第2話 ダンシングブレイド2
胡散臭い印象の勝る奇妙な紳士との邂逅より数分後。
――く、この野郎!
戦闘奴隷の少女は吊り下げられたまま、全身から水を滴らせていた。
全身の汚れを落とすために頭からバケツの水をぶちまけられた。人を洗うというより、馬か牛を洗うような扱い。ひょっとしたら家畜のほうがいくらか丁寧かもしれない。
それでもポタポタと垂れる温い水が、いくらか体温を冷やしてくれる。
「さぁて」
少女を覗き込む長身。クモに似た紳士が、少女の髪を引っ張り顔を見る。
「コイツが例の
「へ、へぇその通りで……ですがコイツは」
「違う! オレは殺してない!」
弾けるように叫ぶ。物扱いだろうと、人ではないと思われようと守らればならない名誉と真実はあるはずだ。
そして
「オレが見た時にはリブラは殺されていた! 殺したのは、仮面の男だった! 深緑のモザイク、醜い仮面の男だ!」
巨体、深緑のモザイクの仮面、そしてリブラの血に濡れた大剣。脳裏に刻まれた特徴を叫びながら、鎖を引き続ける。手首から血が垂れた。
だがそんなことにはどうでもいい。痛みを癒やすことよりも、安寧よりも、今は一秒でも自由が欲しい。
リブラの復讐を果たすための、ただそれだけの自由を。
「だから、オレは!」
「黙れ」
鳩尾に衝撃、少女の体が屈折。衝撃に足が浮いた。吐き出された胃液が床を滴る。
「がっ! はっ、がはっ!」
突き刺さったステッキの先。クモ男――黒服の紳士がステッキに体重をかけたまま、咥えた細巻きの葉巻、その先を摘まむ。わずかに灯る赤=魔術による着火。
ブチリと端を噛みちぎり、深く煙を吸う。一拍の沈黙。ゆっくりと煙を少女へ吐き出す。
「不快騒音を発生させる装置なのか胃液排出孔なのかわからん穴を塞げ。それともそれはそういう複合型の嫌がらせに特化した器官なのか? 生命の神秘か?」
「な、ん、……があぁぁ!」
突如として黒い紳士から滑らかに流れ出す罵詈雑言。唖然としていると、鳩尾にかかる体重がさらに強まり少女の口から吠えるような悲鳴が漏れる。
「そもそもお前の事情など私の知ったことかね。購買意欲を湧かせる媚びの一つもやってみろ。芸の一つもできんのか。ほざくならキリュメデウスの叙述史の一説でもそらんじる教養でも見せてみろ。このウジ虫が、いや、ウジ虫とてハエになり死体の分解と食物連鎖の役にたつな。お前はウジ虫以下だ。無駄に酸素を消費し二酸化炭素を増やし、食料を食い散らかして資源を消費するだけしか能がないのか。もはや藻より価値がない。もうこれ以下の存在は……ああ、あれだ。この公務員め。お前なぞ公務員だ」
「だ、旦那、まだこちらの売り物ですんで手荒な真似は……それとその公務員を罵倒語に使うのは色々問題が」
冷や汗を流しながらラズロが紳士を止める。まだ少女は商品なのだ。いかに言うことを聞かずとも客に傷つけさせるわけにはいかない。
「これは躾というものだ。獣と人間を分かつ必要な儀礼と文化を施してやっただけのことさ」
ステッキの先を引き抜きながら、こともなげに喋る。
「主人殺しの戦闘奴隷だ。そもそもこんなものにいくらの値がつく? 誰が買い求める? まあ多少見てくれはいいようだから、縛り付けて娼館にでも騙して売るか? この不作法かつ不愉快な野良犬を抱く奇特な客ぐらいはいるかもしれんな」
「い、いえいえ騙すだなんて……この仕事は信用が第一ですから……それに娼館なんぞに売るなんてもったいないですよ、この奴隷は本当に能力だけは高い掘り出し物でして」
冷や汗を拭わずに奴隷商が答える。実際、娼婦になどさせた日には下手をするとその日のうちに付いた客を殺しかねない。
「オレ、は」
言葉が会話を遮る。
無言のまま、紳士は視線を奴隷へと戻した。
胃液を吐き、苦悶の悲鳴を上げ、汗と血にまみれ、不自由に囚われている。
それでもなお、少女は真っ直ぐに紳士を見ていた。
「殺していない。リブラを殺していない」
もはや叫びこともなく、だが静かに、力強く告げる。
それだけが力だった。真実だけが今の彼女の持てる唯一の
「そして、オレは、自由になる。たった今からだ」
要求することを彼女は止めた。与えられることを彼女は捨てた。
彼女はただ、断定する。自らが、それを掴むことができると。
燃え盛る炎が紳士を捉えていた。両の眼には、脈動する熱が宿っていた。執念と怒り、彼女を躍動させる究極の熱量。
身を焦がす魂の熱。破滅さえも食いちぎる意志の牙。灼熱を背負う者。
それが少女の意味、少女の本質、そして少女の名――ヒート。
「最初に自由になったとき、最初にブチ殺すのは――お前だクモヒゲ!」
少女の言葉に、紳士は薄く――鋭く、嘲笑った。
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