7

 暑い。

 未海は壁にかかったクーラーを見上げる。下の送風口が閉まっており、作動ランプは消えていた。

 琴音の枕元からリモコンを取り上げると、電源ボタンを押す。何の反応もない。試しに寝室の照明をひもを引っ張ってみるが点かない。何度引っ張っても常夜灯すら点かない。

 電気が止まった、いや、あいつに止められたんだ……。

 未海はスマホを取り出すとメールボックスを開く。圏外なはずなのに麗香から二通きている。

 一通目は空メールだった。このメールのお陰で金縛りが解けて、あの女が出てくる前に二〇三の前を通り抜けることができた。

 次のメールは琴音の状態を見て腰を抜かした直後にきた。

『蛙を四隅に――』

 あとは文字化けしていて、判読不能だった。

 蛙って……これ?

 呆けたようにメールと蛙たちを交互に見ていた未海は、ある音に気がついた。

 みしっ。

 みしみしっ。

 みしぎしっ。

 みしみしみしっぎしっぎしっ。

 段々大きくなる音。何だろう、とまだ呆けていた未海のスマホにまたしても麗香からメールが届いた。改行も絵文字もタイトルもないメールだった。

『はやくはいtt』

 うーっと琴音が唸り声を上げた。未海は弾かれたように立ち上がった。

 あの女が入って来ようとしている?

 どこから?

 みしみしみしという音が壁の向こうから段々と近づいてくる。

 未海は天井を見上げた。

 上だ……。

 震える手で蛙を紐から外すと、寝室の隅に向かおうとした。

 かくん、と足が崩れて未海は畳に転がった。

 あ、あれ? あれ?

 足が全く動かなかった。触ってみても叩いてみても、足の感覚がしない。

 足が痺れた? いや、腰が抜けた?

 みしっとすごく近くで大きな音がした。ハッとして顔を上げると、二〇二に近い寝室の天井、そこが下に膨らんできていた

 未海は即座に肘で移動を開始した。畳をざっざっと擦りながら、体をくねらせる。ぱたぱたと汗が滴り落ち、息が荒くなる。

 と、角の柱に、すーっと黒い液体が滴ってきた。

 がくがくと上体を逸らし上を見る。

 天井の隅から女の手が滑り出てきていた。それは紙みたいに薄っぺらく、やけに白かった。指がカリカリと柱を掻き、天井から離れるにつれ、自転車のチューブに空気を入れるように、じわじわと膨らみ、立体感を増してきた。

 未海は悲鳴を上げながら、手を伸ばすと、蛙を柱の下に転がした。

 途端に薄い板を叩くような音が部屋に響いた。見上げれば、唸り声と共にずるずると手が天井に引っ込んでいく。と、どんどんと大きな音がし始めた。ぶら下がった照明が右に左にと暴れ、琴音がまたも、うーっと大きく呻いた。

「そ、それをどかしなさいよ。ど、どかしなさいいいよおおお」

 怒声とぼちゅっぼちゅっと粘つく音が天井から聞こえてくる。

 未海は一瞬、巨大なゴキブリを想像した。巨大すぎて、ゴキブリホイホイから出てこれたが、足に接着剤が付いていて、それが天井の板に張り付いては、引き抜くのだ。

 音が止んだ。

 息をつめている未海の耳に、普通の女性の声が聞こえてきた。

「そんなことをしちゃ、駄目よ、未海ちゃん。いい子だから大人しくしなきゃ。私ならお母さんを治せるのよ。だから、ね、家に入れて? ね?」

 未海は足をばしっと叩いた。

 痛い。

 動く。動ける。歩ける。

 そろそろと中腰になると、天井から目を離さず未海は口を開いた。

「あなたがお母さんを病気にしたんでしょう」

「違うわよ! 何で、あたしがそんな事をする必要があるの?」

 未海はそろそろと後ろに下がると、寝室の左隅に蛙をぽとりと置いた。

 ぎぅっと歯ぎしりのような声が天井から降ってきた。ついで、ぶくぶくごぼごぼとしか表現できない音が天井一面からし始めた。あの嫌な感じが漂い始める。

「それはおいちゃいけないわ、未海ちゃん。だめよ、だめ。そんなことはし、しちゃいけないのよ、だってあたしがはいれなくなっちゃうでしょう。おなかがへってるのおなか」

 ぐちゃぐちゃでめちゃくちゃな声が降ってくる。天井がまるで風船のように再び膨れ上がり始めた。

「なかにいれてみうちゃん、きれいにすりつぶしてぐちゃぐちゃとすすってあげるからおいしいよおいしいのああからだがどろどろになってながれてはながさくのはなが――」

 意味の解らない、不明瞭な言葉が天井を凄い速さで移動しながら降ってくる。未海の頭の中に、どろどろのスープの中を転がりながら喋り散らす、あの女の生首のイメージが湧いた。足が萎えそうになる。

 未海は叫びながら、それを振り払い、部屋の入り口の右側に滑り込み、蛙を置いた。

 天井がべこんと一息に元に戻った。

 未海は噛みしめた歯の間から息を吹き出しながら、四匹目の蛙を入口の左側に置いた。

 いつの間にか物音の類は止んでいた。寝室に未海と琴音の荒い息の音だけが響く。

「絶対に殺してやるぞ」

 その声と共に、大きくて粘つく何かが、未海の家の天井から離れていくのを感じた。


 未海は水差しからコップに水を注ぐと口につけようとして思い止まった。

 この病気ってうつるのかな……。

 迷った末に口は付けずコップを置くと、居間を見る。

 昨日までの、いつもの居間に見える。台所まで六歩? 七歩? 蛇口を捻れば水が出るだろうし、電気が切れていても冷蔵庫の麦茶はまだ冷えたままのはずだ。

 でも――この蛙に守られた部屋から出るのは怖い。怖いのだ。

 未海はスマホを取り出した。

 まだ圏外だ。

 その時、未海はスマホの電池残量に気がついた。

 六七%! 結構……少ない気がする。電気が来てないんじゃ充電できない。ママが停電の時はスマホをなるべく使うなって言ってたっけ……。

 そういえば、大地震の時、メールだけはできたってママから聞いたような……麗香ちゃんにメールの返信はできるだろうか?

 未海はメールソフトを開く。

 でも……麗香ちゃんは来れないって言ってた。それに麗香ちゃんじゃ、いや、大人が束になったってあいつをどうにかできるとはとても思えない。いや、でも、警察とかを呼んでもらえば――

 未海は膝を抱える。むっとする暑さが増す。

 震える指でメールの文面を考える。麗香ちゃんのメールは途中で文字化けをしていた。短文しか届かないのかもしれない。

 未海は『警察を呼んで』と打つと、メールを送信した。

 これなら、後半が崩れても意味は判ってもらえるはず。

 だが、送信失敗の文字が画面に出た。

 くそっと低く呟く未海。と、どこか遠くでみしみしと音がし始めた。微かに笑い声も聞こえた気がする。未海は顔をぬぐった。汗といつの間にか流れていた涙でぬるぬるだった。

 ぐうっと琴音が声を漏らした。

「あ、あつい……み、水……」

 擦れた声で琴音はそう言うと、顔を横に向けた。未海は慌ててコップを持つ。

「ママ、お水、ほら飲ませてあげ――」

 強烈な臭さに未海は絶句した。琴音のうなじにべっとりと半透明の液体が付いている。甘ったるくて鼻にツンとくる不快な臭い。

 熱帯のジャングルの奥深くに咲いている花を連想しながら、未海は手で口を塞ぎ、琴音に近づく。

 うなじにびっしりと着いたイボが半分くらい破けている。そこからとろりとろりと液体が滲み出ているのだ。顔を近づけると琴音の息が浅く早いのがわかる。未海は思い切って肩に触ると軽くゆすった。

「ママ、ママ大丈夫? ママ?」

 ううっとくぐもった声がすると琴音は口を大きく開けた。

 その口の中、そして舌にもイボがびっしりとあるのが見えた。

「く……るしぃ……いき……」

 ごぼっという音ともに半透明の液体が琴音の口から飛び散った。震えながら寝返りをうとうとするが、体に力が入らないらしく悶えるだけだった。

 未海は二、三度躊躇した後、手を伸ばすと琴音の背中に手を入れる。何かが手の下で潰れる感覚。そしてねっとりとした物が染み出してくる感覚。

「うーっ……」

 未海は涙を流しながら琴音の背中を持ち上げ、横に向けてやる。おごっという音とともに琴音が茶色の液体を吐く。未海はべちゃべちゃの背中を優しくさすった。

 ひゅーっ、ひゅーっと笛のような音が琴音の口から漏れている。未海は汚れた手を布団の隅の方で拭くと、琴音の額に手を当てた。

 凄く熱い。

「ママ、ママ、ねえママ……」

 琴音は白目を剥き、呻きながら震えている。

 死んじゃう……。

 未海は再びスマホに手を伸ばした。

 ママが死んじゃう。

 ママが死んじゃう! お願い! お願い! お願いします!

 だが、圏外という文字は変わらなかった。

 未海は立ち上がると寝室の中をふらふらと歩き回った。だが、やはり圏外だ。

 じゃあ、部屋の外からかければ――

 未海はふらふらと寝室の入り口に向かった。

 居間ならきっとつながるはず。もしダメでも窓があるから、そこから出ればつながる。それでもだめなら玄関を開けて、廊下にでれば――

 未海は足を止めた。目を瞬かせ、下を見る。

 琴音が未海の足を掴んでいた。

「みう……ぢゃん……だめ……」

 姿勢を変えた所為か、また琴音のイボが潰れたらしく、臭いが漂っている。その臭いが未海の脳を揺さぶった。途端に今自分が考えていたことに気がつき、慌てて寝室の入り口から離れた。と、何かずるっと大きな物音が寝室の外、すぐ横の壁の裏から聞こえた。

 い、いるんだ。この部屋の中にいるんだ。

 すぐそこにいるんだ……。

「なんで、こんなことするの……」

 未海の呟きに、答えが返ってきた。それはあまりにも近く、面と向かって話しているかのような錯覚を覚える。

「楽しいから、に決まってるじゃない」

「……お願いします。ママが病気なんです。だから、だから救急車を」

「ふふ、知ってるわよ。だって、あたしが病気にしたんだもの」

 怒りが湧いた。それを絞り出すように、未海は体を二つに折って絶叫した。

「だからぁ! なんで、そんなことをするのよおおおおっ!」

 くすくす。

 くすくすくす。

 嘲るような笑い声。

「おまえ! なんなんだ、おまえ! そこから出てけ! 汚い馬鹿野郎!」

 壁の後ろのそれが一瞬怯むのを未海は感じた。だが、それはすぐに笑いだす。

「そう、それよ、それ。お前のそういう反応が楽しいのよ、あたしは。あの子にそっくりな生意気なすまし顔が歪むのが、すっげー面白いの!」

 げたげたと笑う壁の影の女。

 未海は何かをぶつけてやろうと、ポケットを探った。と、小さく固い感触が手の内にあった。指で探ってすぐに思い当たる。

 蛙だ。

 そうだ、蛙は五個あった。一つ残っている。もしかしたら、これを握っていたら、こいつに襲われないんじゃないだろうか?

「……試してみる? あたしは確かにそこには入れない。でも、あんたの『手』以外を一瞬でぐしゃぐしゃにする力はあるわよ。あ、いや! それは大袈裟ね! ごめんごめん。あんたの足先をグチャグチャにできるって言い換えるわね。確かに、それには力がある。でも、そう、あんたの両足の先までそれが効果を発揮できると思う? 耳なし芳一って知ってるわよね?」

 未海はゆっくりと居間と寝室を分ける敷居から後ずさった。

「あら? やめるの? あーあ、お母さん死んじゃうわね。きったないどろどろの塊になって、くさくてべちゃべちゃになって死んじゃうわあ……。

 ぷっ、あははははははは!」

 未海は笑い声から背中を向けると、既に意識を失って荒い息を吐く琴音の枕元に寄り添った。そのまま再び膝を抱えると目を瞑り、涙を流す。

 麗香ちゃん、みずほおばちゃん、お巡りさん、神さま、誰でもいいから、私を、いや、ママだけでも助けて――

 未海は蛙を握りしめ祈った。

 そして極度の緊張と疲労のせいか、いつの間にか眠っていた。

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