血ヲ吸ウ鬼・肆


 その日の晩、三毛縞は一人自室で白紙の原稿と向き合っていた。

 聞こえるのは振り子時計の音だけ。ここ数日、東都の夜はいつもに増して静かだった。


「……静かすぎるんだよな」


 三毛縞は肩を回し息を吐きながら椅子にもたれ掛かり天井を見上げた。

 相変わらず筆の進みは笑えてくるほど悪い。書いては消してを繰り返し、どうにか掃除したはずの書斎はまた床に落ちた原稿用紙の山になっていく。


「通り魔事件のせいか」


 ぽつりと呟きながら三毛縞は窓の外を見た。

 部屋から見える通りは人一人歩いていなかった。時刻は深夜。こんな時間に人が出歩くなんて滅多にないのだから、いつも通りのことなのだけれど、やはりどことなく雰囲気が違うように思える。

 正体不明の通り魔に怯え、東都を行き交う人間が減り、東都全体が不気味な雰囲気に飲み込まれているのだろう。

 人の不安や恐怖が怪異というものを呼ぶのであれば、まさにこの街自体が怪異に巻き込まれているかのようなそんな酷く暗く重たい空気が流れていた。

 この数日、鴉取の姿を見ていない。

 彼はこの通り魔の原因は人間の仕業ではなく怪異によるものだといっていた。だが、怪異となると我先にと進んでいくはずの彼がまだ表立って行動していない。


「怪異じゃなくて、化物……か」


 鴉取がいっていた言葉をぽつりと呟く。


「——通り魔、殺人……出血死」


 ぽつりぽつりと三毛縞は言葉を呟きながら、原稿用紙に単語を書き込んでいく。

 記憶を丁寧に丁寧に手繰り寄せながら、今まで見て得てきた情報を一つ一つ整理していく。


「姿の見えない通り魔。襲われたことに気づかない被害者」


 花街で出会った稽古の菊乃。彼女は首筋の痛みを感じたが、誰かに襲われたことにも気づいてはいなかった。


「首筋に虫に刺されたような痛み、二つの穴……貧血、出血死——」


 見世物小屋から帰った夜、八咫烏館の前で倒れていた女性の死体。


「白い体、感じる視線、獲物……怪異。化物————血を吸う鬼」


 また一つ一つと原稿用紙に単語が増えていく。

 なんだか今日は頭がとても冴えているような気がする。これまで新作の話が思いつかずどれもぱっとしないものだった。だが、今なら、書けるような気がした。

 今なら、なにかわかる気がする。


「——————」


 深呼吸をして、万年筆にインクをつける。

 そして小説家三毛縞公人は目を閉じた。


 瞼に映る赤。血溜まりの中で倒れる女。血の気を失った白い四肢。虚空を見つめる瞳。

 若い女性を襲う通り魔。初めての殺人。そして暴走した通り魔は、無差別に人間を襲い始める。姿を顰めながら動いてきた通り魔はまるで自分の存在を示すように獲物を狩りはじめた。その姿はまさに鬼。

 夢の中で感じていた視線。獲物を見定め舌舐めずりする姿。影も形も見せぬ人の生き血を啜る鬼の化物。


「————ああ」


 ずっと晴れなかった頭の中の霧がさっと晴れていく感覚。

 ああ、きっとこれしかない。これなら書ける。

 三毛縞はゆっくりと目を開けた。そこにはもう迷いの色は見えなかった。

 狙いを定めるようにただ真っ直ぐと原稿用紙を見つめる。持っていた万年筆のペン先から血のように一滴インクが垂れた。


「これだ……」


 三毛縞は妖しく笑いながら一番上の原稿用紙を丸めて捨て、無我夢中でペンを走らせた。

 今までの遅筆が嘘のようにすらすらとペンが動いていく。まるで生まれ変わったかのようだ。

 頭の中で勝手に物語は動き出す。登場人物が生き生きと動き出し、脳内に鮮明な映像となって駆け巡る。後は自分がそれを原稿用紙に物語を書き綴ればよい。

 自分の原稿を信じて待っていた井守にようやく顔向けができそうだ、と三毛縞は日が昇るまで原稿と向かい合っていたのであった。

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