第3話 源平激突!
黙認に近い形とはいえ、秀衡が九郎の出立を認めたのは、ある報せが関東から届いたからだった。
「富士川において、頼朝どの率いる源氏の軍勢が平氏の主力軍を壊滅させましたぞ」
その使者は自らの勝利のように、得意げに言った。
反逆者頼朝を討つため、平清盛は嫡孫、
だが、その軍は、夜明け前に水鳥が一斉に飛び立つ羽音に驚き、戦いもせず逃げ去ったのだという。
「なんと滑稽な話であろうか。平氏の威勢も落ちたものですなぁ」
浅黒い顔のその男は、秀衡の渋面にも気付かず、尚もしゃべり続けている。
「もうよい。この者に謝礼を持たせよ」
そう言って、秀衡は話を打ち切った。
金銀を押しつけられ、邸から追い出されたその男は、不満げな顔で、そのまま何処かへ向かって去った。
☆
「屑のような男だな、あれは」
吐き捨てるように秀衡は言った。普段のこの老人からは考えられない程の不快そうな表情だった。
秀衡は新宮十郎という男に対し、単に虫が好かない以上の嫌悪感を感じていた。不吉な予感といえば、言い過ぎだとしてもだ。
「でも、あの話はどう思われます?」
「平家の軍が、戦わずして逃げ去ったというのは」
「京の都を含めた西国では、飢饉の
弁慶が控えめに言った。
「全くの嘘偽りではないでしょう」
あり得る、と思った。兵糧不足は軍の力を根底から削ぐものだ。
「平家といえど、その多くは地方からの武者が主力のはず。急速に勢いを増した頼朝どのに恐れをなしたとも考えられます……」
「嘘だ!」
大声をあげたのは九郎だった。
「そんな、…そんな事があっていい訳ないだろうっ!」
弁慶と閑は意外な思いで彼を見た。
「平家の味方のような事を言うのだね、九郎どのは」
そう言った閑を九郎は鋭い目で睨んだ。彼女は初めて
一瞬、背筋が寒くなるような目付きだった。
「な、なによ。何を怒ってるの」
九郎は黙り込んだ。自分の気持ちを言い表すことが出来なかった。
…それではダメなのだ、と口の中で繰り返している。
「そのような事で瓦解する平氏であれば、とっくに滅んでおろう。弁慶の言うことも
秀衡は冷静な声で言った。
実のところ、九郎にとって平氏は父を殺した憎むべき相手だ。だがそれが、鳥の羽音に怯えるような腰抜けでは困る、というだけの事だった。
だが、全く思考の道筋が違うとはいえ、九郎もまた真実に辿り着いていたようだ。
☆
数日後、新たな情報が入った。
富士川の合戦は、終始平氏の優勢で進んでいた。だが、それを一変させたのは、頼朝が放った刺客が、平家の若き総大将 維盛を襲い、負傷させた事だった。
決して致命傷ではなかった。しかし維盛は一時、陣頭から姿を消さざるを得なかった。
「薄汚い奴らめ」
副将である
それを信じ、戦意を失った平家の軍は急速に崩れていった。
「武門の風上にもおけぬ。これが
忠度は、血を吐く思いで撤退の命令を出した。
遂には、それ以上の追撃を諦めた。
平忠度は清盛の末弟だが、年が離れているためほとんど孫の世代と言っていい。
戦場では平家随一の
公家顔の多い平家一門にあって、野性味溢れる精悍な顔立ちである。それもあってか、女御との浮いた話には事欠かない。
そんな忠度にとって、戦さも恋も、評価基準は一つだった。
それは、美か醜か。
このような戦さは、まったく彼の美意識にそぐわなかった。
戦さとは、正々堂々名乗りを上げ、武士と武士とが戦うものであるべきだ。
雑兵のような者に背後から襲わせるなど、卑劣極まりない。
(まさか、こんなやり方がこれからの戦さの主流になっていくのだろうか)
暗澹たる思いを抱えて、彼は京へと落ち延びていった。
☆
「だが、どんな手を使っても勝てばいいというのは、その通りだな」
九郎が頷いている。この辺はやはり兄弟だと言うしかない。
「わしも、その方向で戦うとしよう」
秀衡と閑は黙って顔を見合わせた。
頼朝の勢力がそこまで大きくなっているなら、と秀衡もついに折れた。
「行きなされ、九郎どの」
もう、止めても無駄だという事はよく分かった。
そうして、その晩。
九郎は、閑に別れを告げに行った、のだったが。
その
☆
「おお、夜が明けますよ、九郎どの」
馬の
山の縁が、わずかに茜色に色付き始めていた。
「……ああ、そうか」
馬上で、九郎が力なく言った。
だが、あれだけ閑に叩きのめされていた割には元気そうだ。半殺しの目に合わされる度、段々と回復力が増しているのかもしれなかった。
二人はまだ暗い内に秀衡の邸を出ていた。
見送りは無かった。秀衡は、あえてそれを禁じていたのだ。
「さらばだ、平泉」
九郎は振り向かなかった。
白河の関を越えれば、そこは頼朝が待つ関東だ。
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