第43話 撤退

 錦の旗が薩長連合軍の手によって掲げられた。幕府軍は賊軍となってしまった事で、これまでの勢いは急激に衰えた。自分たちが正義だと信じていたのに、その支えが突然無くなったのだ。

 官軍となった薩長連合軍の士気は上がる一方で、誰もその勢いを抑えることはできない。日が昇ると官軍となった兵士たちは、我らが正義とばかりに、手当り次第に幕府軍の兵士を斬り、銃弾で撃った。


「一人も生かしておくな!」

「おお!」


 一万を超える徳川の兵士たちは戦いを放棄し、散り散りになりながら逃走した。実は幕府が誇る歩兵隊は人を殺す経験が殆どなかったのである。それは二百五十年と言う長い期間を納めてきた幕府の、最大の弱点であった。


「土方さんどうする!」


 原田が苛立ちを隠しきれずに問う。土方は奥歯を噛み締め、じっと薩長連合軍を睨みつけていた。このまま此処にいれば、いずれ見つかり銃弾を浴びせられ滅びてしまう。


「くっそ……! 退くっ、大阪城に向けて撤退だ!」

「承知した。撤退っ!」


 このまま犬死するわけにはいかない。土方ははらわたが煮えくり返る程の怒りと屈辱をなんとか抑えこみ、撤退を決断した。まだ戦える。終わらせてたまるか、あいつらに好きにさせてなるものかという思いで。


「まだ伏見や鳥羽に生き残った隊士たちがいるだろう。誰か伝令を頼める者はいないか」


 一人でも多くの仲間を助けたい。可能な限りもがき、足掻きながら、それぞれが持つ武運にかけたいと思っていた。


「副長。俺が行きます」


――山崎さん!


「いや、お前は失うわけにはいかない。他の者に頼む」

「いえ、俺がっ! 行きます!」


 山崎の双眸が土方を矢のように突き刺した。この男が、こんなに熱く逆らうことは今までない。


「俺なら、何処に隊士が居るか分かります」

「だが」

「必ず! 必ず生きて戻ります。行かせて下さい!」


 椿は黙って聞くしかなかった。本当は行かせたくない。行かないで欲しい。しかし、自分に止める権利など初めからない。新選組隊士として、武士として山崎は任務を全うしようとしているからだ。

 土方だって、椿の心情を思えば代わりの者を出したい。しかし、山崎が言う通り他に走れるものは居なかった。土方はその山崎の強い意志を受け、暫くののち、決心したのか口を開いた。


「山崎烝、貴殿に全隊士の撤退命令を託す。必ず生きて帰れ! 命令は絶対だ! 生きて帰るんだぞ、いいな!」

「御意!」


 土方の撤退命令を預り、山崎は再び鳥羽街道を駆け戻ることになった。山崎は土方に一礼し、頭を上げると視線を椿に向けた。椿の顔を焼き付けるように暫く見つめ、ふわりと笑って見せたのだ。

 それを最後に山崎は背を向け、傍に繋いであった馬に跨った。手綱を握り、あぶみで軽く馬の腹を蹴ると、あっという間に土埃の中に消えていった。


「山崎さんっ!!」


 椿は堪えきれずに叫んだ。でも、もうその声は届かない。

 山崎の背中が小さくなっていく。それをじっと見送るだけだった。


――どうか、どうかご無事で! 必ずお戻りください……


退け! 大阪城を目指せ! 新選組、撤退!」


 近くで叫ぶ原田の声が遠くに聞えるほど、椿の頭は霞んでいた。土方が椿の手を引きいて走り出す。


――泣かないの! 振り向かないっ。山崎さんは必ず戻ってくるから!


 椿は歯を食いしばって走り続けた。土方も椿の気持ちを痛いほど理解していた。分かっているから何も言わず、その細い腕を握りしめ大阪目指して走り続けた。




 ◆ ◆ ◆



「新選組伝令! 撤退っ! 大阪城へ走れーっ」


 山崎は馬と同化するように、低い姿勢で鳥羽街道を駆けた。

 刀で斬り合う隊士たちの間を抜け伝令を飛ばす。銃弾が飛び交う中も、砲弾が落ちる中も山崎は走り続けた。少しでも多くの仲間を救うために。


「新選組全隊士に告ぐ、撤退––っ!」


 まだ、錦の旗が上がった事を知らない者たちは、刀を振って戦っていた。


「山崎!」

「斎藤さん! ご無事でしたか」

「ああ、かなり酷いありさまだが」

「副長より命令です。撤退して下さい。大阪城へ」

「承知した」


 言葉少なめに交わすと、山崎は再び伏見へ向けて駆けて行った。斎藤も隙あらばと、斬り掛かって来る官軍の兵士を倒しながら、大阪へ向けて走った。

 山崎の伝令を聞き、次々と隊士たちが引き揚げて行く。散り散りになりながらも、みなは大阪城を目指した。




 ◆ ◆ ◆




 その頃、命からがら撤退してきた者たちが大阪城へと入りはじめた。

 先に到着した土方はこの戦の立て直しを図るため、将軍である慶喜への目通りを願い出た。


「江戸に向かった、だと!」


 既に徳川慶喜は大阪城から、半数の兵士を連れて船で江戸に向かった後だった。


「なんてザマだ!」


 慶喜は大阪での戦いを放棄したのだ。土方の中でまたひとつ、絶望という名の闇が覆い始める。

 その間も続々と幕府軍の兵士たちは入城していた。皆、互いに支えあいながらで、無傷で戻って来る兵士のほうが珍しいくらいだった。


「椿じゃないか」

「良順先生!」


 椿の師である松本良順は怪我をした兵士や、巻き込まれた町民の治療をしていたのだ。椿もこれから引き揚げてくる隊士に備え、医療班に加わることになった。ここで待てば必ず山崎に会えると信じて。


 治療をして知る現状は、あまりにも酷かった。銃を向けられた上に、刀で斬りつけられた者が多かったからだ。弾を取り除き、縫合し、化膿止めの薬を擦り込んでキツく縛る。繊細な指の動きに加えて、最後は力を要する。何人、何十人と同じ事を繰り返せば、指も腕もいうことを利かなくなってくる。細かい作業の時になるとどうしても指先が震えだす。


「椿、大丈夫か。少し休みなさい」

「いえ、大丈夫です!」


 休んでいる間に山崎が戻ってくるかもしれない。もしかしたら、怪我をしているかもしれない。それを考えると、椿は休む気持ちにはなれなかった。どうしてもこの場から離れたくなかった。次々と運ばれる兵士たちを一人づつ確認する。瀕死の者が運ばれて来る度に、もしかしたらと心臓が速まる。

 それが山崎ではない事に密かに安堵し、出入りのある方向を注視しながら治療を続けていた。




ダンっ!


 突然戸が激しく開けられた。驚いて振り向くと、そこには永倉が立っていた。


「永倉さん! よくぞご無事でっ」

「っ、椿ちゃん」

「永倉さん、お怪我でも?」

「あ、いやっ。ははっ! 見てみろ無傷だぜ。凄いだろ」


 永倉は椿に腕を上げて、威張るように無傷を強調した。


「ふふふ、さすが二番組の組長ですね」

「おうよ!......で、すまん。松本先生呼んでくれるか」

「はい」


 椿は松本に永倉がを呼んでいる事を伝えると、二人は入口で何やらヒソヒソと相談を始める。椿はそれを気にしつつ、怪我人の治療にあたった。


「うむ、分った。私が行こう」

「すまない」


 松本は硬い表情で永倉の申し出を受けた。


「椿、少し外す。ここを頼めるか」

「はい、急用ですか」

「ああ、幕府側のお偉い方の治療だ」


 松本はそう言って苦笑いを見せた。


「先生私も後で......(もう、いらっしゃらない)」


 松本の姿はもうなかった。あんな表情をするぐらいだ、難しい治療なのかそれとも扱いにくい役人なのか。

 我に戻ると、あちこちで呻き声がする。そんな事よりも、今は目の前にやるべき事がたくさんある。

 椿は薬を手に広間を走り回った。



 そして松本は、永倉に連れられて少し離れた部屋へ通された。

 そこには土方を始め新選組の面々が揃っていた。松本の到着を待ちかねたように土方が口を開くいた。


「松本先生。これを」

「......酷いな」

「ああ、腹に何発か銃弾を受けている」

「うむ」


 松本は布団に仰向けに寝かされた男の傍に腰を下ろした。まだ、息はある。しかし目は固く閉じられ、虫の息と言っても過言ではなかった。着物を捲ると、真っ赤に染まったサラシが巻かれてあった。


「これは?」

「たぶん、自分で巻いたのだろう。これにはその心得がある」

「大した男だな」

「ああ。だから先生! こいつを助けてやってくれっ。頼む、この通りだっ」


 掠れた声で、土方が松本に深々と頭を下げた。取り囲むように座っていた他の者も頭を下げる。


「松本先生、お願いします」

「何でもするから、頼む」


 新選組の組長たちが、自らの額を畳に押し付けて助けてくれと請う。じっと彼らの姿を松本は見つめていた。新選組の局長や副長、そして組長たちがこの単なる使い捨てのような男を、何故ここまでして救いたがるのかと。


「頭を上げてくれ、医者に絶対的な力は無い」


 そう言うと、土方が悲痛な面持ちで言った。


「こいつはっ……」


 松本はそれを聞くと、目の前に横たわった男の治療に取りかかった


「私の持ちうる全ての医術を、試してみるよ」


 男は、ここに生きて運ばれた者たちの比ではないほど重症だった。傷の状況からして半日以上は経っているのではいだろうか。

 それでも尚、息をしているのが奇跡だと言いたいくらいであった。

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