第26話 擾乱を予期しながら

 夜もふけた頃、土方の部屋の外から控えめに声がかかった。土方はやっと来たかと、障子を開けそれが山崎であることを確認した。


「夜分に申し訳ございません。あの」

「椿なら居ねえぞ」

「っ!」


 山崎は自分が尋ねる前に答えが返ってきたことに体を強張こわばらせた。それは何を意味するのか山崎はすぐに理解出来ただろう。椿は、此処に居る。そう言われたも同然だった。


「前にも言ったが覚えているな。泣かせるような事があったら俺が貰う、と」


 山崎は思わず土方を睨んでしまう。


「お前は、言葉が足りねえんだよ」

「……」

「お前の気持ちはようく分かる。だがな、椿の気持ちも分かる。おまえ等は、互いの事が好き過ぎるんだ。反省しろ!」


 土方はそこまで言い終わると、ピシャリと障子が閉めた。山崎は何の反論もできぬまま拳を握り締め、しばらくの後ようやく腰を上げた。


 土方にしてみれば、椿の事は可愛くて仕方がないのだ。自分に気持ちが向くなら喜んで受け止めてやりたいとまで思ったこともある。しかし、椿には山崎しか見えていない。このやり取りを椿が聞いている事を、承知の上で土方はあえて山崎を突き放したのだ。

 椿は布団の中で、彼らのやり取りを聞いていた。土方は自分の肩を持ち、一方的に山崎に反省しろと告げたことに心が痛んだ。



 夜も更にふけたころ、椿は土方が眠っているのを確認して静かに布団を抜け出した。音を立てぬよう丁寧に土方に頭を下げ部屋を出て行った。


――まったくだよ。まあ、お子様のする喧嘩は単純で手がかからねえがな。


 眠ってなどいなかった土方は、大人の器で二人を見守ることにした。





 土方の部屋を出た椿は何も考えずに山崎の部屋の前まで来てしまった。しかし、啖呵を切って出てきた手前この夜更けに、のこのこと戻る勇気は流石になかった。


「はぁぁ」


 長い溜息を吐き部廊下に座ると、冬の匂いを漂わせる風が椿の頬を撫でた。羽織も着ないまま寝間着のまま出てきてしまった。椿は山崎の事となると後先考える余裕がなくなってしたまう。寒さに加えて後悔と孤独が椿に押し寄せた。泣いたって仕方がないのに、涙が勝手に出てきてしまう。


「うっ……ひっ、く」

 

 まるで子供が泣いるようだった。椿は袖で涙をゴシゴシ拭いて、膝を抱え目を閉じた。


 その頃、山崎は土方から言われた事を考えながら夜風にあたり、自身の言動をを振り返っていた。さすがに秋とはいえ夜は冷える。

 山崎は部屋に帰る途中の廊下で、黒い塊を見つけた。自分の部屋の前のようだが、あれはいったいなんだろうか。神経を研ぎ澄ましてみたものの悪い気配は感じられない。山崎は気配を消し、それにそっと近づいた。そして、


「椿っ……さん?」

「……」


 山崎は椿の肩に手をかけて驚いた。


「冷たい!」


 どれくらい此処に座っていたのか、椿の体はすっかり冷え切っていたのだ。


「椿さん! 椿さん!」

「ん、んー」


 眠っているのか気絶しているのか、この暗闇では判断がつかない。山崎は椿を抱き上げ部屋に駆け込んだ。

 椿を布団に寝かし行灯あんどんに火をつけると闇にぼんやり、椿の表情が浮かんだ。目は固く閉じ、明らかに泣いた後だと分かった。睫毛は未だ濡れていて、頬には涙が伝った跡がしっかりと残っていたからだ。

 山崎は椿をひどく傷つけてしまったのだ。本当は分かっている。椿が自分以外の誰かと何かあるわけはない、ずっと自分に思いを馳せてくれいたのだと。ただ、離れていた時間が山崎の椿への思いを、少しばかり歪ませてしまったのだ。



「椿さん!」


 山崎は目を閉じたままの椿を抱え起こすと、ぎゅうぎゅうと抱きしめた。自分が未熟過ぎたのだ、許してほしい、嫌わないで欲しいとでも縋るように。そして、冷えた体を温めるため、腕や背中をさすり続けた。


「んっ。あれ、山崎さっ」


 椿が目を開けて、自分の体を抱きしめているのが山崎だと気づいた。しかし、状況がいまいち呑み込めない。


「椿さん! よかった。なぜ外にいたのですか。こんなに冷えてっ。部屋に入ってくれていればっ」

「ごめんなさい。でもっ、勝手に出ていったのに、また入れて下さいだなんて言えなくて」

「どうして……っ」


 山崎の声は震えていた。込み上げてくる何かを必死で堪えているような、無理やり絞り出したような声だった。


「やまっ、ざきさん」

「……」

「もしかして、泣いてっ」

「いません!」


 山崎は椿を抱きしめたまま顔を見せようとしない。椿はまさか、山崎が泣くはずはない。そう思いながらも、もしかしたらと考えてしまう。だとしたら、自分が泣かせてしまったのだと思い至る。


「山崎さん、ごめんなさい。私、話も聞かずに飛び出してしまって。そういうつもりじゃなかったんです。えっとぉ……ああんっ、もうっ!」


 今度は椿が山崎を抱きしめ返した。ありったけの力を込めて。時折、山崎のその背中をさすりながら。


「椿さん」

「男の人を泣かせるなんて最低ですよね。怒ってください。私の頭が足りないからっ、いけないんです!」

「ちょっと、待って下さい」

「待ちません!  私、山崎さんの事を誰よりも好いています。好きすぎで再会が嬉しすぎて、気持ちの抑えがきかなくて、それでっ」


 椿は自分が山崎を泣かせてしまったと勝手に思い込んでいるようだ。山崎は違うと口を挟もうにも、その隙が見つからない。


「椿さん、俺っ」

「いいんです! 私もたくさん泣きましたから気にしないで下さい。見えていませんから、山崎さんの泣き顔は見ていません」


 山崎は椿の興奮が落ち着くまでは何を言っても無駄だと知り、反論はもう暫く待ってからにしようと諦めた。


「ふっ」

 

 つい山崎は笑ってしまう。椿は自分が泣いても気にしないと言う。やはり彼女の懐は誰よりも大きく、そして誰よりも清いと思った。


「椿さん」

「はい」

「貴女だけですよ。こんな俺を、こんなにも想ってくれるのは」


 山崎は椿を再び布団に横たえた。そして、自分も隣に潜り込み椿の体を引き寄せた。冷えた体はすっかりと温もりを取りもしている。


「椿さん。本当に貴女には敵いませんよ」

「山崎さん、何を言って……ふ、んんっ」


 まだ何か言いたげな椿だったが、山崎がそれを許さなかった。山崎が唇で塞いだからだ。撫でるようにそっと触れれば、堪りかねた椿が控えめに隙間を開けた。

 湿った音と熱い吐息が漏れる。椿の寝間着の胸元はとうにはだけ、絹の様に艶のある肌が山崎の目に映った。


「あ、んっ」


 椿は山崎の着物の合わせを無意識に強く掴んでいた。もっとお願いと強請るように、時々胸を押し付けてくる。山崎は片方の手で椿の寝間着を更に押し開き、するりと手を差し込んだ。


「椿さん。どこがいいですか。貴方の善い所を教えてください」

「ゃ……そ、んなっ。言えない」

「言ってください」


 山崎の指の動きは巧みだった。でも声を上げるわけにはいかない。隊士たちに聞こえてしまう。そう椿がうつつに戻ろうとした時、山崎の熱が椿の体に収められた。


「椿さん。貴女は本当にっ、何処もかしこも温かいっ」


 いつだって、この体を求めていた。どんなに忙しくても、誰かと笑っていても、心の隙間を埋めてくれる者はどこにもなかった。離れてみて尚もまた、自分には椿しかいないのだと思い知らされる。

 狂おしくて、憎らしくて、とても愛おしい人。この世がどんなに乱れようとも、二人で居ればそれも小さな擾乱じょうらんだと笑える日がくる。


 いつか必ず、良き時代が来る。いや、掴み取るのだ。だからその日まで共に生きていたい。


「貴女を傷つけたくなのに、だめな男です」


 静かに意識を飛ばした椿に山崎はそっと囁いた。この乱世、命の保障は何処にもない。





 そして、一行は翌朝、日の出と共に宿を出発し、懐かしき屯所に帰り着いた。


「お! 椿。元気だったか」

「原田さん! おかげ様で」

「なんだよ。見ねえうちに、一段と色っぽくなりやがって」


 原田は屈んで椿の頬を指で突いた。さすが原田左之助である。女の変化は見逃さないのがこの男の天性なのだろう。


「帰って来て早々に悪いんだけどよ、椿に客だ」

「私にお客さま、ですか」


 そのお客様は局長の部屋で待っていると言う。椿ほそんな大物がどうして自分のお客様なのだと不思議に思いながら、言われるがままに向った。



「局長、椿です。ただ今戻りました」

「ああ、入りたまえ。ご苦労だったね」


 近藤に促され部屋に入る。もう一度頭を下げ再び顔を上げた。近藤の向かいに座る肩幅の広い大きな男が目に入った。その男は椿の方を振り向き、いきなりニカッと笑った。


「ははは! 本当に椿だったか!」

「ああっ!」


 それは、椿がもう一度会いたいと願っていた人物であった。

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