部屋には戻らずに、マスターのところへ向かった。俺が扉を開けると、マスターがいつもと同じように手を挙げて挨拶をしてきた。


「この店はいつからこんなに有名になったんですか?」

 俺はいつもの場所に座ると、辺りを見渡しながらマスターに声をかけた。カウンターに座っている客は俺のほかにもう一組カップルがいるだけだったが、俺の後ろに並ぶ四つのテーブルは外国人客でごった返していた。二十人近くいるだろうか。そのほとんどが若い男女だった。白人や黒人、俺たちとよく似た外見のアジア人もいて、英語だけでなく様々な言語が飛び交っている。その光景は、実際には見たこともないオリンピックの選手村を思わせた。


「るるぶに、のりました」

 間延びした日本語でマスターは言った。

「え?」

「冗談だよ。国際交流のグループらしい。今晩はうちのホテルに泊まってるんだってよ」

「なるほど」

 オリンピックも一種の大規模な国際交流みたいなもんだから、あながち外れてはいないはずだ。マスターがビールを俺の前に置いた。俺は思い出して、手に持っていた袋をカウンターの上に載せた。


「何だい、これ?」

 袋の中を覗き込みながらマスターが言った。

「ケーキですよ」と言うと、マスターの顔がぱっと明るくなった。「マスター、甘いもの好きでしたよね?」

「目がないよ」

 マスターは「Thank you」を連発しながら箱を開けていたが、開いた瞬間に言葉を失った。俺も不思議に思って中を覗く。思わず、「あ」と声が出てしまった。

「何と言うか、ハードな一日だった夜だから」


 二つ買ったケーキは両方とも倒れ、一方に他方が重なり合っていた。てっぺんに載っていたはずの苺は、箱の隅に転がっている。

「申し訳ない」

「ま、腹に入っちまえば同じさ」

 マスターはほとんど原形を留めていないケーキを、それでも何とか一つずつ皿に載せ、一方を俺にくれた。俺たちはそれぞれケーキを突付いた。


 ふと気づくと、カウンターの中に見たことのない若いバーテンがいた。まるで冷蔵庫の陰から湧いて出てきたみたいだった。振り向けば、若い女の子が客の間を忙しそうに歩き回りながら、空いたグラスを掻き集めていた。二人がいるおかげか、これだけ賑わっているのにマスターはむしろいつもより暇そうだった。


「明日、この街を去ることにしました」

 二杯目のカクテルを飲み終えたところで、俺は呟くようにそう言った。ここに来る前にはうまく言えるかどうか不安だったセリフは、案外簡単に、滑るようにこぼれ出た。マスターは驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。

「そうかい。そりゃ、もちろんいつだってそうに決まってるんだけど。ここはホテルだからな。ここに来た人は遅かれ早かれ去っていく。ここは交差点クロスロードであって、行き止まりデッド・エンドじゃない。寂しいが仕方ないさ」

 マスターは皿を置くと、すっと右手を差し出した。「幸運を祈ってるよ」

「ありがとう」


「そう言えば、結局あの子には会えずじまいだね」

「あぁ、あの席の女の子」

 俺はカウンターの一番奥の席を見やった。「会いましたよ」

「本当かい? どうだった?」

「マスターの無実が証明されました」

「だから言っただろう?」とマスターは得意げに言った。「それから?」

「彼女も明日この街を出るって」

「君と?」

「まさか」と俺は笑った。「別々ですよ」

「そうか。それじゃあ、彼女の前途にも幸運を」

 俺はグラスを掲げた。

「そうだ。マスター、あの曲をかけてくれませんか?」

「あの曲?」

「彼女がリクエストしたっていうやつ」

「あぁ、あの曲か」


 マスターはそう言うと、棚の上に置かれたご自慢のポータブル・プレイヤーの方に一歩踏み出したが、すぐに何かを思いついたように俺に向き直った。

「どうだい、ここは一つ、明日からのあんたの人生を占ってみようじゃないか」

「占う?」

 マスターは自分の顔の横で右手の人差し指を突き立て、天井を見上げた。

「この曲はもうすぐ終わる。そのあとに、あの曲が流れるかどうか」

 流れれば俺はラッキーというわけか。そこで俺はふと気になり、尋ねてみた。

「あれの中には、どれくらいの曲が入ってるんですか?」

「さぁ」とマスターは首を捻った。「五千か、六千か、そんなもんだろうな」

「冗談でしょ?」

 俺は驚いて言った。

「本気さ。最近の科学技術の進歩にはただただ驚くよ」

「その通りですよ。そしてそれは時として残酷だ」

 そんなもの、当たるはずがないじゃないか。

「宝くじよりは見込みがあるだろう?」とマスターが励ました。


 ほどなく、流れていた曲が小さくなり始め、やがて聞こえなくなった。単なる偶然だろうが、そのタイミングで後ろの外国人たちの話し声が途切れた。まるで、二十人の外国人客がたちどころに消えてしまったような気さえした。一瞬の静寂の中に口笛のような音が聞こえる。俺は思わず、彼らがまだそこにいることを確かめるために振り向いた。


 その瞬間だった。ドラムの音が弾けるように鳴り、狭い店内の空気を振るわせる。騒がしさはすでに戻っている。畳み掛けるようにドラムが鳴り響き、リアム・ギャラガーが愛嬌のある声で歌い始める。さっきまでと変わらない店内の様子を見ながら、俺は唖然としていた。おそらく、今この瞬間に俺ほど唖然としている人間は世界中どこにもいないだろう、というくらいの、唖然だ。


「マスターが仕組んだんじゃないんですか?」と俺は思わず振り返るなり尋ねた。

「だったら、これほど驚いちゃいないさ」とマスターは言った。「あんたが起こしたんだ。な、世界はあんたが思ってるほど悪くないだろ?」

 マスターが屈託のない笑顔で言った。

「マスターが祈ってくれた幸運が尽きてしまったんじゃないかと不安ですよ」


 それからまもなく、俺のすぐ左に外国人客の一人が立った。白人の中でも一際白い肌をした長身の若い男性で、綺麗な金髪をしていた。すっと細い顎のラインに切れ長の目が、知的な雰囲気を漂わせている。空いたグラスをカウンターの上に置くと、俺の知らない酒の名前を口にした。

「この曲好きなのかい?」

 彼の発したそのセリフに俺はどきっとしたが、どうやら彼はマスターに向かって尋ねたらしかった。

「あぁ。だが、今回は彼のリクエストなんだ」

 そう言ってマスターは彼に酒を渡しながら、反対の手で俺を指差した。彼が座っている俺を見下ろし、それから親指を突き立てた右手を俺の顔の前にぐっと出した。

「オアシス、サイコー!」

 なるほど、音楽で世界は変えられるかもしれない。俺とマスターはもう一度握手をして別れた。


 部屋に戻り、寝る前にいつものように窓から外を眺めた。ふと、彼女も今この瞬間にこのホテルのどこかの窓からこの夜景を眺めているような気がした。深夜だというのに、街には光と音が溢れている。それは人間の貪欲なまでの活動の証だ。世界は休むことなく動き続け、次々と新しい何かを生み出していく。そんな世界の中で、永遠に生き続けるものなど本当にあるのだろうかと思う。あって欲しいとも思う。


 ベッドに横になると、今日あったことが思い出された。パン屋の女の子のこと。プールで心行くまで泳いだこと。寂れたラーメン屋のおばさんの笑顔。デパートで会った彼女のこと。彼女との会話。バーで起こった小さな奇跡みたいなこと。それらが何を意味するのか、俺にはわからない。意味などないのかもしれない。ただ、それらが永遠に生き続けるのだとしたら、それは素敵なことだと思った。


 それから俺は葵のことを思った。葵が今まで俺に与えてくれたもののことを思った。俺は与えられた分を葵に返すことはできないかもしれない。だからせめて、忘れないようにしようと思う。それらを俺の心の中で永遠に生き続けさせようと思う。どんな人生が俺を待っていようとも。


 まもなく、今日起きたすべてのことを優しく包み込むような、大きくて深い眠りの気配が訪れた。俺は自分が泣いていることに気づく。何かが悲しいわけではなく、すごく落ち着いた気持ちなのに、温かい涙が頬を伝う。ああ、幸せな時には涙は静かに流れるのだな、と俺は思った。


 そして、明日の世界からも正しいことが失われていないことを彼女のために願いながら、俺は眠りに落ちた。

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