」妃潟が云う。「正しくは、ヨシツネが君を洗脳して創った人格だ。意識とかつながってないはずだったんだけど、何かのはずみでいまだけ特別にチャンネルが開いちゃったんだろうね」

「じゃああなたが、ヨシツネさんの?」能登が云う。

「そう。それはさすがに知ってるのかな。うん、ヨシツネの片思いの相手。とっくに死んでるけど」妃潟がからからと嗤う。

「生き返ったってことですか」能登が云う。

「あのさ、ちゃんと話聞いててよ」妃潟が息を吐く。「僕はとっくに死人なの。死人は蘇らない。そんなこと誰だって知ってる。僕は生前君の顔とそっくりだった。お陰でヨシツネが莫迦なことを考えた。君が僕のふりをすれば死んだはずの僕に会えるってね。莫迦を通り越して愚かの極みだよ。だって君の意志はそこにはない。ヨシツネはね、僕にもう一度会いたいあまり君を犠牲にしたんだ。友人の君を殺そうとしてるんだよ。気づいてた?」

 頭の中で火花が爆ぜる。

 この先ずっと真っ直ぐを信じて、前方のテールライトを追いかける。

 俺がいましなきゃいけないのはそれだけだ。

 集中しろ。

「気づいてないといえば嘘ですけど、そうか。なんか、全部納得いった気がする」能登が云う。「それで僕はヨシツネさんのところに行くと記憶がなくなるのかとか、ずっと寝てたはずなのにすっごく眠くて身体の疲れが全然取れてないとか。仕組みがわかれば明快でした。僕が寝てる間、あなたが起きてたってことでしょう?」

「物分かりはいいね」妃潟が云う。「どう? ヨシツネのために死ぬ気ある?」

 ハンドルをあらぬ方向へ切りそうになった。

 駄目だ。俺の仕事は。

「なんか無理そうだね」妃潟がこちらを見る。「事故られても不本意だし、ちょっと停める?」

 道なりにあったショッピングモールの駐車場に入る。

 ヨシツネさんから着信があった。

「ああ、ごめん」妃潟にケータイを取られた。「うん、いま連絡しようと思ってたとこ。お腹すいちゃってね。夕飯食べてくからもうちょっと時間かかりそうかな。ごめんごめん、君はお腹空いてもなんとかできるでしょ? うん、わかってる。できるだけ急ぐよ。はいはい。じゃあまた」

「ヨシツネさんからですか」能登が訊く。

「会話聞けばいいのに」妃潟が俺にケータイを返す。「いまだけチャンネル開いてるって云ったでしょ? その気になれば僕が考えてることも筒抜けになるはずだよ」

「怖くてできそうにないです」能登が首を振る。

「どうする? なんか食べるか」レストランならまだ開いてるだろう。

「この奇異な光景を晒すつもり?」妃潟が嗤った。「君ホント面白いね。ヨシツネが傍に置く理由がわかるよ」

 車内灯はつけない。

 駐車場の薄暗い外灯で微かに表情がわかる。

「あんまり遅くなると心配するからね」妃潟が云う。「さっきの答え聞くよ。ヨシツネのために死ねる?」

「ヨシツネさんはそれを望んでるんですよね」能登が云う。

「その原理で云うと、死ねって云われたら喜んで死ぬってことになるけど?」妃潟が云う。

「あなたが俺なら知ってるでしょう?」能登が云う。「俺は、自分があんまり好きじゃない。むしろ嫌いなんです。俺なんかいなければいいって、何度思ったか」

「そう思わざるを得なくさせられた原因、ちゃんと思い出せた?」妃潟が云う。

 沈黙。

 蓋は開いたのか。

「つらかったね。よくいままで生きてたと思うよ」妃潟が云う。

「群慧くんも知ってた?」能登が云う。掠れた声で。

「ぜんぶじゃない」

 能登の両親と兄が過剰なまでに過保護な理由。

 能登が小学校の頃転校した理由。

 俺が知ってるのはそのくらい。

「思い出したくないのに、あなたが情報を流しこんでくるから」能登が眼鏡を外して顔を覆う。

 すすり泣く声が嗚咽に変わる。

 後部座席からティッシュ箱を取って能登に渡した。

「ありがとう」能登の声はひどく濁って聞こえた。

「どう? 死にたくなった?」妃潟が云う。

「ずっと死にたかったてことは思い出せたよ」能登が云う。「俺が死んだらあなたが俺の代わりになるんですか?」

「違うよ」妃潟が嗤う。「君の代わりは誰もいない。つまり、君の身体の主導権が僕に移る。君は死ぬんだ。身勝手で利己的なヨシツネのために、この世からいなくなれるか? そういうことを聞いてるんだよ」

「どうりでヨシツネさんが云いたがらないわけだ」能登が云う。「あなたを生き返らせるためには、僕が要らないってことでしょう? むしろ僕の存在は邪魔だ。あなたそっくりのこの顔に用があるだけなんだから。なるほど。ショックだけど、すっごいしっくりきました。ああ、そうだったんだ」

 前を通った車のヘッドライトが、一瞬、助手席の横顔を照らした。

 その顔は。

 能登だったのだろうか。

 妃潟だったのだろうか。

「行こう」能登の声にも聞こえたし、妃潟の声にも聞こえた。

 エンジンを掛ける。

 渋滞が解消されたようなのでハイウェイに乗った。

 寝息が聞こえる。

 聞かないようにしてアクセルを踏み込んだ。

 屋敷に着くと門の前でヨシツネさんが待っていた。「おかえり」

「身体が冷えますので」

「ただいま」後ろから声がした。

 俺は振り返らずに先を譲った。

 能登だろうが妃潟だろうがどっちでもよかった。

 ヨシツネさんが笑っている。

 だから、きっと。

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