片隅のユーフォリア
三津凛
第1話
黄色っぽくなった白眼が私を舐めた。
「じゃあ……さっそく……」
この日は中年男だった。浮腫んだ薬指に細かい傷のついた指輪が苦しそうに挟まっている。男は軽く顎をそらして早くするように促してくる。
なるべくなにも考えないようにして、私は顔を埋める。生臭い匂いがした。恥毛の煩さが嫌悪感を呼んでくる。
落ちるところまで堕ちたという感覚はとっくになくなってしまった。むしろ、働きもせず“ナマポ”をあてにしないで生活しているだけまだマシだと思う。支給日にパチ屋の前で行列を作るいかにもなあの集団に混じっていないだけ、私は自分を褒めてやりたくなる。
「おお……」
頭の上で、男が喘ぐ。興奮してきたのか、思い切り頭を押さえ込まれた。
気持ち悪いんだよ、この野郎。
できることなら、尖った犬歯で口の中で膨らむものを噛んでしまいたい。
私は固く目を瞑る。
薄い壁を隔てた隣の部屋からはキーボードを叩く音が聞こえてくる。まるで怒っているような乾いた音だった。そこで、隣にも若い女の子がもう何日も泊まり込んでいたことを思い出す。
頭の上では男が喘ぐ。声を殺すことも忘れているようだった。私が締まりのない脇腹を軽く小突くと、男は束の間静かになる。
しばらくすると、男は急に固まった。私は唇を少し引く。そのすぐ後に男は精液を漏らした。
「……じゃあ1万5千円ね」
男は黄色っぽくなった白眼を向ける。
「うん」
私は受け取りながら、なるべく男の顔を見ないようにした。まだ男はぐずぐずとしている。
「……まだ、このネカフェにいるの?」
「まあね、家もないし仕事もないし」
「ふうん」
私はパソコンを立ち上げる。ふと視線を下げると、男のはめた指輪が目に入った。
「あんたって、結婚してるの?」
「え、うん」
「子どもは?」
「……女の子が2人」
私はそれ以上はなにも聞かなかった。
「また会いにきていいかな」
黙ったままの私に男は言う。思わず笑いそうになるのを私は堪えて、男を見る。
「だめだめ……明日も明後日もあんたみたいな男のちんちん咥えなきゃいけないんだからさ」
男の目が微かにきつくなる。
小娘に馬鹿にされたと思ったのだろうか。私はそれでも気にしなかった。
「早く帰って、邪魔。それに、もう二度と会いたくないね」
男は暗い顔をして出て行った。その途端、隣でしていたキーボード音が止んだ。
私は飛び出して、化粧室でうがいをする。吐き出した水道水は微かに白く濁っていた。
鼻の奥にはまだ男の精液の臭いがまだ残る。いつまでも離れない汚泥が染みつくような心地になる。
なんでこんなことになったのだろうか、ということはもう考えないようにしている。
念入りにうがいをする。水道水は次第に澄んでいく。この後もあの男と同じような男を相手にして日銭を稼がなければならない。
うがいを終えて鏡の中の自分を眺める。細かい傷のついた鏡の中に、とっても疲れてパサついている女がこちらを見ていた。人間の皺にも、幸せなものと不幸せなものがあることを初めてそこで知った。
契約を打ち切られた頃こそ転職サイトを開いたりしたが、もうそんなやる気は残っていない。貯金が底をついて、アパートを叩き出された辺りから私はまともに社会の中で生きていく気力を失った。
親に泣きつくことは、はなから頭になかった。真っ先に頭に思い浮かんだのは、実家で埃をかぶる勉強机だった。もう開かれることのない児童文学全集や、捨てられないまま束ねられた教科書の山を思うにつけ、あそこには戻りたくない。いい歳をした親と顔をつき合わせて暮らす勇気はなかった。
でもなんとかして、食わなければならないのだ。
最初は軽い気持ちから始めた。きっかけは格安のネットカフェでなんとなく見ていた夕方のニュース番組だった。そこで同じようにネットカフェを泊まり歩いて生活をする女たちを知った。そして、彼女たちが売春の真似事をして日銭を稼いでいることも知ったのだ。
モザイクの向こうから、女たちは悪びれもせず言ってのける。
「なぜ体を売っちゃいけないの。もう成人だしお互い合意の上だし……なんで駄目なのよ。どうせ誰も助けてくれないんだし、私は私をこれで養ってるんだから」
その声色には侮蔑にも似た何かがありありと滲んでいた。
私はそんな言葉に呆れるよりも深く納得してしまった。むしろ、よく言ってくれたとさえ思った。
その日から、私はネット上で彼女たちと同じように売春を始めた。
中年男の脂っぽい匂いがまだ残っているような気がする。ドラッグストアで買った安い香水をふりまく。
隣の女の子が戻ってきて、かさこそと袋を開ける音がする。唐揚げのような揚げ物のきつい匂いが広がってくる。私は鼻を摘んで息を止める。無駄なことだとは分かっていても、癖でしてしまう。人の生活音や匂いがこんなに不快なものだということだけにはどうしても慣れることができなかった。
iPhoneがポケットの中で震える。取り出してみてみると、“次の相手”だった。
「うん、駅前のネットカフェ……横断歩道渡ってすぐの」
相手は大学生の男の子だ。知り合ったのはついさっきのことだった。いつだって男たちは通り雨のようにやって来て、過ぎ去っていく。
若い肌の匂いは弾んでいた。
あたかも雨粒が弾けてアスファルトに染みこんでいくように、私の肌にも知らずに馴染むような気がした。男の子は友樹と自分で名乗った。それを信じるほど、私は甘くない。
あぁ、そうなのと流してさっさとベルトを解く。その仕草に商売女のいやらしさを感じたのか、友樹は眉間に皺を寄せる。
中年男にはない面倒臭さに、私はため息を吐いてみせる。目を閉じてまだ柔らかいものを飲み込む。頭の中でネジが巻かれていく。
なるべく自分のしていることを考えないようにする。今晩は何をそこのコンビニで買ってこようかとか、夜中に時間を潰すための動画は何を見ようかとか、そんなことばかり考える。
友樹が喘ぐ。遠慮のない声に、私は脇腹をつねった。びくんと口の中で弾むものがあってむせた。
しばらくそうしていると、友樹は無理に私の口を自分から離させると小声で「やりたい」と言った。
「嫌だよ」
「……ちゃんと、外に出すからさぁ。我慢できないよ」
「はぁ」
我慢ねぇ、と私は友樹の言葉を反芻した。
「いいよ」
「本当?」
「その代わり」
私は掌をヒラヒラとさせる。友樹はぼんやりとした顔を向けていたが、あぁと頷く。
「あんまり金ないんだけど」
私だってそうだ。
「割増払わないんだったらやらない」
「……もう5000円しか出せない。これ以上取られると帰れなくなる」
知ったことか。
「私には関係ないね」
友樹は渋々ぺたんこの財布から5000円札を取り出して私に握らせた。
私がそれをパソコンの脇に置いた。そのまま押し倒されて乱暴に股を割られる。
私の価値は5000円か、と天井を眺めながら思う。誰かが廊下を歩き、自販機でジュースを買う。両隣りからはキーを叩く音や、いびきのような音も聞こえてくる。友樹はまだ手こずっている。早く終わらせたくて、私は無遠慮にそれを握り締める。それから、導いた。機械仕掛けのように男の腰が動き出す。
擦れるような痛みを感じながら、私はパソコンの左下に小さく表示された時間を眺める。不意に灰色の樋口一葉と目があった。
早く終わらないかな、とそれだけを考えた。
眼が覚めると明け方だった。
体の太い関節が軋むような気がして、無理やりセックスをされたことを思い出す。5000円はすぐに使い切ってしまった。どれだけやっても追いつかない。それでも、ぎりぎりのところで生きていける。皮肉なのか、喜劇なのか分からない。
頭の中で今日かかる金の計算をする。大丈夫まだ足りる。まるでコップのフチで、表面張力ぎりぎりいっぱいまで膨らんだ水が堪えるように私も踏みとどまる。狭い空間で寝返りを打つ。隣の部屋から誰かがすすり泣くような音がする。ぼんやりそのまま起きていると、規則的な振動と軋みに気がついた。私は首を伸ばそうとして、やめた。
途切れ途切れに、かすれた喘ぎ声が聞こえる。私と同じことをしている、直感で悟った。
もしかすると、隣の女の子は私よりも若いかもしれないなと思った。しばらくすると服を合わせる音がして、誰かが出て行った。
誰もかれもが追い詰められている。
私は目を閉じて、壁に当たらない程度に脚を伸ばした。
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