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 嫌な感じはしない。

 朝霧未海は門の前で立ち尽くしていた。


 あれから一週間。京子さんから教わった秘策『病気で記憶があやふや』がかなりいい感じだ。家が隣の城岩市で、なんと一戸建てで、勿論学校も違うんだけど、みんながみんな自己紹介してくれるのだ。

 ただ、不思議な事が幾つかあった。例えば以前のクラスメートを学校で何人か見かける。

 麗香ちゃんも見かけた。

 京子さんにメールで報告すると、その夜電話がかかってきた。

「これは、あのトカゲからの受け売りだけど――未海ちゃんが元々住んでいた家の辺り、住んでいた人がゴッソリ入れ替わっていてね、その影響、まあ、あれが言うにはバタフライ効果みたいな物だとかなんとか。つまり、あの付近に住んでいる人が違う場所に住むことによって、そこにいた人が別の場所に住むことになる、とかなんとか」

「はあ……」

 電話の向こうで京子さんは笑った。

「難しいよね。あたしも何となくしかわからないから、未海ちゃんは『そういうものだ』って思ってればいいんじゃないかな? 未海ちゃん、町を歩いていて時々さ、妙な空き地とかって見たことない?」

 ああ……そういえば今の学校に行く途中で猫が集会している場所があったっけ。

「あのトカゲが言うにはね、ああいう場所の幾つかは、この前みたいな事があった時に、無くなった場所が埋まる際にできる空白地なんじゃないかって。」

 よく、判らない。

 判らないが――ゾッとした。

「まあ、そっちは気にしなくていいよ。大体は金持ちがめんどくなってほったらかしてるだけだから。他には、何かあった?」

「はあ……あ! あの、そう! 吃驚したんですよ!」

「なになになに?」

「あのね、前の家でお隣に住んでた、おばちゃんが同じ町内に住んでるんです! 今日、会ったんです!」

「へえ! それは……ううん、でも、未海ちゃんのことは覚えてないんだよね」

 未海は電話の子機を持ったままぶんぶんと頭を振った。

「そうなんですけど、そうじゃないんです! あたし嬉しくて駆け寄って、みずほおばちゃん! って言っちゃってから、しまったぁって思ったんだけど、思ったんだけど!」

 未海の浮き浮きとした口調に、京子が笑い声を上げた。

「落ち着いて落ち着いて!」

「うん! でね、それからがすごいの! みずほおばちゃん、あたしの名前を言ったの!」

「えぇっ!? ちょっ、それ、どゆこと?」

「みずほおばちゃん、たしかに『あら、未海ちゃん!』って言ったの。それから、あれ? って顔をしたの。『何処かで会ったことあるのかしら?』って不思議そうに言ってた!

 あたし、海のお土産貰えたんだ!」

                   *

 あたしはすぐに真木にメールをした。程なく電話がかかってくる。

「それはね、京さん。前にも言ったように神虫現象という奴は記憶に対する改変が完璧ではないのだ。

 時間、深度、詳細、色々な面で個人差が激しい。逆にそうでなければ宏観の不確かな噂、都市伝説として残らないのだね。君と祖母の事を思い出してみたまえ。君は、前々からぼんやりと好感を持っていたじゃないか。

 彼女がイレギュラーなのは、彼女の資質の所為なのか、それとも、御霊桃子と同じ空間に長時間いた所為なのか、はたまた別の理由なのか、それははっきりとは判らない。

 だが、まあ、この場合は少々ロマンチックに言うべきで――」

 真木らしからぬ言葉をあたしは電話口で鼻で笑った。

 だが、まあ、いい解釈だとは思うので、未海ちゃんにそれを伝えた。

                   *

 縁。

 魂の結びつき。

 奇跡。

 どれもこれも、普通にいる時ならば、へー、という感想しか出てこない言葉。

 だが、未海にとって、今、この瞬間、インターホンを押すこの瞬間には、それを信じたい気持ちで一杯だった。

 だけど……。

 新しい学校で、麗香を見かけた時は、心の底から嬉しかった。だけど声はかけられなかった。スマホから麗香の番号が消えていたからだ。

 廊下ですれ違っても、麗香は未海の事を目に止めようともしない。

 思い切って声をかけてみようか――そう思いながらも、日々は過ぎていき、これではいけない、と自分の尻を叩き、今、未海は麗香の家の前にいるのだ。



 大丈夫。きっと、みずほおばちゃんみたくぼんやりと覚えていてくれるはず。

 でも、もし、完全に忘れちゃってたら……。

 ああ、そんなの嫌だ。絶対嫌だ。

 どうか……どうか、神さま……。

 あ、神さまはダメなんだっけ……。

 どうか……お願い……。

 未海は麗香に貰った蛙を握りしめ、インターホンを押した。間の抜けたチャイム音が鳴る。さあ、ドアが――

『はい、どちら様ですか?』

 あ。

『……もしもし、どちら様ですか?』

 麗香の冷たい声が未海の頭の中で響く。

 そうだ……ここにあるカメラで麗香ちゃんはあたしの顔を見て……なのに、こんな風に言うってことは……。

 未海の瞳から涙が溢れだした。

 だ、大丈夫よ。忘れられていても。ほら、もう一回、最初からお話すれば、友達になればいいだけの話で――

 玄関のドアがガチャリと開いた。

 未海は顔を上げた。訝しげな顔の柊麗香と目を合わせる。

「……? なんで泣いてんの、あんた?」

「……悔しくて」

「は? ……なに、あんた、変なやつ」

 麗香は少し笑った。

「どっかで会った? あたし、あんたに何かした?」

「……うん」

 麗香は溜息をついた。

「あ、そう。うーん、ごめん、あんたの顔、記憶にないんだけど、まあ、あれでしょ、三組の安達の事でしょ? あたしは別にあんたらに怨みは無いけど、あの子、あんたらの無視でマジでヤバい事考えてたんだよ? だから先生に――」

「これ、ありがとう」

 未海は麗香からもらった蛙を取り出した。

「……え!? あんた、それ――」

「それと、麗香ちゃんの注意を無視して帰ってごめん。あとメールありがとう。あたし、あたしね……これのお陰でママを守ることできたんだ。本当にありが――」

「ちょっと待って!」

 麗香は目を大きく見開き、ゆっくりとドアから出てきた。

「それ――あたしから貰ったって?」

 未海は手の平に乗せた蛙を見た。

「うん。お守りだって、五匹まとまった根付で貰って、でも、それは部屋――その、使っちゃって、これしか残ってなくて……」

 麗香と未海は門を隔てて向かい合った。

「あたしが、あんたに渡したのよね?」

 念を押す麗香の額には汗が浮かんでいる。

 麗香は門の間からゆっくりと手を差し出した。未海は息を飲むと、やはりゆっくりと蛙をその手に置いた。

 ぱちん、と小さな音がどこからかした。

 麗香がぎくりと体を震わせ、体を二つに折ってしゃがみ込んだ。

「お! ……おおぉ! うわっ――なんだこれぇ……」

 未海も大丈夫と、しゃがみ込んだ。汗を流しながら麗香は頭を掻き毟っている。

「あ、あの、大丈夫ですか? お家の人は――いないなら、救急車とか」

 麗香は突然顔を上げると、門に凄い勢いで顔をくっつけた。

「結構です。もう治りましたー」

「はえ? あ、う、うん。あ、じゃあ、あたしはその――」

「帰んの? なんだよ、まったく、うーみんは付き合い悪いなあ。やっぱ名前変える?」

「…………え?」

 未海はゆっくりと立ち上がった。

 麗香は天を仰いで溜息をついた。

「いや、ホントごめん。こういうのを警戒してたんだけど、まだまだ修行が足りないわ。どうしても帰るってんなら今度は止めないけどさ、できることなら色々聞かせて欲しいな。例えば、あたし達の学校が変わっちゃてる件とかについてさ」

 未海は泣きながら麗香に抱き着いた。

 ドアから出てきたエドが、にゃぁと一声鳴き、未海の足に頭を擦りつけた。

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