第八章 親子

「一区切り付いたようね」

 不意のマリアの発言に、アノンは怪訝な表情を浮かべながらも、暇を置かず空間を掌握し、マリアの右腕、左足、胸部全般に穿ちを放つ。常人では耐えられるはずもない苦痛に、マリアは平然とした顔で再生を続けていく。

「そろそろ貴方との戯れも終わりにしましょうか」

「させませんっ!」

 アノンは即座に反応し、全ての補助輪をマリアの腰部へと向け、穿ちを集中させる。

「っ――やってくれるわね」

 マリアの上半身はアノンの穿ちにより下半身から抉り取られ、地へと伏せ大量の血液をハイドアウト平原へと吹き掛ける。残った下半身も力なく膝が折れ、時を同じくして横たわる結果となった。

「はぁっ……はぁっ……」

 長時間に及ぶ連続した空間の掌握に、全身の疲労感からアノンの息が上がる。それを見やり、マリアは呆れたように苦笑を返していた。

「頑張り過ぎよ、貴方。加減してくれないかしら」

「……ご冗談を」

 右手を上げ、アノンは補助輪全てをマリアの真上へと移動させる。その不屈の姿勢に、マリアは目を閉じ息を吐いていた。

「時間も稼げたでしょうし、引き上げさせてもらうわ」

 次の瞬間、固められた砂が崩れるように、マリアの顔は半分以上、塵と化していた。

「――なっ!?」

 横たわっていたマリアの下半身は海風に攫われて跡形もなく消え、残った上半身もその形を徐々に失い始める。

「貴方との戯れ、まぁまぁ楽しめたわ」

 膝を付き、息を荒げるアノンに視線だけを移し、

「また近い内に、迎えに行くわ」

 意味不明な言葉を残してマリアは完全に消失していた。

「……再生力の限界?勝ったんでしょうか……」

 一人息を整えるアノンに、冷ややかな海風が冷静さを取り戻させる。

「な訳ないですよね、あの捨て台詞からして……」

 アノンの全身から煌めきが失われ、段階は平常へと戻りつつあった。同時に掌握力を失った補助輪が地へと落ち、幾つもの甲高い音を奏でる。

「……戦況は……ウィル少佐は無事でしょうか……って、あれ」

 マリアとの戦闘に集中し過ぎたためか、耳元に装着していた通信機の着信に今の今まで気付けないでいることにアノンは焦る。

「やっば……えっと、受信ボタンは……」

「――アノン!」

 不意に呼ばれた方向に顔を向けると、ウィルが遥か遠方から自身に呼び掛けて居るのが目に入っていた。

「あ……ウィル少佐……」

 安堵感からか、アノンの身体から力が抜け、頭から地面へと倒れそうになる。

「――アノン!ってオイ」

 間一髪、ウィルに抱き抱えられたアノンは、ウィルの顔を見つめて笑みを零す。

「……お役に立てましたか?」

 屈託のないその笑みに、ウィルは歯痒い思いで一杯だった。

「あぁ……あぁ!アノンのおかげで敵勢力をほぼ壊滅することに成功出来た。お手柄だ……よく……よく頑張ったな」

「えへへ……それは朗報です……ね」

 アノンの態勢を戻し、ゆっくりと座らせてからウィルは問い掛ける。

「あのマリアって女とはどうなった?」

「それがそのー……倒したと言いますか、逃げられたと言いますか……」

 事の顛末をアノンから受け、ウィルの表情は強張りを見せていた。

「現時点で敵勢力の再生は確認されていないが、ちっとやべぇかもな」

「……えぇ、あの人を完全に倒したと確信出来ない限り、いつ敵勢力が息を吹き返すか分かったものでは……って、ウィル少佐!?」

「あん?」

「……その胸の傷、なんですか。食らったんですか。また油断したんですか!」

「違う……いや違わないが、怒るんじゃねぇよ!」

「怒るに決まっているじゃないですか!ちょっと見せて下さい!手当します!」

 迫るアノンに、ウィルは両手を振って遮ろうとする。

「いいって別に、大したことねぇから」

「あー……そうですかー……怪我した本人って大体大丈夫じゃなくても大丈夫だよーとか言うんですよね。後で化膿しても知りませんよ?その傷が原因で負けることになっても私知りませんからね!」

「分かった、分かったよ……手当してくれ」

「……はい?」

「手当して下さい。お願いします」

 ジト目で応えるウィルに、アノンは満面の笑みで収納帯から救護セットを取り出し、手当を開始しようとする。アノンの手がウィルの胸元に触れようとした、その刹那。

「戦時下で何をイチャ付いているのだ、愚息」

 ウィルの耳元に、今最も見られてはいけない人物の声が聞こえていたのだった。

「……イチャ付いてねぇよ」

「ほう」

「ヴェ、ヴェレンス大将、ご無事で何よりです」

「気遣いは無用だ、アノン中尉。貴様こそ敵主力と交戦中に付き安否不明と報告を受けていたが、随分余裕があるようだな」

「あー……いえ、その……」

「通信機には常に気を配れ」

「了解です……」

 アノンが顔を伏せ大人しくなったところで、ヴェレンスはウィルと向き合う。

「空間障壁で拘束されているって聞いていたが、脱出出来たようだな」

「あぁ、ステイルの奴め、なかなかに苦戦させてもらったよ」

 互いの安否を確認し、それぞれの戦いの結末、現状の不安点を共有するに至り、ヴェレンスは眉を潜めていた。

「グリスの兄は逝ったか……」

 その言葉に、ウィルは黙して頷く。

「政治屋気取りの若輩者と思っていたが、グリスもどうしてなかなかやるものだ。で、久方ぶりに右腕を開放した気分はどうだ?アーノルドの記憶をすり替え続けていた信号の送信元は捉えているのだろう、愚息よ」

「まぁな。こっからそう遠くはねぇ……方角としてはハイドアウト平原の終着点、フィアルマウンテの麓辺りだ」

「ふむ……そこに少なくともあと少数、敵勢力が居るという訳か。しかもおそらく主犯格の敵勢力がな」

 ヴェレンスの読みに、ウィルは再度頷いていた。土地勘のない今の面子では、闇雲に探索する羽目になるかもしれない。ヴェレンスは通信機に手を当て、本陣に詰める通信兵へと連絡を取り、数分の間を置いてグリスがそれに応じる算段が取られた。

「フィアルマウンテの麓にある施設、又は極秘の基地はないかと聞かれてもな……あの辺りは霊石の産出地でな。人の手を加えられた場所と言えば、坑道くらいしかないと記憶している」

「坑道か」

「あぁ、私が直に命じて霊石を採掘させている場所でもあるから、そこなら正確な位置を教えることが出来る。ただ入口が二つあってな、道中は入り組んでいるものの、どちらも最終的には同じ場所に当たってしまうのだが」

「廃坑にはなっていない、という事だな」

「そういう事だ。それ以外の何かを探すと言うのであれば、残念ながら力になることは出来そうにない。すまないヴェレンス」

「……いや、十分だよグリス。後ほど坑道の正確な場所を知らせてくれ」

「了解した。追って連絡する」

 言って通信機を切ろうとしたグリスを、ヴェレンスは呼び止めていた。

「グリス」

「――?」

「大丈夫か」

「……あぁ、かの大将に心配されるとは光栄だよ。兄の分まで務めを果たすさ」

「そうか」

「……」

 一瞬流れる沈黙に、ヴェレンスは意を決したように告げる。

「貴様の兄を利用し、国を荒し、この戦いを引き起こした輩の始末は私が付けてやる。期待して待っていろ」

「……あぁ、私の分まで殴り付けてやってくれ」

 グリスの言葉に、ヴェレンスは不敵な笑みを浮かべる。グリスとヴェレンスの通信は終わり、正確な坑道の場所が知らされたのはすぐ後の事だった。ハイドアウト周辺の地図を広げ、ヴェレンスが制圧地点に指を動かす。

「目標はここと……ここだな。距離はそう離れてはいない。同時進行で制圧を開始する。手前の坑道は貴様達二人に任せるが、問題ないな」

 ヴェレンスの言葉にウィルとアノンは頷く。

「アノン中尉が対峙したマリアという女がもし生存し、敵勢力の再生が再開する可能性を考慮するならば、速攻を掛ける必要がある。我が軍に周辺の探索と制圧を命じてはいるが、坑道に突入する私達に援軍はないものと思え」

「……了解だ」

「敵勢力は空間移動の技術ばかりか、霊石を核とした遠隔洗脳という離れ業までやってくるような連中だ。心して掛かれ。特にアノン中尉、長期戦になれば貴様は不利だからな、上手く愚息を使って温存していけ」

「……え、あ……はい」

 困惑するアノンに、ウィルは親指を立てて応じ、アノンに柔らかさを取り戻させる。ヴェレンスは地図を片付けると徐にフィアルマウンテの方角へ視線を移し、ウィルとアノンもそれに応えるように態勢を整え始めていた。

「先行は私だ。二人とも死んでくれるなよ」

「……あんたもな」

 ウィルの言葉に、ヴェレンスは苦笑を浮かべていた。

「誰にものを言っている」

 刹那、ヴェレンスが踏み出すと直下の地面が弾け飛んでいた。盛大に立ち込める砂埃を手で払いながら、ウィルは呆れ顔でその姿を見送る。

「……相変わらずくそはええな」

「本当に……」

 呆気に取られる二人ではあったが、ヴェレンスに遅れ過ぎては作戦に支障をきたす恐れがある。装具を再確認し、坑道への地図を頭に思い浮かべる。

「行きますか、ウィル少佐」

 アノンがウィルに顔を向け、ウィルは片手を上げてそれに応じる。

「段階移行は極力控えろよ、アノン」

「……体調は五分程度まで回復しつつあります。道中太陽光さえ浴び続けることが出来れば、坑道内は問題なく随行出来るかと――」

「そういう話しをしてるんじゃねぇって」

「……分かってます」

 ウィルの強い口調に、アノンは静かに答えを返す。心配で仕方がないのだろう、ウィルは仕切りに自身の頭を触り、顎を撫で付ける。アノンにはそれが可愛らしくて、ウィルの隣に立ち、その顔を覗きながら口を開く。

「遅れちゃいますよ」

「……だな。行くぞ、アノン」

「了解です!」

 ウィルが駆け出し、アノンが後を追う。二人で数々の任務をこなすに連れ、その動きは自然に干渉し合うようになっていた。坑道までの道程は瞬く間に過ぎ去り、道中索敵をしながらもアノンはウィルの背中を見続けていた。その背から伝わる自分への心遣いに、アノンはいつも温かな気持ちに包まれる。いつまでも見続けていたいその光景に焦がれるこの感情は許されるものなのか、アノンはいつしか自問するようになっていた。

 あと一日、もう一日と募るその思いは、日増しに大きくなるばかりで、アノンの胸中を締め付ける。程なくして突入する坑道にはこの戦の主犯格が潜んでいる公算が高い。それはかつてウィルとアノンが経験したこともない強大な相手との戦いを意味している。

 自身の役目を全う出来るか否か。それは焦がれる光景との別れでもあった。

「……ここだな」

 ウィルの言葉に、自問の渦から引き戻されるアノン。目の前には、グリスの情報通り真新しい坑道の入り口が二人を出迎えていた。直近まで採掘が行われていたのだろう、入り口付近には作業員の宿泊用と見られる簡易な小屋に資材置き場、焚火の後に置き捨てられた食器類など、およそこの戦の主犯格が根城にしている様子を伺い知ることは出来ない。

 ウィルは坑道の入り口の淵に右手を当て、一呼吸を置いてしゃがみ込むと、手近の地面へと当て変える。

「数日は誰もここを通ってねぇな」

 ウィルの右腕が僅かに赤く光彩を放ち、能力が発現している様を初めて目の当たりにしたアノンは息を飲む。

「……グリス陛下は多数の亀裂の要因に霊石の採掘を挙げられていましたよね。作業自体が中断されていたとすれば――」

「無人のはず、って事だよな」

 アノンはウィルに頷くと、坑道の入り口へ足を踏み入れ、索敵を試みる。

「なに……これ……」

 アノンの索敵は、霊石の波長と亀裂特有の振動を把握することにより実行される。敵勢力の大部分が混ざりもの、人と霊石の融合体で結成されているとすれば、その霊石の波長を追って敵勢力の数や配置をある程度割り出せると予測していたのだが――

「……夥しいほど霊石の反応があります。一つ一つの波長にある程度の規則性が見られますが……波長が重なり過ぎてこの中から特定するとなると私には……」

 唇を噛み、表情を陰らせるアノンに、ウィルは優しく語り掛ける。

「でたとこ勝負も悪くねぇさ」

「……すみません」

「気にすんなって」

 足音を極力控えながら、ウィルを先頭に坑道へと踏み出す二人。奥へ奥へと行く度に薄暗さを増していく坑道をひたすらに進み続ける。事前に聞いていた坑道の内部構造通り、入り組んだ細い通路の先には採掘現場の開けた場所、そこを過ぎればまた入り組んだ通路と、坑道はまるでアリの巣のような構造になっていた。道標の代わりと言えば、採掘した霊石を入り口まで運んでいたのだろう、手押し車の車輪跡が延々と深部まで続くばかりで、ウィルとアノンには同じところを行ったり来たりしているような感覚を憶えさせる。

 坑道特有の湿った空気が二人の全身に疲労感を与える。気晴らしにという訳ではなかったが、アノンは先程目の当たりにしたウィルの右腕が気になり、声を掛けていた。

「ウィル少佐の封印なされていた力……その、どこまで遡れたりするんですか?」

 アノンの問いに歩む速度を抑え、ウィルは右手に視線を送りながら口を開く。

「触れている時間に依るな。特に制限を感じたことはねぇが……」

「どこまでもって事ですか」

「そこまで遡ったことはねぇけどな」

 視ても仕方ねぇし、と付け加えるウィルに、アノンは更に問い掛ける。

「例えばなんですけど、敵の弱点とか、苦手なものとか、そういうのも視えるんですよね」

「……まぁな」

「それって凄いじゃないですか」

 アノンの驚愕に、ウィルは首を傾ける。

「どうだろうな……直接触れなきゃ発現出来ない手前、長時間相手を掴めでもしない限りそこまで視えるかは一つの賭けでな。あまり実戦で役には立たん。むしろアノンのように周囲をある程度察知出来る能力の方が俺は凄いと思うんだけどな」

「……ご謙遜を」

 苦笑に気付かないウィルを見やり、アノンは思い付く。

「それは心を読むことも出来るって事ですよね」

「……たぶんな」

「触ってみます?私のこと」

 不意に問われたウィルは、意地の悪い笑みを浮かべるアノンに眉を潜める。

「絶対にやらん」

「……えー、なんでですか」

「やらんと言ったらやらん」

 頑なに否定するウィルを見ながら、アノンの表情は緩んでいた。

「だと思いました」

「……ったく、人をからかうのもいい加減に――」

 そう言い掛けたウィルは、何者かの気配を察し、手信号でアノンへ止まれを掛ける。幾つ通ってきたのか判然としない通路に、採掘現場の繰り返し。その幾度めかの少し開けた空間に、一人の黒装束の男を筆頭に、幾人もの黒装束が列を成して行く手を阻む光景をウィルは通路の影から確認する。アノンはウィルの肩を二度叩き、振り向いたウィルへ手話で指示を仰ぐ。

「敵勢力三十余名、筆頭の黒装束に見覚えあり。指示求む」

 アノンの滑らかな手の動きに、あまり手話が得意でないウィルはぎこちなく答える。

「段階を……平常から上げ、準備をせよ。まずは様子を……見る」

「りょ、う、か、い、です!」

 僅かに通路から聞こえる布の擦れ合う音に、筆頭に立っていた黒装束の男は溜息を吐きながらウィルとアノンへ声を掛ける。

「何をこそこそしているのだ……居るのは分かっている。出てきたらどうだ」

 予想外の展開に、ウィルとアノンは思わず互いを見やる。

「……バレてますね」

「みたいだな」

 意を決し、二人は通路の影から開けた空間へと歩み出す。その様子を静かに見届ける黒装束の姿、その声にウィルとアノンには覚えがあった。一度めは教団での襲撃。二度めは亀裂から突如出現し、ビシャスを回収された時に。そして三度めはレイバーに率いられ襲撃を掛けてきた忌まわしき森の記憶。

「これで四度めだっけか、黒装束さんよ」

 ウィルの喧嘩腰の第一声に、黒装束から僅かに怒気が感じられる。

「……私が君達を仕損じた回数に興味はない」

「そうかい……って今回はえらく饒舌だな」

 段階を上げ、煌めきを放ちながらウィルに追従するアノンへ視線を向けながらも、黒装束はまるで動じていないように見えた。ウィルは黒装束と徐々に距離を詰め、アノンは少し後方で歩みを止める。その動きを凝視しながらも、前方の黒装束達は構えすら取らないことにウィルは警戒を強める。

「君達を個人的に嫌いな訳ではないが、ここから帰す訳にもいかん。我らが大願のため、大人しく捕まってくれはしないか」

「……俺は個人的にあんたに借りがあるんでね、はいそうですかとはいかねぇよ」

 地を踏み付け、足に熱が籠るウィルを見やり、黒装束は再度溜息を吐く。

「止めておきたまえ。徒労に終わる」

「そいつは……どうかな!」

 刹那、瞬時に黒装束と距離を詰めたウィルは相手の首目掛け右手で喉輪を放つ。黒装束はそれを軽々と横に躱すと、ウィルの右腕を切り落とそうと袖に仕込んでおいた隠し刃で手刀を繰り出す。ウィルは突き出した右腕を引き抜きその刃を空振りさせると、身体を半回転させながら黒装束の胸元へ回し蹴りを直撃させていた。

「――ちっ」

 黒装束は人二人分ほど上空まで蹴飛ばされるが、空中で態勢を整え素早くウィルから距離を取っていた。埃を払い、黒装束はウィルを見やる。

「……厄介なものだ、君の右腕は。ウィル少佐」

「もう周知されてんのか、どえらい情報網だな」

 ウィルの驚きの表情に、黒装束はもう片方の袖から隠し刃を露出させながら口を開く。

「周知というより、既知だな」

「……あん?」

 黒装束の言葉に、余裕たっぷりの対応。ウィルには理解出来ない状況だった。

「アノン中尉も掛かってきたまえ。ウィル少佐一人では過不足だ」

 不意の提案に、アノンは眉を潜める。

「……随分な挑発ですね、それに乗るほど私は安くないですよ」

 身構え、更に一歩後方へとアノンは距離を取る。

「私の後ろに控えるこの者達が動いた時用に待機しているのだろう。無駄だ。戦うのは私一人だけ。君達は二人掛かりで構わんよ」

「……一体何を言ってるんですか」

「穿ちだよ。君の通り名、穿つ者の代名詞、空間掌握による強烈な圧縮作用で文字通り風穴を開ける君の得意技。やってみろと言っているんだ」

 黒装束が無造作に、ウィルへと歩み寄る。

「君も本気を出したらどうかね。私は混ざりものだが、かの勇猛なウィル少佐であれば倒すことは容易いはずだろう」

 異様な状況に、ウィルさえも一歩後方へと距離を取る。

「……来ないか。まぁいい。君達がどれだけ懸念しようが――」

 突如、黒装束はウィルへと距離を詰める。

「私の思い通りになる!」

 繰り出された跳び蹴りがウィルの顔面を捉える。

「――っ、食らうかよそんなもん!」

 間一髪、両手を十字に組みそれを防いだウィルは、黒装束の足を掴もうと右手を伸ばすが、黒装束は素早く飛び蹴りの態勢から沈み込むようにウィルの右手を躱し、後方に待機するアノンへと標的を変え地を蹴り出す。懐から数本の針を取り出した黒装束がアノン目掛けて放とうとした一瞬、アノンは横に飛び去りながら針の射線軸をずらし、その軌道修正で動きが抑えられた黒装束目掛け空間を掌握する。

「やりたまえ!アノン中尉!」

「――っ!?もうなんなんですか貴方は!」

 音もなく黒装束の頭部は穿たれ、そのまま地へと倒れ込む。あまりの不可思議な黒装束の行動に掌握の荒くなったアノンの穿ちは加減することが出来ず、普段の数倍もの負荷をアノンはその身に受ける事となる。

「……ぐっ……うぅ」

「アノン!」

 駆け寄り、隙を見せそうになるウィルを片手で制すアノンの額には汗が滲み出す。

「……問題……ありません」

 その悲壮な表情に、ウィルは奥歯を噛み締める。黒装束の理解が及ばない奇行に意識を引っ張られ過ぎてはいけない。アノンの消耗を極力抑え、未だこの場にいる三十余名の黒装束を打ち倒さねばと意を決するウィルの耳に、不可解な音が聞こえていた。

 水が漏れだすような、濁った音。その音と共に、目の前にただ佇んでいた黒装束の一人が意識を失ったかのように倒れ、それきり動かなくなっていた。

「想定通りの凶悪さだな、アノン中尉。まさか丸ごと持っていかれるとはな……」

「……え……嘘」

 アノンが目にし、耳にしたその声の主は、先程穿ちで絶命したはずの黒装束だった。アノンに穿たれた結果、黒装束の頭部の布は消失し、そこに中身だけが再生した結果、黒装束の素顔がウィルとアノンへ晒される事となる。二人が出会った時、この男は黒一色の祭司服に身を包んでいた。白髪で、柔和な表情が印象的だった。一宿一飯の恩義ある相手。

「この顔では二度めだな」

「……ファゴット神父」

「なんであんたが……」

「理解に苦しむか。これも教義に則った神の思し召しなんだよ」

 徐に立ち上がり、ウィルとアノンを交互に見やるファゴットの表情は既に柔和などではなく、何かに心酔しきった顔をしていた。

「……貴方も御業の行使が出来るということですか」

 アノンの驚愕に、ファゴットは首を左右に振って応える。

「あれはアンナだけの御業、私如き下等な人間が扱えるものではない。アンナは神の一部であり代行者、我々を新世界へと導く道標なのだよ!」

 両手を広げ、狂気に満ちた語りを続けるファゴットに、ウィルとアノンは距離を開けて間合いを取っていた。

「つまりマリアって奴は力が戻りつつあるって事だな……」

「――?」

 ウィルの言葉に、ファゴットは不思議そうな表情を浮かべる。

「マリアとは誰だ」

「……いや、だからあんたの娘の」

「私の娘はアンナだけだ。君は何を言っているんだ」

「あんたの娘はアンナって名前だろうが、異界側のその子は……ってめんどくせぇな」

 全くと言っていいほど噛み合わないファゴットの様子に、ウィルは気が重くなる一方だった。今分かることは二つだけ。アノンをこれ以上消耗させる訳にはいかない事と、マリアの力が完全に戻る前に排除するという事。益々速攻の重要性が増したウィルは、アノンに手信号で待機を命じつつ、ファゴット目掛け一足跳びに距離を詰める。

「――っ、恐ろしく速いな君は!」

「そりゃどうも」

 後方へ飛びウィルと距離を開けようとするファゴットに、それ以上の速度で追いつくウィル。このままでは不利と判断したファゴットが左手を振り上げるように針を数本飛ばし、同時に空いた右腕の隠し刃でウィルの鳩尾を狙う。ウィルはそれを見やり、近場にあった岩石を蹴り飛ばすとファゴットの針を岩石一つで全て弾き返す。自身の真正面に飛来する蹴り飛ばされた岩石を態勢を低くして躱したファゴットは、伸び上がるようにウィルへと距離を詰め、再度鳩尾を取りにいく。その踏み込みを紙一重で躱したウィルは、鳩尾を取りにファゴットが伸ばした腕側の肩に左掌底を当てて動きを止め、僅かに宙に浮くファゴットの鳩尾へ逆に右の肘打ちをめり込ませていた。

「……まるで……追い付かんな……」

 ファゴットが咳き込み、その場に膝を付く。ウィルはそのままファゴットの顔面を蹴り上げ、露わになった首を右腕で掴むと、再度地面へファゴットを叩き付ける。

「……か……ぐっ……息が……」

「時間が惜しい……悪いな神父」

 ファゴットの首を掴む右腕にウィルが力を込めると、首の骨が折れる鈍い音が小さく聞こえていた。その右腕を外さぬままウィルは、後方に控える残りの黒装束達に睨みを効かせ、ファゴットを視ようと能力を発動させる。

「あんたらもこうなりたくなきゃ、大人しく――」

 ウィルの右腕が赤く発光し、ファゴットの経験や記憶を視ようとした刹那、またもや黒装束達の一人が意識を失ったようにその場に倒れ、ウィルは右腕に違和感を憶えていた。

「生殺与奪の権利は強者にあれど、これでは風情がないな、ウィル少佐」

「――なっ」

 首を折り、絶命させたはずのファゴットに右腕を両手で掴まれたウィルは硬直する。

「……一人では足りないな……二人……いや三人と言ったところか」

 ファゴットの言葉に呼応するように、黒装束達の数名が更にその場に倒れ、微動だにしなくなっていた。ウィルはその状況に危機感を察し右腕を引き抜こうとするが、両手でそれを掴むファゴットの握力に阻まれ、引き抜くことが出来ない。

「私を含めて四人分なら膂力は互角か」

「何言ってんだこいつ……」

 ウィルの怪訝な表情に、ファゴットは笑みを漏らす。

「こういう……事だ!」

「――うぉ」

 ファゴットはウィルの右腕を掴んだまま全力で自身の方に引き付けると、態勢を崩して無防備と化したウィルの鳩尾へ両脚を畳んで潜り込ませるように反動を付け、そのまま真上へに蹴り上げていた。

「鳩尾狙いも三度目の正直だ。こだわる性質でな」

「……てめぇ」

 空中で態勢を取り直し、地へと降り立つウィルは鳩尾を抑えて足が止まる。態度にこそ出さないように努めたものの、ウィルが肉弾戦で蹴り上げられたところなぞ初めて見るアノンは動揺していた。

「たかが混ざりもの一人と人間三人分でこれとはな。一騎当千が聞いて呆れる」

 無造作に立ち上がり歩み寄るファゴットを見据え、ウィルの身体は熱を帯びる。

「その能力も数秒程度であれば何も視れないようだな」

「……そいつはどうかな」

「嘘吹かなくてもいい。感覚で判る。君は何も得られていない」

「何も、ね……視なくても予想くらいは付いてきたさ。あんたのカラクリはな」

「ほう、ならば打ち破ってみせろ!贄如きが!」

 ウィルとファゴット、二人の距離が再び詰まる。

「君も同じ目に合わせてあげよう!苦痛すら分かち合うべきだ!」

 言ってファゴットはウィルの首目掛け右手を伸ばす。ウィルはそれを左手で受け止めると、ファゴットは更にもう片方の手を、ウィルはさっきの繰り返しと言わんばかりに右手でそれを遮り、互いが互いの手を握り合う力勝負の様相を呈する事となった。

「膂力でもう引けは取らん。学べ若造が!」

 檄を発し、両手に力を込めるファゴット。ウィルは目を細め、ゆっくりと口を開く。

「調子、こいてんじゃねぇぞ、くそ神父」

 次の瞬間、ファゴットの指が自身の手にめり込み始め、全ての関節が曲がってはいけない方向に曲がり始める。

「――っ!?ぐぅうううう……なんだっ……この力は……」

「まずは手、次は肘な」

「……ひっ」

 何かが弾けるような音と共にファゴットの手は完全に崩壊し、手の平をひっくり返しながら握り上げるようにファゴットの手だったものに力を加えたウィルは、ファゴットの肘が折れ骨が露出し、血が噴き出す様を見ても力を緩めることはなかった。

「あぁ!?ぐっぎぃいぃああぁあ!」

「んで、核な」

 ウィルはファゴットから手を離し、支離滅裂な叫びを続けるファゴットの肩を掴み、引き上げると同時に心臓部位へ手突を叩き込む。まるで暖簾に手を差したが如く、ファゴットの胸板は貫かれ、ウィルの突き刺した手には心臓周辺の肉や骨が握り込まれていた。

「……あ…………あ?……」

 呂律の回らないファゴットから手を引き抜き、地に放り投げたウィルは握っていたファゴットの一部を握り潰し、塵へと変えていた。その様子を後方で見ていたアノンは唖然としながらもウィルへと声を掛ける。

「……お見事です、ウィル少佐」

「まだ終わりじゃねぇ」

「……え?」

「アノン、ファゴットの身体に霊石の反応……核はまだありそうか」

「――っ!お待ち下さい!」

 ウィルの意図を察したアノンがファゴットの波長を読もうとした、その時だった。

「止めてくれないかしら、壊されると困るのよね」

 ウィルとアノン、二人共に聞き覚えのある涼やかな声。

「やっぱ居たか……マリア、だよな。あんただろ、このカラクリの正体は」

 さして驚かないウィルの反応に鈴を振るような笑い声だけが返ってくる。隙なく周囲を警戒するウィルは後ろ手にアノンへ、波長を読むのを続行しろとだけ指示を出す。

「分かっていたのなら甚振らなくても良かったのではなくて?乱暴な人って嫌いよ」

 茶化すような物言いに、ウィルは黒装束達へ歩み寄りながら答えを返す。

「俺もあんたのことは好きになれそうにねぇわ」

「あら、気が合うわね」

 マリアの嘲笑にウィルは動じない。

「治癒じゃない、そんな技術は下等だって、わざわざ講釈垂れるくらいだ。自信があるんだろ?姿を見せたらどうだ」

「……貴方の可愛い部下の言葉を借りれば、安い挑発ね」

「そう思うか?ならもうちょい挑発してやろうか。あんたの能力は予想するに、発現するには幾つかの条件がありそうだよな。無限に誰も彼をも再生出来るならとっくにやってるはずだ」

 ウィルの矢継ぎ早に繰り出される言葉に、マリアは黙したままだった。

「となると回数か、距離か。あんたの能力には制限がある。最悪触れなきゃ発現しない程度なら大したことないが、ファゴットの様子を見る限りそれはない。ハイドアウト平原の大部分の敵が再生された時は肝を冷やしたもんだが、再生されたのは全員ではなかった。ここが重要でな」

「……随分知った風な口を聞いてくれるじゃない」

 マリアの苛立つ口調に、ウィルは不敵な笑みを浮かべる。

「ハイドアウト平原ほどの長大な距離を全て視認するのは困難と仮定し、自身と他者のどちらかしか治せないと条件を定めた場合、あんたの様な能力者が多数居たか、出現した敵勢力の身体にあんたの一部が寄生していれば条件はクリア出来る訳だ」

「……寄生、ですか」

 アノンの疑問に、ウィルは視線を動かさずに応える。

「あぁ、再生された大半の敵勢力は牙兵だったろ?霊石……つまり核を通して媒介させたか、目や耳を余分に再生して他者に寄生させたか。特定の部位を破壊されない限り、宿主であれば遠隔で再生が可能なんじゃねぇか、ってのが今んとこの見通しな訳よ」

「……成程、だから核を狙い打ちに」

「そういう事だ」

 ウィルは残った黒装束達との距離を詰めながら、挑発を続ける。

「それともう一つ、強大な力には代償が伴うってのは通説でな。あんたが神でもない限り、その再生能力ってのにも当然、代償は存在するんだろ?ファゴットの娘のアンナは御業の行使が原因で衰弱死したと言われている。つまりその代償は――」

「……命、ですか」

「そうだアノン、命だよ。自身の命を分け与えた末の再生だ。再生というより、置換と言うべきだろうな。だとすれば自分自身を再生するのに、自分の命を使ってたらアンナと同じ道を辿っちまう。敵勢力は少なくとも三百を超えていた。ファゴットも二度再生されている」

 そして再生が行われる度に倒れていく黒装束達を見据え、アノンはウィルが何を言わんとしているかに辿り着いていた。

「まさかと思いますけど、他者の命を使っているんですか」

 アノンの言葉に、頷くウィル。

「乱暴な手を使っているのはどっちなのか、言ってみろよマリア」

 ウィルの問いかけに、マリアは応じない。不用心に黒装束達へ近付いたウィルは、一人の黒頭巾を剥ぎ取り、黒装束の一人の顔を露わにする。

「……やっぱりな」

 ウィルが露わにしたその素顔は、目が虚ろで口を半開きにしたまま小さく呻いているだけの男だった。目の前に敵であるウィルが近づき、黒頭巾を剥ぎ取られても反応がない状態に、ウィルは拳を握り込む。

「どんな手を使ったのか知らねぇが、てめぇも相当イカれた奴みたいだな、マリア」

「そうかしら?自分が信じる神の一兵卒、駒になれたのよ。ストラグル教団の信徒であればむしろ本望じゃない?」

「神ね。てめぇがそれになったつもりかよ」

「……短絡的ね。あの方の一部とは思えないわ」

「あ?てめぇ何言って――」

「邪魔にならない程度に削るつもりだったけど、遊ぶのは止めにするわ」

 ウィルの言葉を遮り、マリアの声から感情が消える。間を置かずウィルの眼前に居た信徒の男が目を見開き、一際大きく呻いた瞬間、男は崩れるように倒れていた。後は一様、男が辿った末路を繰り返すように、黒装束達は次々と呻いては倒れていく。その最中、一人の黒装束だけが奥へと続く通路に駆け出し、逃走を試みる。

「――アノン!」

「分かってます!」

 ウィルに呼ばれ、状況を察していたアノンは逃げ出す黒装束の心臓部位に穿ちを放つ。

「――っ、相変わらず……正確ね、貴方」

 背を向けたまま倒れ込む黒装束は、吐血しているのだろう、水を潜らせたような声で嗚咽を漏らす。

「……マリアさん、ですよね。ウィル少佐の予見された通り、貴方の能力にはやはり制限があった。視認出来る距離じゃないと発現出来ない」

「ふふ……種明かしは最期までしないのがセオリーよ……そうじゃなきゃ、つまらないもの。それにね……」

 マリアの不敵な声に、ウィルとアノンの中間地点、ファゴットが横たわる辺りから地鳴りのような呻き声が発せられ始めていることに二人は気付く。

「この身体も要らなくなった……穿たれても意味はないわ……後はファゴットに……」

 言いながらマリアと思われる黒装束の身体は徐々に塵へと変わっていく。

「食われ……なさい」

「アァアアアァアァァアアアアアァ」

 マリアの崩壊に、獣のような雄叫びが重なる。ファゴットだった者は既に異形と化し始め、身体のそこかしこが膨張し、隆起しては重なり合っていく。変容はビシャスのそれと酷似していたが、ビシャスは人から獣へと変貌していったように見えた。だがファゴットはそれと違い、ただただ膨張していく。マリアを除く黒装束達は二十余名。その全ての命を置換され、ファゴットの肉体は悲鳴を上げ始めていた。

「……あれだけ膨張してしまえば細い通路も通れないでしょうし、放って置いて先に進むってのは……だめですよね、やっぱり」

 アノンの軽口も、額に流れる汗を見れば本心でないのは明らかだった。ウィルとアノンが身構え距離を取る間にも、ファゴットの巨体化は止まらない。採掘現場の開けた空間の天井にまで達しようとするファゴットの全長は既に三メートルに達し、腕の一本、足の一本が人一人分の厚みをもっていた。

「仮にファゴットがこの坑道を脱出してどこかの街に行ってでもしてみろ……被害は尋常じゃねぇほど広がっちまう。ここで叩くしかねぇ。やるぞアノン!」

「……了解です!」

「ヴヴヴゥウアアアアァアア」

 身体の変貌が安定し、ファゴットの目があった部分には巨大な霊石が二つ露出しこちらを見定めていた。腕や首が不気味な音を立てて痙攣を起こす様は悪夢のようだった。その痙攣が収まりきらぬ内に、ファゴットは無造作に両腕を振り回し始める。

「――っ、見境なしかよ!」

 ウィルは後方へ飛び、アノンは更に距離を取りながらファゴットの両腕の付け根に狙いを定める。

「……最小範囲で、的確に」

 アノンの掌握がファゴットの両腕を切断し、振り回されていた反動でその両腕が宙を舞う。採掘現場の天井に当たり、唯でさえ狭いその空間に嫌な振動が響き渡る。

「ぐ……ぎ?」

 両腕が千切られた事に理解が追い付かないファゴットの動きが中断された隙を狙い、ウィルが距離を詰め飛び掛かる。

「その核、抉り取らせてもらうぜ!」

 言ってウィルはファゴットの両目があった部分、肥大し露出した霊石を両手で掴むと、一気にファゴットから引き抜こうと力を込める。

「ぎ……ギィイイアアア」

 肉が引き千切られる不快な音と共にファゴットの絶叫が木霊する。ウィルの握力に屈しファゴットの態勢が後方へ倒れたかに見えた次の瞬間。

「アァアアァァアアア!」

「――なっ」

 更にファゴットの態勢は後方に反れ、まるで鞭がしなる様な動きで急激にウィルごと回旋を始める。

「……こ……の野郎……」

 ファゴットの核にしがみ付き、寸でのところで弾き飛ばされないウィルを見やり、アノンが援護を掛けようとした刹那。一際大きくしなったファゴットは自身の顔面を直線状の壁目掛け、全身を伸ばしてウィル諸共叩き付けていた。硬度は不明だが周囲は鉱石だらけの壁である。アノンの耳には、何かが潰される音が聞こえていた。

「ウィル少佐!」

 アノンの悲痛な叫びに、呻きで応えるウィル。自身の呼び掛けに言葉で返せないウィルの状況に、アノンは咄嗟的にファゴットへ距離を詰めていた。

「……っ……アノン!近付くな!」

 ファゴットの顔面を押し出し、ウィルがようやく壁から顔を覗かせた時にはアノンは既に接近していた。

「躱せアノン!」

 ウィルの叫びと同時に、ファゴットの背からは無数の手が生え出し、見る間に伸びては幾つもの節を作り出していた。その光景は歪な蜘蛛の様相を呈し、アノンは本能的な恐怖を感じていた。その恐怖が、アノンの動きを引き留める。幾重もの手が空中で動きを止め、一様にアノンへ狙いを定める。最適解は空間掌握補助輪を全て展開し、手の一つ一つを狙い落とすか、ファゴットの首を切断しウィルを救出するかの二択だったのだが、荒く呼吸を繰り返すアノンは最大級の力を込めてファゴットを本体ごと潰しに掛かっていた。アノンの煌めきが一層の輝きを増し、採掘現場の空間に満ちていく。その光に呼応し、ファゴットの蜘蛛の手がアノンへ繰り出される。

「一撃目は左……次は跳躍……滑り込んで斜めに後方へ……」

 次々と放たれるファゴットの攻撃に、アノンは呟くように躱し続ける。その間もアノンの煌めきは光度を増し、瞳は深紫へと変貌していく。

「しゃがみ込んで……右に躱して……」

 ウィルを巻き込まず、且つファゴット全体を圧し潰せる領域。繊細な照準に最大限の力を乗せる。アノンは額に汗を滲ませ、紙一重でファゴットの攻撃をいなしながらも充実感に包まれていた。ウィルにこれ以上の打撃は与えさせない。指一本触れさせない。更に繰り出された一撃を前方へ飛び込むように躱したアノンは両手を前へ突き出す。

「掌あ――」

 アノンがその力を開放しようとした瞬間、死角から放たれたファゴットの一撃に脇腹を強打され、手近にあった壁に打ち付けられてアノンは地へと伏す。煌めきは霧散し、口からは血が滲み出していた。

「……あっ」

 小さな、小さなアノンの呻き。ウィルの中で、何かがキレていた。

「おい、こっち向けよ神父野郎」

 言うが早いか否か、ファゴットの両目部分があった二つの核にヒビ割れが生じる。

「ぎっ!?ぎぃいいぎゃぎゃぎぁああああ!」

 ファゴットの絶叫に、ウィルは耳を貸す気はなかった。そのまま核ごとファゴットの頭部を持ち上げると、露わになった首部分へ体重を掛けた蹴りを食らわせ距離を開ける。その出来た隙間から脱出したウィルはアノンへと駆け寄っていた。

「アノン!アノン!おい!大丈夫か!」

「……ぁ、はい。なんとか……凄い痛いです……」

 小刻みに震えながら態勢を直そうとするアノンに、ウィルは首を左右に振る。黙したまま立ち上がりファゴットを見据えるウィルの背を見ながら、アノンは静かに頷く。

「ぎぃっ……ぎぃっ!ギィアアアアアア!」

 ファゴットの巨体が一際膨らむと、背から生える蜘蛛の手が倍以上に増え、その一本一本の太さも輪が掛けられていく。

「教義だが信仰だが知ったこっちゃねぇがな」

 ウィルが身構え、ファゴットの蜘蛛の手が一斉にウィルへと迫り来る。

「俺の部下に怪我させてんじゃねぇぞゴラァ!」

 檄を吐き、ウィルがファゴットへと突進を掛ける。左から右、真上から真下、あらゆる方向から繰り出されるファゴットの一撃をウィルは両腕両脚全てを使って弾き返す。闇雲に放つファゴットとは一線を画し、ウィルの動きはあくまで合理的で、単純だった。ファゴットの一撃を寸でで躱してはその節を掴み、握り折る。その作業の繰り返しだけで、ファゴットの蜘蛛の手は次々と千切られ、その数を減らしていく。減った数だけ背から蜘蛛の手を生やし続けるファゴットだったが、次第にその巨体は萎み、見る影もなくなりつつあった。巨大に露出していた霊石も縮小し、陰りを見せては唯の石へと変貌していく。ファゴットに内包されていた命が尽きる。アノンはその波長を追い続けながらも、どこか寂しげな気持ちに囚われ始めていた。

「終わりだ」

 ウィルの手突がファゴットの心臓部へと達し、最後の核が握り潰されていた。何度でも起き上がり、その都度核を置換され続けたファゴットの末路は、その萎んだ巨体がヒビ割れ崩壊し、老衰しきったような骨と皮だけを残す身体一つだけだった。

 アノンはよろめきながらも立ち上がるとウィルへと駆け寄り、その末路を共に見る。他人事ではないその成れの果てに、アノンは唇を噛む。鬼のような形相だったウィルから怒気が抜け、大きくウィルは息を吐く。

「さすがにもう再生はしねぇよな……」

 疲れた様子のウィルに、アノンは手を添えて頷く。

「……はい。核の反応も、注ぎ込まれる波長も感じられません。おそらくですが――」

 アノンが言葉を切り、ウィルは目を見開く。ファゴットが徐に地へと手を付き、態勢を直し掛けていたのだった。

「……そうか、負けたのか、私は……」

 穏やかなファゴットの口調に、ウィルとアノンは距離を置けないでいた。

「致命的だな、その隙は。私に力が残されていれば一刺し出来たものを……」

 再び仰向けになり、ファゴットは荒く息をする。ウィルとアノンの視線に気付いたファゴットは柔和な笑みを浮かべていた。

「……なぜ、ここまでしたのか、とでも聞きたいようだな」

「教義って奴なんだろ?何に信奉していたのか俺には理解出来ないが」

 ウィルの言葉に、視線を送るファゴット。

「教義とは祈りであり……すがりの様なものだ。道標であると同時に、時に人を迷いの道へと誘う」

「……祈り、ですか」

「そう、祈りだ。こうあって欲しいという願いでもある。私は存外俗物でね……職業として教義を説いていた。飯を食う種……娘を……アンナを神から授かるまではそう考えていた。愚鈍……だろ。笑うがいいさ」

 ファゴットの自嘲に、ウィルは首を振る。

「俺だって似たようなもんだ。生きるために戦っている」

「……そうだろうな。皆生きるために必死なのさ……だがな、アンナは違ったんだ。あれこそ神の化身だよ……」

「……他者の命を使ってもですか」

 アノンの言葉に、ファゴットは目を伏せる。

「そうだ。アンナは……与え続ける人生だったよ。親として、子を頼りにのし上がる人生ほど惨めなものはない……御業など……捨ててしまえばいいと……思った日もあった」

 ファゴットの呟くような自責は次第にか細くなっていく。

「アンナはね……私に言ったんだ……誰かの命を代わりに使って御業を行うことが出来るのは……とうに知っている……でも出来ないと……あれの半生は……聖女などと一言で覆せないほどの……過酷なものだった……最期の……最期まで……」

「……気付いていたんですか、マリアさんが、その……アンナさんじゃないって事に」

 アノンの問いに、ファゴットは応じない。

「私の手を……握っていたんだ……か細い手でね……小さい頃から病気がちで……どこにも連れていって……やれなかった……これは……アンナへの贖罪……残りの半生は……あの子の……好きなように……」

「……それでも……止めるのが親心ってものじゃないんですか」

「……キミも、子を持てば判る……子を持ち……失い……再び現れてくれた時に……同じ選択が出来るかどうか……誰にも……誰にも判ることじゃ……ないさ…………あぁ……アンナ……今度は先に逝って……待っている……よ…………出来るだけ……永く……永く生きて……おく……れ……」

 ファゴットは何かを探すように両手を宙に彷徨わせ、静かに事切れていた。その亡骸は坑道内を漂う微風に攫われ塵へと消えていく。

 ウィルは進むべき進路を見定め、アノンは顔を俯かせる。

「……私は、誰かを巻き込んでまでなんて……出来ません」

 吐き出すようなアノンの言葉に、ウィルは振り向かぬまま応える。

「同感だ」

 ウィルもアノンも、子を育んだことはない。ファゴットの思想を、経験を卑下することは出来ないのかもしれない。だが二人はこう思うのだ。誰かが不幸になることによってのみ得られる幸せは、辛く重いものである事だと。

 ファゴットの最期を看取り、二人が坑道最奥部分に辿り着くまでそう長くは掛からなかった。道中に新たな敵勢もなく、ファゴットの言葉ばかりが二人の脳裏を巡る。

「教団を糧にし、我が軍に内通者まで作った奴さんの狙いはなんなんだろうな……」

 ウィルの言葉に、アノンはステイル中佐の発言を思い出していた。

「……土地が不足しているとか仰られていましたよね」

「あぁ、戦争の理由としては至ってシンプルだが、そうだとすると手が込み過ぎてる気もしてな」

「……と、言いますと?」

「奴さん、自由自在か限定的かは置いといて、空間を超越して移動する技術を持ってるだろ?俺ならもっと小国を狙うし、どの国からも攻められにくい空き家みてぇな土地だって探せばあったはずだ。にも拘わらずあの手この手を使ってここらへんの土地を狙う理由に得心がいかん」

「……土地というより、狙いは霊石……この霊山自体ですかね」

「それも含んでいそうではあるが……本命はどこか別の場所にあるような気がしてな」

「……成程、確かに不明瞭な点が……ウィル少佐」

 言ってアノンはウィルを制止する。

「この先、二百の距離に憶えのある波長が二つあります」

「レイバーと、マリアか?」

「……はい。それと判然としませんが、その、亀裂のような何かが……」

「亀裂のような何かって、なんだ」

「……すみません、亀裂というより……なんでしょう、穴のような」

「もっと大掛かりなものってことか」

「おそらく。ダメ元で援軍を呼んでみましょうか」

「……そうだな、ヴェレンスから連絡が一つもねぇのが気掛かりではある。本陣と両方掛けてみるか」

 ウィルが通信機に手を当て、通信を試みるが本陣からの応答はなかった。怪訝な表情を浮かべながらもヴェレンスへと個人通信を試みるが、これもまた応答はない。

「妨害でしょうか」

「たぶんな。俺らが坑道に入ってすぐ本陣が強襲されて全滅したって可能性はあるが、あのヴェレンスが倒されるってのは考え辛い。というかありえない」

「……このままやるしかない、って事ですね」

 二人は気を奮い立たせ一歩を踏み出すと、一路最奥部へと向かう。その距離が縮むに連れ、アノンの首筋には冷や汗が流れ始めていた。坑道特有の湿気や、連戦での疲れからではない。坑道の最奥部から流れ出る異質な空気に、アノンは反応を示していた。ウィルも眉間に皺を寄せ、緊張が高まり出す。

「ファゴットは死んだようね」

 唐突に、聞き慣れた声が二人の耳に届く。背中合わせに隊形を組み、ウィルは前方を、アノンは後方へ視線を移すが、その姿を認めることが出来ない。

「上よ、上」

 その声に反応し、咄嗟に前後へ飛んで態勢を整える二人だったが、声の主の光景に目を奪われ、二人は硬直する。見た目こそマリアそのものなのだが、首から頭だけが薄暗い坑道の天井から生えていた。まるで逆さに吊られた人形のように、マリアは静かに笑う。

「この辺りは全部私の領域よ。先手を取って奇襲なんて考えない事ね。待ち人来たれり、そのまま奥まで進んで頂戴」

「……そう言われると逆に戻りたくなっちゃうんですけど」

 アノンの軽口に、マリアは目を細める。

「どちらでも構わなくてよ。順序が入れ替わるだけ。結果は変わらない」

 そう言い終わると首から上だけのマリアは砂のように崩れて跡形もなく消えていた。ウィルとアノンは顔を見合わせ、息を吐く。

「虚言か事実かは別として、接近がバレちまってんなら仕様もないな」

「……ですね」

「進むことに異論はねぇが……なんていうか、悪趣味だよな」

「同感です」

 苦笑を浮かべ、ウィルの傍らに立つアノンの目線には決意の色が宿っていた。

「行くぞ、アノン」

 静かに頷き、アノンはウィルの後を追い走り出す。薄暗かった坑道は最奥部から漏れ出る光量に照らし出され、徐々にその姿を露わにしていく。今まで目にしてきた鉱石とは違う青み掛かった壁の一様に、アノンは息を飲んでいた。

「……これ、全部霊石です」

「あぁ……」

 先程の口振りから察するに、マリアの能力は視認出来る距離だけではなく、霊石を介しても発現出来る可能性が濃厚になってきた。霊石自体が触れ合うことによる、疑似的な遠隔再生なのかまでは定かではないが、天井から首だけ生えているのは心情にあまりよろしくない。二人が意を決し辿り着いた最奥部は、これまで通ってきたどの採掘現場よりも広く、また大量の霊石が織り成す淡い光に彩られ、幻想的な空間に仕上がっていた。

 霊石が何かに反応し続けているのだろう、光の粒があちこちに滞留し、一面が星の海と化している。その先に、見覚えのある人物が二人。そしてアノンが穴のようなと表現した巨大な亀裂が二人を出迎える。

「やー、ようやく来ましたね。ちょっと遅すぎませんか、ウィル少佐、アノン中尉」

 およそこの場に相応しくないふざけた口調。肩口までの銀髪を指で弄ぶその容姿は端正で、どこか中性的な装いを連想させる。中央管理軍での階級は士長、名はレイバー。

「計算より若干まだ余裕がありそうだけど、まぁ許容範囲ね」

 レイバーに続き言葉を発するのは、短めの金髪を丁寧に整えた少女。鈴が鳴るように静かに笑う異界の聖女。名はマリア。

「丁度、二対二ですし、物語の終盤っぽく戦ってみますか?僕の物語なので、僕が勝ちますけど」

「入れ物は待機よ。わきまえて」

「……えー、またですか」

 不満げなレイバーを他所に、マリアがウィルとアノンへ立ち塞がる。

「この転移道ゲート、美しいとは思わない?幾千もの民が、御方のために柱となった、まさに血中の道。過去の遺恨を晴らし、後世を紡ぐ希望の道よ」

「そこから本隊のお出ましでも待ってたってとこか、悪いが閉じさせてもらうぜ?」

「……本隊ね。あながち間違いではないけれど」

「マリアさん」

「……なに?」

 アノンの問いかけに、マリアが眉を潜める。

「ファゴットさんは貴方と、娘のアンナさんを想ったまま逝きました」

「それがなにか?」

「……異界の、貴方の半身とは言え、父親だった方です。なにも……なにも感じないんですか」

 マリアは笑みを浮かべる。

「それ、貴方達が私に言う台詞?殺したのは貴方達よ。正義のために仕方なくやったつもりでしょうけど、貴方達の正義は万能なのかしら」

「――っ」

「図星、でしょ。ファゴットに掛ける言葉があるとすれば、役には立った、お疲れ様ってところかしらね。私を自分の娘と信じていけたのなら、本望じゃなくて?」

「……そんな言い方」

「感傷に浸るのも、同情するのも貴方の自由。でも忘れないで。誰が手を下したのか」

 マリアの言葉に、アノンは拳を握り込む。その葛藤に理解を示すウィルはアノンは庇うように一歩前へと歩み出る。

「ウィル少佐、貴方はどうなの?自分の正義を相手に押し売りするどこにでもよくいる輩なのかしら」

「……どうだろうな、誰が正義で、何が正しいのかって考えだすとよ、じゃあ自分って何だって哲学に陥っちまう。俺は単純でいい。話し合えなきゃそれまでだ。干渉してこないならそれでもいい。だが見知った間柄の生活や土地にちょっかい掛けようってんなら、殴って止めるまでだ。それによ」

 ウィルはレイバーに拳を突き出し、力を込める。

「上官として、借りがあるものとして、一発ぶん殴っておきてぇ奴がそこに居る」

 その言葉に、レイバーは口笛を鳴らして目を見開く。

「まだ上官気取りですか。頭の中お砂糖で出来てるんですかねぇ……」

「貴方が何者か、哲学に陥る必要はないわ。私は知っている。答えを教えてあげる。でもその前にね」

 マリアが指を弾くと、マリアとウィルとの間に亀裂が生じていた。

「もう少し弱ってから、お話の続きをしましょ」

 亀裂の淵を掴み、這い出る一人の男に目線を送るマリア。

「見知ってるでしょ?レイバーが弄って、私が仕上げた最高傑作」

 本陣との戦いで相見えた姿から更に変貌し、赤く隆起していた肌は爬虫類の鱗上に突起が成され、その背には幾重もの棘が生え揃っていた。

「よぉ糞野郎、モンドの兄貴に会いに行く準備は出来てるか」

「……ビシャス」

 狂暴な牙に、鋭利な爪、二足より四足を好むその身のこなしは人の領域を踏み外す獣。

「霊石の配合率は全身の九割弱、よくここまで耐えられたわね、貴方」

「姉さんのおかげっすよ。負ける気がしねぇっすわ」

「……肉体的な損傷は置換出来るけど、精神は持って生まれた馬鹿さ加減で補ったってところかしらね」

「――あ?なんか言いました姉さん」

 ビシャスの怪訝な表情に、目を細めて応じるマリア。

「いいえ、手筈通りそこの二人を肉塊にしてもらえる?盾は私がやるわ、貴方は矛」

「合点でさぁ!」

「分かっていると思うけど、右腕は損傷させないで」

「……あいあい、了解っす」

 ウィルとアノンに距離を詰めながら、ビシャスは醜悪な笑みを浮かべる。

「姉さんの能力、知ってんだろ?どうだ、気分は、ん?」

「……対処は検証済みです」

 アノンが言うなり補助輪を宙へ展開させると、照準をマリアへと向ける。ウィルはそれを補うようにビシャスへと向き合い、構えを取る。

「そうね、それが最適解。でも不十分よ」

「……え?」

 呆気に取られるアノンを尻目に、マリアの身体は崩壊を始めていた。

「私の領域って言ったはずよ。攻撃を受けなければ問題にはならない」

 塵と化し虚空へと消えるマリアに呆然とするアノンに、ウィルが声を掛ける。

「落ち着けアノン、俺がビシャスを傷付け、それが再生される度に波長をよく見ておくんだ。その波長の先に、マリアは居る」

「……っ!はい!」

「そう上手くいくかしらね……楽しみよ」

 どこから聞こえているのか判然としないマリアの声が発端となり、ビシャスが更に二人へと距離を詰め始める。

「さぁて……ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、なぁ!」

 言い終えると同時にビシャスがウィルへと飛び掛かる。咄嗟に右腕でビシャスの放った爪を弾こうと試みるが、ビシャスは舌打ちをして身を翻し、壁を蹴ってアノンへと迫る。

「脆いてめぇからだ!糞女!」

 左から右へ、薙ぎ払うように繰り出されたビシャスの一撃をしゃがみ込んで避けるアノン。そのまま宙へ待機させていた補助輪を掌握し、ビシャスへと数本の穿ちを放つ。ビシャスの速度に照準が多少甘くなってはいたが、補助輪の一つがビシャスを捉え、下顎から胸元に掛けて打ち下ろすように穿ちが命中する。

「っ!いってぇな糞アマが!」

 振り被り、アノンの後方から放たれたビシャスの一撃を辛うじて前方に飛んでやり過ごしたアノンと入れ替わるようにウィルが追撃を掛ける。即座に放った手突でビシャスの左目を抉り、次いで脇腹へと蹴りを食らわせる。

「ぐっぇ!いでぇ!いでぇって!」

 悶絶するビシャスの首を両腕で掴み、その身体ごと持ち上げたウィルは静観するレイバーの方向へビシャスを投げ放つ。

「……え?ちょっと止めて下さいよ!」

「いでぇいでぇいでぇえええ!」

 刹那、ビシャスの抉られた左目の部分が俄かに赤く発光する。

「あ、これヤバ――」

 レイバーの言葉は尻を切り、抉った時に仕込んでおいたウィル特性の爆薬がビシャスの頭部もろとも弾け飛んでいた。僅かに地鳴りが響く坑道内に、頭部の全部を損壊したビシャスの吐瀉音と、顔面の半分を焼け爛らせたレイバーの声が共鳴する。

「ぐぅうううマジ最悪!すげー痛い!」

「いくらでも再生出来るんだろ?さっさとしろよ、なぁマリア」

「ちょっと無視しないで下さいよ!」

 レイバーの激昂に、目が座っているウィル。ビシャスのピクリとも動かない様相に、通常ならば勝負が決する状態だったのだが、予想通り水風船が弾けるような音と共にビシャスの頭部は再生を始め、レイバーの火傷は音を立てて消えていった。

「この隙を見逃すと思うなよ!」

 言ってウィルはレイバーへ走り出す。アノンも補助輪の照準をレイバーへと向けながらも、マリアの位置を索敵することに注視していた。

「頭部をひたすら破壊し続ければ、再生しようが関係ねぇ!動き止まんだろ!」

「アハー、考えましたねウィル少佐!でもそれじゃダメ!」

 レイバーは言うと同時に障壁を展開し、ウィルの接近を阻む。回り込もうとするウィルの動きに合わせ、次々と障壁を展開するレイバーにウィルは苛立ちを隠せない。

「てめぇこら!卑怯だろうが!」

「卑怯じゃないですー、立派な戦法ですー、馬鹿みたいに走り回るだけの人に言われたくないですー」

 レイバーの挑発に怒髪天のウィルは、回り込むのを止めて障壁の破壊を試みる。アノンも障壁の相殺に取り掛かろうとするが、その間にもビシャスの再生は完了し、再び起き上がっていた。

「くそ……あの爆薬厄介だな」

「もっとしっかりやって下さいよビシャスさん、頼みますよ」

「……あ?てめぇ今何て言った?」

「怖っ」

 再びビシャスから距離を取り、相対するウィル。その背に近づき、ウィルへと声を掛けるアノン。

「次は、もっと早く相殺します」

「……あぁ、頼む」

 構え、ビシャスの動きに視線を送るウィルとアノンに、予想外の位置からマリアの声が聞こえていた。

「ダメよ。波長を追うのに集中しなきゃ。だから背後を取られるのよ」

 ずぶりと、濡れた音がアノンの耳に届く。首から肩口に広がる熱に意識が移ろう狭間、振り向き焦燥を募らせるウィルの表情だけが視界に収まっていた。

「――アノン!くそ!」

 二人の背後に現れたマリアに一撃を見舞おうとウィルは振り向いていたが、僅か一足届かなかった。再び塵と化して虚空へと消えるマリアに奥歯を噛み締めながら、首元を抑え膝を付くアノンを抱き寄せるウィル。マリアが用いた短刀で抉られた傷から出血し、口からも血溜まりを吐き出すアノンの息はか細い。

「後衛ばかりというのも考えものね。取り損ねたかしら」

 マリアの声に、ウィルの背には熱が籠る。

「……ウィル……少佐……前を見て……」

 アノンの訴えに、ウィルは庇うように構えを取る。

「止血剤を使え!時を稼ぐ!耐えろアノン!」

「……はい」

「使わせる訳ねぇだろうが!」

 ビシャスがここぞとばかりに飛び上がり、二人へと迫る。

「ビシャスを防ごうと、私の位置を特定できなきゃダメ」

 マリアの不意打ちに気を掛けながら、ビシャスの猛追を跳ね除け、レイバーを倒し穴を塞ぐ。目が眩むような現実の波に二人は飲み込まれていく。

「おいおい集中しろよ、脇がお留守だぜ、ウィルさんよぉ!」

 ビシャスの噛みつきを左手で制し、繰り出される爪を掻い潜ったウィルだったが、僅かに生じた隙をビシャスは見逃さなかった。獣特有の地を滑るような身体の回転に勢いを付けたビシャスの回し蹴りが直撃し、ウィルの呼吸が止まる。

「休んでる場合かよ糞雑魚が!」

 暇を置かず放たれる爪や牙の往来にウィルはその場に立ち尽くしたままアノンを庇い続けていた。今この場を離れる訳にはいかない。いつまたマリアがアノンを不意打ちするか分かったものではない。行動の選択を狭められたウィルはビシャスに押され始め、身体のあちこちから血が滲み出していた。

「耐えるね耐えるね!頑張れよなぁ!楽しくなってきたぜぇ!」

 無造作に放たれたビシャスの一撃を見切り、ウィルは左拳で顎を打ち上げる。

「――っ!そんなもんじゃ!」

 態勢を立て直し、ビシャスの猛攻は続く。

「効かねぇよ!」

 放った右拳を弾かれ、がら空きとなったウィルの左肩へビシャスの爪が深々と刺さる。

「痛いか?痛いよなぁ?」

 醜悪な笑みで喜ぶビシャスを見やり、レイバーは溜息を吐いていた。

「決まりですかね、こりゃ」

「……何も決まってねぇさ」

 突き刺されたままのウィルは爪が食い込むことを承知でビシャスを引き寄せると、肩口から血を噴出しながらもほぼ身体が密着した状態に持っていく。

「覚悟せぇや」

 零距離から放たれるウィルの連打に次ぐ連打。呻き、悲鳴を上げていたビシャスは次第に身体中を痙攣させ、泡を吹き始めていた。

「……うっわ、極悪」

 レイバーの嘲笑に、マリアが応える。

「でも隙だらけ」

 再びアノンの背後へと姿を現したマリアの手には短刀が握られていた。

「……待ってましたよ、マリアさん」

「――っ」

 アノンの言葉に補助輪が呼応し、特に狙いを定めてはいなかったが、アノンの四方を取り囲むように穿ちが放たれる。

「何も言わず刺せばいいものを、余裕見せすぎです……射撃武器を用意しておくべきでしたね。どこでも良かったんです。近付いてさえくれれば」

「……っの、小娘が」

 左腕と右胸、両のつま先を穿たれたマリアは苦悶の表情を浮かべる。

「波長もほぼ掴めました。次は、出現と同時に穿ちます」

 青ざめた表情に息は弱弱しいままだったが、ビシャスの首から上を殴り潰し、近場へと投げ飛ばしながら視線を送るウィルに力強く頷くアノン。

「タダでは転びませんね、お二人とも」

 レイバーの感嘆の声に、三度塵と化し周囲と同化するマリアは毒を吐く。

「対処出来るからってなに?消耗戦になればこちらが有利、貴方達は傷だらけ。待っているだけでも死にそうな状況でどんな希望を見出してるのかしら」

「数も三対二で優勢ですしねー、って僕待機がメインですけど」

 嘲笑うかのようなレイバーとマリアに、ウィルとアノンは黙したままだった。唯一人だけ、その状況に刃を立てる者が居た。

「高所から石を投げて優越に浸る低能ぶり。実に滑稽だな」

「……え?」

 レイバーの間の抜けた声に、ウィルは大きく息を吸う。

「……ずいぶん遅かったじゃねぇか、大将さんよ」

 流麗な黒髪に、切れ長の目、不遜な態度が目立つその女の肩には、一振りの槍斧が担がれていた。

「言ってくれるじゃないか、愚息。私の到着を待っていたようにも見受けるが?」

「多少はな」

 砕けたウィルの表情に、不敵な笑みを浮かべるヴェレンス。そのあまりの無傷ぶりに、レイバーが眉を潜め声を荒げる。

「だーかーらー!ありえねぇって!あんたに一体どれだけ戦力割り振ったと思ってる訳?二百だぞ!改良した人造兵器十体に、牙兵が百以上、混ざりものの予備兵も投入して……ってここまで来れるはずねぇだろうが!」

「あぁ、道中に居た連中なら全て片付けてきたぞ。こう見えて几帳面でな」

「……いや、ほんとどうかしてるって……」

 レイバーの狼狽ぶりを他所に、ヴェレンスがアノンへと歩み寄る。

「状態は?」

「……二分から三分、といったところです」

「これを使え、多少は傷が収まる」

「……は、はい」

 ヴェレンスから手渡された青く発光する薬液を飲み干すアノン。肌には生気が戻り、息も整えつつあったが、傷口を塞ぐまでには至っていない。

「あくまで一時しのぎだ。無理はするな」

「……分かりました。ありがとうございます」

「愚息の不手際だ。気にするな」

「……おい」

「余談は後でいい。さっさと片付けて帰るぞ」

「へいへい」

 ヴェレンスとウィル、二人のやり取りを見ながらレイバーは頭が沸騰しかけていた。

「なに調子こいちゃってんの?大将さんが来たからもう大丈夫とか思ってない?なに一つ自体は好転してねぇだろうが!」

「……あー、いてぇ……マジ殺す……ってかあんた誰?」

「お前もいい加減にしろよ!真面目にやれよ人造神が!」

「……おい、だからなんだよその口の利き方はよぉ」

 三度ビシャスは立ち上がり、マリアは塵と化して周囲へと潜む。自体の悪化に最も敏感に反応したのはマリアだった。次いでレイバーであるが、ビシャスは飲み込めていない。

「なんだ、人増えてんじゃねぇか……ったくめんどくせぇなぁ」

 無造作に近付くビシャスを見やり、ヴェレンスは目を細める。

「レイバー士長、貴様いま、人造神と言ったか?」

「元士長ね、答える義理はないっすね」

「貴様の退官届は提出も受理もされていない」

「……あぁ、そうですか、どうでもいいです」

「人造の神か。厄介なものを……」

 ヴェレンスの言葉に眉を潜めるウィルだったが、尚も距離を近付けるビシャスに構えを取る。

「霊石の配合率を高める術か……あのマリアとかいう女がいれば可能かもしれんな」

「さっきからなに独り言いってんだ!増えた糞アマが!」

 振り被り、ヴェレンスへと両腕を放つビシャス。その鋭利な爪がヴェレンスへと届く刹那、ビシャスは確かにこの言葉を聞き届けていた。

「確かめてみるか」

「……あ?」

 音もなく、圧もなく、振り下ろしたはずの両腕がなくなっていることにビシャスは数舜気付けずにいた。斬り飛ばされた切り口から血が噴き出し、脳内から全身へ痛みの指令が発し自身が絶叫するまで、なに一つ理解出来ないままだった。

「アァアアアアアアアア!?ア――」

 手を差しだすように、ヴェレンスはウィーケストの突きを放つ。瞬時に首から上が宙を舞うビシャスの表情は呆気に取られたまま、更に数振り放たれたウィーケストの斬撃に全身から宙を舞う頭部まで細切れと化していた。

「脆いな」

 ビシャスだった肉塊を見下ろし、ヴェレンスはレイバーへと歩み寄る。

「愚息、そいつが再生し始めたら叩き壊せ。アノンは周囲を警戒、マリアに動きがあったら迎撃しろ」

 その指示に、ウィルとアノンは即座に応じて行動に移る。気が気でないのはレイバーの方だった。如何にマリアが生存している限り再生が望めると言っても、切り刻まれるのは容認し難い。

「た、大将……あ、いえ、ヴェレンス閣下……ちょっと待――」

 レイバーが言い終える前に、その右腕は宙を舞っていた。

「あっ……あぁああああいってぇえええええ」

「障壁は展開しないのか?」

 淡々としたヴェレンスの口調に、レイバーは額に大粒の汗を滲ませながら応える。

「……意味なさげなのは前回で懲りてますんで」

「ほう」

 水風船が破裂するような音と共に、レイバーの右腕が肩口から生え始める。その再生しかけた部分を再度切り落としながら、ヴェレンスは亀裂の穴へと視線を移す。耳元ではレイバーの絶叫が聞こえていたが、ヴェレンスには特に気にはならなかった。

「異界との狭間だな……早急に潰すか」

 ヴェレンスが通信機に手を当て通信を試みるがウィルの前例同様、通信は不通だった。

「……妨害してるに決まってるじゃないですか」

「面倒を掛けてくれるな、レイバー士長」

「……元ですって、強情ですね」

 未だ余裕のありそうなレイバーにヴェレンスは冷たい視線を送る。これで何度めか憶えてもいない斬撃をレイバーへと繰り出そうとした、その瞬間だった。

「それくらいにしてもらえる?大切な入れ物なの。壊さないで」

 マリアが突如ヴェレンスとレイバーの間に割り込み出現する。穿ちを何時でも放てるよう待機していたアノンもヴェレンスへの誤射を恐れ一瞬行動が遅れ、即座に身体が動いていたのはヴェレンス一人だけだった。

「内包している命の数は想定出来んが、文字通り死ぬまで殺すぞ」

 言を発すると同時に放たれたヴェレンスの突きが、マリアを貫こうとした刹那、マリアの胸元の変貌を察知したヴェレンスは寸ででその突きを中断する。

「あら、貫いても良かったのに。優しいのね」

「貴様……」

 マリアが徐に開けさせた胸元には、見知った人物の頭部だけが再生されていた。先の一戦でヴェレンスの捕縛に成功し、驚嘆させた中央管理軍中佐職の男。

「……あ……あぁ?ヴェレンス閣下ではございませんか……ここは一体……いや、身体の感覚が……」

 状況を察し、ステイルの絶叫が辺りに響き渡る。聖女とは程遠い悪魔のような笑みでヴェレンスを見るマリアの顔は歪みきっていた。

「身体の一部でもあれば再生出来るの。凄いでしょ?感動的じゃない?ご要望があればアーノルドの身体も生えさせて見せましょうか?死んでないと複製出来ないのが難点な所なんだけど……」

「言いたい事はそれだけか」

 怒気を孕むヴェレンスの圧に、マリアは屈しない。

「まだあるわよ。これは洗脳する前のステイルさん。ずばり本人よ。裏切ってもいなければ、我が軍の先兵でもない。貴方の可愛い可愛い部下だったステイルよ。斬れるのかしら、その武器で。その刃で。聞こえない?助けを請う部下の声が」

「ひぃいいいいあっ……閣下!閣下!お助け下さい!お助けを――」

「……あぁ、判っている。判っているとも、ステイル」

 ヴェレンスは奥歯を噛み締め、恐ろしい速度でウィーケストを振り被り真一文字にマリアとステイルを叩っ斬る。

「即断即決、お見事ね……ヴェレンス大将」

 左右の目が反転し、両側へと身体が分かれる最中、マリアはそれでも笑みを絶やさなかった。

「でも私達の……御方の勝利よ。時は満ちたわ」

 ステイルごと塵となり虚空へと消えゆくマリアに、ヴェレンスは言い知れぬ違和感を抱いていた。気付けば足元に転がっているはずのレイバーが居なくなっている。

「こっちですよ、ヴェレンス大将」

 亀裂の穴に、まるで磔にされたように宙へ浮くレイバー。ビシャスを叩き続けるウィルも、不測の事態に待機するアノンも、全員がレイバーへと視線を送る。

「あー、注目されるって気持ちいいですね。時間は掛かりましたけど、僕の勝ちです」

「どうかな」

 言ってヴェレンスはウィーケストを逆手に構え、石突の部位でレイバーの額を撃ち抜く。頭部ごと粉砕されても不思議ではない一撃だったが、実際は何も起こらなかった。

「アハハッ、そうですかー、やっぱこうなりますかー、呼び出す人の力が強過ぎてこっちに引き込むのにめっちゃ時間掛かりましたけど、これは楽勝ですね」

 その光景に、思わずウィルもビシャスを殴る手が止まる。あのヴェレンスの打突を食らって無傷な生物などこの世界に存在しない。ありえない現実がそこにあった。

「僕って世界から望まれずに生まれてきたじゃないですか。だから僕って要らない存在なんだなーって卑下した時期もありましたけど、それなら世界を作り直せばいいじゃんって気付いちゃったんですよ。必要とされてないのに、必要としてもらうなんてしんどいだけじゃないですか。根底から変えちゃえばいいだけなんですよ」

「だからありもしない世界地図を同胞の亡骸で描いたのか」

 ヴェレンスの言葉に目を細めるレイバー。

「あ、見てくれました?なんていうのかなー、理想的というか思い付きというか、壊した後はああいう感じにしようと思いまして。てかしてくれたらなーのが正確な表現ですけど……サクリの身体が足りなくて書き損じちゃいました」

「同胞を屠るばかりか、肢体を嬲る愚か者が!」

「嬲ったのはそっちが先でしょ。あんたが作った人造兵器工場の現実、知っていますか?知らないって事はないですよね」

「事態を把握した後、厳正に対処した」

「……どう対処を?殺してくれました?無期懲役だの左遷だの、対処が甘いったらねぇよ!そんな程度で玩具にされていた僕の気持ちが晴れる訳ねぇだろうが!」

「実行犯には死ぬより辛い処置を施した。管理者にはその責を負い今でも拘留がなされている」

「あぁ、そうですか、なんか聞き飽きたっていうか、心にこないんですよね、そういうの。目の前で死んでくれないと分からないじゃないですか」

 言葉を続けるレイバーの全身が色濃く煌めき出し、レイバーを包むように光が収束していく。その印象的だった眼の色は青から赤へと変貌し、銀色だった髪も赤く染め上がり始める。

「だから世界を滅ぼすのか」

「滅ぼすんじゃなくて、作り変えるんですよ」

「……残された神に身を投じてか」

 ヴェレンスの投げかけた問いに、レイバーは俯いて顔を伏せる。

「全てが全て、上手くいくもんじゃない。僕には僕の限界がある。望んだって叶う訳じゃない。でも努力は止めたくない。それが誰にも理解されずとも、器になれると知った日から、僕はそうなると決めたんだ!神と成って、一から世界を作り変えるってさぁ!」

 レイバーの身体には光が収束し続け、次第にその肢体はウィルをも上回る体躯へと成長を遂げる。その光景はビシャスやファゴットの隆起とは違う。まるで光の鎧が次々とレイバーへと装着されていく様は神秘的で、神々しささえ感じ取れた。

 ウィルの右腕の痙攣が強さを増していく中、意識が混濁し始めたレイバーは咆哮を上げ始める。その様子を見やりヴェレンスは後方へ一歩下がる。ヴェレンスが後方に下がるところなぞ初めて見るウィルは驚愕していた。

「……ウィル、アノン、お前達は更に後方へ下がれ。そこのビシャスとか言ったか。肉達磨は放っておいて構わん」

 ヴェレンスの指示に二人は応じ、数歩後方へと下がる。

「もっとだ!いっそこの場から――」

 逃げろ。ヴェレンスが言い終える前に、レイバーの変容は終わっていた。光の坩堝は鳴りを潜め、完全にレイバーへと収束している。その姿に、その風貌に、後方で控えるアノンは絶句していた。

「……嘘……あれ、ウィル少佐じゃ……」

 ウィルの右腕の痙攣は酷くなる一方で、額には珍しく汗が滲み出す。地へと降り立ち、首を鳴らすその仕草はウィルそっくりだが、体躯は一回り以上大きい。ウィルの髪は黒色に若干の赤色が混ざる程度だが、変貌したレイバーの姿は混ざり毛のない赤一色。あれほど不遜な態度が際立つヴェレンスですら拳を握り締め、それと対峙するばかりだった。

「よう、久しぶりじゃねぇか、イーレ。相変わらず辛気臭い面してやがんな」

「……何年ぶりだったか忘れてしまったよ、ストラグル」

「八百年と少しってとこだな」

 二人の会話に付いていけず、狼狽えるウィルとアノンに目配せし、ストラグルは不敵な笑みを浮かべる。

「さすが病的で最弱の神だな、お前。あんな模造品を作って気でも紛らせていたのか」

「……模造とは言ってくれるな。二人には名もあれば人生だってある」

「そう作ったんだろ、酷な真似しやがって」

 徐にウィルとアノンへ歩み寄るストラグルにヴェレンスが反応を示す。

「何をする気だ」

「……何をって、初対面ですることと言やぁ挨拶だろうが」

 歩みを止めぬままストラグルは両手を広げ睨みを効かせる。

「殴り合う相手には名乗るのが俺の流儀でね、ストラグル=ウィル=ヴィンハレムだ。仲良く手を取り合う間柄にはなれねぇだろうが、まぁ宜しく頼むわ」

 無造作に話し掛けられ、ウィルはともかくアノンの動揺ぶりは尋常ではなかった。その言い回しに声質、見振り手振り、そして歩き方。何から何までウィルに瓜二つのストラグルに警戒心を抱くどころか、強烈な既視感に囚われ上手く対応が出来ない状態だった。

「まぁそこそこ強いってところか……上手くやったもんだな、イーレ」

 振り返り、ヴェレンスへと語り掛けるストラグルは至って友好的に見えた。だがヴェレンスはウィーケストを握る手に力を込める。

「……親父殿の施した封印をどうやって解いた」

「あれね、苦労させられたわ。なんせ八百年も掛かったからなー、ありゃヤバいわ」

「どうやって解いたと聞いているんだ!」

 声を荒げるヴェレンスに、ストラグルは笑みを浮かべるばかりだった。

「封印ってのは大雑把でな、こんだけの強さを縛っておくとか、不自由にするとか、如何にあのくそ親父と言えど、無限の条件は作れない。例えば俺の身体の一部だけならこちら側へ送れるとかな」

「……そんな方法、成功するはずが」

「そりゃまぁ神族の俺らからしても身体がバラバラになっちゃあ真価は発揮出来ん。腕一本、足一本こっちへ送ったくらいじゃ、お前程度にすら苦戦するだろうよ」

 そこまで話しを聞き、ヴェレンスは結論を導き出していた。

「マリアだな」

「察しが良いのは相変わらずか。居るんだろマリア、出てこいよ」

 ストラグルの呼び掛けに、マリアは一呼吸を置いてその傍らへと姿を現す。

「ここに」

「苦労を掛けたな」

「……いえ、貢物の思わぬ抵抗に私一人の力では到底……クリープスの民が居ればこその大願、この地に御方をお迎えすることが出来ただけで私めは……」

 恭しく頭を下げるマリアに、ストラグルは首を振って応える。攻撃を受ければ他者への再生が止まるマリアをわざわざ表に呼び出す姿勢に、ストラグルの自信を伺わせる。

「お前達の灯、無駄にはせん。後は任せろ。後方に控えておけ」

「御意に」

 マリアはウィルとアノン、ヴェレンスの三人から距離を取るように離れる。

「……一体何人犠牲を払ったんだ……貴様達は」

 ヴェレンスの怒気に、ストラグルは目を細める。

「一度切り捨て見放した民の命に、今更興味でもあるのかお前は。それになんでも聞くなよ、甘えてんのか」

「神族の身体を人類で補うなど狂気の沙汰だ!」

「……狂気ね。大陸ごと異界に閉じ込めて腐りを封じたくそ親父の偉業も、また狂気という訳だ。これは滑稽極まる」

「移住の猶予は残されていたはずだ」

「まぁね。でも考えてみろよ。先祖代々の土地から離れ、心機一転よそ者扱いで頑張って下さいなんて、多少の脳みそがあったら言えんと思うのは俺だけかね」

 ストラグルの言葉に、ヴェレンスは奥歯を噛み締める。

「親父殿は断腸の思いでっ……腐りが大陸全土を侵食し、世界が滅ぶのを防いだのだ!親父殿は!」

「それが偽善だって言ってんだよ!唯の淘汰だろうが!」

 その怒号に、坑道はおろか、霊山自体が震えた錯覚を憶える。

「腐りとはすなわち世界の限界、星の寿命だ。異常な部分を取り除き延命を図ろうが、今の世界を見てみろ、結果大地は引き裂かれ、星は眠りに付こうとしていた。そこであのくそ親父は次になにをした?その目で見ていたんだろ?」

「……」

「自己を犠牲にその身を星へと捧げ大地を繋ぎ止めた。その覚悟があるならば、なぜ最初の大陸、クリープス系民を見捨てた!俺はそこに納得がいかん!」

「……議論は尽くしたはずだ」

「そうだな、結果俺は同類からタコ殴りにあって大陸ごと封印された訳よ。民主主義も真っ青の多数決だわな」

「それは貴様が暴れ回った結果だろうが!」

 言い争うストラグルとヴェレンスに、二人の遺恨が垣間見える。

「……不毛だな。何も変わっていない。この世界も、お前達も」

 急激に、ストラグルの周囲は色を変える。溢れた怒気が、諦めが、答えの出ない議論の果てが、ストラグルの熱へと転換されていく。

「今度は前のようにいかんぞイーレ。くそ親父どころか神族の生き残りはお前だけだ」

「……止めてみせるさ!」

 地を踏み締め、ヴェレンスが飛び上がる。

「おもしれぇ!足掻いて見ろよ最弱が!」

 右腕を振り絞り、ヴェレンスはウィーケストに渾身の力を込める。刹那の攻防、ウィーケストを軽々と躱したストラグルの左拳がヴェレンスの顔面へと迫る。その左拳を態勢を翻して宙で避け、地に降り様半回転してウィーケストをストラグルへと放つヴェレンス。そのウィーケストをあろうことか上から足で踏み付け、ストラグルは地面へとめり込ませる。反動で態勢が崩れたヴェレンス目掛け、ストラグルはそのまま足を振り上げて蹴りを放つ。直前で軌道を察知し両腕で防ごうとするヴェレンスだったが、骨の軋む鈍い音と共に壁へと叩き付けられ呻きを上げていた。

「ヴェレンス!」

 ウィルが激昂し、ストラグルへ猛然と突進を掛ける。

「おうおう、ガキが勇んでまぁ」

 ウィルの全体重を乗せた渾身の体当たりはストラグルの片手に押し退けられ、がら空きになった腹部に蹴りが見舞われる。身体の中身が全て絞り出されるような激痛にウィルは意識を失いかけながらも後方へと飛び去り、膝だけを付き倒れはしなかった。

「……弱すぎねぇか」

 ストラグルの呆れた顔に、アノンがこれならどうだと言わんばかりに穿ちを放つ。全ての補助輪を作動させた十八方向からの一斉射撃に、ストラグルは微動だにしなかった。

「空間の掌握ねぇ……俺も昔よくやってたわ」

 本来、アノンの掌握と共鳴し甲高い音を奏でるはずの補助輪は音一つ立てず、逆に力を失って地へと次々落ちていった。

「……え、そんな……」

 アノンの落胆に、ストラグルは手を広げて応える。

「そんな落ち込む事はねぇさ。単に掌握の優先度が俺にあったってだけだ。お前もそれなりの霊石使って作られているんだろうが、いいとこ中級階層の奴だろ。それじゃ俺から優先権は奪えねぇよ」

「……優先権って、なんですかそれ」

「お前らが言ってる相殺だ中和だってのは、有り体に言っちまえば入札と一緒だ。より高額な方が落札する。同程度の額だった場合、綱引き状態になるだけで、上位階層にはどうやったって叶いっこねぇのさ」

 アノンの驚愕に、理解が及んでいないと察するストラグル。

「そもそも霊石とは何だと思っていたんだ」

 ストラグルの問いに、ウィルもアノンも答えられずにいた。

「遺骸だよ」

「……遺骸、ですか」

「そうだ。神族のな。お前達を模造品と言ったのは、まぁ、そういうことだ。同族の死骸を漁られて活用されてるとなりゃ良い気分にはならんよ」

「……貴様の手勢にも似た連中が居たな」

 よろめきながらも立ち上がり、ヴェレンスはウィーケストを構えてストラグルと向き合う。

「配下がやった事とは言え、そうだな。言えた義理はない。だがどうだ?くそ親父達が命を賭けて繋ぎ止めたその痕跡を掘り起こし、再び世界を破滅に導いているのが自分達の親玉と知った感想は?霊石を掘り起こし続ければ、何れ世界は滅びへと傾く」

「……コツがあるのさ。恥じる事なぞ一つもない」

「要所の大霊石、霊杯さえ動かさなければって考えか。浅はかだな」

「抑止力はいつの世も必要だ」

 ヴェレンスの言葉に、思わず吹き出すストラグル。

「抑止力だと?誰に対してだ。俺か?唯一この世界に留まった神の生き残りとして驕りが度を過ぎたかイーレ!」

「……守り、見届け続ける事が残された私の役目だよ、ストラグル。驕りでも自棄でもない!」

 口から血が滲もうと、構えを崩さないヴェレンスにストラグルは溜息を吐く。

「何を話しても理解は得られないか」

「……貴様こそいい加減に理解したらどうだ、零か百か、貴様の論はいつも極端だ!」

「そいつが俺の……性分でね!」

 ストラグルが地を踏み、駆け出した瞬間、ストラグルの姿が掻き消えた。

「――なっ」

 ウィルの驚愕に、その動きを目で追えていたのはヴェレンス一人だけだった。刹那の暇さえ存在しない圧縮された時間の中で、ヴェレンスとストラグルは互いに一撃を繰り出す。先手はストラグルの飛び蹴り、避け様にヴェレンスの刺突、それを片手で打ち上げ胴体狙いの蹴りに、ヴェレンスは態勢を低くしてこれを躱しウィーケストをストラグルの大腿部へと薙ぐ。更に距離を詰めたストラグルの接近で狙いを外されたヴェレンスの顎にストラグルの膝蹴りが命中する。歯を食い縛りそれに耐えたヴェレンスは仰け反り様ウィーケストを真一文字に振り下ろすが、ストラグルが左手で受け止め制す。

「くっ――」

「こいつは邪魔だ、消すぞ」

 ストラグルの言葉にウィーケストから手を離して後方へ飛ぶヴェレンス。次の瞬間、ストラグルの左腕は青く発光し、ウィーケストが音もなく崩れ去り藻屑と化していた。素手となったヴェレンスは構えを取ろうとするがストラグルはそれを許さない。瞬時に間合いを詰め、数打の応酬でヴェレンスは左肩と左足に致命的な打撃を受けて再び壁へと殴り飛ばされる。上体を辛うじて起こしたヴェレンスだったが、立ち上がる事が出来ずに激しく咳き込むばかりで、動きを止めていた。

「ま、こんなもんか」

 さして優越感に浸る訳でもなく、当然といった感想を漏らすストラグルにウィルが咆哮を上げて飛び掛かる。

「調子こいてんじゃ――」

「お前も根性あんね」

 ウィルの一撃を避けようともせず、ストラグルはまともに額で受け止める。砕けたのは、ウィルの左拳の方だった。

「がっ……くっそが!」

 たたらを踏み、態勢を崩すウィルの首をストラグルは左手で締め持ち上げる。

「なぁお前さ、俺の右腕になれよ」

「かっ……ぐっ……離……せ……この野郎」

 ウィルは必死に残った右手でストラグルの左腕を掴み抵抗する。全力で掴んでいるにも関わらず、ストラグルの左腕は微動だにしない。淡々とウィルを持ち上げ続けていた。

「能力、使えるんだろ?視てみろよ、十秒やるから」

「――っ!なめ……てんのか……てめぇは!」

「説明が省けるって意味で言ってんだよ、ほら視ろよ、ダダこねてねぇで」

「止めろストラグル!その手を離せ!」

「叫んでねぇでこっち来て止めてみろよイーレ」

「……この、闘争馬鹿が……」

 ヴェレンスは立ち上がろうとするが、深く咳き込み左足が上手く動かせないでいる。誰もが深手を負い、立ち上がれないはずの現状で、ふら付きながらも立ち上がり、ストラグルに狙いを定める少女が居た。

「座ってろよ嬢ちゃん、良い子にしてな」

 ストラグルはアノンに目もくれず、ウィルを締め上げる手に力を込める。

「その人を離して下さい」

「……別に視ろって言ってるだけだろ。心配し過ぎ」

「その人を離して下さい」

「聞こえてんだろ?大人しく座って――」

「その人を」

 アノンの叫びが、

「離して下さい!」

 否応なしに段階を極限まで引き上げる。周囲の霊石が共鳴する程に、アノンの煌めきは臨界点に達し、瞳は既に深紫を宿すに至っていた。

「やめろ……アノン……落ち……着け……」

 ウィルの懇願は逆効果だった。アノンの怒りに呼応し全身が深紫の輝きに包まれ始める。その様子を見やり、ストラグルは怪訝な表情を浮かべていた。

「……おい、その光、まさかお前」

 ストラグルが言い終える前に、マリアが周囲の異変に気付く。

「指輪が……浮いてる」

「俺から優先権を奪える訳が……」

 眼光が鋭くなったストラグルに、アノンは臆さない。

「てめぇ、その身体ん中に誰を宿してる!誰の遺骸を使ったイーレ!」

「……なんでも聞く奴だな……貴様こそ甘えているんじゃないか」

 不敵な笑みを浮かべるヴェレンスに、ストラグルは奥歯を噛み締める。補助輪の全てが宙へと浮かび、射線軸が全てストラグルへと定められる。

「――ちっ」

 ウィルから手を離し、即座にその場を離れるストラグルだったが、極限まで高められたアノンにはその動きが見えていた。

「マリア!離脱しろ!」

 不意の呼び掛けにマリアが反応を僅かに遅らせ、補助輪の全てから穿ちが放たれる。十八条の掌握がストラグルへと迫り、それを脅威的な反射で躱すストラグルだったが、更に連射を放つアノンの攻撃に右足と右手を穿たれ苦悶の表情を浮かべる。

「――くっそが!」

「今の内にウィル少佐はヴェレンス大将を連れてここから離れて下さい!」

 アノンの叫びにウィルは否定を返そうとした瞬間、アノンの表情に圧されて息を飲む。

「お願い……ですから……ね。長くは……持ちません」

 アノンは微笑んでいた。心の底から、屈託のない笑みを。ウィルは意を決しヴェレンスへと駆け寄ると一気に担ぎ上げる。

「貴様!部下を放って逃げる上官がどこに居る!降ろせ愚息が!」

「逃がす訳ねぇだろうが!」

 ストラグルが吠え、アノンがそれを遮る。アノンがマリアにも補助輪を向けた事を察したストラグルはマリアの盾となって庇い立ち、アノンの掌握を全力で相殺し始めていたのだった。本来ならば人体如きであれば容易に風穴を開ける穿ちでさえ、ストラグルには深手を負わすに留まり、貫通には至らない状況だった。更に輪を掛けて優先権を奪おうとするストラグルの気迫に押され始め、アノンの穿ちは精細を欠き痩せ衰えるばかりで、逆にストラグルの背後に陣取ったマリアがその再生力をストラグルへ注ぐという、持久戦の様相を呈し始めていた。

 見る間に衰弱するアノンにウィルは手を伸ばすが、アノンは頑なにその手を拒む。微笑むばかりで動こうとせず、ストラグル目掛けて穿ちを放ち続ける。大切な人ともう会えないのだとしたら、最後に憶えていてくれる顔は、笑顔が良い。アノンは衰え膝を付き始める中でも、それだけは肝に銘じていた。

 この決死の行動は時間にして僅か十秒に満たない時間だったが、その疲弊からアノンの目元にはヒビが生じ始めていた。恐ろしいほどの脱力に身悶えしながら、意識を辛うじて保とうと掌握に注力するアノン。だが幾百、幾千と注がれるストラグルの生命力には抗えず、ついに掌握の限界が訪れる。

「――ここだ!」

 ストラグルが言葉と同時に指を弾く。ただそれだけの動作で、アノンの身体から力が抜けていく。ふと自分の腹部に目線を移すと、真っ赤に染まる戦闘服がそこにはあった。逆に穿たれた、アノンは倒れながらも状況を察していた。

「穿ってねぇよ。指で弾いた飛礫だ。俺ぁ嫌いなんだよ掌握が。身も蓋もねぇ」

 アノンが崩れ落ち、稼いだ距離は僅かばかりで、回り込んだストラグルに退路を断たれて呆然と立ち尽くすウィルと、その場に降ろされたヴェレンスの息だけが辺りに吐き出される。

「一番根性があったのはあの嬢ちゃんだな、俺は逃げ腰野郎が一番嫌いなんだよ」

 ストラグルの言葉に、ウィルは拳を握り込む。怒りに任せて特攻するのは容易い。だがそれでは、アノンの思いを踏み躙る事になる。それだけは出来ない。

「……よせウィル、私がやる……お前は下がって……」

「家族ごっこは終いにしろや、イーレ。いつまでやってんだ」

「ウィルは私の子供だ」

「……子供ね。なぁ、真実を教えてやろうか?それともさっき不意を突いて俺の過去を視ることは出来たか?おい、答えろよ」

「……それがなんだってんだ」

「強がるなよ?絶望したんじゃないか、自分が何者でもないと理解して」

 ストラグルの的を得た発言に、ウィルの身体から力が抜けていく。

「さっき言ったよな、俺の右腕になれって。あれは比喩じゃない。相棒になれって意味じゃなく、戻ってこいって意味だ。視たお前なら判るな」

「……止めてくれ」

 ヴェレンスのおよそ聞いたことのないか細い声に、ウィルの背には熱が籠り始める。

「神族の身体は全てが霊石と言える。そこに転がってるビシャス……だったか。そいつの身体も構成は既に神に近いが、イーレにすら勝てない模造品だ。所詮死骸を寄せ集めたところで、雑魚は雑魚。大魚にはならない。だがお前は違う」

 一旦言葉を切り、ヴェレンスへと視線を移すストラグルに、ヴェレンスは目を合わせようとはしない。

「何せ闘争の神、俺の右腕から派生したのがお前だからだ。ここに来てその右腕は俺に戻りたがっている。気付いていたんだろ?」

「……なんとなくは、な」

 痙攣を続ける自身の右腕に視線を落とすウィルに、ストラグルは笑みを浮かべる。

「同族から袋叩きにあった経緯は話したな。その戦闘の最中に俺は右腕を切り落とされ、お前達が異界と呼ぶ地へ封印された。マリアも半身を焼かれて同様の道を辿った。なんの因果かマリアの半身はどこぞの宗教家の娘へと永い時間を掛けて転生し、俺の右腕は即座に幼少期の俺を形取って再生を試みた。それがお前だ、我が名も無き右腕よ」

「……」

 ストラグルが言っていたことは、ウィルが視た記憶と一致していた。よく人は自分が何者かと問い掛ける。誰もがそこにそれなりの答えを用意しそれなりの納得した結論に辿り着くものだが、ウィルには今日までその答えを見出せずにいたのだ。無理もない。元からウィルはストラグルの一部で、誰でもなかったのだから。そこに至って初めて気付く無情に、ウィルは耐え続けていた。

「ただ俺の右腕丸ごととは言え、いきなり本体から切り離されては崩壊は免れない。そこで死にかけの坊主にイーレは何をしたと思う?ここからは俺の予測なんだが」

 再度視線を移すストラグルに、今度は正面から向き合うヴェレンス。

「お前の血肉を与えて繋いだな、イーレ」

「……あぁ、分け与えたよ。幾ら貴様の一部とは言え、死に瀕した子供を見過ごせる大人がどこに居る」

「そこがお前の病的と呼ばれる所以だよ、イーレ」

 ヴェレンスの言葉に、ウィルはかつてないほどの衝撃を受けていた。ヴェレンスはただの育ての親で、自分は数ある孤児の一人だと思っていた。多大な感謝こそあれど血の繋がりなどないと思っていたヴェレンスに、血の繋がりがないなりの恩返しをしなければと秘めていたウィルにとってそれは重大で、自分の中にある空洞を満たすに足る事実だった。

「こっちの世界じゃ俺は未だに神格化されていると聞いている。右手に宿るは理解の力だ。ウィル、お前がもっている視る力がそれに当たる。ならば当然、この左手にはもう一つの能力が宿っている。教団の教えは憶えているか?ウィル」

 無造作にウィルへと近付き、ストラグルは左手で触れようとする。

「さっき締め上げた時にやっても良かったんだがな、それじゃあ風情がないだろ?」

 ウィルの心の隙間が埋まり、温かな風が流れ込んでくるような錯覚を憶える。

「赦しを与えよう。戻ってこい、俺の右腕」

 ストラグルがウィルに触れようとした瞬間、ウィルの脳裏にはアノンの笑顔が浮かんでいた。今から行う所作に、アノンは頷いてくれるだろうか。悲しむのだろうか。今となっては確認する術はない。ストラグルの手を、ウィルが逆に左手で掴み上げる。

「お前の左手に能力は宿っていない。無駄なことはやめて赦しを受け入れろ」

「……どうかな」

 不敵な笑みを浮かべるウィルにストラグルは眉を潜めるが、虚勢と断じて赦しの力を発動させる。ストラグルの左腕は青く発光し、ウィルへとその歯牙を伸ばす。

「あんたのその力は赦しなんて大層なもんじゃない……ただ食ってるだけさ。存在そのものを……命や魂って奴をな!」

 檄を吐くウィルの左腕は、ストラグルより更に深い聡明な青の輝きを放ち始める。

「――なっ、発動出来るはずが!」

「俺はあんたの一部だ。右手とか左手とか、どこに能力が宿っているとか決めつけてんじゃねぇよ!俺の右腕はこう言ってるぜ!やれるはずだってな!」

 互いが互いの存在を食い合い拮抗する様に、ストラグルに初めての焦燥が生まれる。

「……おもしろくなってきたじゃねぇか!あぁ右腕さんよ!神にもなれず、人でもなく、ましてや人造兵器でもないお前に!何が出来るってんだ!」

 青い輝きが増すストラグルに、ウィルも負けじと輝きを放つ。

「俺の名はウィルだ。中央管理軍の少佐位で、アノンの上官で、あんたの一部で、無敗の大将イーレ=ヴェレンスの息子だ!なめんじゃねぇぞおぉおゴラァアア!」

 たかが右腕一本分の自身と最弱の神から血肉を分け与えられたウィルと拮抗するストラグルを見やり、加勢に入ろうとするマリア。それを察知したヴェレンスが辛うじて動く右足で地面を蹴りマリアに距離を詰めると、即座にその首を手刀で跳ね飛ばす。

「息子の門出だ。邪魔をしてくれるな小娘」

「……こんなっ……馬鹿な!なぜ本体の俺が押される!どういう理屈だ!」

 叫ぶストラグルに、ウィルは憂いを帯びた視線を送る。

「さぁな……俺は今満たされている。母の与えてくれた愛情に、アノンが捧げてくれた命に、満たされてんだよ。あんたは求めて、戦い過ぎて、乾いちまってんだよ」

「――っ、何が愛情、何が奉仕だ!神代より戦い続け、この世界に絶望し、それでも俺を慕ってくれたクリープスの民の力が、たった二人の思いに負けるはずが!」

「勝ち負けだけじゃねぇさ。一瞬の煌めきに!一時の輝きに!燃え尽きるほどの熱を込められるか!それだけで十分だろうが!」

「……青臭い、ガキの発想だ!そんなもので世界は!この星は変わりはしない!」

 ウィルとストラグル、同一の存在だった者達が、互いの思いをぶつけて爆ぜり合う。僅かにストラグルがウィルに圧し負け食われ始めた事により、ストラグルは態勢を落としてウィルの胸元へと蹴りを繰り出し距離を取る。蹴り出されたウィルはアノンの間近の壁へと激突し呻きを上げるが、すぐ様立ち上がるとストラグルへと向き合う。

 マリアを屠り続けていたヴェレンスを払い除けるように弾き飛ばしたストラグルもまたウィルへと向かい合い、二人は睨み合う事となる。決戦の地となった坑道の最奥部は霊石に囲まれた特殊な空間だった。だからこそストラグルはここに転移道ゲートを配し、この世界へと渡ってこれたのだ。ストラグルは言った。霊石は神族の遺骸だと。ともすればウィルとストラグルが相対するこの場所は、神々に囲まれた空間でもあった。ストラグルは過去に神族と対立し、敗退した。そこに気付いたウィルは、不意に、何気なく、手近にあった壁へと右手を当てる。

 その動作に気付いたストラグルは、ウィルと同じ考えに至った上、こう思う。誘い込む場所、転移道ゲートを配する場所を見誤ったと。

「……マリア、出し惜しみは無しだ。極限まで注いでくれ」

 ストラグルの切迫した声にマリアは息を飲むが、静かに頷くだけだった。ここまでの戦いと、先程の穿ちの連射の再生で随分と内包していた命を使ってしまっている。ストラグルに言われた通り極限まで力を明け渡せば、おそらく自分は生還出来ないだろう――

「御意に」

 だが、それでもマリアはストラグルへ全ての命、全ての力を注ぎ込む。切り捨てられ滅びゆく大陸を救おうと尽力した人。同族から理解されず、封印された大陸でも民衆を纏め上げるのに何世代もかけた努力の人。誰になんと言われようと、自分はこの人に付いていく。捧げると決めた。マリアは徐々にその肢体を崩しながらも、ストラグルの顔を見上げ、その猛々しい表情、勇ましい姿を脳裏へと刻んでいく。せめてもう一声だけ、もう一見だけ。マリアの切ないまでに捧げられる全てを一身に受け、ストラグルは強大な力を宿しつつあった。

 ストラグルが自身を高める一方、ウィルは霊石の記憶、神族の集いへと埋没していた。どうすればこの場を乗り切れるのか。そう問うウィルに、勝ちたいのですか、それとも生き残りたいのですかという声が聞こえる。ウィルは答える。救いたいのだと。どこからかまた声が聞こえ、それは誰かと問われる。ウィルは一呼吸を置き、手が届く範囲、見える範囲の者、誰かと言うより、その事象から。今はアノン、そして自身の母と答えていた。どこからかまた声が聞こえ、手を取り合い、分かち合う事でそれは成されるだろうと言い渡される。ウィルは更に問う。どうすればそれが出来るのかと。

 その答えは貴方の中にすでにある、声はそれを最後に聞こえなくなり、ウィルは現実へと引き戻されていた。ストラグルの高まり続ける気配を察しながらも、横たわるアノンを抱き寄せ、その冷たくなった頬に触れる。呼吸は聞こえず、脈動も感じられない。ただヒビ割れた姿だけを残し、アノンはどこかに行ってしまったのだとウィルは唇を噛む。

 声はこう言っていた。手を取り合い、分かち合う事だと。ウィルはその言葉に従い、アノンの手を取ると、静かに目を閉じた。暗闇の中でぽっかりと浮かぶ白い光。それは温かみに満ちた光だった。それに触れたウィルは、何故かヴェレンスと過ごした幼少期を思い出していた。ヴェレンスの作る料理は必ずしも美味いと限らなかったが、いつも暖かくて、どんなに忙しい時でも、共に食卓を囲ってくれていた。一度なぞ自分で作ったほうが美味いと豪語し、ヴェレンスに手料理を振舞った事もあったのだが、それは散々な結果でヴェレンスに笑われた記憶だった。初めて高熱にうなされ、死の淵を彷徨った時も、ヴェレンスは一晩中看病をしてくれた。突如として記憶が曖昧になる部分もあったが、幼少期の記憶は常にヴェレンスと共にあった。

 アノンと出会った時はどうだったか、今でもよく憶えている。妙にお姉さんぶったその仕草が妙におかしくて、それを笑ったことによって最初は気まずい関係に陥ったこともあったが、寝食を共にし、背中を預け合い、任務をこなしていくに連れ掛け替えのない存在となっていた。アノンはいつでも自己を犠牲にしようとし、自分はいつもそれを疎み、恐れていた。いつか来る日は、今日だったのだ。

 最後に見た記憶は、アノンの笑顔だった。その姿は目に焼き付くばかりか、今この手に抱かれるアノンからは程遠い記憶。取り戻せない、大切な人。悲しみと絶望に襲われるウィルの心の光は陰りを見せ、白からゆっくりと暗い色へと変貌していった。その様を見てウィルは気付く。この光は自分自身で、命そのものなのだと。光に触れ、その一部を掴み上げると、ウィルは心の中でアノンへとそれを注ぎ込む。

 大事な事は二つだけ。手を取り合う事と、分かち合う事。ウィルの目からは自然と涙が流れ、頬を伝って顎へと落ちていく。その涙を掬い、触れる手には温かみが宿っていた。

「……意外と泣き虫なんですね、ウィル少佐って」

「アノン!大丈夫なのか!」

「……あー、たぶんですけど、なんでしょう……凄く暖かくて、気持ちいいです」

 ウィルからゆっくりと離れ、態勢を直してアノンは立ち上がる。目元に生じたヒビ割れは完全に消え失せていた。そればかりか身体の四肢を柔軟で確認するアノンは静かに頷くとウィルへと向き合う。

「快調そのものって感じです!あの、もしかしてウィル少佐……私にその……」

 俯き、アノンは頬を赤らめる。

「キス、しました?」

「……いや、してない」

「え?したんですよね?普通こういう復活物にキスは付きものでは……」

「……だから、してない」

「えー……」

「冗談言ってる場合じゃねぇって」

「ですよねー、分かってまーす」

 ほぼ全身が崩れゆき、意識が混濁してきたマリアはその光景を見やり、驚愕する。あの男は、御方の一部で、唯の贄と思っていた男が、自身と同じ能力を行使している。自分だけの特別な、唯一の能力と信じて止まなかったマリアは絶望の淵に立たされる。

「気に留めるなマリア、あれは単なる劣化で模造だ。お前の能力に比類するものでは決してない。お前が一番で、お前が唯一だった。その事実を掻き抱き、俺の中で生き続けてくれ」

 ストラグルのその言葉に、マリアは自嘲地味た表情を浮かべるものの、満足そうに目を閉じて崩れ去っていった。勝利を祈願申し上げます、マリアの最期の言葉は、ストラグルの胸に刻まれる事となる。

「手を取り合い、分かち合う、ですか」

「……あぁ、誰かは知らねぇが、ここに居る神さんが教えてくれた事だ」

「手を取り合い……とりあえず手繋ぎますか」

 アノンが無造作にウィルの左手を握る。

「……おい、ちょっと待て」

「分かち合うってのがちょっと難しいんですけど……」

「説明が難しいんだが、心の中の光をだな……」

「心の中の光って霊石の力を引き出す初歩訓練の一つですよ。私それなら出来ます」

「……え、そうなの」

「人造兵器しか教育されない事柄ですからね……例えば、こうですよね」

 アノンが静かに段階を上げ、煌めきが沸き上がる。その煌めきはウィルへと共鳴し、ウィルの全身が赤く煌めき出していた。

「ウィルの身体は言わば全身が霊石のようなものだからな……共鳴して当然と言えば当然だな……」

 いつの間にか傍らに座り込み、息を吐くヴェレンスの顔は青ざめていた。

「――っ、待ってろ、今俺のを分け与えるから」

 言って近付こうとするウィルにヴェレンスは首を振って応える。

「今は奴を退ける事にだけ注力しろ。余剰が出来てからそういう事は行え」

 ヴェレンスの決意が籠った視線にウィルは押し黙るが、やがてストラグルへと視線を戻し再び向き合っていた。

「準備は出来たか?」

 問うストラグルに、思わずヴェレンスは苦笑を浮かべる。

「律儀だな、相手の態勢が整うのを待つ馬鹿がどこに居る。さっさとやればよかろう」

「……それじゃおもしろくねぇだろ。全力で来るんだろ?ガチの殴り合いに、水を差したら糞野郎ってもんだ」

「貴様達の大願よりもそれは優先されるものなのか」

 ヴェレンスの憂いを帯びた視線に、ストラグルは不敵な笑みを返していた。

「それを含めての俺だ。そういう俺だからこそ、民の命を背負ってこの場に居る。主義は曲げん。主張も、何もかもだ!」

 檄を発し、爆発的に高まり続けるストラグルを見やり、ヴェレンスはウィルを手招きして近付けさせる。

「母からの手向けだ。受け取れ」

 差し出された左手に、右手で握り返すウィルはヴェレンスから膨大な力が注ぎ込まれる。それは煌めきを通り越して物質化を果たし、ウィルの右腕には黒色の本体に金色の縁を象った強固な装具が発現されていた。

「私のウィーケストと同じ、お前から生まれ出たお前だけの装具だ。扱いに慣れておくといい」

 言って手を離したヴェレンスは咳き込むと、口元から血が滲み出していた。

「……さっさとケリを付けろ。私もさすがに疲れた」

 伏せて目を閉じるヴェレンスに頷くウィル。

「じゃあ私も……注ぎ込みますよ!」

 段階を更に上げ、深紫を宿したアノンからウィルへと力が流れていく。ウィルの黒髪は真っ赤に染まり出し、その眼には煌々とした燃え上がるような赤みを帯びる。その変貌にかつての戦いを思い出すストラグルは一人苦笑を漏らす。

「力の物質化に、赤の煌めきか……沸き立つねぇ、久しく忘れていた感覚だ!」

 ストラグルが地を踏み一息吐くと、ストラグルの全身も硬質化を始める。赤色の本体に黒の縁を象った全身鎧に、ストラグルそのものが禍々しく覆われていく。

「イーレと嬢ちゃんの二人によいしょされてようやく右腕一本分の装具と勝負するには、ちっと本気出し過ぎかもしれんがな、全力で行くぞ」

「……奴さんも準備万端ってとこか。ヴェレンス、アノン、ありがとう。ちょっくらあいつぶん殴って来るから、そこで見ていてくれ」

「任せた」

「ご武運を」

 二人に背を押され歩み出るウィル。双方の戦力はこれで出し切った状態、後にも先にもこれ以上はない。ウィルとストラグルは自然に距離を詰め合い、一足の間合いで歩みを止める。

「お前をぶん殴って、右腕回収して、世界を作り替えて終了だ。単純でいいだろ」

「同感だな、あんたをぶん殴ってしばき倒す部分だけだがな」

「……ちゃっかりしばき倒す追加してんじゃねぇよ小僧が」

 二人の言葉は途絶え、神々が見守る坑道の最奥部にて静寂が訪れる。坑道内に流れる微風が小石を巻き上げ、二点三点と転がって別の鉱石にぶつかる。それが甲高い音を奏でた瞬間、ウィルとストラグル、両者は同時に動いていた。ウィルは右拳を、ストラグルは左拳を相手の顎先へ放ち、拳と拳が火花と轟音を上げて重なり合う。

「女二人によいしょされてその程度か小僧!」

 先に拳が弾き飛ばされていたのはウィルだった。その隙を縫い、ストラグルがウィルの懐へと肉薄する。ストラグルの近付き様の膝蹴りをウィルが右腕で抑え、反撃で放ったウィルの手突を首の動き一つで躱すストラグル。全てが流動的に、無駄のない洗練された動きだった。ストラグルが蹴り上げ、ウィルが受け流す。その隙に乗じて放たれたウィルの右拳をストラグルは左腕で弾き返し反撃に転じる。右から左へ、立ち位置を目まぐるしく変えては互いに一撃を放ち合う状況に、ストラグルは驚きを隠せないでいた。先程までのウィルならば自身の速度、膂力に任せて何時でも屠れる相手だったはずが、短時間とは言え自身と打ち合っている。その現実に、ストラグルの直感が警報を鳴らしていた。ウィルの回し蹴りを躱しながら後方へ飛んだストラグルは両腕を引き絞り力を込める。その動作に呼応するように、ストラグルの装具は唸りを上げて形状を変化させていく。

「……竜装か」

 ヴェレンスの呟きに、ストラグルの咆哮が重なる。装具の兜位から二本の巨大な角が隆起し、両腕には大振りの刃が、腰部からは刺々しい尻尾のようなものが形成されていく。

「たかが右腕一本の自分に、ここまでやらされるたぁ笑い話しにもならねぇ」

 息を吐き、地を踏み締めるストラグルにウィルは相対していた。まるで生きているかのようにしなるストラグルの尻尾に視線を送り、静かに構えを取る。

「警戒しても無駄だ。直に終わる」

 その言葉を最後に沈黙が流れ、ストラグルの足元に熱が籠る。地を蹴り出した瞬間、再びストラグルの姿は掻き消えていた。辛うじてその姿を追うウィルは、ストラグルが腰を捻り尻尾を放つ様を視界の端に捉える。即座に態勢を低くし躱したウィルの頭上をそれが通り過ぎ、凶悪な風圧だけが全身を包み込む。

「首から刎ねてやろうと思ったが、良い反射してるぜ坊主!」

 言って続け様に放たれたストラグルの刃をウィルが右腕で受け止める。両足が地面にめり込むほどの圧に、歯を食い縛って耐えるウィル。そこへ更に放たれた尻尾の一撃がウィルの横腹を捉え、ウィルは手近の壁へと弾き飛ばさていた。

「ウィル少佐!」

 叫ぶアノンに、追うストラグル。態勢を立て直せないままでいるウィルに、ストラグルの突進が迫り来る。その兜位から隆起した角を寸でのところで掴んだウィルは、壁を軸に押し返そうと声を荒げていた。

「こんなもんでっ……やられて……たまるかってんだ!」

 奥歯を噛み締め、渾身の力を込めるウィルの全身は悲鳴を上げていた。

「おうおう、頑張り過ぎて口から血ぃ出てんぞ、いい加減諦めろや」

 ストラグルは更に首から背、両足に力を入れウィルへと覆い被さる。徐々にウィルを支えていた背面部の壁、霊石群にヒビが生じ、その隙間から光の粒子がこぼれ出す。

「奇麗なもんだな……同族とは言え馬の合わない連中だったが、それに抱かれて死んでいくってのも悪い気はしねぇ。なぁ、右腕さんよ」

 ウィルの両腕が軋みを上げ、ストラグルの角が眼前へと迫る。止めと言わんばかりに振り上げられた尻尾の狙いはウィルの頭部だった。

「再び一つになる時が来た。眠れイーレの慰み者よ」

 ストラグルの視線は鋭く、力が尻尾へと伝わっていく。放たれた切っ先がウィルの頭部を粉砕しようとした瞬間だった。まるで石が砕けるような走る音。それはストラグルの間近で鳴っていた。

「――っ」

 目元に生じる微細なヒビ。神に生じた一筋の断層。あまりにも唐突に起こったその現象に、ストラグルの全身から圧が消える。その刹那の瞬間をウィルは見逃さなかった。

「気ぃ抜いてんじゃねぇぞゴラァ!」

 檄を吐き、両腕を用いてストラグルを押し返したウィルは右手の掌底を顎元へと打ち放つと、そのまま右腕を引き絞ってストラグルの鳩尾へと拳をめり込ませる。

「ぐっ!?」

 息を止めるストラグルに、追撃を図るウィル。一打、二打と立て続けに食らい続けるストラグルだったが、態勢を無理やり起こして右の刃をウィルへと打ち放つ。それをあえてストラグル側に沈み込んで躱したウィルは、全身を捻り右脚を自身へと引き付ける。そのままストラグルの股先へと右足を運び、地を踏み締めると同時に全体重を掛けた右肘をストラグルへと叩き付ける。

「こいつはアノンとヴェレンス、二人の分だ!」

 ウィルの右肘がストラグルの鳩尾へと直撃し、互いの装具が軋みを上げる。僅かに競り勝ったウィルの装具が、ストラグルの装具に傷を促す。

「この……程度で……調子に乗るんじゃねぇよ小僧が!」

 雄叫びを上げ、両腕を振り上げてウィルへと叩き付けようとしたストラグルだったが、ウィルは押し込む様に右肘へと圧を掛け歯を食い縛る。

「こんなもんで……済む訳ねぇだろうが!」

 一瞬態勢を落とし、伸び上がり様に再度右肘を打ち放つウィル。両腕を振り落としたストラグルと、ウィルの反動が見事に合致し、弾き飛ばされたストラグルは目を見開く。

「おい、冗談だろ」

 呟く様に吐き出されたストラグルの動揺は、許容し難い現実を伴っていた。自国の民を犠牲にし、マリアを捧げ、慢心することなく発現させた自身の装具が、ウィルの一撃に悲鳴を上げるどころか、その一部が粉砕されていたのだった。たたらを踏みながらも倒れなかったストラグルは自身の鳩尾に右手を宛がい、噴き出す血液に視線を落としていた。そのまま相対するウィルの装具に視線を移したストラグルは、先程まで無かった肘部分から露出している突起の形状を見やり、眉間に皺を寄せる。

「……成程、ウィーケストか」

 口元からも血を滲ませながら、ストラグルはヴェレンスを睨み付ける。

「手向けと言っただろ、聞いていなかったのか」

 目を細めるヴェレンスに、ストラグルは吐き捨てる様に言葉を掛ける。

「最弱の分際で、この俺に傷を付けるとはな」

「……貴様も万全ではないという事だ。こちら側に転送出来た肉体は良くて半分と言ったところだろう。マリアを介して幾ら力を注ぎこまれようと繋ぎに使った器……レイバーの肉体では貴様の負荷に耐えられるはずもない」

「……黙れ」

「その目元のヒビが確たる証拠だ」

 不意にそう言われ、ストラグルは自身の目元に指で触れる。

「悲鳴を上げているんじゃないか、貴様の中のレイバーは。私達に全力を引き出された段階で、先はなかったのさ」

「黙れと言ってんだろうが!」

 両手を握り、声を荒げるストラグルの怒号が響き渡る。その様子を見ながらも、ヴェレンスは憂いの色を帯びていた。

「あの時、一人で戦った貴様に私から掛けられる言葉はない……クリープスの人々に課した業も、償える術を私は持ち合わせていない。どうすれば良かったのか、誰も彼もを救える手立てはなかったのか、親父殿は正しかったのか、長い年月を掛けても答えは出せないままでいる。私はな、ストラグル。貴様のその真っ直ぐさが羨ましかったよ。多少強引なところはあったが、間違ったことはしていなかった」

 ヴェレンスの独白に、ストラグルは息を飲む。

「……今更だな。逃げ場のない異世界に閉じ込められ、腐りで死んでいったクリープスの民が戻る訳じゃない。終わる事のない怨嗟が、憎しみが、生への渇望が癒される訳でもない!」

「だからと言って、今に生きる世代に同じ業を背負わてはいけないんだよストラグル、貴様になら……理解出来るはずだ!」

「あぁ、理解出来るさ。大昔のケツ拭きに巻き込まれるとなれば、とばっちりも良いところだ。だがな、この怨嗟、その程度じゃ止まんねぇんだよ!」

 歯を食い縛り、ストラグルがヴェレンスへと歩み出す。全身に纏っていた装具が徐々に剥がれ落ち、ストラグルの身体中にはヒビが生じ始めていた。

「確かにこの身体は限界みてぇだが……お前を食えば多少は持つだろうよ」

 兜位にあった角は片方を残し崩れ落ち、刃と尻尾は原型を留めていなかった。一歩、また一歩とヴェレンスへ近付くストラグルを遮るように、ウィルが立ち塞ぐ。

「……どけよ小僧」

「どく訳ねぇだろ」

 言って真っ直ぐに自身と向き合うウィルを見やり、

「ったく……どいつもこいつも言う事一つ聞きやしねぇ」

 そういい捨てると、ストラグルは大きく息を吸い目を閉じる。全身を包んでいたストラグルの装具は音もなく塵へと変わり、再びその塵が左拳へと集約されていく。

 時を同じくしてウィルの装具にも変容が現れ、肘部の突起が右拳へと流れて形状を変えていく。ヴェレンスが扱う装具はウィーケストという槍斧だった。それを受け継いだウィルの装具は指の一本一本から拳に至るまで鋭利な形状を発現していた。対象を切り裂き、抉り、貫く黒色の爪。鈍く輝くその装具へとウィルの決意が流れ込む。

 この先、二人が放ったのは一撃のみだった。刮目し、肉弾と化したストラグルが左拳を引き絞る。ウィルも弾けるように飛び出すとストラグルへと距離を詰める。互いが互いを捉える刹那、ストラグルの肩口から左腕に掛けて無数のヒビが生じる。ストラグルはそれに構わず左拳をウィルへと放つが、ウィルはその左拳目掛けて爪による手突を繰り出していた。肉体が裂け、左拳が弾け飛ぶ様にストラグルは視線を移すばかりだった。悲鳴など上げず、呻きもない。ストラグルにとってそれは、敗北への決定打となった。

「うぉおおおおおらぁああああ!」

 ウィルの咆哮に、抉られるストラグル。左拳から左腕、果ては心臓部から肩口までウィルの一撃によって崩壊したストラグルは、膝を付いて動きを止める。

「……また……負けるのか……俺は……」

 ストラグルの虚ろな眼差しがヴェレンスに注がれ、ヴェレンスは顔を俯かせる。次第にその姿が塵へと消え、輪郭がおぼろげになりながらも、ストラグルは最後まで倒れることはなかった。外装が剥がれ落ち、器として肉体を捧げたレイバーの姿が露わになる。レイバーは一言も発さぬままその場に倒れ込むと、半身を砕かれ満身創痍の身体に力を入れ、右腕で上体を起こすとウィルやアノン、ヴェレンスに睨みを効かせ顔を醜く歪ませていた。

「……闘争の神が……なに負けちゃってんですかね……ほんと……最悪」

 悪態を吐きながらも、レイバーは仰向けになり天井を見つめる。坑道の最奥部を埋め尽くす霊石が先程までの戦いに共鳴し、その影響が光の粒子となってそこかしこに軌跡を描く。その様はまるで儚く消える蛍の群れだった。

「悔しいなぁ……結局……こうなるのか」

 朧げにその粒子を追うレイバーの目から生気が失われ、全身は枯れ木のように衰えヒビ割れていた。

「……レイバー君」

 ゆっくりと歩み寄るアノンに、レイバーは笑みを浮かべる。

「慰みは結構です……アノン中尉、見てましたよ、彼の中で……いやぁ……マジありえないですって……同じ模造品のくせに……神と競り合うなんて……僕にもその核さえあれば……こんな事には……」

 顔を俯かせるアノンを庇うように、ウィルがレイバーを見下ろす。

「一発殴ってやるつもりだったんだがな」

「……あぁ、いいですよ、どうぞ、遠慮なく」

 目を閉じ、息を吸うレイバーに、ウィルは奥歯を噛み締める。その右腕に纏っていた装具は塵と化し、ウィルは徐に座り込んでいた。

「死に体を嬲る趣味はねぇ」

「……遠回しに非難してませんか僕のこと……まぁ、いいですけど……」

 レイバーの視線はマリア達が残した極大の亀裂、転移道ゲートへと移る。ウィルとアノンが到着した時より二回りほど拡大した転移道ゲートの様子を見やり、再び笑みを浮かべていた。

「……策っていうものは……二重にも……三重にも……用意して……おくものです!」

 刮目し、自身の残った半身の胸元へ右腕を潜り込ませると、一思いに唯一残っていた核を握り潰す。咳き込み血を吐き出すレイバーを見やり、ヴェレンスは目を細める。

「自決、ではないようだな」

「……えぇ、大将閣下……この地を繋ぎ止めていた霊杯は……今僕が握り潰しました……これで……この亀裂は……もう……戻せない……」

 レイバーの言葉にウィルとアノンが息を飲む。

「何をしたんだ!レイバー!」

「……策と言ったで……しょ……僕が万が一……負けた場合に……用意していた……最後の……これで……世界は終わ……る……新し……く……作り……直せ……ない……のが……残念……で――」

 レイバーは言い終える事なく、それきり動かなくなっていた。枯れ木のように衰えていたその遺体も乾いた音を立てて藻屑へと消える。同時に極大の亀裂、転移道ゲートの拡大に拍車が掛かり、坑道内に振動が起こり始める。

「……彼は一体なにを」

 驚愕するアノンに、ヴェレンスが応える。

「世界を支える柱の一本を壊したのさ、直にこの辺りは崩壊を始める」

「――っ」

「厄介な事をしてくれるじゃないか、レイバー士長め」

 立ち上がり、転移道ゲートへと歩み寄るヴェレンスに、いつもの不敵な笑みはなかった。

「ウィル、アノン中尉を連れてこの場から離脱しろ」

「……どうする気なんだ」

「決まっているだろう、亀裂の対処要領は一貫して決まっている」

「……修復か、凍結、ですよね。でもこの大きさは……」

「あぁ、もはや修復では間に合わん。凍結だ」

「……で、では援軍を!」

「援軍の到着も待てない。命令は下した、離脱しろ」

 ヴェレンスの言葉に絶句するアノン。ウィルは怪訝な表情を浮かべヴェレンスへと詰め寄るが、通信機の受信を察したヴェレンスに片手で制される。

「プリシラか、戦況を報告しろ」

「……閣下、ご無事で……こちらの敵勢力は完全に鎮圧しました。指揮官級が見当たらなかったあたり、閣下の戦地が本命だったようですね。途中何度か通信を試みたのですが繋がらず、お役に立てず申し訳ありません」

「問題はない。こちらも鎮圧は完了した。おそらくその道中で通信妨害も解けたのだろうが、状況が変わってな」

 言って現状を伝えるヴェレンスに、プリシラが異論を挟む。

「早急に凍結部隊を選定し、向かわせます。閣下も離脱して下さい」

「間に合わん。段階は既に最終を迎えている」

「……っ、間に合わせます!」

「ダメだ、やり直しは出来ない。一度崩壊が始まれば連鎖的に世界は――」

「ですが閣下!」

 声を荒げるプリシラに、ヴェレンスは目を閉じる。

「聞け、プリシラ中将。貴官は現在をもって大将へと昇進、元帥代理として中央管理軍の旗手を務めてもらう」

「……お断り致します、我が軍の元帥は閣下お一人のみ、ご再考を……」

「順番が来たんだ、プリシラ」

「……」

「お前にしか頼めない」

「……閣下」

「中央管理軍と愚息の面倒を見てやってくれ、最後まで苦労を掛ける」

 ヴェレンスの言葉に、プリシラの応答はない。

「声を聞かせてくれ、長年の友よ」

「……お受け……致します……」

 微笑むヴェレンスは、通信機に手を掛ける。

「ありがとうプリシラ、後を頼む」

「……御意に」

「通信は以上だ」

 言って通信機を耳から外すと、ウィルへと放り投げ転移道ゲートへと向き合うヴェレンス。

「順番って、何の話しだよ」

「言葉の通りだ、ウィル。親父殿達に置いて行かれ、途方に暮れた時もあったが、事ここに及んでその甲斐が報われるというものだ」

「だからって、あんたが何も凍結させなくても――」

 ウィルの言葉が、虚空へと消えていく。不意に、力強くヴェレンスに抱き寄せられ、その胸中は形容のし難い感情が締め付ける。転移道ゲートの拡大は、もはや坑道全体へと広がりを見せていた。ヴェレンスはウィルの頭を撫で付けると、目を細める。

「ウィル、亀裂に比して修復に必要な霊石の量は?」

「……今更講義かよ……ってか恥ずかしいだろ、撫でるな」

「答えろ、ウィル」

「……およそ百分の一ってところだろ」

「正解だ。では凍結に必要な量は?」

「……一対一が原則だ」

 ウィルの答えに、満足そうに微笑むヴェレンス。

「この亀裂に必要な霊石量は、人造兵器数千体分だ。霊杯とはそれ程までに強力でな、凍結部隊の到着を待てない理由も、待ってはいけない理由も判るな」

 ヴェレンスの言葉に、息を飲むウィル。アノンは事前にそれを察していたのだろう、顔を俯かせ、何も喋ろうとはしなかった。

「このままでは世界が崩壊する。凍結に数千体の人造兵器を捧げても我が軍は機能を停止するだろう。要所に石を置かねばならない。その石が、今回は私だったと言うだけさ」

「……それでも何か……他の方法が!」

「そうだな、あるかもしれん。その暇がない事に歯痒さを憶えるよ」

 ウィルの頬に触れ、ヴェレンスは離れると転移道ゲートへ手を伸ばす。

「ヴェレンス大将!まずは私から凍結を行います!その結果を見て――」

 アノンの叫びに、ヴェレンスは首を左右に振る。

「中尉、貴官の霊石量でもこの亀裂は賄えん。気持ちだけ頂く。ウィルの面倒を見てやってくれ」

「――っ」

「無論、見限っても構わん。蹴るなり焼くなり、好きにしてくれ」

 ヴェレンスの不敵な笑みに、静かに頷くアノン。

「ついぞお前には母と呼ばれなかったが、私は楽しかったぞ、ウィル」

 言うなりヴェレンスの全身から純白の煌めきが迸り、徐々に硬質化が始める。ウィルはその背を見続けながらも手を握り込み、奥歯を噛み締めていた。

「霊杯の……代わりになるものがあればいいんだよな」

 歩み寄るウィルに、ヴェレンスは視線だけを向ける。

「迎えに行く。待っていてくれ」

「……ほう、課題は山積みだが、期待せずに待っているよ。判っていると思うが、他所の霊杯を引っこ抜いてくるような愚行は止めておけ。それともう少し離れろ。巻き添えを食らうぞウィル」

 ヴェレンスの言葉に、言われた通り距離を取り背を向けるウィル。その純白の煌めきは臨界点を迎え、転移道ゲートを包み込むようにヴェレンスの硬質化が凍結を開始する。

「良い漢になれ、ウィル」

 呟く様に発せられたその声に、ウィルが込み上げる。

「――っ、母さ――」

 ヴェレンスの凍結は激しさを増し、ウィルの言葉を飲み込み亀裂を塞ぐ。その中心に居たはずのヴェレンスが溶け込み完全に消え行くまで、ウィルとアノンはその場に立ち尽くすばかりで、光の粒子を放ち続けていた周囲の霊石群も徐々にその鳴りを潜めていく。後に残されたものは、転移道ゲートを完全に塞ぎ硬質化するヴェレンスの残滓に、手を添え膝を付くウィルと、その背を見つめ顔を俯かせるアノンだけだった。

 発端は一つの亀裂。国を巻き込み、人々を巻き込み、爪痕を残すばかりの戦は幕を閉じた。誰かが言った。友を亡くしたと。誰かが言った。家族を亡くしたと。ウィルは母を失い、グリスは兄を失った。分かたれた世界の双方に、大きな犠牲を伴う戦だった。

 ウィルとアノンは坑道を後にし、駆け付けた自軍へと合流を果たす。救護兵に手当を受けながら海岸線へと視線を移すウィルの目には、黄昏が沈み込む。有象無象に横たわる敵味方の亡骸には陰影が刻まれ、戦地の騒めきはしばらく収まりそうにはなかった。その最中に、聞き覚えのある声がウィルの耳へと届く。

「ハイドアウト平原とフィアルマウンテの大部分を中央管理軍が管轄するよう連合国に通達しなさい。協議は追って行います。周囲の残党に注意して、王立国境団とも連携を取るように徹底、各員は速やかに行動を開始せよ」

 長い銀髪を後ろ手に結い、清々と指示を出す一人の女。着崩していたはずの制服を改め、大縁の眼鏡を掛け直すその姿は別人のようだった。一通り指示を出し終えウィルへと歩み寄り顔を覗き込む仕草は相変わらずのもの。

「ご苦労様でした、ウィル少佐、アノン中尉。怪我は……大丈夫そうですね」

「……あ、はい、プリシラ中……大将もご無事で何よりです」

 言い間違え慌てるアノンに、プリシラは困った顔を浮かべる。

「まだ中将で合ってますよ、アノン中尉。閣下のお言葉とは言え、本部に帰ってからの手続きもありますし、承認されるかも微妙なところですが……」

 プリシラは言いながらもウィルとアノンに向き合うように座り込む。

「閣下の最期は、どうでしたか、ウィル少佐」

「……」

「未だに信じ難い状況ですが、我々が把握出来ている世界の柱とも言える霊杯は一握りだけで、敵勢力に先んじて発見されるばかりか、剰えそれを利用されこのような事態を招いたのは先達である私達の責任です。辛い思いをさせてしまって、ごめんなさい」

 言って頭を下げるプリシラに、ウィルは目を伏せる。

「……辛いのは俺だけじゃない。対応出来なかったのは一緒で……そればっかり考えててよ……だから、謝らないでくれ」

 ウィルの吐き出すような言葉に、アノンは身を寄せその手を握る。

「……寂しいですね、閣下が居ないと。まるで火が消えたように感じます」

 プリシラの憂いを帯びた目には、涙が浮かぶ。

「取り戻して見せるさ」

 ウィルの一言に、僅かに笑みを漏らすプリシラ。

「あら、頼りがいのあるお言葉で……さすが閣下のご子息ですね」

「……課題は山積みだがな」

「お手伝いさせて頂きます!ウィル少佐」

 アノンの希望に満ちた視線に勇気付けられ、ウィルも笑顔が戻り始める。その二人の様子を見やりながらも、プリシラは口に手を宛て呟くように口を開く。

「後見人となると婚約時は証人……いえ、仲人ですかね……勉強しとかないと」

「……何呟いてんだ、大将さんよ」

「いえいえ、別に何も。それにまだ中将です」

 両手を振り、大袈裟に誤魔化すプリシラを怪訝な顔で見返すウィル。

「後ほど二人には意見聴取と、現場検証に付き合って貰うことになりますので、心積もりをお願いします。偽証はないと思いますが、何分索敵がほとんど機能していない環境での戦闘だったので、念のためとご理解頂ければ」

 打って変わって鋭い眼光を放つプリシラに、真顔に戻って頷くウィルとアノン。坑道内の戦闘に置いて生き証人は二人だけ。中央管理軍が要するかの大将が生還出来なかった以上、その要因と原因を探るのは必定だった。称賛を浴びるか非難に飲まれるか、ウィルにとってどちらもさほど興味はなかったが、真実を残したいと考えていた。異界という切り離された世界に生き残るクリープスという人々。それらに利用され、もしくは利用し事を起こした主犯格達の思惑。転移道ゲートという巨大な亀裂に、世界を崩壊から救った母の話し。

 裁定はどう降りようと構わない。ただ真実だけを語りたい。この頬に触れた感触が、抱き寄せられた温もりが、母と繋がって背を押してくれる。ウィルにはそう感じられて仕方がなかった。期待せずに待っていると言われた以上、どれだけ困難な道でも到達して見せよう。それが母と交わした約束なのだから。

 ハイドアウト平原からフィアルマウンテの麓へと黄昏時が訪れる中、ウィルは新たな世界へと歩み出す。世界の境界は曖昧で、触れられるほど近いのに会えない人が居る。また会って、話したい人が居る。伝えたい言葉もある。それは何時になるのか、今は分からない。だからこそ歩き続けよう。それだけが、今出来る事なのだから――。

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