第2話 猫


 今年七十五歳の誕生日を迎えた聡子は、長らく糖尿病を患っている。その事実を知らされた時、香穂は食べものを手土産にしていいかどうか、悩んだ。けれど聡子は、そんな懸念に対してかぶりを振った。貰った分は、食事を減らすので何の問題もないという。まぁ本人がそういうのだからと、香穂はボルダリングジムの帰りに時折、美味しいと評判のパン屋やケーキ店などに立ち寄って購入し(但し量は少なめにして)、藤村家を訪れている。

 その日の手土産は、洋菓子店で買ったフルーツゼリーだった。五つのゼリーが入った箱を右手に提げ、左手で望海の手を掴んで表に出ると、八月の盛りの陽射しにたちまちうんざりさせられた。ここは本当に日本なのかと、疑いたくなるほどだ。これは、ヒートアイランド現象なのか。それとも、温暖化のせいなのだろうか。テレビは毎日、政治や経済情勢などについて報道しているけれど、それももちろん大事だけれど、実はこっちの方が大問題なんじゃないかと香穂は思う。

「あら、いらっしゃい」

 ベルを鳴らすと、少し間を置いてから、聡子が扉を開けた。青い半袖のシャツと黒のコットンパンツを身にまとった彼女は、老眼鏡の奥の目を驚いたように見開いている。聡子は香穂が会釈すると、穏やかな笑顔に変わった。

 聡子が先頭に立ち、六畳間のリビングに案内される。すると、そこは猫の遊び場だった。テレビの前に置かれた小さなダンボール箱の周囲で、ぬいぐるみみたいなマンチカンが駆けまわったり、取っ組み合いをしたりしている。望海は、はしゃいだ声を発して駆け寄り、子猫の一匹を抱き上げた。「ママ。この子はね、チョコだよ」と、娘が教えてくれる。それぞれ顔に特徴があって、それで見分けているらしい。

「まあ、ありがとうございます」

 香穂がいつもお世話になっている礼を述べてゼリーの箱を差し出すと、聡子は目尻の皺を深くして微笑んだ。彼女はリビングを出ていき、お盆に紅茶のカップを載せてあらわれた。望海はといえば、落ちていた玩具の猫じゃらしを使って、マンチカンと戯れている。

「お身体はどうですか?」

 紅茶を一口飲んでから、香穂は訊いた。

「それが、問題ないの。なさすぎて、食べすぎちゃうくらい」

 朗らかに笑って、聡子は答える。確かに見たところ、調子は良さそうだ。だが、一度意識を失って倒れているのだから、油断は禁物だろう。なんでも、糖尿病性昏睡というらしい。一時的に高血糖になることによって、昏睡に陥ってしまうのだ。幸い、意識が戻ったから良かったが、命の危険も考えられるケースだそうだから、もっと危機感を持つべきなんじゃないだろうか。しかし、会うと聡子はいつものほほんとしているのだった。

「藤村さんって、明るいですよね」

「そう? ええ、そうかもね。だって、暗い顔して生きてたってつまらないもの。人生は楽しむものでしょ?」聡子は香穂が手土産に持ってきたゼリーを、プラスチックの匙を使って口に含んだ。「それに、あの子たちと暮らしてたら、嫌でも笑顔になるわよ」

 聡子の視線の先には、三匹の子猫がいる。望海が高く持った猫じゃらしに、子猫たちは一生懸命ジャンプして、飛びかかっていた。

「猫を飼ったのは夫が死んでからだけど、本当にね、天使みたいなの。じゃれてくる時も、そっぽを向いている時も、寝ている時も。私が悲しんでいたら、猫ってちゃんと理解して、そばに来てくれるのよ。いつも癒されてばかりだわ」

「確か、一匹目の猫ちゃんがいたんですよね」

「そう、私の不注意で死なせてしまったんだけどね」

 聡子の愛猫だったアメリカンショートヘアのコロンは、猫エイズと呼ばれるFIVに罹り、七歳で亡くなったそうだ。

「コロンが死んだ時は泣いたわ。ペット用の火葬場でも泣いて、お墓に入れてもまだ泣いて。しばらく寝こむぐらい、落ちこんでいたわね」

「でも、それでよく次を飼う気になりましたね」

 子供の頃、死んでしまった隣家の犬の濡れた瞳を思い出しながら、香穂は尋ねた。自分だったら、そんな悲しみを味わった上にもう一度飼うなんて、絶対にできない。

「だって、猫はたくさん思い出をくれるもの。天に召されていくのを見送るのはとても辛いけれど、でも猫を飼わないのは……それは、私には無理」

 軽く肩をすくめて、聡子はいう。

「けれど、逆の場合だってあるのよね」

「逆?」

「私がこの子たちを残して、先に死ぬかもしれないでしょ?」

 ああ、と香穂は呟き声で応じた。

「息子夫婦が大阪にいるんだけどね。一緒に住もう、同居しようって誘ってくれるの。今まではここを動くのが嫌で、断ってたんだけど。でも、私が孤独死したら、この子たちも餓死しちゃうものね。だから、そろそろ真剣に検討しなきゃいけないなって」

「……」

 段々と、深刻な話になってきた。けれどそれは、老いを重ねれば当然生じる悩みだ。そして、香穂にとってもまったくの他人事、というわけでもない。幹也の両親は元気だし、香穂の母親もあまり病気をしない人だけれど、彼らが歳をとればいつかは、同居の話は避けては通れなくなるだろう。夫も自分も一人っ子なので、他に頼れる人はいない。もし親の介護が必要になった場合、どうするのか。一人ならともかく、二人になったら? 深く追求すると怖くなるので、なるべく目を逸らしておきたい問題だった。

「遠藤さんはペットを飼ったりしないの?」

「え? ああ、私はちょっと。死んだりしたら辛いですから」

「そう」

 聡子は顔を前に戻して、また遊んでいる猫たちに目を向けた。望海の猫じゃらしにつられて動き回っているのは三匹の子猫で、親猫の二匹はべったりと寝そべって子供たちを見守っている。

「でも、ペットを飼うのって子供の情操教育にはいいわよ。ほら、最近はよく、未成年が事件を起こしたりするじゃない? 子供の性格を曲げないためにも、私はできれば動物を飼って、ちゃんと命の大切さを教えてあげた方がいいと思うんだけど」

 それをいわれると、香穂は動揺せざるを得ない。望海が乱暴者に育った責任は、自分にもあるかもしれないと感じているからだ。こうやって子猫と遊んでいる姿を見ていると、別に問題ないじゃないかと思うが、罪を犯した子供たちの親だって、我が子を信じていたに違いない。それを考えると、簡単に安心していてはいけない気もする。

 ウチでも、ペットを飼ってみようか。割と本気で検討しながら、香穂は初めてゼリーを口に運んだ。

「あ、あれ?」

「ん? どうかした?」

「なんかこれ、あまり美味しくないですね」

「そうかしら」

 手土産を貰った側の聡子が、同意できるはずがない。しかし、妙に甘みが強くて、そのゼリーははっきりと不味かった。こんな失敗は珍しい。

「すみません。今回はお店も調べないで買っちゃったから……」

 聡子は黙って、微笑んでいる。と、猫じゃらしを放りだした望海が立ち上がった。

「ゼリー、いらないの? だったら、望海が食べるっ」

 呆気にとられていると、望海はソファに飛び乗り、パイナップルの果肉が入ったゼリーと匙を手に取って、忙しく口に放りこんだ。慌てて「お行儀悪いわよっ」と叱っても、娘はそ知らぬ顔だ。情けないやら恥ずかしいやらで、香穂は顔を熱くした。

 せっかく真面目な話をしていたのに、そんな雰囲気はどこかへ飛んでいってしまった。香穂は今日ほど、おのれの親としての責任を痛切に感じたことはない。こんな調子では、娘の将来が思いやられた。

 やっぱりこの子の教育は、もう少しちゃんと考えないと……。

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