義経と弁慶、そして陸奥王の姫
杉浦ヒナタ
第1話 平泉からの脱出
「やはり、やめた方が良いのではないでしょうか、九郎どの」
黒い僧衣に白い頭巾という、僧兵姿の男が言った。長身に似合わぬか細い声だ。もう一人の男と共に、物陰に隠れ、
「今日を逃したら、もう機会はない。そんな気がするのだ」
小柄な男は、やや甲高い声で答えた。
雲が月を隠し、辺りは束の間の闇に包まれた。ついに計画を実行に移す時が来たのようだ。男は立ちあがる。
「行くぞ、弁慶」
「へえ。どこへ行くのかしら?」
予想しなかった答えに男は戸惑った。
「さっき説明しただろう。あの馬を盗んで、この平泉を脱け出すのだと」
すると、何やらため息をつく気配があった。
「あれだけお父様に世話になっておいて。そんな事をするのね、お前は」
今さら何を言っている、男は舌打ちした。
「それは、秀衡どのには世話になったが、わしは源氏の九郎だ。都へ上って平氏を討たねばならんのだ、と、……あれ?」
月にかかった雲が切れた。彼の後ろに立っていたのは、弁慶ではなかった。
「逃げられると思ったの?」
狩衣を着け、右手に木刀を提げた少女だった。
その男。九郎こと、源九郎義経は顔色を失って周囲を見回す。頼るべき武蔵坊弁慶は彼女の足元で長く伸びていた。
☆
「なんと九郎どの。この
そう言って、九郎の背中を撫でているこの老人。
この「黄金帝国」奥州平泉の王とでも言うべき、
「いや、そうではない。だが、わしはこんな所で終わる訳にはいかんのだっ」
大声を出したら、体中の打ち身に響いたらしい。
いてて、と顔をしかめている。
(助けてもらっておいて、こんな所、はないだろうに)
部屋の隅に控える弁慶はいつものように愚痴をこぼした。平家の追跡に怯えていた時の事をもう忘れているらしい。
そこが、この人の困った所なのだよな。
(
「ああ、まったく酷い目に遭った」
屋敷の廊下を、からくり人形のような動きで歩きながら九郎は吐き捨てる。
「大方は自業自得かと」
弁慶は冷静に答えた。
「なにおぅ……いててて」
振り返ろうとして、また痛みに襲われている。
「……あの女、名前はなんと云ったか」
憤懣やるかたない表情で九郎は呻くように言った。
「
ここの主人、秀衡の末の娘である。
九郎よりも一つ年下だそうだ。
「でも弁慶、あれで『しずか』とは」
しずか…。しずか! しずか?
九郎はヒステリックに爆笑し始めた。
「それは憶えるのは無理だぞ。…あれで『静か』。まったく、名は体を表さん見本ではないか。のう、弁慶、のう。そう思うだろう」
あは、あは、あは、と身体を震わせている。
「なんだ、お前も笑え。……んん?」
弁慶は、そっと顔を伏せた。こめかみの辺りがぴくぴくと動いている。
九郎の額を冷たい汗が伝った。
そーっ、と後ろを振り向く。
「ああっ!?」
「まあ九郎さま。楽しそうですわね、わたしも混ぜてもらって、宜しいでしょうか」
底知れぬ深さを秘めた笑みで、少女が立っていた。
「もちろん、いいですよ、ね」
普段からは考えられない丁寧さで、閑さまはそう
☆
「いてーよ、弁慶、いてーよー」
布団に倒れ込んだまま、九郎は喚き続けている。
「子供じゃないんですから、我慢して下さい」
べたべたと湿布薬を貼りながら、弁慶はため息をついた。
「なんであいつ、素手でもあんなに強いんだ」
「奥州の
弁慶も首をひねる。
「とにかく、早く逃げ出さねば。こっちの身体がもたん」
それは弁慶も同感ではあるのだが、大抵の場合、九郎のとばっちりなのだ。
問題はあなたに有るんですよっ。
そう言ってやりたい、弁慶だった。
☆
武蔵坊弁慶の出自については諸説ある。
本人にもはっきりとした記憶が有る訳ではなかった。なんでも、薄暗いお堂の様な所でめそめそ泣いていた事だけは憶えている、とか。
そこが、
そこで暫く修行した後、姫路の
どこで道を間違えたのだろう。
弁慶はふと、遠い目になった。比叡山では、立派な学僧になることを目指して、日々修行を続けていたのに。
それなのに。
そうだ。あの日、お使いで京の街に下りたのがいけなかったのだ。
そこで出会ったのは、妙に態度の大きい少年だった。
弁慶の体格に目をつけ、しつこく自分の家来になれと言って来たのだ。
元来、押しに弱い弁慶は、寺に火をつけるぞと脅されて、ついに折れた。
そして気がついたら、ここ平泉に来ていたのだ。
「ここ、
こんな所でっ、と言いたいのは弁慶のほうだった。
九郎どのは、なぜか秀衡さまに気に入られ、当分京に返して貰えそうにない。
……比叡山は、遙か遠くになった。
遠く、伊豆で九郎の兄、源頼朝が挙兵したとの噂が届いたのは、そんな頃だった。
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