E氏のいる職場
伊藤 終
E氏、朝から会社で海苔を食べる
自分の職場の向かいの座席の住人であるE氏は、東京生まれの東京育ち、つまり東京男だ。スレンダー、眼鏡、会計系職人。どれもが彼の魅力だが、何より自分で考えるから、結果として個性的に生きている。
いつからか、E氏は会社のデスクで朝食として海苔を食べるようになった。
海苔というのはあの、旅館の朝食なんかでよく見る、焼き鮭や卵と並んで日本の朝食代表格である、数枚まとめて食べやすい大きさのパックになった、あいつだ。
ビニールのフチのところがギザギザになっていて、素手でもピッと切って開けやすくなっている。あの海苔パック。
それをどうして単品で朝食に選んだのか、どうして会社で食べるのか、まあその理由は恐らくE氏のことだから「健康だと思った」からなのだろうが、出勤するとラップトップの前で何もつけずにマジメな顔で海苔を食べるE氏だった。
E氏の午前中のデスクには、ラップトップ、書類、バインダー、電卓、転がったボールペン、赤ペン、付箋、誰かの「電話がありました」というメモ、そんなものが転がっていて、中央に海苔がビニールに入ったやつがぺたりと落ちている。
そんなある日のことだった。E氏が「あ、俺、打ち合わせ行ってくるわ」と立ち去った直後、自分がデスクでカタカタ仕事を続けていると、E氏のデスク前を通った自分の同期女性が「ん?」と声を出し、E氏のデスクを二度見した。
「海苔…?」
一度見て、通り過ぎそうになって、もう一度首を伸ばして戻って見る、という見事なまでの美しい二度見だった。そうさせる力が海苔にはあった。
自分はすっかり海苔を見慣れてしまっていて、その反応は新鮮だった。顔を上げ、「そう。最近朝からそれを食べてるんだ」と伝えた。
「海苔を…? なんで?」
それは知らない。健康だからだと思うけど。
やがてE氏が戻った。ラップトップのディスプレイの横の隙間から、右手で海苔をぱり、ぱり、と食べながら、左手でマウスを操り、真剣な顔で画面を凝視しているE氏が見えた。
海苔を食べていると、E氏は妙にハードボイルドに見える。
それから数日。
そういえば最近E氏が海苔を食べていないなと思ったら、E氏のデスクの隣にあるファイルスタンドとファイルスタンドの隙間に、海苔のパックがひとつ、縦にはさまっているのが見えた。
ファイルスタンドというのは、説明するのもあれではあるが、書類やクリアフォルダやバインダーを立てて置いておくための、整理用の便利なオフィスグッズだ。そのファイルスタンドを二つ並べたプラスチックボックスのその隙間に、はさまって落ちていたわけである。海苔が。縦に。
どういうシチュエーションで海苔落ちたんだろう。
あれこれ想像してみたが、中指と薬指で海苔パックを挟んで持ったまま、その手でファイルを取り出そうとしてもあんなところに海苔は落ちない。
見て見ぬふりをしておいたが、さらに数日が経過してしまった。
出勤する度に、相変わらず目の前のファイルスタンドの隙間に海苔のパックが、ピョコ、と見えている。そして埃にまみれていく。
この海苔のパックをいつかE氏が発見し、もしもそのまま食べようとしても、端っこのギザギザを素手でピッと開ける時、確実に、大量の埃がふわっ…と舞い上がって海苔に付着してしまう。
そういうことをE氏は好まない。
だがしかし、濡れてはならない海苔のパックを、パックごしとはいえ水道水で洗うこともE氏は好まないだろう。
そんなことを考えながら業務に勤しんでいるうちに、あるE氏の不在時、自分の同期女性が自分の席に仕事の話をしにやって来た。「それでその取引先が…」とかなんとか本当にマジメに話をしていたら、彼女はE氏のデスクのファイルスタンドの隙間に落ちた海苔のパックを「んっ?」と二度見した。一度見て、こちらを見て、もう一度「んっ?」と言った。見事な二度見だった。
「海苔……汚くなってるんだけど……」
わかってはいた。
わかってはいた。E氏からは死角になっているこの海苔を、いつかは自分が回収して、捨ててあげなくちゃいけないんだってことは。
自分は渋々左手を伸ばして、E氏のファイルスタンドの隙間に人差し指と中指を入れ、二本の指で海苔のパックを掴んですうーっと引き抜いた。
ごそ……と一緒に埃が出てきた。
海苔の中身は無事かもしれないが、全部まとめてこちらで処分しておきます。
「待って! 海苔の奥を見て!」
えっ。
息をのみファイルボックスの隙間に顔を近づけると海苔パックの奥に柿ピーナッツの袋が落ちていた。
いつから。どうして。どういうシチュエーションで。そっちは放置しておいた。
(終)※9割強実話
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます