第9話 一ノ谷炎上
やがて、九郎率いる小部隊は一ノ谷を見下ろす絶壁の上に立った。
九郎と
道なき道、と言うも愚かな険しい山林を抜けてきた彼らは疲労の極みに達していた。みな死んだように樹木の間にうずくまっている。
ただ二人を除いて。
「だらしない男どもだな」
そうしてもう一人、九郎も全く疲労の色を見せていなかった。
「まだ、攻撃開始の刻限には間がある。休ませてやれ」
そう言って、馬の首を撫でてやる余裕すらあった。
彼ら二人の手綱捌きは、騎馬に長じる関東の武士すら驚嘆するものだった。
「あの方たちは、いったいどうやって、あれだけの技量を身に付けられたのだ」
志願して九郎と共に来ることを選んだ畠山重忠が、息も絶え絶えに、弁慶に問うた。
「はあ。よく一緒に山野を馬で駆け回っておられましたから」
すると、重忠はさもあらん、と頷いた。
「そうか、そうであろうな。だが、それにしても仲が良いことだ。うらやましい」
弁慶は言えなかった。
九郎は閑から必死で逃げ回っていただけなのだ。だがいつも最後は捕らえられて……。
思い出して、ぶるっと身震いする。
「なんだ、思ったよりなだらかではないか」
明るい閑の声に、弁慶と重忠は這うようにして崖っぷちまでやって来た。
「これくらいなら、平泉の裏山にいくらでもあったぞ」
「げげっ」
下をのぞき込んだ弁慶は目がくらみ、思わず嘔吐していた。
「だ、大丈夫だ、弁慶。あれは閑どの一流の冗談に違いないぞ。気をたしかに持て」
重忠は弁慶の背中をさすりながら言った。
だが、全く自分の言った事を信じていない口調だったが。
「ああ、そうだな。よくお前に突き落とされていたのも、ちょうどこんな崖だったよな」
九郎も懐かしそうに目を細め、追い討ちをかける。
弁慶は、血が凍る、という言葉の意味を初めて知った。
☆
「さて、皆の者」
九郎と閑は振り返った。じつに爽やかな笑顔だったけれど。
誰も、あえて目を合わせようとはしなかった。
「あれに見えるのが平家の陣屋だ」
九郎は平然と崖の際に立ち、下を指さした。ほぼ真下と言っていい。
弁慶は泣きそうだった。その先はどうか言わないでください。そう心から願った。
「今からあれに、逆落としをかけるのだ」
弁慶の願いは届かなかった。どうやら、この世に仏はいないらしい。
「だが、この高さでは馬が怯えて崖を下ろうとしないだろう」
奥の方で声がした。武勇で知られる平山季重という男だった。
それは当然の疑問だ。馬は賢い生き物なのだ。少なくとも、この二人よりは。
その内の一人、閑は怪訝そうな顔になった。
「下る? まさかな。下るのではないぞ」
彼女の意外な言葉に、一瞬、弁慶たちは安堵の表情を浮かべた。
「そ、そうでしょうね。良かった」
「まあ、気分としては飛び降りる、が近いだろう」
最悪の気分だった。
この女、怖い、怖すぎる。しかも、普通に真顔で言っているのが怖い。
男たちは言葉を失った。
「もし馬が
行きますっ!
男たちは立ちあがって叫んだ。
「あれれ。これ、もう戦が始まってませんか」
様子を伺っていた伊勢義盛が慌てて声をあげた。
「なんだと」
見れば、陣屋から飛び出した兵が東へ向かい駆けていく。そういえば喚声すら聞こえているではないか。
「おのれ平三め。わしを出し抜きおったな」
東の攻め口は九郎の兄、範頼が主将だが、実際に指揮を執っているのは軍監の梶原平三景時だった。
九郎と、この梶原景時の仲の悪さは、すでに軍内でも有名だった。
もちろん九郎の方でも景時に勝る功名を挙げようと、この奇襲攻撃に打って出ているのだから、そう偉そうな事は言えないのだが。
「もはや猶予はならん。行くぞ」
九郎に倣い、武士たちは一斉に騎乗した。その姿はさすが誇り高い坂東武者のものだった。
「では、まず俺が行こう」
畠山重忠が名乗り出た。さっきから崖下を覗いていたのは、馬の足掛かりとなる岩場の位置を確かめていたのだ。
「よし、行けっ」
馬に声をかけると、一気に垂直の崖を駆け下って行く。
おおーっ、と声が上がった。
「さすが畠山。我らも負けてはならん!」
彼らは続々と崖を下り始めた。何人かは足場を失い、馬もろとも転げ落ちていたが。
単純な奴等だな。九郎は呟くと、顔を上げ閑を見た。
では行くか、目で問う。
閑も黙って頷いた。
二人は同時に崖に消えた。
「弁慶どのは行かないのですか」
佐藤継信と忠信兄弟が、笑いかける。
「いや、わたしは、もう少し心の準備が」
「そうですか。ではお先に」
「馬に任せるといい。これは奥州の名馬だ。閑さまと同じく、な」
継信は弁慶の馬の首を叩いて、九郎を追っていく。
ため息をついた弁慶は、固く目を閉じて馬腹を蹴った。
☆
陣屋はほぼ無人だった。
源氏軍の東西からの挟撃に対応するため、出払った後のようだ。
「くそっ、空振りであったか」
坂東武者の
「いや、丁度いい」
九郎はニヤリと笑った。
「陣屋に火をかけろ。東西どちらからでも見える程の、盛大な炎をあげてやれ!」
二手に別れていた平家の軍は、それぞれに後方を襲われたと錯覚し、崩れたった。
我先にと、沖に停泊する味方の船に向け、退却を始めたのだ。
一ノ谷の合戦はこうして、兵数において劣勢だった源氏方が圧勝する勢いになった。
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