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 滑らかな背中の毛の中に指を差し込み櫛のようにゆっくりと、それでいて優しく手を動かすと、僅かに体がひくんと反応する。顔を見るとやっと落ち着いたらしく、目を閉じて喉を低く鳴らしていた。

 未海はふうと息を吐いた。

「やっと落ち着いたみたい」

 スマホをいじっていた柊麗香が、んー、と短く答えた。

 柊麗香は隣の市、城岩しろいわ市に住んでおり、通常なら城岩市にある小学校に通うのだが、特例として未海と同じ小学校に通っている。本人曰く、最大の理由は近いから、だそうだ。

「城岩の小学校は歩いて四十分。こっちは歩いて十分。あたし、だりぃの嫌いだし」

 本当かどうかわからないが、麗香が言うには、親がお金をがっつり積んだとか、色々と難しい理由をでっちあげたとか、ともかく特別に通学を許してもらっているらしい。

「はい、二人とも笑って―」

 棒つきキャンディーを起用に舐めながら麗香はスマホを構える。未海は慌てて腕を精一杯伸ばすと、最高潮に喉を鳴らしまくっている麗香の飼い猫、エドの口の端に指を当てて軽く持ち上げた。

 お願いだから、さっきみたく暴れないでね……。

 半分眠りかけていたエドは一瞬体をびくりと震わせたが、結局なすがまま、白目を剥いてまだ喉を鳴らしている。麗香はけらけら笑いながら写真を三枚撮り、確認して更にけらけらと笑っている。未海もあまりにも酷いエドの表情に吹き出した。

 やっぱり笑うのって、とても良い。さっきまでの落ち込んだ気分がすっきりしていく。

 当のエドは仰向けになると半月状に大きく伸びをし、さあ腹を撫で給え、というポーズをとった。勿論まだ喉を鳴らしている。

 未海は優しくエドの腹を撫で始めた。

「未海ちゃん、これカンシャにアップしていい?」

 カンシャはSNSの一種で、写真や動画をアップして簡易コメントを添える絵日記みたいなものだ。

「いいけど、またあの名前なの?」

「うん。可愛いじゃん」

 カンシャを小中学生が始める際には親の同意が必要であり、また常識として本名等は一切使わない。故に麗香は『ラギ』。そして未海が登場する時は『お友達のうーみん』と表記される。未海はこの『うーみん』にやや不満があった。

「……可愛い、かもしれないけど、こう、なんか……」

「なんか?」

「間抜けっていうか、もにゅーっとした感じで、ちょっとべたべたしてるみたいで……」

 未海は最近、テレビで見たモデル出身のタレントに憧れを持っていた。きりっとして、すらっとして凄くカッコいい。鏡の前で密かにそういう感じのポーズをとった事もある。

 うーみん、はちょっとモデルっぽくないよなあ……。

「えー? うーみん可愛いじゃん! チョードヨシ! と思ったんだけどなー」

 そう言いながらも麗香はスマホをいじっている。

「ま、今回だけ! ね? うーみんでいーじゃーん。後で別の名前考えよ。明もそろそろ来るはずだから、みんなで相談つーことでさ。あ、なんなら今日、泊まってく?」

「え?」

 突然の提案に未海は目を白黒させた。麗香はけらけら笑っている。

「いやー、親が今日から旅行でさ、三日ぐらいどう?」

「それは――ママに聞いてみないと」

「えー、絶対楽しいって! ゲームとか徹夜できるよ。あ、エドにマヨネーズの歌聞かせようよ! あたしらもネコケイ動画を撮ろう!」

「そ、それはダメ!」

 未海は慌てて否定すると、エドの頭をそっと撫でた。エドがゴロ? と機用に喉を鳴らした。

 ネコケイはSNS界隈で現在流行っている動画で、テレビのマヨネーズのCMソングを猫に聞かせるだけというシンプルな物だ。だが、このCMソング――強面ラッパーがキレッキレに踊りながら、ひたすら低音でマヨマヨ言い続けるだけのもの――を聞いた猫が歌に合わせて首を激しく振り、最終的には泡を吹いてぶっ倒れるのである。

 未海のように眉を顰める人間も多いし、猫の挙動もCG臭がするのだが、熱狂的なファンが多数おり、この猫の真似を芸人がテレビで披露したこともあり、追っかけ動画が後を絶たない。

「えー、いーじゃん。明の馬鹿も泊まらせてさー、そうだ! ネコケイ動画が駄目なら、この前見たコーラで空飛ぶやつ、あれやろう!」

 麗香はすっげーいいアイディア! と一人で盛り上がり始めた。 

 未海は溜息をついた。こういう言い出したら止まらないところが麗香の良い所でもあり悪い所でもある。彼女に言う事を聞かせられるのは幼馴染で隣に住んでいる千田せんだあきらだけだが、あいにくと今日は剣道部の練習でまだ帰っていないとのこと。

 明君がいたら、きっとあたしの味方になって麗香の暴走を止めてくれるんだけどなあ。

 未海はもう一度溜息をつくと仰向けのエドの喉を攻め始めた。エドの手がぴくぴくと動くと、麗香はまたけらけらと笑った。

「ホントに未海ちゃんはエドの弱いとこ知ってるよねー。ってか、野良とかもみんな溶かしてたっしょ。未海ちゃん、そういう能力あんの?」

 能力、という言葉にどきりとする。

 つい一時間前までの事が頭に浮かんでくる。あの時はあれほど、恐ろしかったのに、夏の陽の下を歩き、麗香の家の門を抜けると、現実感がごっそりと消え失せ、今朝見た夢みたくボンヤリとしてしまっている。

「そ、そんなの持ってるわけないじゃん……まあ、今日は特別だけど」

「へ? 特別?」

「えっと……朝モフれなかったから、たまってた……みたいな?」

 麗香は怪訝な顔をした。

「あれ? 近所の空き地の野良猫、モフってこなかったの? じゃあ、その――なんで今日はモフれなかったの? 犬とか猫とかいたら、いつも情け容赦なく襲いかかるじゃん?」

「いや、あたし、人食いザメじゃないんだから……ここに来る前にいつもの空き地に行ったんだけど、猫ちゃんたち一匹もいなかったの」

 ふっと、部屋が静かになった。

 麗香がじっとこちらを見ていた。未海が見たことがない表情だ。

 え? 何? 麗香ちゃん、もしかして怒って……いや、怖がってる? 

 あたし何か、変な事言ったかな?

 未海は何も言えず、何もできず、やはりじっと見つめ返す。

 と、エドがううんと唸って、ぷしっと短くクシャミをした。

「あっと、冷房が強すぎたかな」

 麗香はぴょんと立ち上がると、バキバキとキャンディを齧りながら机のリモコンをとって、クーラーに向けた。ピッピッと短い電子音が二つなる。

 麗香は未海ににっと笑いかけた。未海の緊張がふっと抜け、思わずため息が出た。

「んじゃ、ほら、未海ちゃんちの近くの、なんだっけ、薔薇がやたらと生えてる家のでぶちんは?」

「あー……あの子は夏だと家から出てこないの」

 麗香は元の場所に胡坐をかくと、深刻そうな声を出した。

「……太ってる上に、ニートか」

「いや、猫は涼しいとこにいないと夏はダメだから。もっと早く家を出てたら空き地が駄目でも、公園のベンチの下とか噴水の近くにはいたと思うの」

「そーいや、去年うちの裏の神社とか猫の集会所になってたな。ほら、前写真見せたじゃん? 今はばっさり木を切っちゃたから、全然いなくてさー。あ、未海ちゃんちの近くもなんか工事とかしてんじゃね?」

「うーん……」

 未海は腕を組んで、頭を振った。

「今朝はとても静かだったよ。工事とかはやってないと思う」

「あれま……しかし、他の猫の匂いがついてないなら、エドは、なーんであんなに怯えちゃってたかねえ」

 麗香の言葉に未海は驚いた。

「え? エドってあたしに怯えてたの?」

 麗香はしばらく未海を見た後、すうっと床に目を逸らした。

「……うん、ま、そんな感じに見えたかな、て」

 未海は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 麗香ちゃん、何かわかるの? と。


 麗香と未海の出会いは半年前に遡る。

 その日はとてもいい天気で、昼休みに友達に上に行こうと誘われた。屋上の扉を抜けると、すでに何人もの生徒がいて、ドッジボールやバレーボールで遊んでいる。その時、未海の目の端に、あの男の子が立っているのが見えた。

 暗く沈んだ表情。緑色のセーターに黒いズボン。男の子は東の角、プール側の縁に一人佇んでいた。服の皺まではっきり見えるのに、所々が透けている。

 慌てて目を逸らすと、屋上の隅の女の子と目があった。

 今、彼女も男の子の立っている場所から目を逸らしたように見えた。

 それが柊麗香だった。


 ……あの子も見える。


 未海は何故だか、それを確信した。だが、声をかけようと考える間に、麗香はすたすたと屋上から出て行ってしまう。

 私と同じで隠しているんだ……。

 未海は嬉しかった。だが、同時に母の言葉――見えるのって言いふらしちゃ駄目よ――も思い出していた。

 自分で何とかできないのなら、口にするべきではない。ましてや、こんな人の多い学校では、何が起きるのか想像もつかない……。

 それでも、未海は麗香と話がしたかった。

 自分と同じものが見える人と話す。自分と同じ悩みを抱える人と話す。

 それは、強烈に未海の心を揺さぶった。


 今は話さない。でも、そう――いつか――いつか話そう。私が大きくなったら、その時に話すんだ。だからまずは――


 次の日の二限目の休み時間、二つ隣のクラスに入って行った未海は、麗香にいきなり友達になりましょう、と言った。周囲の子供達は一斉に微妙な顔をする。後から聞いた話では、麗香は口が悪く態度も冷たいので、入学以来友人は一人もおらず、クラスでは浮いた存在だったそうだ。

 だが、麗香は未海の申し出を「別に、いーけど」と、あっさり受け、いきなり猫の話を始めた。未海も猫が好きだったので、話は弾み、釣られるようにクラスの猫好き女子が集まりいつの間にか人の輪が出来上がっていたのだった。

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