鏡の国のバカ
阿部ひづめ
SM好きに良い奴はいない
中村ナオコは、眉尻を指でひっぱった。
「うーん」
さらにひっぱる。手を離す。
眠たそうな目の女性が、鏡の中から見つめていた。
ナオコは、自宅の洗面台のまえに立っていた。鏡のよこに、歯磨き粉、ドライヤー、化粧水のボトルが置いてある。どれも安価なものだ。彼女は、見た目に無頓着なほうだった。
しかし今朝がた、髪を結ぶ途中で、不思議に思った。
どうして自分は、こんな目元をしているのだろう。
彼女は、日本人の平均を体現したような人間だった。
身長は160センチ、体重は50キロ。筋肉量が少々多いことをのぞけば、平均に近しい。顔も普通だ。美人でもなければ、不美人でもない。
右に首をかしげる。鏡のなかの女性が、左に同じ動作をした。
目が問題だ、と彼女は考えた。
幼く見られがちなのも、これが原因である。今年、二十六才になるというのに、いまだに大学生に間違われる。
黒いスーツに似合うように、キリっと眉をよせる。苦いものを食べたようにしか見えなかった。
ポケットのなかで、携帯電話が震えた。飛びあがって、あわてて電話に出る。
「もしもし、中村ですが」
「山田だ」
男性の声だった。
「あ、山田さん。おはようござ」
「集合場所を変更する」
鏡の中の顔が、眉間にしわを寄せた。
「神泉ではなく、渋谷の山手線ハチ公改札前に八時二〇分。復唱しろ」
「し、渋谷のハチ公前に八時二十分?」
「ハチ公前には来るな。君は、だれと待ち合わせをしているんだ? 友達か?」
ナオコは、胃が痛くなった。
「違います……」
「久しぶりの直行だが、遅刻をするなよ」
答えるまえに電話が切れた。
ナオコは、巨大なためいきを落として、髪を一本に結んだ。
鏡の前から、彼女のすがたが立ち去る。
八時十五分、ナオコは、渋谷駅に到着した。
人ごみに混じって駅を抜け、山手線ハチ公改札前にたどりついた。
プラスチックゴミをぶちまけたような風景だ。不愉快な臭いがする。
目的の人物は、東急百貨店のウィンドウのまえにいた。
人目をひく青年だった。
背が高く、手足が長いので、黒いスーツが似合う。髪は黒く、もつれたようになっている。顔立ちは涼し気で、異国の血を感じさせた。腕をくんで、考えごとをしているようだった。
ナオコが駆けよると、青年は顔をあげた。
薄い茶色の目が、すうっと細まる。気の弱い人間を意図せずして傷つける、するどい目つきだった。
「山田さん、おはようございます」
「遅い」
一喝する声は、低かった。
「どうしてもっと早く来れない。君の家は、渋谷近郊だろう」
「はあ、でも……」
一応、約束の時間には間に合っていますよ。と、続けようとしたが、さっさと歩きだしてしまったので、あわてて後を追う。
「あのう、今日はどちらに……」
「井ノ頭通りの×××オフィスビル。地図を見なかったのか?」
冷たい言葉だった。
焦って携帯を確認すると、通信障害のせいで、メールの到着が遅れていたようだ。添付された地図を開こうとすると、真っ白な画面のまま固まってしまった。
「ええっ」と、ナオコは小さな悲鳴をあげた。携帯をぶんぶんと振るが、画面は白いままである。
「君はロクに携帯も使えないのか」
山田が、呆れた声で言った。
「わたしが使えない、というよりも、その、通信障害というか」
ナオコは、ぼそぼそと返す。
「君が使えないことは、よく知っている。だが、携帯すらもその真似をするとは、つくづくあきれ果てるな」
「そこまで言わなくても……」
小さく言い返すと、にらまれてしまったので、あっという間に彼女はちいさくなった。
「そこまでだから言っているんだ。いいか、今日も手を出すことは許さない。前々から言うように、君の仕事は俺の邪魔をしないことだ。わかったな?」
「ここまで出勤しておいて、ですか」
「ああ、ご苦労なことだ」
「でも」
「でも、ではない。おとなしく言うことを聞け。三歳の子供だってできることだぞ」
無駄な言い争いに飽きたのか、それきり会話はなかった。
ナオコは憂鬱を抱えながら、彼の後を着いていった。
十分後、二人はとある雑居ビルの屋上にいた。六月のじめついた風が、ほこりを巻きあげていた。
山田は柵に寄りかかって、階下を見下ろしていた。
タバコをうまそうに吸って煙を吐き、ちらりとナオコのほうを見る。
「……おかしいですよね」
彼女は、怒りの形相をしていた。
「おかしいですよね、どう考えても」
「なにがだ」
彼は、首をかしげた。
「なにもおかしくなんてない。いつも通りの渋谷だ。あえて言うなら、昨日より暑い」
「おかしいでしょ! なんでわたし、縛られてるんですか!?」
ナオコは地団太をふんで、両手を突きだした。
麻のひもが、しっかりと巻きつけてある。
「だから、さっきも言っただろう。無駄なことをしないためだ」
「無駄なことってなんですか。これじゃあ仕事できないですってば!」
「それで構わない。仕事の邪魔をするな」
山田は悲鳴を無視して、また階下を眺めることに没頭しはじめた。
ナオコは、静かにうなだれた。
『仕事の邪魔をするな』
この言葉を、この一年間で何回聞いただろう。もう一年にわたってナオコと山田は、バディを組んでいるが、悲しいかな、歳月が二人の距離を縮めることはなかった。
「時間だな」と、山田がつぶやいた。
背筋に、寒気がひろがった。
ナオコは焦って、手首のひもを外そうと試みた。両手を引っぱったり、歯でかみちぎろうと悪戦苦闘しているあいだに、街の様子が変化していく。
本日六月十三日は、むし暑い日だった。しかし、汗がはりつくような気温は、徐々に下がっていく。
冬のように空が澄み、不気味な静けさが支配した。
街から人が消えていた。
ビルの階段で真昼間から酒をあおっていた男性も、疲れた顔でゴミを回収している清掃業者も、せわしく歩いていた営業マンもいない。
からっぽになった街には、ナオコと山田の二人しかいなかった。
山田はその様子を見て、一人うなずくと、ナオコに目をやった。彼女は、ひもをかみちぎるのに失敗して半泣きになっていた。
「口のなかを切るぞ」
「そう言うくらいなら外してくださいよ!」
「外したら俺の邪魔をするだろう」
「今日は邪魔にならないように動きますから……」
必死にとりすがったが、山田は残念そうに首を横にふる。
「前回も前々回も、前々々回も同じことを言っていた。俺としても苦肉の策なんだ。わかってくれ」
発言は悲しげだったが、その表情筋は死んでいた。
ナオコのことなど、心底どうでもよいと思っている顔だ。
そのとき、背後にさす影を感じて、ナオコはふりかえった。
貯水タンクのうえになにかが乗っていた。
ゆらゆらと揺れたかと思うと、ナオコにむかって落ちてきた。
「ひやぁっ!」と、奇妙な声をあげて飛びのく。
それは、どこからどう見ても、巨大な白い卵だった。まるで意志をもっているかのように転がりはじめる。
「ちょ、無理無理無理!」
彼女は、山田のいる方向に逃げ、背後に隠れた。
「うるさいな」と、山田が呆れた声をだした。
「うるさいと思うなら、ひも、取ってくださいよ!」
「ひもを口に結べ、ということか? 変わった趣向だ」
「ちがいます!」
卵は、屋上の真ん中で停止した。
殻に小さなひびが入り、灰色の粘液が、すきまから漏れだす。
白い扇状の物体が、殻を突きやぶった。
それは、巨大な魚のヒレだった。コンクリートの感触をたしかめるように床に触れ、這い出してくる。
「特殊警備部、5課3班、山田志保。これより〈虚像〉1名を対象に、精神分離機の使用を求める」
山田が携帯にむかって言った。
「許可する」と、無機質な声が返答する。
魚のヒレが、殻をはがしていく。
数秒後には完全に割れ、中身が飛びだした。
首をもたげたのは、白いぬめぬめとした物体だった。赤い血管が浮いてみえる。
丸い頭部にうまった眼球は鈍い灰色で、不規則に回っている。ヒレだったものは、粘膜をたたえた五本指へと進化していた。
「お、おなじく5課3班、中村ナオコ、これより〈虚像〉1名に対し、精神分離機の使用を求めます!」
ナオコは、山田の携帯にたいして、大声で言った。
「人の携帯を勝手に使うんじゃない」
「いま、わたし手が使えないんです! わかりますよね!」
「おっとそうだった。すまない」
許可します、という声が聞こえたか聞こえないかのタイミングで、山田が消えた。
彼はカラスのように、青空に飛びあがっていた。右手には、青いプラスチック製の柄の付いたペーパーナイフを握っている。
落下するスピードを利用して、魚のなりそこないに飛び乗ると、頭部にナイフを突きたてた。
超音波のような悲鳴が響きわたった。音に反応して、床につもった埃が、空間を埋めつくすように舞いあがる。
山田は、化物を蹴りとばして地面に着地すると、武器についた灰色の血をふりはらった。
地面がゆれた。
二人の前に立ちふさがっていたのは、大きな白いガマカエルだった。口を開きっぱなしにして、灰色の液体をたれ流している。
「両生類で止まるか」と、山田がぼやいた。
カエルは、卵の殻を後ろ足で踏みつぶすと、ナオコをとらえた。後ろ足にぐっと力をいれ、ジャンプした。
ナオコは、とっさに右へと転がった。
先ほどまで立っていた場所に、カエルが着地する。跳ねて向きを変え、再び襲いかかろうとしたところで、山田が肉薄した。杏仁豆腐にスプーンを入れるかのように、サッカーボールほどの大きさの眼球に腕をつっこむ。
ナオコはあわてて立ちあがった。このままだと、なにもしないまま仕事が終わってしまう。
彼女は、目をつむってシークバーを想像した。
揺れ動く棒がだんだんと中心に寄り、強烈に振動する。その力を、こぶしに集める想像。
たしかな感触が、両手のなかに生まれた。
目を開けたときに彼女が握っていたのは、赤いグリップにシルバーのヘッドがまぶしい、ゴルフクラブだった。
クラブを握った両手をかかげ、彼女はカエルに走りよろうとした。
しかし、一歩ふみだした瞬間に再び地響きが起こった。
仰向けになって死んでいるカエルの上に、山田が膝をついていた。
彼はのんびりと立ちあがり、ナオコのすがたに目をとめた。
「ナオコくん、カエル相手に接待はしなくて結構だ」
ナオコは、あっという間に戦闘が終わったこと、再び自分が何もできなかったこと、そして、今の自分の姿が、クラブを振りきったゴルファーの格好であることに気づいた。
山田がカエルから飛びおりる。
死体は灰のように崩れ、風に流されていった。
ナオコは呆気に取られていたが、しばらくして、山田を恨みがましく見つめた。
「……抗議します」
「ほう、抗議」
山田は、あごに手を当て、面白がるようにくりかえした。
「なんに対する抗議だ」
「これです! これ!」
両手をかかげて叫ぶ。
「完璧に妨害ですよね! わたしたち、相棒じゃないんですか。仕事の邪魔うんぬんって言いますけど、わたしのほうがされていますよね!?」
「そうヒートアップするな。さっきも言ったが、俺は君に戦わせるつもりはない」
「なんで!」
「戦ったら数秒でお陀仏になるからだ。それなのに、君が大人しくしているということを知らないから、あくまで、そうあくまで仕方なく、処置を施させてもらっただけだ。文句でも?」
「両手を縛ったほうが危ないですよね? え、バカなんですか?」
ほおが、遠慮なくつままれた。山田は良い笑顔をうかべていた。
「バカは君だろう。ゴルフクラブでまともに戦えると思うなよ」
「ペーパーナイフの人に言われたくないです!」
わめくナオコの頭をぱかんとはたいてから、山田はあくびをした。
「眠い」
ぼんやりつぶやいて、屋上を出ようとする。
ナオコは「待ってくださいよ!」と追いすがった。
「これ、これ、取ってくださいってば!」
彼は、扉のノブに手をかけ、考えこんだ。ナオコは、彼が戻ってくることを期待した。
「……いや、眠いな」
「は?」
ぱたん、と扉がしまった。
縛られた両手で四苦八苦しながら扉をあけると、すでに山田の姿はなく、非常階段がしんみりとあるだけだった。
彼女は立ちすくんだ。
帰社までの道のりを、この状態で歩くのかと思うと、階段に体を投げ出したかった。
しかしそんな勇気があるはずもなく、一段一段と降りていくたびに湧き出るのは、意地の悪い相棒への怒りだけだった。
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