第2章
俺は八時半に目覚めると、シャワーを浴び、歯を磨き、ホテルの向かいのパン屋へ行き、サンドウィッチとコーヒーを注文し、店の奥にある階段で二階に上った。二階は喫茶室で、一階で買ったパンをそこで食べられるようになっていた。俺は窓際のいつもの席に座り、いつものように窓の外を、何を見るでもなくぼんやりと眺めた。それはこの街に来てからずっと、俺が毎朝やってきたことだった。
何か具体的な目的があって故郷に戻ってきたわけではなかった。だから当然のことながら、するべきことは何もなかった。ここでこんなふうに、学生の真骨頂とも言うべき無為な時間の過ごし方をしたところで、気持ちに踏ん切りが付くとは思っていなかったし、ましてや葵に会えるなんて考えたわけではなかったけど、こういう時間が必要だと俺は感じていた。サンドウィッチにコーヒーに本。そのいずれかを片手に、時の翁の砂時計の砂が落ちる音を聞く時間だ。
まもなく、女性の店員が俺のところにサンドウィッチとコーヒーを運んできた。
「お待たせいたしました」と彼女は言った。
背はそれほど高くないが、肌の色が透けるように白く、緩いパーマのかかった明るい色の髪がよく似合った。
「ありがとうございます」と俺は礼を言った。そのうえ、綺麗な店員さんと、たとえ紋切型の受け答えでも言葉を交わせれば言うことはない。
それで仕事は済んだはずだったが、その綺麗な店員さんは立ち去る素振りを見せなかった。俺が不思議に思って顔を上げたのと、彼女が言葉を発したのはほとんど同時だった。
「あの……」と恐る恐るといった様子で彼女が言った。「最近いつも来ていただいてますよね?」
「え? あ、はい」
「この辺にお住まいですか?」
「いえ、東京から来ていて、あのホテルに泊まってます」
そう言って、俺は窓の向こうに見えるホテルを視線で示した。彼女はなるほどというように頷き、それから声に出して「なるほど」と言った。
「出張ですか?」
俺は驚き、そんなふうに尋ねられたことを少し可笑しく思いながら、のけぞるように両手を広げた。
「そんな風に見えます?」
ジーンズにポロシャツ、それにアディダスのバッグというのが、その日の俺の格好だった。「学生です」
「あ、そうなんですか?」
そう言った彼女の顔が華やいだ。「大学生ですか?」
「三年です」
「じゃあ、同い年ですね」と彼女は驚いたように言った。
言葉の通じない国で偶然顔馴染みを見つけたみたいな驚き方だった。おそらく俺のほうが年は一つ上であることを言いかけて、興ざめさせるのも申し訳なく思い、口をつぐんだ。
「よかった。私、主にこの喫茶室が担当なんですけど、主婦と女子高生しか来なくて。どっちとも微妙に話が合わないんですよ。おばさま方には『若くていいわね』って言われるし、ギャルたちには『大人っぽいですね』って」
彼女が俺に何らかの反応を求めていたようだったので、俺は、「なるほど」と相槌を打った。彼女はにこりと微笑んだ。その気がなくても、思わず、「好きだ」と告白してしまいそうなくらい親密感に満ちた微笑みだった。実際に何人もの男からそういった言葉を聞かされてきたに違いない。彼女はそのうちの何人に対して首を縦に振ったのだろう?
「それって何だか、『私たちとは違いますね』って言われてる気がして。もちろんお客さんたちはそんなつもりはないんですけどね。ただ何かすごく不安な気持ちになるんです。わかります? あぁ、自分は大人にも子供にも属さない存在なんだなって。モラトリアムって言うのかな。わかります?」
「うん」と俺は頷いた。「わかる」
よくわかる。
「だからあなたが来るようになって嬉しかったんです。いつか話しかけてやろうと思って、機会をうかがってたの。虎視眈々と」
「虎視眈々」
虎に狩られる野ウサギにでもなった気分だった。
「光栄ですね」と俺は言った。「それで、君にその決心をさせたのは何だったんだろう? どうして今日?」
「だってほら、見事に青いし」
彼女はそう言うと、世界遺産を紹介するバスガイドみたいに、誇らしげに左手を広げた。俺は彼女の言った意味がわからずに、ぽかんと彼女の開かれた手のひらを見つめた。それから、ようやく彼女が空の話をしていることに気づいて、窓の外を眺めた。
「あぁ、空が」と俺は言った。
「そう、空が」と彼女は言った。
確かに、そこには雲一つなく晴れ渡った紺碧の夏空が広がっていた。
「最近元気がないみたいだったので」
「え?」
「本。ここ何日か読んでないですよね? 前はサンドウィッチを食べながら読んでたのに」
彼女の言うとおりだった。
「あぁ、何でもないよ。ちょっと考え事してただけだから」
彼女はふぅんというように頷き、それから声に出して、「ふぅん」と言った。
「何について考えてたんですか?」
「うん?」
彼女にはできるだけ本当のことを教えてあげたかったが、何のことを考えているのか、俺自身よくわからなくなっていた。それはバーであったあの子のことだった気もするし、葵のことだった気もした。あるいはもっと全般的で、抽象的なことだった気もした。例えば将来のような。
「一言で言うと、モラトリアムについて」と俺は言った。
あぁ、あいつのことね、というように彼女は下唇を噛み締めながら頷いた。
「ところで、今日のご予定は?」
そう言われて、俺はそれについて少し考え、もちろん予定なんてないことを思い出した。この街に来て以来、予定なんてものがあったことはない。
「いや、特には」
「だったら、二つ下った駅の近くに大きなプールがあるんです」
「プール?」
「そう、大きくて立派なやつ。もし気が向いたら行ってみるといいですよ」
「わかった。ありがとう」と俺は言った。
俺はその先を期待したが、話はそこで終わりのようだった。「じゃあ」と彼女は言い、来たときと同じ心地よい笑みを残して去っていった。俺は彼女の後ろ姿を見送りながら、彼女との会話のあらすじを思い出した。彼女は俺を励ましてくれたのかもしれないし、本当に俺と話がしてみたかっただけなのかもしれない。あるいは、ただ「どこかの大学三年生」を求めていたのかもしれない。
いつものように街中をぶらつき、昼食を取ってから、俺はパン屋の彼女が教えてくれたプールに行ってみた。彼女の言葉から想像していたほど大きくもなければ立派でもなかったが、管理の行き届いた心地よいプールではあった。俺はそこでたっぷり三時間の水泳を楽しんだ。久しぶりに体を思いっきり動かしたことで、滞っていた血液が体中を循環し始めたみたいに爽快な気分だった。俺は適切なアドバイスをくれたパン屋の彼女に感謝した。
外に出ると、風はかなり涼しくなっていた。時計は四時半を指していた。日曜の四時半だ。俺はどうするか少し迷ってから、駅の近くのラーメン屋で早めの夕食をとった。小さな寂れた店で、客は瓶ビールを手酌している赤ら顔の浮浪者みたいな親父が一人だけだった。大盛りのラーメンを注文し、チャーハンを追加し、ギョーザも食べたところでようやく俺の腹は満たされた。会計をしていると店のおばちゃんが、「毎日あんたが来てくれたら、うちの店も安泰なんだけどね」と言った。おばちゃんの笑顔と古ぼけた店と客の親父の赤ら顔とを見比べ、俺は複雑な気分で微笑んだ。
朱に染まった西の空を見上げて歩きながら、俺はこの街を去ることを考えていた。
元々予定を立てないという予定で始めた旅だったから、いつまでここにいるかも決めてはいなかった。ここに飽きたり、東京に戻りたくなったり、あるいはここでも東京でもないどこかに行きたくなったりしたら、そのときがここを去るときだと思っていた。そして今がそのときであると俺は感じていた。
理由は予め予期していたもののどれでもなかった。というよりも、理由なんてなかった。ただ漠然と、あぁ、そろそろここを離れたほうがいいな、と感じたのだ。そして一旦そう思うと、その思いは少しずつ決心へと変わっていった。明日の朝早くにここを出よう。朱に染まった西の空を見上げて歩きながら、俺はそう考えていた。
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