第31話

マリアナは暫くして来なくなった。

手持ちのお金が尽きて、宿代を払えなくなったのだろう。

そして、またマリアナのいない静かな生活が戻ってきた。私は今日、伯母様の知り合いの家で開かれているパーティーに出席している。

主催者はハーランド侯爵。そこのご子息であるブライアンは姿絵を送ってきているので初対面であるけど顔は知っていた。

爽やかイケメンで、見た目は女性受けするだろう。集めた情報によると、真面目で優秀。努力家。性格も良いので悪い話ではないと思う。

「美しい月夜ですね」

パーティーに疲れた私は休憩がてらバルコニーに出ていた。背後から人の気配がして振り返るとセミロングの金髪にコバルトブルーの瞳をした青年がにっこりと笑い、シャンパンを差し出した。

彼こそがブライアン・ハーランド。

私は彼が差し出したシャンパンを受け取る。

「まるで月の女神が降り立ったのかと思いました」

私の隣に立ちながら彼は息を吸うように言う。とても気障な言葉なのに、彼が言うとそうは聞こえないのだから不思議だ。社交界では女性をそんなふうに褒めることはよくあるので、受け手の好みにもよるけどそれで不快を感じる女性はまずいないだろう。

私もあいさつ代わりのつもりで軽く受け流した。

「お上手ですね」

「本心ですよ。エマ・シルエット侯爵令嬢。初めまして。私はブライアン・ハーランドと申します」

ブライアンは胸に手を当て、一礼する。

伯母様の戸籍に入っているので私はエマ・スティファニー公爵令嬢からエマ・シルエット侯爵令嬢になった。まだ、呼ばれることに違和感があるけれど、次第に慣れていくだろう。

私はドレスの裾を軽く持ち上げて一礼する。

「お初にお目にかかります。ハーランド殿。私はエマ・シルエットです。お会いできて光栄です」

「今宵は楽しんでいただけていますか」

「はい」

「こうして出会えたのも何かの縁。もし可能ならば、その縁をずっと続けていきたいと思っています」

これは縁談のことを言っているのだろう。

ブライアンは私の手を持ち上げ、軽くキスをする。

ジルとは全然、肌触りが違った。彼の手はごつごつしていて、ガサガサだった。彼の手は紛れもない剣を持つ者の手。それにずっと傭兵や戦闘用の奴隷として生きてきた彼の手にはたくさんの古傷があった。そのせいで触り心地はあまりいいとは言えない。

ブライアンとは対照的だ。彼の手は貴族らしく、手入れされた肌触りの良い。上品な手だ。硬くて、男性的な手ではあるけど、戦いとは無縁の手だとすぐに分かる。

「どうかされましたか?」

「いいえ。少し考え事をしていただけです。お気になさらず」

ダメね。縁談話が持ち上がっている人の前で他の男のことを考えては。しかも、比べるなんて相手に失礼ね。そもそも生きてきた環境が違うのだから、彼らの手が同じはずがないのに。触った時の違和感がすごく気になってしまった。

ジル以外の人を選んだら、その違和感がずっと付き纏うのかしら。それとも、少しずつ慣れてきて、次第に気にならなくなるのかしら。それはそれで嫌だな。彼に対する想いまでも消えてしまったみたいで。


『覚悟の問題よ』


伯母様の言葉が頭の中で木霊した。


『どうして、後悔はいつも先に立ってはくれいないのでしょうか』


「っ」

私は自分が言ったことではっとした。

「シルエット侯爵令嬢?」

そんな私をブライアンが不思議そうに見ていた。けれど私はそれどころではなかった。

私は気づいたのだ。あの時、自分でも言ったじゃないか。

後悔はいつだって先には立ってくれない、と。そして、伯母様は言った。『覚悟の問題だ』と。

「どうかされましたか?ご気分でも悪いんですか?」

「ハーランド殿、申し訳ありません」

「え?」

「ハーランド殿の噂はたくさん聞いています。もし、あなたと縁ある女性はとても幸福でしょう」

「しかし、その縁を結ぶ相手はあなたではないのですね」

ブライアンは苦笑しながら言った。

「とても残念です。あなたのような素敵な人と家庭を築けたらと夢見たのですが。仕方がありません。あなたの幸せは別にあるようですから。しかし、私はあなたが気に入りました。友人として、今後とも付き合っていきたいと思っています。未練がましくて申し訳ありません」

「いいえ。こちらこそ、光栄です」

私はブライアンに挨拶をした後、邸に帰った。アンナを下がらせてジルと向き合う。

「主、どうかした?」

話があると言ったきり黙ってしまった私をジルは心配そうに見つめているのが分かるけど私はすぐに言葉を紡ぐことができなかった。

言わなければと思う程、口は私の意思に反して動いてくれない。

「主?」


『覚悟の問題』


女は度胸。覚悟を決めろ。エマ!


「わ、私。ジルが好き。大好き。ずっと傍に居て欲しい。私は貴族で、だからきっとジルにはたくさん辛い思いをさせると思う。嫌な思いもたくさんさせると思う。それでも、そうと分かっていても私は選べない。ジルじゃなきゃ嫌。他の誰かじゃダメなの。他の誰かを選ぼうとしたの。でも、選べなかった。ジルがいいの。ジルじゃなきゃ嫌なの」

格好悪い。なんて、我儘なんだろう。それでもこれが私の本心。本当の私。

「俺、元奴隷。戦うことしかできない。顔、火傷だらけ。体も、傷だらけ。俺の手、血まみれ。たくさん、殺した。殺した人間、覚えてない。それぐらい、殺した。でも、主は俺を選んでくれた。醜いと誰もが言った。醜いから、何度も捨てられた。そんな俺、主が選んでくれた。俺の全て、主のもの」

拒絶をされるかもしれないと思っていた。だから自分でも知らない間に体が震えていた。そんな私に気づいて、ジルが抱きしめてくれた。私を安心させるように、優しく。

彼はいつも私に安心と温もりをくれる。

「俺で、いい?俺、元奴隷。貴族じゃない。きっと、迷惑ばかりかける。何もできない。貴族にはなれない。それでも俺でいい?」

私はジルの大きな背中に手を回して抱きしめた。

「ジルがいいの」

「嬉しい」

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