29 豚骨ラーメン魂抜き
「あっ」
すれ違いざま、通行人と肩をぶつけた。通行人は何が楽しいのか手元から出ている青白い光に顔を照らしていて、謝るも怒るもせずに歩き去ってゆく。そんな大層なものを持てる魂があるなら、僕を避けるぐらいしてくれてもいいのに。と、持てる者を妬みながら、魂を持たない僕は何も言わず逆方向に歩いてゆく。
僕は生きるのが下手なんだと思う。何をするにしても異様に魂をすり減らして、労働の対価として貰った魂と採算がつかない。自らの魂を売らないと何も得ることができない。よりよい魂を持つためには自らの魂を削って働かないといけない。そんな世界で生きていく能力が僕にないと初めて気づいたのは、僕に魂を注いで育ててくれた親の元を離れてからであった。
今の僕には一分の魂もない。腹を満たす食べ物も、夜をしのぐ宿も、支払う魂なしには得られない。乞食になって他人の魂を分け与えて貰おうか。悪魔に魂を売って盗人になろうか。いっそのことどこか知らない線路に身でも投げてやろうか。しかし、そんなことをするにも私の体は魂を必要とするようで、今の私は、起きて、少し歩いて、寝て、それぐらいしかできることはなかった。魂を失ってもなお生き続ける自分の体が憎たらしい。
などと考えながらいつものように夜をふらふらと歩く。ふと、小さなラーメンの屋台が目に入る。暖簾の向こうにいくつかのメニューが見えた。僕はその中に一つ、おかしな品名を見つけた。
豚骨ラーメン魂抜き お代 なし
聞いたことのない名前だ。ラーメンなどここしばらく食べたことがないが、そうだとしても味の想像が全くつかない。そもそも、魂のない料理など作る意味も食べる意味もあるのだろうか。
しかし、魂なしでものが食べられるならばと、僕はその屋台に入った。中には僕と店主以外おらず、僕は右の端に座った。
「豚骨ラーメン魂抜き」
店主は何も言わなかった。しばらくすると目の前にそのラーメンらしきものが出された。たしかに、その濁ったスープは豚骨ラーメンに見えないこともない。しかしその液体からは食べ物らしい雰囲気や質感、ラーメンの暖かさは伝わってこなかった。
蓮華でスープをすくい少しすする。何の味もしない。何の匂いもない。ただ、何かが口の中にあることだけがわかる。温かくも冷たくもなく、これを口に入れる意義が分からなくなってくる。そんな何かの居場所が口から胃の中へと移ってゆく。スープはまるで水に水を混ぜるように存在感なく体内へ潜っていった。僕は完全にスープの行方を見失った。
魂抜きのラーメンを食べ終わった。物を食べた感覚は全くなかった。明日にはここでラーメンを注文したことすら忘れてしまいそうだ。空の器を前に、僕は行うべきやりとりがない気持ち悪さと共に屋台を出た。
ラーメンを食べている間、僕が店主と言葉を交わすことは一回もなかった。しかし、僕の注文を聞いたときの店主のふるまいに、僕は自身と同じものを感じた。この街に来て初めて僕が共感を覚える人だった。できることなら、僕の魂を分けてあげたかった。そう思える人だった。
しかし、僕はもう彼と会うことはないだろう。僕と似ているということは、彼も僕と同じようにこの世界で生きてゆけない人間なのだ。じきに魂をどんどんすり減らして、ついに無一文になってしまうだろう。彼はそうなるのが僕より少し遅かっただけだ。
一旦魂を失ってしまえば、そこから這い上がるのは不可能だ。魂を持たない者に魂を磨くことはできない。そのような人間にできることは、死ぬことも生きることもできず、ただそこにあることだけだ。僕には見えないだけで、この街には僕や店主のような人が他にもたくさんいるのだろう。
今度また、あの屋台に出会うことができたら、今度は大盛りを頼もうと思う。
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