第36話 粛清

 慶應三年十一月十八日。

 近藤はかねてより伊東に政治についての意見交換と資金繰りの相談をと誘いをかけていた。その誘いを受けた伊東がやって来る日だ。朝から屯所内はピンと空気が張りつめており、皆が険しい顔をしていた。


 近藤の妾宅にて土方も加え、今後の政治についてさかずきを交わす。伊東の意見に同調する素振りを見せながら、酒に酔わそうという流れだ。

 卑怯ではあるが伊東の剣は北辰一刀流で、日本でも指折りの流派であった。確実に亡き物とする為には、手段を選んでいる場合ではなかった。

 酔った伊東を帰り道で襲うのは、槍の使い手である大石鍬次郎おおいしくわじろうが担う事となった。現場の指揮をとるのは原田左之助と永倉新八だ。その他二十数名の隊士がこれに出動することになっている。

 伊東は部下を何人連れてやってくるのか不明。念には念を入れ、武具(防具)も装備することになった。


「いいか、酔っぱらった伊東は七条油小路を通るはずだ。そこでれ。仕留めたら、御陵衛士に知らせが走るようになっている。必ず奴らは伊東の死体を引き取りに来るはずだ。その時はいいな、全員で叩け!」

「はい!」


 伊東の命の危険を知らせるための町人を装わせた隊士を仕込んである。間違いなく御陵衛士は、すぐに伊東を助けに来るだろう。


「原田くん、永倉くんいいかね」


 近藤が二人を呼び、声をひそめて言った。


「もし、伊東を引き取りに来た者の中に藤堂くんがいたら逃がしてやってくれ。彼は前途有望な若者だ」

「はい」


 江戸で共に剣を磨いた藤堂の事を近藤は気に入っていたのだ。流派は違えど、少なかれ同じ志をもって浪士組として京に上がったのだ。人懐こい爽やかな笑みを見せる青年は、真っ直ぐで皆が好いていた。



 椿は土方に呼ばれ、別室で待機していた。斎藤と逢引を装い宿で一晩過ごさなければならない。ただそれだけの事なのだが周りの緊張がひしひしと伝わり、椿自身も自然と固くなった。


「待たせたな」


 土方が山崎を連れて部屋に入ってきた。


新選組こっちの息がかかった茶屋を手配済みだ。お前は黙って斎藤とそこに入ればいい」


 伊東が近藤の妾宅に入る頃に合わせて、斎藤とその茶屋で落ち合う事になっている。全てが終わるまでそこに潜むのだ。


「明け方までには終わるだろう。終わったら山崎を迎えによこす。それまでゆっくり寝ていろ」

「っ、ゆっくりだなんて寝ていられませんっ」

「ふっ。そう固くなるな。まるで本当の逢引前のようだな」

「なっ、なんて事を仰るのですか!」


 椿は顔を真っ赤にして土方を睨みつけた。


「そうやっていつものお前で居ればいいんだ」


 ––いつもの私……


 椿は思わず山崎の顔を見た。山崎は目元だけ緩め首を縦に振った。


「はい。いつもの私で茶屋にてお待ちしております。皆さんにお怪我がない事を祈っております」

「おう。そうしてくれ」


 そうは言っても緊張を抑えることは出来ない。椿は自分に託された事だけはしっかりやろうと気持ちを引き締める。どうか皆が無事で帰って来ますようにと願いながら。

  


 ◇



 いよいよその刻限が来た。出動隊士たちは夜の巡察を装って屯所から出て行く。椿は山崎と茶屋の近くまで行くことになった。


「すみません。本当は一人で行くべきところを」

「こんな薄暗くなった町を、椿さん一人で歩かせるなんて俺が無理です」

「ありがとうございます」

「仕方がないですよね。今までずっと御陵衛士あちらに潜んでくださったのですから。今回だけは椿さんをお貸しします」

「えっ、ふふっ。山崎さん、まだ言ってる」


 少し不貞腐れた山崎の表情を見て椿は笑ってしまう。それを見て山崎もふっと頬を緩めた。

 山崎は椿には笑っていてほしいと思った。今夜どんなに悲惨で残酷な結果が待っていようとも、椿の笑顔だけは失いたくない。


「この角を曲がった先にある茶屋です。俺が来るまで大人しく待っていてくださいね」

「はいっ。山崎さんもお気をつけて」


 山崎と別れ、椿は茶屋へと足を向ける。ああは言ったものの、やはり緊張は隠せない。椿は胸元の合わせをぎゅっと握り足を前に進めた。

 角を曲がると、入り口の前に既に斎藤が立っていた。椿は小走りで斎藤の元へ行く。


「走らずともよい。逃げはせぬ。しかし、まるで本当の逢引のようだな」

「斎藤さんっ」


 斎藤はわざと椿を煽るように言った。耳まで真っ赤に染めた椿が口を尖らす。思った通りの反応に斎藤の頬は自然と緩んでしまう。


「入るぞ」


 その一言に再び緊張が走った。


「はい」


 斎藤は黙って椿の手を取り、茶屋の戸に手を掛けた。手を握られた事でビクンと跳ねてしまう椿を初々しく感じながら。




 斎藤と椿が茶屋に入ったちょうどその頃。伊東は近藤の妾宅へなんと一人でやって来たのだ。これには近藤も土方も驚いた。

 普通なら腕の立つ部下を連れてくるのが当たり前だ。共に新選組に居たとはいえ、仲違いをしたも同然なのだから。こちらは万が一に備え、別室に沖田を控えさせているくらいだ。


 三人は以前より話していた資金の話や、今後の幕府の行く末、薩長の動きなどを語り合った。もちろん、伊東の話に傾き始めたと見せかけながら。


「うむ。やはり伊東さんの考えは間違いだとは言えないな。もっと早くにこうして話をすべきだった。なあ、歳」

「ああ。認めねえわけにはいかねえな」


 そんな二人の言葉に伊東は気を良くし、酒も手伝ってか饒舌になる。


「お二人はやはり賢い。もはや幕府だけで世を回してはならないのです。ここは一旦、朝廷に政権を還し攘夷に向けて一致団結すべきなのですよ」

「全くその通りですな」


 近藤が前のめりになって伊東の話を聞く。土方が酒を勧めると、伊東はさらに上機嫌になって行く。そして、次第に呂律が怪しくなる。



 その頃、椿は緊張のせいで味がしない夕餉を食べ、斎藤に酒を注いでいた。


「くくっ。そんなに震えていては注げぬだろう。俺の事は気にするな。椿は横にでもなっていろ」

「そう言う訳には行きません。皆さんが頑張っているのに、私だけ横になるなんて」


 斎藤は、横になれと言って横になる椿では無いことくらい知っている。椿のそう言う意地らしい部分が見たくて、ワザと言ったのだ。斎藤は刀を自分の肩に立てかけて、片膝を立てた状態で座っていた。万が一に備えて、いつでも刀を抜けるようにと。

 ここに居るのは自分だけではない、椿もいるのだ。最悪は椿だけでも逃さねばならないと思っていた。



 ◇



 そして、亥の刻(午後十時から十二時の間)を迎えた頃。伊東は立そろそろ帰ると言い出した。近藤は、続きは改めてと日取りまで決めて送り出す。


「駕籠でも呼びますか」

「いやあ、大丈夫だ。そんなに遠くないから酔い覚ましに歩いて帰るよ」


 伊東は覚束ない足取りて近藤の妾宅をあとにした。かなり飲まされた伊東は真っ直ぐ歩いていられない状態で、油小路までやって来た。


 通りの陰に潜んでいる隊士たちは、伊東の姿を見てゴクリと生唾を飲み込む。この任務を任せられた大石は槍を握り直した。ぎしっと音がするほど強く。


 −−来た!


 大石は勢い良く飛び出し伊東の背後から長槍を突き刺した。首付近から肩、そして心臓を目がけて。


「死ねっ!」

「ぐはぁぁ、貴様ぁぁ」


 酒に酔っていようとも伊東は一流の剣士だった。しかしそれが禍となり、気配に振り向いたところを正面から突かれたのだ。


「はぁ、はぁ、はぁ。新選組かぁ––、くそったれがぁ!」


 深手を負いながらも近くにあった法華寺に逃げ込んだ。慌てて伊東の後を追う数名の隊士。なんとか追いつき飛び込むと、伊東はその寺の入り口で絶命していた。

 なんと呆気ないことか。

 その後、数名の隊士で伊東の亡骸を油小路七条の辻付近に放置。高台寺にいる御陵衛士へ伊東の死亡を知らせる為ため、町民に化けた隊士を走らせた。まだ作戦は終わってはいない。


 原田始め、二十数名の隊士は家屋の陰に潜み、伊東を回収に来る御陵衛士たちを息を殺して待っていた。



「いいか、合図は鉄砲だ。それがなったら一気に斬りかかれ」

「はい!」


 どれくらい待っただろうか。駕籠を担いだ御陵衛士七名が伊東の遺体の傍で止まった。

 その時、原田と永倉は気付いた。


 ––平助が来た!


「藤堂は斬るな」と言う原田の声に『パンッ!』という乾いた鉄砲の音が重なった。


 ––しまった!


 原田と永倉は藤堂を目掛けて走った。伊東の遺体を駕籠に入れ、藤堂がすだれを下そうとしたまさにその時。


「うっあぁっ!」


 生々しい身を切り裂く音と叫び声がひびいた。


 藤堂の背中に激痛が走った。反射的に後ろを振り返った所を今度は頭上から一太刀浴びせられる。


「むっ」


 声を出す暇もなく藤堂平助は額をかち割られて崩れ落ちた。原田と永倉が近くまで来たときは、既にこと切れたあとであった。

 それをきっかけに新選組と御陵衛士との壮絶な斬り合いが始まる。圧倒的に有利なはずの新選組だったが防具が重かったのか、何もつけていない御陵衛士たちが身軽だったのか。たった四名を倒したのみで、残りの三名を薩摩藩邸内に逃がしてしまう。


 はぁ、はぁと不気味な息遣いだけが闇に響く。


 暗闇での死闘は類を見ないほど悲惨な現場であった。毛髪や人体の皮片、肉片、手の指などがこの通りに飛散している。刻限は丑の刻から寅の刻(午前三時から四時)に変わろうとした頃、ようやく事態は収束した。


 その場で粛清された藤堂平助始めとする、四名の御陵衛士の遺体は放置したままに……。



 そうやく空が白み始めた頃、茶屋の一室に迎えがやって来た。


「入っても宜しいでしょうか」

「山崎か。構わん」


 斎藤の返事に山崎は静かに障子を開けた。そこには窓辺に刀を持ったまま座った斎藤と、壁に寄りかかったまま眠る椿がいた。


「終わったか」

「はい。数名取り逃がしたようですが、御陵衛士の存続は不可能かと思われます」

「そうか」

「ただ、残念ながら、藤堂さんが」


 その一言で悟った斎藤は「あい、分かった」といい、窓の外へ顔を向けた。



 土方からの指示で斎藤は屯所には戻らず、紀州藩の三浦という男の護衛につくことになった。坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺の疑いをかけられた男で、新選組が保護するようにと達しが出ていたからだ。


「あの、斎藤さんは」

「すぐに屯所に戻る訳にはいきませんから、一旦護衛で離れます。時期を見て帰隊するそうです」


 屯所までの道のりを、山崎は来た時と違う道を通った。椿は何故わざわざ遠回りをして帰るのか、と気になった。山崎は黙ったまま椿の少し前を歩いている。聞いてはいけないような気がする。それでも椿は聞かずにはいられなかった。


「山崎さん、どうしてこの道を」


 振り向いた山崎は視線を下げ、ゆっくりとした口調で椿に話した。


「昨夜、油小路七条で伊東さんを粛清しました。その後、駆け付けた御陵衛士七名と新選組は死闘を繰り広げました。今もまだ遺体は晒されたままなのです」

「晒された、まま……」


 山崎は無言で頷いた。そして、山崎のその瞳がわずかに揺れたのを椿は見逃さなかった。


「その晒された遺体の中に隊士のどなたか、いらっしゃるとか」

「いえ。隊士は、いません」

「では」


 山崎は瞳を閉じ、一度大きく深呼吸をした。いずれ分かることだと諦めたのか、椿の目を見てこう言っった。


「その中に藤堂さんが、いらっしゃいました」

「やっ―!」


 椿は両手で口元を覆い声を必死に抑えた。藤堂が現れても、彼だけは斬らないと言っていたはずだ。事前に椿は土方からそう告げられていた。


 椿に、頭を強く殴られたような衝撃が走った。

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